<Diary Index Page> 2020年1月
今年初めていっきゅう茶屋で昼食を取り17時着の飛行機で帰ってくる妻を迎えに15時過ぎに出た。郵便局で記帳してよってネ市でみかんを買い徳島税務署。駐車場はいっぱいで空くのを待ってぐるぐる。後から来た車に先を越されたりしながら7周だか8周して駐車できたのは16:20頃。
順番を待っている人が5〜6人いて相談ブースもほぼ埋まっていたが支払調書の提出だけだから1分で終わり。令和版の納付書をもらおうとしたら15分掛かると言われたので諦めた。よく考えればまだ平成31年度なので平成版でも一部を修正すれば済む。入るときと出るときに手をアルコール消毒。
三菱UFJ銀行経由で空港に向かったが国道11号の徳島IC入口を越えて中央車線にいたところ左車線に上勝の某氏の家族3人が乗った車。前が詰まるとウィンカーなしで私のすぐ後ろにピッタリ付くように車線変更してきた。次に右車線に移り前方のトラック手前を私の前に強引に割り込んできた。
私も加速していた状況だからビックリ。私の人生でこれほど強引な割り込みを受けた記憶がない。危ない思いをしてしばらく動悸が止まらなかった。あまりに酷い運転なので帰宅してからドライブレコーダーの映像をPCにコピー。何を急いでいたのか知らないがいつか本人に文句を言ってやるつもり。
支払調書の税務署への提出は明日が期限で今日もいろいろ調べていた。面倒なのがマイナンバーで支払った相手に切手を貼った返信用封筒も入れて問い合わせたが返送率が悪い。令和3年までは努力義務でいいようだが。あと支払調書の提出は年間5万円以上支払った人の分だけでよく15人が該当した。
昨年秋頃に徳島税務署から年末調整のための分厚い封筒が届いていて今日になって開けた。我が社は年末調整をしていないのである。私も妻も過去に他社から支払いを受けることもあったから確定申告だけで済ませていた。だから封筒も未開封だったが令和と明記された納付書も入っていた。
この納付書は給与分で半期に一度の納付用。我が社は外注費が発生してこれは毎月納付する必要があるのだがこの分の令和の納付書をもらってこないといけないことに気づいた。さらに平成31年度から個人住民税の特別徴収を徹底しているとの告知。年末調整で会社が徴収せよということだ。あれれ。
年末調整は面倒だからやってなかったのでマズいなと裏面を見ると徳島県統一基準を満たせば確定申告による普通徴収が認められるとある。条件の一つが受給者総人員数が2人以下というのもので我が社は該当していてホッとしたところ。他の書類作りもあって夜まで掛かった。面倒なことだ。
昨年は顔ヨガのインストラクターさんら33人分の源泉徴収税を納入したが支払調書を税理士さんに作ってもらい21日に発送した。私の作業もチェックを掛けたり大変だったが税理士さんも面倒だろう。それで今年分の支払調書は自分で作ろうと思って税理士さんにどんなソフトがいいのか訊いた。
支払調書だけならエクセルの書式でいいが魔法陣というソフトがあるらしい。これの「法定調書・年末調整」版を使えばいいようだ。ダウンロード版が40,700円。ヨドバシ.comだとCDとガイドブック付でポイントを除いて実質37,593円。ただしFAXで申し込み納品に2週間掛かる。
2月1日以降に購入すると12月発売の次期版に無償アップデートできるとWebに書いてある。ともかく体験版をダウンロードして使ってみた。支払調書はもちろん合計表や給与の源泉徴収票もカバーするが14年間エクセルで管理してきたからWindows95時代のアクセスのようなUIに慣れるかどうか。
支払調書は税務署に提出するが以前はハガキで求められ最近2年は高松国税局から電話がある。必要な合計表の作成もできるからソフトの導入を考えたが昨年の40件近い入力をやり直すのも面倒だ。今日は国税庁のサイトでいろいろ調べてソフトは今年分からにして2月以降に申し込もうかと考え中。
もみ君に楽譜のコピーを送るため郵便局に行ってレターパックに宛先を書いていたら局長に話しかけられた。東京オリンピックの記念硬貨があるのだがどうかと言う。買いますと即答。聞けば100円硬貨で図柄はアーチェリーや自転車など5種類ある。甥2人にあげようと5種類を3セット買った。
今月実家から持ち帰って整理した荷物の中に古い記念硬貨が何枚もあったことは既に書いた。郵便局長が前回の東京オリンピックの記念硬貨は1万円ぐらいすると言う。私も持っているという話をしたのだが額面が1,000円だからそのぐらいするのかも知れない。
私が持っている記念硬貨のうち大阪万博のものだけは記憶がある。当時は正月に父方の実家に親戚が集まっていた。父は7人兄弟で叔父たちは奥さんも連れて来るから私の従兄弟が当時7人ぐらいとすると20人以上。その正月の集まりで銀行員だった父が万博の記念硬貨を皆に配ったのだった。
ところが我が家にはない。後から母が自分の子にもないのにと文句を言った。そうだったと父も思い至ったようで私も記念硬貨をもらったという次第。1970年の正月のはずだから私は6歳。幼稚園だ。私が記念硬貨を何枚も持っているのは父がそれから必ず持ち帰るようになったからだと想像している。
