2008年3月
10年前の1998年3月31日の夜は徳島の繁華街である秋田町に飲みに行った。メンバーは新人研修の講師として来ていた今のA社のボスK氏と法務部門のH氏O氏と当時入社1年が経ったばかりの旧姓M嬢と私。J社最後の夜がこのメンバーだったのは示唆的ではある。
これまたOutlookで調べると1998年3月31日は今日と同じ月曜日。退職の挨拶はこの日にやったのだろう。17:30過ぎに各部署を回ったときのことは10年経ってもよく覚えている。と言っても徳島本社だけだったが開発まで主だった人にはお礼を言って回った。
東京からたまたま来ていたデザイナーのI氏に挨拶をしてなぜか感極まった光景が記憶にある。なぜ彼だったのだろう。さほど親しかったわけでもないのに。その後も話をしていないのに。その挨拶のときの態度に真摯な本当に心のこもった何かを感じたような。
F取締役に「こんな日が来るとはなぁ」と言われたときは涙が溢れた。F氏は私にとって大きい存在だったかも知れない。年齢は4ヶ月しか違わない。でも会社の礎を作った立役者である。そう言えば私が入社して間もない頃4Fで研修中に声をかけられてとても嬉しかった記憶もある。
学生時代に3年半付き合った同郷の彼女に振られたのは1987年12月頃だった。情けないことにショックは大学受験に失敗したとき以上で一時は食事が摂れなくなるほど落ち込んだ。3月までは卒業研究が忙しく気持ちが紛れたから何とか生きていられたような状態だった。
彼女は奈良の生駒にいたがご両親は徳島にいた。そのご両親とはよく話をしていた。彼女は専門学校を私と同年に卒業するのだがご両親からは感謝の言葉ももらっていた。それで私の大学卒業祝いで彼女のご両親からYシャツの生地をプレゼントされていたのだった。
お礼を言わなければと思いつつ逡巡していた。意を決して彼女の実家に電話をしたのが母校の定期演奏会の夜だった。そのとき彼女が親に嘘をついて大阪で遊んでいることを覚った。母上から「また遊びに来てください」と言われて「多分彼女は望んでいないと思います」と答えた。
我が母校の合唱部OB会のサイトで調べてみると1988年の定期演奏会は3月29日に開かれている。J社の研修の前日だ。入社前に片を付けようと当時の私は思ったのだろう。あの電話は定演会場だった徳島市文化センター前の公衆電話ボックスからだった。これも20年前のこと。
新入社員代表挨拶をした翌年1989年の入社式で今度は先輩代表に指名されて挨拶を行った。私が入社したときの挨拶内容は全く覚えていないが2年目の先輩代表挨拶の内容は部分的に覚えている。スピーチしているときの風景も記憶にある。
当時はF1レースがブームでそれを意識したスピーチをした。それは・・・今は社長が先頭を走っていて私たち社員は後ろを走っているがうまくスリップストリームに入って先頭に立ち会社を引っ張るぐらいの気概をもちたい・・・。そんなことを話した記憶がある。
でももっと別のことも言ったのだろう。後に取締役経理部長になるT氏が私のスピーチの最中に目の前で笑いを堪えていた姿が目に焼き付いているし入社式の後に開発のY氏から「よう言うた!」を声をかけられ誉められた。他の人たちからも後々声をかけられる契機になった。
どうも先輩たちの何かに触れることを言ったらしい。それは経営批判と取られるようなことだったのだろう。私は何を言ったのだろう。それは忘れた。何となく反抗的になって言った言葉で私自身が早く忘れたいと思っていたような気もするが。
2日間の入社前研修が終わった3月31日の夕方。津田塾大だったか出身の同期のYさんと私が呼び出されて1F北西角の社内ミーティングスペースで待たされた。5〜10分ぐらいだったかも知れないが呼ばれたのが2人だけだったので不安感から随分待ったような気がする。
総務のY氏と社長と専務も来たような。私が奥の東側で手前側に東からY氏社長専務の順だったはず。そこで言われたのが翌日の入社式で新入社員代表挨拶をするようにということ。いくつか質問をしたが「自由にやって構いません」といった意味のことを言われたように思う。