東京出張の妻を送って雨の中を徳島空港。春節に当たるこの週の出張は嫌がっていたが今回は新型肺炎の問題もある。中国の湖北省の人口1,100万人という武漢で流行して死者が100人近く。日本でも中国人4人が発症している。上勝にいれば安全なものを。徳島空港からマスクを付けて行った。
さて昨日の深夜に北九州にいるもみ君がメッセージを寄越した。白神の死を今年になって知ったと言う。偲ぶ会に参加すると。演奏曲を連絡したが楽譜は持っていないというので送ることにした。私的使用目的の複製の範囲内だと思うので今日コピー。明日にも郵送するつもり。
もみ君は2001年4月の第1回定期演奏会の1週間前に入団した当時文理大学の学生だった。薬学部なのだが1週間で全ての演奏曲を暗譜してきた。私は東京にいたが彼は阿南の女性と結婚して徳島にときどき来るから何度か会っている。今は独唱とアコーディオンで音楽活動をしているらしい。
それと今日は追加された演奏曲の楽譜を持ち出した。10年前に四国の合唱団が集まって阿南で160人で演奏した混声合唱曲。作曲した松下耕氏が涙を流しながら指揮していた終曲。合唱を歌って感動した2番目と今年5月に書いている。本番で冷静に歌えるように練習のときに泣いておこうか。
「白神直之君を偲ぶ会」に向けた「響」の練習を行うとは聞いていた。会に参加することは決めて楽譜や昔の練習音源も用意したのだが辞めた身であって練習に行くのは逡巡していた。それが昨日Facebookを見てW君が練習場所と時間についてメッセージをくれた。彼の病院でやるらしい。
譜面台も引っ張り出して8ヶ月ぶりのトートバックに楽譜と一緒に入れて18時半過ぎに徳島の安宅に行って来た。会場のWクリニックはすぐ分かって車を駐めると隣に団長が来た。2人で2Fに上がって部屋に入ると何人かが驚いてくれる。指揮は小学校教諭で定演では2ステを担当するS氏。
練習の前に挨拶させてもらった。団を辞めて挨拶せず申し訳ない。こんなことになり白神のために歌うなら私は行かないわけにはいかない。歌うなら練習が必要と思い来た。改めてよろしくお願いします。といった内容。声が震え泣きそうになり一方で照れくささもあって泣き笑い。
トップはE氏W君Y君の3人。2ndは私だけ。バリトンは団長とS氏N君。ベースはT氏A氏。定演でも泣いた「群青」ではつい声が詰まる。「夢見たものは」は混声版とのことで音取りから。今日さらに2曲増えたががんばって思い出そう。21時半に帰宅してから八宝菜と水餃子の遅い夕食。
特に用はないのだが母の実家に妻と2人で行って来た。上勝に移住してすぐ挨拶に行っているし昨年は母と2人で行った。高校2年の1学期には離れで下宿していた。家も周辺も変わったが道の狭さは昔と同じ。今日は祖父と祖母の話もした。一宇出身の祖母は旧姓を植柿というと初めて聞いた。
さて今日訊けば伯父は母の4歳下。私の弟が生まれる前に母は徳島市民病院に入院していたので私は近くの実家に預けられていた。昭和44年のことで従兄弟の晶子ちゃんが生まれたばかりだった頃だが私は叔母には可愛がってもらった。親戚の中で私が一番好きな叔母なのだ。
昔その叔母から東新町商店街あたりにいてボールペンを買ってあげると言われたことがある。近くの店に小さなものがあって少し遠い店に3色のものがある。どっちがいいと訊かれて答えられなかった。当時叔母は妊娠中だったかも知れない。3色がいいけど歩いて行くのは悪いと思ったのだろう。
結局どっちを買ってもらったか記憶がない。でもいつも子どもの私の気持ちを汲んで優しくしてくれた印象がある。東京から来る甥を私はときどき叱るのだが叔母は全くそんなことがなかった。見習わないといけないと思ったりもする。もう70歳代だが年に1度ぐらいは話をする機会を作ればと思う。
私は辞めたが徳島男声合唱団「響」が誕生したのは1995年9月だ。Webページには9月9日(土)結成と書いてある。おそらく第1回の練習がこの日だったのだろう。城南高校近くに新築されたばかりのF村君の新居に10人弱でお邪魔した。確かピアノもあってF村君の婚約者もいたように思う。
私は白神歯科で治療中に「卓司と男声合唱団を作るからお前も入れ」と白神に言われた。卓司というのは2人の中学の同級生で「響」の団長になるF川だ。夏前だと思うのだがそのシーンは今も覚えている。私は「今さら合唱なんかできるか」と断った。でも前にも書いたが男声合唱には興味があった。
そして白神がなおも「鳴門教育大学の女声合唱団と合コンするから来い」と言うから入ったのだ。その合コンは今まで開かれず騙された感がなきにしもあらず。練習場所は2回目か3回目からはF村君の自宅ではなく田宮の城ノ内高校グランド前にある徳島県歯科医師会館の畳敷きの研修室になった。
当初は城東高校合唱部の白神の同級生で今は徳大医学部産婦人科医師のK原君が指揮者だった。でも彼は忙しくて来れなくなり白神が指揮を始めた。今さら合唱なんて嫌だと思っていたが練習が始まると面白くなったのは前に書いた通り。もう25年近く前。まだ青春と言ってもいい時代だったと思う。