入社式は近所の料亭・謂水苑併設の結婚式場・祥雲閣で行われた。スピーチ内容は前日考え手帳にメモしたか鳴門の実家からの車中で考えたか。練習したのか車中でメモを見ていた記憶が辛うじてある。本番ではY嬢は原稿を紙に書いていた。私が何をどう話したかは忘れた。
会場では先輩と新人が交じって丸テーブルに座った。私は一番前の社長専務と同じテーブル。1人ずつのテーブルスピーチで某大学出身のK君が「脳みそ筋肉の大学」と紹介したのを社長と専務が「先輩もいるのに」と苦笑いしていた記憶がある。入社式の記憶は以上が全て。
入社直前の研修で最も印象に残っているのは服装の注意である。講師はPCを担いで全国を回ったという伝説の営業マン御大B氏。B氏からは「Yシャツは夏でも長袖の白。靴は黒。靴下も黒。ベルトも黒。決まってんだよ」と言われた。
でも現・業界最大手M社専務M氏のYシャツは当時半袖だった。それを指してB氏「この人は米国帰りだからよ。配属されたら部署の上司に従えばいいよ」とトーンダウンしたのも覚えている。いや記憶がどこかで混濁しているかも知れないが。
ともかく服装については刷り込まれてしまった。Yシャツや靴下の色は今はこだわらないが長袖だけは守っている。実は半袖のYシャツを未だに持っていない。スーツを着るときは長袖でないと気持ち悪くなった。当のB氏はここ数年会うと半袖だったりするのだが。
さて長袖は暑いのでアンダーシャツは着なかった。ところが入社した年の夏それを社長に注意された。「下着は着けろ」と。「では明日からブラジャーをしてきます」と言い返せば良かったと思ったのは後日。仕方なくアンダーシャツも着るようになった。今もその習慣は続いている。
義母が退院した。14時半頃病院に行き担当医を待つこと50分。簡単な説明を受け次の検査日程と手術中に現れた狭心症の検査日程を決めてタクシーで帰宅。私は荷物持ち。先週末に風邪を引いていた妻の代わりに私が一部を持ち帰っていたので今日の荷物は軽かった。
入院期間は2月25日からだからちょうど30日。リハビリを始めた頃は筋肉が落ちて歩けなかったようだが先週末に行ったときは既に普通に歩いていた。と言っても階段の上りはきついと言っている。腰も痛いらしい。でも日常生活に戻れば大丈夫だろう。
それにしてもこの病院のシステムにはいつも感心する。医師は必ずPCを使って説明する。検査予約も全てPCから。CTスキャン画像も瞬時に呼び出すし過去の診察記録なども全て閲覧できる。医師の名でログインしているから誰が予約したかも分かるようになっている様子。
さて今日はA社の送別会で京橋。19時から飲んで一旦締めて同じ店で飲み会の続き。結局3時間半強。ビールは実は昨日も近所で外食したときに飲んだから2日連続。自宅のストックはなくなっており明日からは自宅で飲みたくても本当に飲めない環境になる。
今年は私が大学を卒業しJ社に入社して20年になる。そしてJ社を辞めて10年だ。少し当時のことを思い出そう。まずは20年前の入社前後のこと。今Outlookで調べたところ1988年4月1日は金曜日だ。この日が入社式で3月30日と31日は会社で研修が行われた。
当時は沖浜に第1ビルが建って半年が経った頃。カンファレンスルームと呼んでいた大会議室は2Fにあった。そこに新人全員が集められ座学を受ける。会社の部署のことや社会人のマナー研修のようなものも。名刺交換の仕方や服装に関する注意も受けた。
私の社員番号は確か704。50音順の4番目のはずだが701番は中途入社の人だったのか3月30日は3番目に座っていたと思う。でも31日になると2番目になっていた。30日には確かにいた1人が阿南だか小松島だかの市役所に就職して入社を止めてしまったと聞いた。
当時のJ社は私たち同期70人が入社して200人。いくら急成長中とは言え一般には全く知名度がない会社だから敬遠する気持ちは分からなくはない。でも1日だけ様子を見に来て止めてしまうのはどうか。彼の存在はすっかり忘れていたが今思い出すとちょっと不愉快。