徳島男声合唱団「響」は白神亡き今後の活動について日曜に会議をしたそうだ。来年の定期演奏会を目指すらしく近く白神直之を偲ぶ会を開催すると。葬儀の連絡をくれたM木氏が火曜に寿司を食べているときメッセージで教えてくれた。辞めた人間が行っていいものか。白神が怒らないだろうか。
行けば「死んだら来るんか」と言うだろうが冗談交じりの声が聞こえる。行かないと「死んでも来んのか」と本気で怒るような気がする。昨日夕方には団長からも連絡があった。OBや全国の合唱関係者にも声を掛けているようなので行かないわけにはいかないと思うようになった。
偲ぶ会で「響」は6曲を歌うそうだ。それで過去の練習のときICレコーダーで録った6曲の音データをコピー。もう使うことはないだろうと思いつつ残していた膨大な音ファイルが役に立つとは。ついでに何百とある全データの冒頭と最後を聞いて白神の声が入っているファイルをピックアップした。
楽譜も探した。コンクールの課題曲集などもあって6つの紙袋に詰まった楽譜から目的の6曲分。こんな曲もやったなとか白神が好きと言ってたなとか。この組曲はまた演奏したいなと思ったり。Facebookにも書いたが死んだ白神からまた合唱に戻るよう仕向けられているような気分になった。
大学時代の財布のポケットに細長い領収書が何枚かあった。1988年2月から5月分とあって2回分は京都銀行西陣支店で支払っているが4月は阿波鳴門支店。5月分は沖浜2。でも京都から引っ越すとき下宿の電話は解約したはずだ。裏を見ると1〜3月と3月19日から28日までの合計4回分だと分かった。
驚いたのが支払額。1月分は25,280円。2月分が13,440円で3月分は10,250円。3月末の10日だけで9,660円。大学時代の彼女に振られたのは前年の12月のはずだから電話の相手は私を救ってくれたY嬢だろうか。毎日のように会っていたのに電話でも話をしていたということか。
この年は3月30日から2日間J社の入社前研修があった。その前夜29日に母校の定期演奏会に行って大学時代の彼女の実家に電話をした。その日の午後は中学時代の彼女と話をしているから前日の28日までに徳島に引っ越したとは思っていたが京都時代の電話は28日に解約している。
なるほど私はY嬢と少しでも長く一緒にいたくて徳島への引っ越しはギリギリまで待っていたということか。ちなみに電話番号は075-461-4083だった。同じ財布のポケットに手帳のページを破って描いた絵がある。花瓶のようなイラストと裏には山に月が掛かった風景。夢に見た絵だろうか。
年初から仕事のストレスがあって同じ状況の妻が賢見神社に行きたいと言うので今日参拝してきた。こはくの天使でコーヒー豆を買い最近よく行くエマルジョンの並びのラーメン屋で昼食を取り新浜のA嬢のところを回り13時半頃に徳島インター。1時間で池田。国道の分岐まで10分。そこから15分。
拝殿でお祓いを受け宮司と雑談。11年前に連れて行ってもらったK原さんらの話など。別途お守りも買い水行の水を頭に一瞬だけ掛けた。16時前に出て紺屋町地下駐車場に17:40頃。栄町から鷹匠町と歩いていつも満席で入れなかったから今日は予約していた富田町の寿司「いさみ」へ。
若い大将と話をして刺身と銀ダラ西京焼きと白子焼きなど。20時までの時間を調整してもらって寿司も食べた。美味しかったが何より安かった。16,500円。20時に年末は客が多くて話ができなかったマンテンサン。21時頃に次の客が来たので店を出で年末に初めて行った46 Blanc Bleu。
T口嬢じゃなくてT口君と話をしていて次の客が来てから後半は女装ゲイのメイサ君とニューハーフとゲイと女装の関係など。23時に店を出ていつも代行さん。紺屋町地下駐車場に降りたら消防団N団長とY瀬副団長とばったり。フォレスターなので燃費重視の運転をやってもらい24時頃に帰宅。
故・勝谷誠彦氏のメールマガジンを2008年4月から始め長年購読していることは何度か書いた。一昨年11月に本人が亡くなってもスタッフの手で毎日配信されている。当初は月875円だったようだが本人が亡くなってからは月660円。スタッフが引き継いでから面白くないが惰性で購読し続けている。
お布施のようなものだが面白くない上に文章量が多いから読むのを一度休むと溜まってしまう。気づけばメールソフトShurikenのフォルダに3ヶ月分を溜めていた。他のメールマガジンも未読のまま放置していて合わせて140通近くになっていた。それを昨日一気に読んで片付けた。
と言っても斜め読み。というより書いてる話題を一瞥しただけ。昨年秋から管理者に頼まれて購読を始めた日垣隆氏のガッキィファイターは読みもせずに既読。無料のガッキィファイターはともかく「勝谷誠彦たちのxxな日々。」はもう止めたい。十分お布施は払ったと思う。
ただ現在も続けている世論社の高橋茂氏が元ローランドの技術者ということに引っ掛かっている。ときどきローランド製品のことに触れている。大学卒業研究の相棒でローランド在職中の1998年に亡くなった大道正徳君を知っているのではないかと。それを確認できれば購読は止めようかと思いつつ。
昨年のNHK大河ドラマ「いだてん」は随分と視聴率が悪かったらしい。第1回の放送回で日本が初めてオリンピックに参加する前の明治末期と昭和39年の東京大会に至る戦後の2つの時代を行ったり来たりする演出が分かりにくかった。時代が違うから同じ役を2人の役者が演じるから混乱した。
しかも主人公は明治から大正期が中村勘九郎演じるマラソンランナー金栗四三で昭和期は五輪誘致に尽力した阿部サダヲ演じる新聞記者の田畑政治。どちらも初めて知った名前だった。主要な登場人物の中で知っていたのは嘉納治五郎ぐらい。古今亭志ん生役のビートたけしの語りも酷かった。
よかったという感想もよく見かけたが私としては今ひとつ。確かに我慢して見続けて面白かった回もあったが歴代の大河ドラマと比べれば下の中か上あたり。多く残っている史実に面白い関係性を見いだしたからこその物語だったのだろうが盛り込みすぎた分かりにくさは失敗だったと私は思う。
これまでの近代を扱った大河ドラマは面白くなかった。今年は今日から放送が始まった「麒麟が来る」。舞台は分かりやすい戦国時代。主人公は一般には裏切り者の明智光秀。私は『国盗り物語』を1年前に読んだばかりで興味を持っていたところ。どう描かれるのかを含めて今年は少し期待している。
安静時心拍数が59まで下がったと書いたのは11月末。それ以外だと61が最低で62か63が多かった。年末の消防警戒で66まで上がり街に飲みに行って68。年始は下がって6日には63まで落ちたのに1月ぶりに腕立て伏せをした翌10日は67。そして2時間しか寝なかった翌日には過去最高の70になった。
年末から飲酒が続いていたのだが仕事始以来ストレスを抱えたのが70まで跳ね上がった原因だと思う。この調子が続くと白神のように突然死するのではないかと気になり始め昨日はビールを飲まず焼酎の薄いお湯割り3杯だけ。昨日は67で今日は65に下がった。63以下になれば定常だと思う。
さてだんじり保存会の新年会で飲んだとき隣にいた83歳のM本氏に質問した。世の中には人の話を聞かず自分のことばかり話す人もいるがM本氏は話題を振って冗談も言うが自分の意見を押しつけない。聞けば役場勤務時代から若手の意見を取り入れようと意識してきた習慣だと言う。
人の意見を取り入れつつ自分が町長ならどうするかと常に考えていたと。問えば性格だろうと。さらに死んだ同世代も多いだろうに元気な理由は何かと訊けば無理をせず夢を持つことだと答えてくれた。飲酒も仕事も無理をしないのだと。なるほど。白神の死の教訓でもあって大事なことだと思う。
実家納屋から持ち帰った段ボールからは大学時代財布も出てきた。マジックテープで留める青い布製の2つ折り。中に透明のカードポケットが6つ。そこにカードが残っていた。まずは献血手帳。1986年2月22日。奈良。当時の彼女と2人で生駒駅前の献血車に入った記憶がある。あのときのものだ。
会員カードもある。まず天下一品千北店。今出川店なら週に3日通ったが千北店の記憶がない。TOP TENというのはカラオケパブらしい。木屋町店・祇園店パブに有効と。それにPUB WAINTEI。サークルのコンパで木屋町の三条店に行っていたと思う。名前に記憶はあるが話飲亭と書くらしい。
村さ来も千北店で作っているが記憶はない。酎ハイ無料券が2枚あって「みんなで創る、ヤングな居酒屋」と書いてある。DISCO BEAMS無料招待券があってカラオケPUBグラスホッパーでサントリーリザーブのボトルがもらえるらしい。木屋町三条下ルのグラスホッパーもコンパ2次会の定番だった。
そのグラスホッパーのカードもあると思ったら徳島の店だった。S.64.5.28まで有効だと。1986年10月18日に発行された河原町三条のSUPER PUB Den・enのドリンクチケットが18枚残っているがどんな店だっけ。千本鞍馬口下ルの宮崎歯科医院の診察券もあった。1987年9月8日が初診。
地域防災力向上シンポジウム in 徳島2020 (1月16日・木)
昨年の年末警戒の初日に役場担当者が分団長に渡した動員要請。役員ばかりの場で分団長が人を募るが多くが勤め人なので渋々手を挙げた。それが今日。あわぎんホールであった「地域防災力向上シンポジウム in 徳島2020」というイベントに参加してきた。私は昨年度の大会にも行ったのだが。
11:38にバス停。役場M本君運転の公用車。本団役員と分団から計11人が参加。勝浦のファミマに寄って私はサンドイッチとあんパンを買い車中で食べ12:40頃着。隣の駐車場から正門に回り席は舞台に向かって右前方。主催者挨拶で仲の悪い県知事と徳島市長が並んで座っていて皆が注目。
まず消防団協力事業所表彰が4社あり上勝のウィンズが受賞。それで旭のK田分団長が来たのかと団長に言ったら全然違っていた。今年秋には大きな全国大会が予定されていて今日はプレイベントらしい。こんなものに動員されて迷惑至極と文句を言いながらだったが全体的には役立つ話も多かった。