※ もう少し詳しい事情を知る友人から連絡をもらった。31日に来なかった彼のところには30日に臨時教員の採用連絡があったそうだ。その事情なら入社前だったし納得できる。
風邪を引いたのは2週間前から。過去の日記を探したら11月にも風邪を引いたと書いている。もちろんアルコールを飲まないわけだが11月は4日間ぐらいだったと思う。ところが今回は風邪がほぼ治った後も禁酒を続けている。今日まで15日間でビールを飲んだのは1回だけ。
何度か書いたが私たちは毎晩食後にビールを飲んでいた。正確に書くと発泡酒。KIRINグリーンラベルの500ml缶を3本か4本。妻も同じだけ飲むから夫婦で6〜8本が1日でなくなる。つまり1ケースは3〜4日分に過ぎず1週間で2ケースを消費する計算になる。
ストックをキープするのは大変だが義母が計算して買ってくれていた。ところが義母が入院してしまった。1度は妻が注文して4ケースを配達してもらったがそれも底をつきかけた。注文する一手間が面倒だし3月から値上がりしたと聞くし。禁酒の裏にはそんな事情もある。
禁酒は昨年4月もやったと書いてある。このときは響の定演まで飲まなかったから7日間のはず。今回は3月10日から始まり18日(火)はお好み焼き屋に行きビールを飲んだが再び19日から今日まで。一応これからは飲むときは外でだけにしようかなと。いつまで続くか懐疑的ながら。
田舎暮らしの本を探していてアマゾンで買った。塩見直紀『半農半Xという生き方 実践編』(ソニー・マガジンズ)。著者は私と同年代で京都市でのサラリーマンを辞めて実家がある京都府綾部に移住。自給分の農業をしながら「半農半X」というコンセプトを広めている。
Xとは人それぞれのやりたい仕事のこと。半自給的農業をしながらやりたい仕事だけをするような生活をしようという啓発本と言える。著者のこれまでの体験や家族のことを通じたコンセプチュアルな内容であっさり読める。
帯に「15人の実例に見る『夢をかなえる』ヒント」とあるが著者の体験も15人の実例も表層的で面白くはない。エコライフとかLOHASとかに通じることで言いたいことは分かるのだが特に目新しいものはない。著者は1995年から言い続けてきたことらしいが。
とは言えこういう生き方への憧れは特に都市住民には多いと思う。問題は半Xというのがこの本の存在理由だし私も前はそう思っていたが考えていただけでは何も変わらないのだろう。「やればどうにかなるよ」とは本を読んでの妻の感想。私はそこまで楽観はできないが。
梅田望夫氏の著書の対論として面白いと言われ読んでみた。西村博之『2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?』(扶桑社新書)。著者は言わずと知れた2ちゃんねる管理人。彼の発言を私は今まで色眼鏡で見てきた。今回は素直に読み始めたがすぐに色眼鏡を掛け直してしまった。
結局のところ下らないという以外の感想はない。理由は3つ。ウソが交じっていること。書く対象によって同じ事象の価値判断をわざと変えていること。それ以外は当たり前のことしか書いていないこと。得るものや新しい価値軸はほとんどない一方いい加減さだけは目立つ。
ウソの例で言うと審議中のダウンロード違法化についてCDを買った人がMP3変換して友人にメール送信すれば受信者が逮捕されると書いている。「送信者は複製権があり〜送信可能化権を行使するのはたぶん問題ありません」とも。こんな無茶苦茶を書いて本になることに驚きだ。
多分いい加減な印象だけで語っているからだろう。他も推して知るべし。2編の対談はまだマシだが「身も蓋もない」と佐々木俊尚氏が言う通り全編ひろゆき節で気分が悪い。SPAあたりの読者には面白いかも知れないが読む側にも2ちゃんねると同様リテラシーが要るというわけだ。
『邪馬台国は阿波だった』という本は1976年に発行されている。書名ぐらいは知っていて話題になった記憶もある。でもトンデモ本の類だろうと気にはしていなかった。そもそも私は邪馬台国にも古事記にも日本書紀にも興味がなかった。