阪神大震災の学生ボランティアに始まり避難所運営の専門家になった女性の基調講演は面白かった。避難所リーダーは男女で役割を分けるなとか納得の話がてんこ盛り。災害時に期待される土木業界で女性事務職が他社と共同で普段から防災活動をしている話にも感心。ただ3時間半は長かった。
手首に付けたFitbitによると昨夜は2:25に寝入ったらしい。ところが4:57に目が覚めて寝られなくなった。最近こういうことが多い。誰かが歳を取って早朝目が覚めて寝られないと言っていたがこれは老化現象か。悶々としていたが諦めて6時半に起き出した。11時頃10分ほどうたた寝したが。
車のボンネットは昨日の雨が凍っていて冬らしい朝である。 コーヒーを飲んでから昨日できなかった経理業務。実家から持ち帰ったものを含めた段ボール箱を捨てにゴミステーションに行って9時を回ってゆうちょ銀行からの振り込み4件。その足で農協GSに行って灯油2缶も購入した。
13時前に出て昼食を取り妻を迎えに徳島空港。到着便も出発便の香港だか中国便で人が溢れていた。お茶漬けだけ食べて18時からは消防点検。1月前の点検でバッテリーが切れていたが先週金曜に交換してもらったらしい。志願したF澤君の運転だが年末の記憶が蘇り左後輪が気になる。
いつもなら詰め所に上がって皆で飲むのだが今日は誘われていただんじり保存会の新年会に行った。スーパーで買ってきた刺身パックとビールだけだが地域の重鎮たちと話。79歳Y山氏とは浪曲の話。M本氏には83歳でも人に意見を聞く生き方のベースにあるものを尋ねた。22時前解散。
Windows7と弥生会計あんしんサポート (1月14日・火)
Windows7のサポートが今日で終わった。サポート終了後に考えようと2015年にWindows7にした東京のノートPCは昨年壊れてWindows10で買い直したりで今使っているPCはほぼWindows10に移行している。私の旧PCは7 だが楽々はがきとDigiOnSoundぐらいでネットから切り離せばいい。
一方で昨年買った弥生会計20であんしんサポートに加入しろというDMが頻繁に届く。ベーシックプラン34,500円で常に最新版が使えるサポートがある。毎年買い換えるなら安いかも知れないが昨年まで使っていたバージョンはWindowsXP対応の2006年版だから最新版である必要性を感じない。
でも初年度15ヶ月は無料なのだ。これが悩ましい。つまり加入しておけば21年版は無料で提供される。そんなわけでタダならいいかと今日ネットで手続きをした。クレジットカード番号も登録したから15ヶ月後に解約するのを忘れないようにしよう。忘れるとカモにされた気分になりそうだ。
さて昨日は徳島県合唱アンサンブルコンテストがあって指揮者の白神がいない中をSerenitatis Ensembleが出場したと愛媛のM上君のFBで知った。皆の気持ちを思うだけで泣ける。今日は駅前まで振込に行ったが今まで何度か偶然会ったからつい白神の姿を探してしまう。もう会うはずないのにな。
実家の納屋に20年置いていた段ボール箱は捨てた。中身は全て出して分別している。最初に結婚したときの披露宴のVHSテープや結婚指輪に婚約指輪まで出てきた。離婚したときに返されたらしい。どこかで換金できないものか。高知と愛媛をバイクで回ったお遍路の納経帳もあった。
入学した1982年発行の大学図書館の貸出帳に東京時代の下宿代の領収証なども出てきた。1.6万円。これに電気代などが加わって1.8万円だったのだろう。大学時代の手帳には全科目の週ごとの出欠を一覧表にして記録している。単位取得を気にしていたようだ。結局は単位が不足して留年するのだが。
手帳の予定表には私の字でない記述もある。当時の彼女が自分の予定を書き込んでいたらしい。びっしり書き込まれた住所録の一番目には白神の電話番号。高崎経済大学にいたT田から届いた手紙や松下電器の合唱団に入ったN畔に送るつもりで書いた手紙がカセットと一緒に残っていたり。
お年玉袋の中からは折りたたんだ五百円札が出てきた。いつの時代のものなのだろう。高校2年のNHK合唱コンクール金賞受賞のメダルや記念硬貨も。大学時代に買って愛用していたプラチナ万年筆や製図用ロットリングは捨てる。20個ぐらいあるバッジの類はガラクタとしてまとめて置いておくか。
J社時代の給料はよかった。開発部門はもっと高かったはずで社長室の位置づけはよく分からない。それでもあわわの女性向けタウン誌ASAに「徳島の課長」というコーナーがあって例えば40歳や45歳で年収350万とか400万円という記事を見て毎回驚いていた。徳島の給料はそんなに安いのかと。
見つかった給与明細によると1998年3月の最後の給料は50万少し。辞める前年1997年のボーナスは2回分の合計で256万円あった。34歳だったこの年が私の生涯で年収のピークである。J社を辞めた当時に年収を計算した記憶があるが今回改めて調べると8,530,900円。前に書いたが出張手当もある。