昨日書いたように『記・紀の説話は阿波に実在した』を読んだところでタイミングよく今日テレビ東京の番組で「邪馬台国は阿波にあった」と紹介されていた。魏志倭人伝にある邪馬台国への順路のことと鳴門で新しく発掘された古墳のことが主な論拠になっていた。
要は昨年だかに発見された2世紀頃の古墳の形態が後の時代に畿内で隆盛する前方後円墳などの墓と極めて似ているということらしい。徳島の地名と畿内の地名の一致も紹介して徳島の豪族が奈良に移動したのだという説だった。これらは昨日書いた本でも示唆されている。
記紀の神話は徳島が舞台だという説も邪馬台国が阿波にあったという説も今はトンデモ仮説の域を出ていないのが現実だと思う。でも今後荒唐無稽と言えなくなる可能性だってあるかも知れない。そんなわけで古代史を少し勉強してみようという気になったところ。
神山への興味が高じて変な本を買った。高木隆弘『記・紀の説話は阿波に実在した』(たま出版)。古事記と日本書紀にある神話とされる物語は本当は奈良に遷都する前の実在した人々の物語でありその舞台は徳島だという説が書かれた本である。その説によると・・・。
国と神を作ったイザナギとイザナミは橘湾周辺におり天孫降臨の地・高千穂とは津乃峰山のことで天照大神が居住した高天原とは佐那河内村。日本書紀で「伊勢の狭長田(さなだ)」とあるのは現在の伊勢ではなくて棚田の郷「以西の狭長」すなわち佐那河内のことである・・・。
確かに天の石屋戸伝説で天照大神を石門から引き出した天手力雄命を祀った天岩戸別神社が佐那河内にある。隣の神山町には3つに割れた巨大な岩をご神体にした立岩神社がある。佐那河内にはスサノオノ尊を祀った滝の宮神社や八坂神社に天王神社などもある。
地形や神社を考慮しながら記紀の記述を徳島の地名旧名に当てはめた労作とは言える。最初は強引な展開に眉唾だったが通して読めば趣はある。ちなみに倭国が徳島だとは示唆する程度。ただ旧名の読みも記紀の記述も私には難しく本当は理解できなかったのが正直な感想。
『文明の逆説』の中で文明崩壊の要素として過密地域での社会的混乱が挙げられている。日本で社会的混乱があるとすれば何だろうか。立花隆は「ストレス過剰になった人間が、生理的にも、精神的にも異常になり、不健康になり、狂い出し、異常行動を起こ」すと書いているが。
もしかすると私は既に狂っているかも知れない。例えば電車で下りる人を押しのけ無理に乗り込む人には私はわざとぶつかることにしているがそれは狂っているとは言えないか。ホームなど混雑した場所で立ち話している人を見ればわざとその間を通ることにしているし。
満員電車の中でポニーテールの女が私に尻尾を向けて頭を振ったときには殺意を持った。電車の出入口で単行本を付きだして乗り降りの邪魔をしているヤツを見ると本を叩き落としてやりたい衝動を感じる。私だけでなく多分電車の中のほとんどが同じように苛ついていると思う。
私たちは殺意や衝動を押し込めながらストレスを溜めているのだろうと思う。駅で殺人事件が起こるのも当然だ。そうやって目に見える異常行動を起こしているのはまだ一部だが内面ではほぼ全員が狂っているように思う。私も東京に住んでいる限りその一人である。
地震でも洪水でもあっさり死ねればむしろ幸せだが下手に生き残ると大変だ。東京で私が住むマンションは低層だし堅牢そうだからこれが倒壊するような地震なら多分私は死ぬだろう。でも倒壊しない程度で周囲が壊滅して電気ガス水道が止まったら何をしたらいいものか。
電気はひとまず不要である。ガスはカセットコンロがあるから数日は湯ぐらい沸かせる。でも水がない。屋外に置いたペットボトルやトイレのタンクも含めれば20リットルぐらいあるかも知れない。生命維持のため1日2リットルが必要として3人で6リットル。3日持つのがせいぜいだ。