課長級で1日2,500円と1泊3,500円だかの手当があってさらに安いホテルに泊まると規定の13,000円との差額もある。出張が週1〜3日あった私は年70万円程度の給与外収入があった。これを加えて年収は約920万円。辞めた1998年3月にそう計算した記憶がある。給与だけ見ればいい時代だった。
給料はよかったがあるだけ使った。たいてい飲み代だったが収支を全く気にしていなかった。1995年秋にSUBARUインプレッサWRXを買ったとき一括で払えずボーナスまで待ってもらったほど。辞めたとき預金は200万円ぐらいだったと思う。お金を気にせず生活できたことに感謝するほかない。
実家の納屋に置いていた段ボール箱からはJ社時代の給与明細も見つかった。入社した1988年4月から揃っている。その初任給は基本給138,800円に補助手当1.5万円と特別手当3万円に通勤手当9,600円。社会保険料と所得税に親睦会費2,000円と弁当代1,500円が引かれ額面193,400円で手取16万円。
4月は研修だけだったから16万円は貰いすぎと驚いた記憶がある。配属された6月に補助手当がなくなり技能手当2万円に特別手当が7万円。額面238,400円で手取19.7万円。手当が厚いのは社会保険を抑えるためだったのかも知れない。今は総支給額がベースだから意味はないが当時は違ったのかも。
8月から生命保険料20,565円が天引きされ2年目の1989年4月には技能手当が倍の4万円になり特別手当1が8万円と2が1万円。個人年金保険料が加わったのか保険料35,375円も引かれて額面28万円。ボーナスは初年度6月こそ5万円だったが12月は50万円。2年目は65万円ずつで年間130万円もある。
1-12月の源泉徴収票によると年収は2年目が458万円。3年目499万円。4年目542万円と毎年上がっている。いい時代だ。年収450万円のとき大学時代の友人と比べたら私より2年早く働いていた日産自動車と三菱重工の友人より100万円多かったのを覚えている。任天堂には逆に100万円負けていたが。
実家納屋から持ち帰った段ボールの中に箱がいくつか。1つはアマチュア無線用ヘッドホンのもの。トリオHS-4とある。中学時代に買って箱は小物入れとして大学時代も引っ越し先に持って行っていたので何となく懐かしい。中身は製図用ロットリングや鉛筆や古い電卓の箱など今ではガラクタばかり。
お菓子の箱に中学3年のときの年賀状があった。先日死んだ白神からのものもある。郵便番号欄に「3の4-24」とあるのは彼のクラスと出席番号か。「キャップの」と書いているのはバスケ部主将のことか何の意味なんだろう。女子からは4通。妻も診てもらった産婦人科医M護嬢は私への返信らしい。
T石の文面によると私はM護が好きだったようにも読める。いや好きだったのはT石の方か。小学校のとき好きだった鳴門一中のM谷嬢も私から出した様子。引っ越し先に送っているから誰かに聞いたのだろう。中1か中2のとき話したこともないのにバレンタインチョコをくれた女子からも来ている。
やるなぁ私。もう1人O崎嬢は「相談に乗ってくれてありがとう」と書いているが名前に記憶がない。私の友人を好きだったのだろうか。住所から先輩か後輩かと考えながら卒業アルバムを見ると何と同級生だった。文面から想像できる内容も女子の名前さえ覚えていないことに驚いている。
Googleカレンダーとgmail転送の解除 (1月9日・木)
妻は予定をGoogleカレンダーで管理しているのだが昨秋アカウントを変えた。これで私が見れなくなった。それで今日になって再設定。まず私のアカウントから妻にリクエストを出す。ところが返事がない。アドレスとパスワードは聞いていたので妻になりすましてgmailに入り確認して了承。
これで出張中の妻のスケジュールが分かるようになった。一方で私のiPhoneの予定表アプリSnapCalでGoogleカレンダーを見ることができるが逆ができない。全ての予定が統合されてもごちゃごちゃして見にくいだけ。iPhoneではこれまで通りSnapCalとGoogleカレンダーの2つを使うことにする。
この作業過程で思い出したのだが私はgmailのアカウントが2つある。仮にメインとサブとするとサブは迷惑メールフィルターとして使っていた。何と2011年10月以来8年ちょっと。私の本当のメインアドレス宛のメールは一旦gmailのサブアドレスに転送して仕事用アドレスに再転送させていたのだ。
さらにPCのメールソフトShurikenで仕事用アドレスに届いたメールを自動仕訳でtinaのフォルダに振り分けていた。でもgmailのサブアドレスを見ると迷惑メールは今や月に数件程度。DMの方が圧倒的に多い。必要なメールが届かないリスクの方が大きい。そう考えて8年ぶりに転送設定を解除した。
昨日実家の納屋から持ち帰った段ボール箱は引越のサカイのもの。2000年3月に福岡から東京に引っ越すとき使った段ボールのうち一部を車で立ち寄った実家に置いて行ったということだろう。20年も前のものだ。中に少し小さな箱が3つと手提げ金庫。これらの中身はもっと古い。