給水車には期待できない。1人2リットルに制限しても3トン車程度では1台で1度に1,500人分しかまかなえない。仮に1日5往復で水を運べたとしても7,500人分。私の町だけで4台が必要になるが区全体では100台以上だし23区だと1,000台以上。東京にそんな数があるとも思えず。
救助も救援も給水もなければ行政に頼り切りの都市住民は大騒ぎになるかも知れない。逆に他人の自殺にも無関心だから命の危機に際しても反応は薄いだろうか。そう考えると都会では自力で何もできないことを思う。結局のところせいぜい缶詰と水を準備をしておくことぐらいか。
地球は生命体だという説を私は『文明の逆説』で読んだと思い込んでこれまでもそう書いてきた。ところが今回読み直すとどこにも書かれていなかった。同じ時期に別の新聞か何かで読んだんだろうか。記憶の混濁がここでも・・・。
この地球生命体説と同じかどうかは知らないがガイア仮説というものを『2012地球大異変』の中で知った。この著者は『ガイア−蘇る地球生命論』という本も出しているらしい。この地球環境に関する説は危なくてなかなか魅力だ。
それは地球環境の変化は自ずと調整されるというもの。例えば地球の温度が高くなりすぎると超火山が爆発する。7万4000年前にスマトラで起きた超火山の大爆発は地球温暖化が進んでいた当時の気温を10年で5度から15度も押し下げたらしい。
でもこうなると何年も雲に覆われるから作物が育たず餓死するしかない。メカニズムは地表の氷が溶けてプレートの重みが外れ地表のバランスが崩れるからと。本当だろうか。ちなみに米国のイエローストーンという超火山はカルデラの底が1922年から75cm上昇しているらしい。
『 2012地球大異変―科学が予言する文明の終焉 』を読み終えた。前半は面白かったが後半はつまらなかった。聖書のハルマゲドンから始まりエルサレムを巡る歴史と今のことが延々と続く。それに著者個人の感傷が記述の中心になってきて読みにくい。
それでも前半のロシアの科学者が語る宇宙論は面白い。それによると太陽系は銀河系の中で移動しており星間空間における粒子の密集帯に差し掛かり始めたらしい。移動前面で衝撃波を生みプラズマが形成されそのエネルギーが太陽系に流入し地球を温暖化させていると言う。
この本は2012年に起こるとすれば何が考えられるかを書いたものだ。巷の学説を集めれば「根拠」はいくらでも出てくるだろう。例えばロシアの科学者が語る衝撃波は事実だろう。でもそれが地球に与える影響は仮説である。仮説が事実であっても影響の度合いは分からない。
ましてや2012年の特定に1日に何かが起こることはないだろう。マヤの末裔は「長老たちによれば、2012年以降の新しい時代には、痛みも幸せももっと共有されるようになる」と語っている。ただし「死が、それもおそらくは大量の死が、その移行にはともなうだろう」だそうだが。
『2012』にはこんなことも書かれている。地球の磁場が弱まっているという問題だ。地球は磁石と同様の磁性体と見ることができる。現在は北極がN極で南極がS極。磁界はN極から出て放射状に広がりS極に収束する。ところが78万年前まではこれが逆だった。
78万年前の1000年間ほどは磁極が定まらず磁場が弱まっていたらしい。現在の磁場の減少が磁極の逆転の端緒かどうかは分からない。でも磁場がなくなると地球上のほとんどのヒトは死ぬ。なぜかというと太陽風と宇宙空間から飛来する宇宙線に晒されるからだ。
磁場によって守られているのはフレミングの法則である。太陽風も宇宙線も電荷を帯びた放射線だ。地球には磁界があるからフレミング左手の法則によって太陽風も宇宙線も磁力を受けて地表に届かず曲がっていく。もし地球に磁界がなくなれば太陽風と宇宙線の直撃を受ける。
オゾン層の破壊は磁場の減少によるという説もある。ヒトは太陽風の前に紫外線で死滅するかも知れない。そう言えば2012年は太陽活動がピークだし。いずれにしても数十万年のスケールで見れば地球環境は激変する。温暖化対策など現代人の気休めでしかないように見える。
マヤカレンダーの2012年問題だが興味が高じてこんな本を買った。ローレンス E.ジョセフ/東郷えりか訳『 2012地球大異変―科学が予言する文明の終焉 』(NHK出版)。トンデモ本の類かと想像していたが読み始めると知的好奇心が刺激されて意外と面白い。
まずマヤカレンダーによると現在は第4時代にある。この時代は紀元前3114年8月13日に始まり2012年12月21日に終わる5125年間。マヤ暦は20進数と13進数の組み合わせで0.0.0.0.1に始まり13.0.0.0.0に終わると書く。この時代のことをマヤ文明では「太陽」と呼ぶ。
さて銀河系の中心をマヤ人は宇宙の子宮と考え現代の天文学者はブラックホールがあると見ている。この銀河系の中心が2012年12月21日11 時11分GMTに太陽系によって地球から隠れる。2万6000年に1度の現象でマヤ人は身体と地球の生命メカニズムが狂うと信じている。
これに対して著者は懐疑的だ。実際には何も起こらないと私も思う。まだ読み始めたばかりだがこれに類する地球終焉の「科学的根拠」が次々出てくる。それらは事実だろうが地球への影響は分からない。影響があっても数百年後かも知れない。そう思いつつも面白いのである。
立花隆『文明の逆説―危機の時代の人間研究』(講談社文庫)を再読した。学生時代以来私の思考に相当な影響を与えてきた本である。でもやっぱり古かった。後半は女性蔑視の記述が目立ちうんざりする。今読んで面白いのは1970年発表のレポート「子殺しの未来学」だけかも。
当時衝撃だったのはイギリスの学者がネズミをギリギリのストレスとなる過密状態で3世代飼育した実験のこと。それによると同性愛が表れ未成熟のメスを犯すのが出て子を保育できない母親が表れた。闘争が増え弱者は社会から離脱する一方強者は相対的に正常だったという。
ここから現代日本の社会病理は過密社会が原因と推測はできる。ネズミの実験結果は数を増やさない方向に働くもので現代の病理や性文化は種としての人口調節機能かも知れない。もう一つ。無人島で増えすぎた鹿が大量死した例が紹介されている。原因は副腎肥大だったという。
それは過密ストレスによるもので生物としてのヒトが突然大量死する可能性が指摘されている。直接の原因は伝染病か戦争か過密地域での社会的混乱か。ペストの流行やローマ帝国の崩壊などの例はある。歴史は繰り返す。10年後かも知れないし100年後かも知れないが。
日本は清潔すぎると昨日書いたがそれは目に見える範囲に限られるのかも知れない。立花隆『文明の逆説』を再読しているのだが「人間とは何か」という章で面白い記述を見つけた。例えば「空気中を漂うバイ菌が目の中に入るとどうなるか?」という問に対する答え。
涙に含まれる強力な酵素が殺菌するそうだ。さらに赤痢菌はガラス板の上で数時間生き続けるが清潔な人の掌では20分で死ぬらしい。ところが「いくら身のまわりを清潔にしていたところで、空気や食物から、細菌が人間の体内に入ってくることは、防御しようがない。」
防腐剤入りの食パンを人は食べるがブタは食べないそうだ。ネコは安物のカマボコに含まれる添加物を嗅ぎ分け最近は食べようとしなくなったらしい。「人間の嗅覚が、これだけ鈍いからこそ、ブタやネコには耐えられないような悪臭を放つ有毒食品添加物にがまんできるのである。」
食品添加物の害は前にも書いた。だから今さら感はある。でもこの文章が書かれたのは1970年。添加物は当時よりマシになった可能性はあるが悪くなった可能性もある。いずれにしても有害との認識が社会にありながら40年何も変わらないのが現代文明と言えるのかも知れない。
今日になって熱が出た。風邪とは何かの菌かウィルスを取り込んだ体が防御反応を示しているということなのだろうが毎年風邪を引くということは新しい菌を取り込んでしまうからなのか。それとも以前に取り込んでいた菌への防御が弱くなって免疫を再構築しているのか。
そう言えば先日A社の仲間と飲んだ上海のW氏は日本で何年か住んだ後中国に戻って最初に引いた風邪が強烈だったらしい。日本に来て中国時代の免疫が落ちたのかも知れない。とすれば免疫は普段から菌に晒された環境の中で使っておかないと力が落ちるということになる。