まず手提げ金庫。私が小学1年とか2年のとき父からもらったものだ。父は銀行員だったから顧客へのノベルティだったのかも知れない。当時の私はうれしくて大事なものをいろいろと入れた。といっても高さ5cmほどの小ささだから大したものは入らない。子どもが入れたものだからガラクタである。
ダイヤル式の鍵付で数字は覚えていない。適当に右や左に回していたら3分で開いた。左に0で右に10。小銭入れがあったから中身を出すと1ドルと100円の紙幣。昔の500円玉や見たことがない100円硬貨。1,000円硬貨まである。汚れた文字を読むと1,000円硬貨は1964年発行のオリンピック記念だ。
100円硬貨のうち昭和51年のものは御在位50年と書いている。1972札幌は冬季五輪でEXPO70は大阪万博。EXPO75は沖縄海洋博か。1971年の米国1ドル硬貨やペルーにヨルダンにイタリアの硬貨もある。記念硬貨は父からもらったのだろうが海外のものはどうしたのだろう。全く記憶がない。
昨夜なぜか子どもの頃に飼っていた鶏の話になった。小学校3年か4年の頃。当時は青やピンクに色づけされたヒヨコが夜店で売られていて鳴門の阿波おどりで買ったのだろう。そのヒヨコが成長したのだと思う。最初は段ボールの中に入れていたと思うが成鳥になってからどうしていたか覚えていない。
ともかく鶏になった。そのことを覚えているのは死んだことがショックだったから。それは私たち家族が旅行に行って帰ったときだった。庭に放し飼いにしていて逃げないよう門扉などをベニヤで囲っていたと思う。ところが鶏はおらず白い羽根が数枚あるだけだった。猫に喰われたんだねと母。
猫に襲われ暴れて羽根が抜け咥えられて行ったのだと思う。ショックだったから覚えているのだと思うが抜けた羽根は拾ってインクとセットでペンにして遊んだ記憶もある。「動物のお医者さん」というマンガににヒヨコを育てたハムテルというキャラクターがいるらしく昨夜は妻が囃していたが。
さて今日は15:30発便で東京に行く妻を空港に送った。昼食は勝浦のこのむ。空港から実家に行った。気になっていたものを探していたが子どもの頃のバッジなどのガラクタとJ社時代の給与明細が大量に見つかったので納屋にあった段ボール箱1つを持って帰った。妻が戻ってくるまでに片付けよう。
仕事の件で朝から集中して考えた。契約関係の問題が絡み昨年末に既に考えた原案があったがこれは使わない。関係者に向けた文章を妻と何度も詰めて作成した。相手のあることなので詳しくは書かないが困惑するとともに残念に思う。怒りもあって夜になって熱っぽくなってしまった。
さて一昨日の消防出初め式で徳島県消防協会勝浦地方分会長名での表彰を受けた。4年前は上勝町長から。在籍して年数が経てば自動的に受け取るものなのでありがたみはない。感謝の意味なのか分団の出初め式にビール1箱を寄贈する慣例もあってむしろ迷惑な制度のような気さえする。
それでも受け取った表彰状を捨てるわけにもいかず4年前のものは書類を重ねた上に置いていたら埃だらけになり別の場所に移したらどこに置いたか分からなくなり散々だ。問題は大きさ。A4ならファイルに収納しておけば済むものを。それで表彰状を収納する大きなファイルを買うことにした。
A4より大きくA3より小さいからB4だろうと思い念のためにサイズを測ると若干横が長い。Amazonで調べるとB4より大きな表彰状用のものが売られてる。アスクルでも調べて結局Amazonで買った。508円。同時にもらったバッジも収納場所を決めておかないと。役にも立たないのに面倒なことだ。
カニ旅行に行ったこともあって12月後半は忙しくK浦氏のPCトラブルにY山家のPC購入が加わり極めつけが白神の死。甥の帰省が元旦になったのが幸いで消防出初め式も終えて今日ようやく落ち着いたような気分になった。と言っても支払調書などを送る準備などがあって今日から仕事モードだ。
集計すると私たち役員2人を除いて昨年1年間で33人分の源泉徴収税を納入した。この支払調書のデータは昨年中に整理していたのだが今日チェックを掛けた。支払った回数は1回だけの人もいるし毎月だった人もいる。全ての支払データをエクセル表で確認して集計して住所も全て確認した。
さて昨日の出初め後の宴席で私はあまり飲まなかった。ビールは飲んだが途中から焼酎の薄いお湯割りで最後はお茶を飲んだり。記憶をなくすほど飲んだ昨年の反省もあったが白神が死んだことの影響もあると思う。あまり無茶をしてはいけない年齢なのだと意識させられている。
一昨年はどうだったかと見直すと酔い潰れずに夕方帰宅している。でも翌日の日記で白神歯科に行った記述を見つけた。ただ日常だった白神歯科に行くことはもうない。日常が日常でなくなるのは当たり前に起こることだということを白神の死とともについ考えてしまう。
4時間弱の睡眠でどら焼きとゆで卵2個を食べて8時集合。下はパッチに部屋着のジャージ。上はヒートテックTシャツにフリースのシャツさらにダウンベスト。この上に消防活動服を着てさらにジャンパーと法被。靴下はワークマンで買ったものの上に厚手の綿。式典前にベストとジャンパーは脱いだ。