風邪を引かないようにするためには菌を入れない方法もあるがそれでは免疫が付かない。免疫を体力に応じて少しずつ付けていくのが風邪を引くということだとすれば私の風邪にも諦めがつく。そして菌がある環境で生活している限りは発症しない。発症しても軽いもので終わる。
逆に言えば無菌環境で生活すると何かの拍子に入ってきた菌への防御は過剰なものとなり風邪の苦しみは大きくなるということなのだろう。上海のW氏は中国に戻った直後の風邪の経験を元に中国の環境が悪いことを認めつつ日本は清潔すぎると言っていた。その通りだと思う。
昨夜は寝ようとしてから花粉症の症状が出て寝付けなかった。花粉症は毎年軽い症状なのだが今年は強烈だと恐れをなしつつ夜になって出たことを不思議に思っていた。そしたら今朝には喉が痛くなった。花粉症ではなくこれは風邪だ。
今日は外部会議があって休めない。昼食を食べ風邪薬を飲んでマスクをして出かけた。熱は出ていないからまだ楽なのだが。そう言えば今日と同じ会議が前回東銀座であった2月12日(火)は貧血でフラフラして午前中を寝て過ごした。
貧血は鉄分が足りないのだと言われそれからステビアを飲み始めた。ステビアは妻が以前に仕事をしていたクライアントの商品で南米原産の植物。ビタミンやら鉄やら栄養素が豊富な濃縮エキスで毎日12mlを飲む。前にもらったままで賞味期限が切れていたのだが。
昨年は徳島で強烈な高熱が出たし腰が悪くなったりもする。毎年1月から3月の間は一度は必ず体を壊す。年中行事だから今さらどうでもいいやと諦めているがそう言えば父が死んだのは2月だった。将来私が事故以外で死ぬことがあるとすれば多分2月か3月だと思う。
多分93年か94年だったのだろう。羽田空港で徳島行の飛行機を待っているとき大手出版社出身の同僚で日本語関係の製品企画をしていた東京のK氏から「最近どんな本を読んでますか」と話しかけられた。私が何と答えたかは覚えていないが彼が言ったことは覚えている。
「『マークスの山』は読んでませんか。高村薫は凄いですよ」というものだった。年表によると93年に直木賞を受賞して話題になっていたから著者も作品も私は名前だけは知っていた。だからあれは多分93年か94年だ。私は「ぜひ読んでみます」と答えてから約15年が経った。
K氏に言った言葉だけでなく90年代最高のミステリー小説としていつかは読まなければならないと気になっていた。そして最近自宅に妻が買ってきた文庫があるのを見つけてやっと読んだ。高村薫『マークスの山』(講談社)。
ミステリーとか警察小説とか本格小説とか言い方はさまざまだが何度でも読みたくなる類の小説だ。文章が持つ圧倒的なテンションに引きずられて通勤の駅で何度も歩きながら読んだ。15年前にK氏が「凄い」と言った意味が分かった。この時代に読んでおくべき作品だと思う。
我が家は最近2度に渡って断水した。いずれも夜11時から朝6時。1回目は2月21日(木)で2回目は翌週28日(木)。水道管の検査だか何だか近所一帯が断水したらしい。妻は原始生活のシミュレーションだと言っていたがそれにしては中途半端だった。
どちらも事前に分かっていたので準備はそれなりにやった。例えばペットボトルに飲み水を確保しておいたし大きな鍋にも水を溜めていた。風呂にもトイレ用にと1/4程度水を入れておいたし手洗いも風呂から汲んだ水を洗面器に入れて使った。
夜11時からの断水だったから不便だったのは寝るまでの数時間に過ぎない。でも特にトイレは困った。2人分を溜めてから流すようなこともやったがタンクに水を補充するのに風呂とトイレを数往復。失敗してタンク外に水をこぼしたり酔っぱらった身にはそれなりの労働だ。
やってみて分かったが私たちは無駄な水を使いすぎている。小便を流すだけに水道水10リットル以上を使うというのは馬鹿げている。と書いたところでそのシステムに組み込まれている私。こんな現代文明は崩壊すればいいのにと2012年を待ち望んでしまう。