日が出て暑くなると思ったが雲に隠れて冷たい風。国旗掲揚は同じ住宅のN氏ともう1人の3人。練習でたまたま3番目に行ったらロックを外すだけの係。表彰も5人いて代表はT本君だったので簡単だった。11:33終了。M下氏の車で神社に行きT中氏が渡したスマホを見ながらF澤君が祝詞を読んで。
公民館で表彰状伝達式。私は改めて賞状を受け取り一旦解散して詰め所2Fでビールを飲んでいたら迎えのバスが意外に早く来て2台に分乗して温泉。ここで14時前から懇親会。帰りは17時にバスが出ると言うのに他分団に捕まって出てこない。バスから迎えに行く人も捕まって結局17:25発。
帰宅後に詰め所でさらに飲んでいる人たちから電話があったが頭が痛いので遠慮して18時半頃に妻が作ってくれた雑炊を食べた。帰りのバスの出発待ちで「響」団長から電話があって今後の話し合いをしたいと言うが私は立場にないと断った。19時前には弟から電話。甥2人からお年玉のお礼など。
0時には寝ようとしたが眠ったのは1時半過ぎ。何度も起きたが前夜よりましな10時起床。準備をして10:45には実家を出た。甥が上勝に来ると前夜は言っていたが止めたらしい。羽ノ浦のモスバーガーに行こうかと思ったが通りかかったコメダに惹かれてUターン。沖浜と阿南に続いて3回目のコメダ。
14時からは明日の出初め式に備えて消防車の洗車。13:50には機械部長Y山氏が来ていて合流して水を掛けて洗って拭いて14:40には終了。そこから年賀状に取り掛かった。今年はFacebookの友達には出さないと12月13日に書いたのだが裏面が印刷された年賀状70枚を郵便局で発注していた。
親戚などから届く分の返信を書こうと元旦に届いた年賀状を実家に持って行ったのに発送分を忘れるというミス。今日届いた分も合わせて旧PCの楽々はがきで整理をして届いた分よりも少ない21通だけ。仕事関係の3通も後日メールで連絡する。白神が亡くなってめでたい気分にもならないし。
明日の消防出初め式では何年かぶりに表彰されるし3人だけの国旗掲揚の担当にもなっているし礼式を予習しておこうとネット検索するものの何も出てこない。消防出初め式の礼式など誰も注目していないのだと逆に気が楽になった。明日の朝に教えてくれることを頭に叩き込むことにする。
昨夜は寝付けず何度も目が覚め浅い眠り。5時に犬が鳴き始めゲートを開けて甥が2度起こしに来て10時半起床。隣の空き地でキャッチボール。柔らかいボールでカーブにシュートにチェンジアップと投げる小3が本気だと手が痛いのでグローブを着けたり。足の位置を動かさずにやったり。
妻と母が作った焼きそばを食べて午後は大塚スポーツパーク。球場の外でキャッチボール。続いて妻と交代しながら甥相手にテニス。守備練習をすると言うからゴロで投げていたらとれなくて泣き出すのはやっぱり小3。最後に私が座ってピッチング練習。力もあるしコントロールもいいし。
最近壊れた台所の浄水シャワーと灯油ポンプを隣のホームセンターで買って実家に戻り妻と母は夕食の買い物。甥が水鉄砲で遊ぼうと言うので庭で私と一緒に虫を探して水攻撃。意外に面白かった。今日しか遊べないので頑張って相手をしていたらクタクタだ。夕食後にうたた寝。
夕方は弟と昔遊んだスコアフォーならぬ立体四目ゲームをビールを飲みながら甥とやって先攻3回後攻1回で4連勝。夕食は毎度の手巻き寿司と香住でもらった白エビを食べてビールを飲んだら疲れてテレビの前でうたた寝。とんねるずのスポーツバラエティを見て甥は23時に寝に行った。
大晦日はNHK紅白歌合戦を見て23:40頃に出て地元の神社に行った。東京から移住して住んでいる29歳だったかS原嬢が年越しイベントをすると地域内にチラシを配っていたのだ。いつもの仲間T中氏も関わっていると聞いていた。新しいことなので応援の意味もあって妻と2人で出かけた。
薄い焼酎1杯だけ飲んでカウントダウンと小さな花火を見て30分だけいて帰った。さすがに寒かったのだ。2時頃に寝て今朝は11時半頃に再び神社。焼きそばを作っていたから昼食代わりにしようと思ったが売り切れていてフランクフルトだけ。夜は10人ぐらいいて昼も同じぐらいいただろうか。
今回は甥の帰省が元旦なので移住して初めて上勝で年を越した。15時頃に出て鳴門に着いて妻と母を乗せてスーパーへ。別行動で店内を歩いていたら松浦酒造の蔵元M浦嬢とばったり。納品に来たついでの買い物と。妻と母も合流して友人同士だった祖父の話や父同士がゴルフをやっていた話など。
18:15着便の甥2と弟を迎えに空港に行くと駐車場は満杯。入口をバックで脱出して車列の先頭で待機。徐々に車が減り駐車場に入れ甥を迎えて19時に実家着。母が作ったお節料理とすき焼きを食べ夜は甥と室内でキャッチボールやふざけ合いながら23時前に静かになったという新年の始まり。
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© 2020 Takashi INAGAKI