アマチュア無線技師国家試験第2級(2アマ)問題集を先週末にやっと一通りやり終えた。1問ずつ印を入れているので今後はそれを元に復習を始めないといけない。印は3種類。OKは次回も確実に解けるだろう問題。レ印は解けたけど復習を要する問題。×は解けなかった問題。
ちなみに数えてみたら問題数は工学413問と法規259問の合計672問。OKとレ印と×も全て数えたら比率は工学と法規でほぼ同じ。OKが20%でレ印が42%で×が38%。3週間近くかかって全問やってみて結局また8割はやり直さざるを得ないという数字。ガックリ。
レ印は解けた問題なのだが×の直後の同じような問題だった場合も多く復習を要する。そこで2巡目の勉強ではOKと×を飛ばしてレ印だけをやっていくつもり。それで解ければOKに昇格させ解けなければ×に降格。そうやってふるいに掛けて3巡目の復習に備えようという計画。
3巡目は×が1つでも付いている問題だけをやっていく。そこでさらにチェックをして4巡までやりたいと考えている。本当は最後に全問に当たってみたいのだがとても時間がないと思う。一応まだ意欲は保っている状態。何事も目標があるとがんばれる。
2007年の話題の本である。NHK番組「爆笑問題のニッポンの教養」で見た著者の話も面白かった。先週号の週刊文春では宮崎哲弥が2007年の新書の中で理系の1位に推している。福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)。
半分ぐらいまで真面目に読んだが後半は飛ばし読んだ。全然面白くない。書き出しが生物の定義を巡る問題だったから期待したが全然ダメ。内容はDNAやウィルスの発見エピソードだったり生物学史に著者自身の体験が交じった科学エッセイと言えばいいのか。
数十万部も売れているというから興味を持つ人も多いのだろう。でも私には面白さが全く分からなかった。DNAの構造については分かりやすい表現で理解はしたがそれだけ。DNA構造の発見を巡る研究者同士の争いの話なんか面白くもなんともない。
そう言えば高校時代の理科の授業で一番嫌いだったのが生物。次に嫌いだったのが化学だった。生物と言えばデオキシリボ核酸とミトコンドリアしか覚えていない。この本を読んで生物学にも化学にも私は全く興味がないのだということを再確認しただけだった。
最近比較的感覚が鋭くなったと感じることがある。霊感は言い過ぎだが思いついた何かが現実になることをときどき経験する。とは言え今日のことは偶然だろう。年に数度しか話をしない弟と携帯メールでやりとりしていたら昼食で偶然その弟と会ったのだ。
今朝起きたら昨夜のうちに届いていた弟からのメールに気がついた。母を誘って旅行に行こうという殊勝な内容のものだった。この件についてA社から送受信していたのが10時頃。弟は近所に勤めているから昼食にでも誘おうかなと思ったことは思った。
そう思ったことも忘れて12:40頃うどん屋に行った。遅れてボスが来て注文を済ませた頃に帰ろうとする客に声をかけられた。それが弟だった。A社の会員企業の担当者が私ではなくボスに声をかけたのだろうと瞬間思った。相手が弟だと気づくのに今回は1秒かかった。
同じ街に通っていれば会うこともある。でも偶然会うからそれなりに驚くのである。さて今日は妻によると義母が早くもICUから一般病棟に移ったそうだ。夜は上海から来たWさんとA社の仲間と池袋。今日はいいことばかりが続いた楽しい日だった。
午後の面会時間に義母の見舞いに行った。麻酔のせいで変なことを言ったりするが結構話して元気そうだった。さて今回の義母の手術を担当したのは私と同年代の女性医師。説明は穏やかで丁寧だった。医師の過剰労働が問題になっている折り脳外科の仕事は大変だろうに。
そう言えば昨年末は高校時代のクラス会の案内が徳島と東京の2カ所からあり私は東京の新年会にだけ出たがメールのやりとりの中で知ったのが2年前のクラス会には来ていた筑波大学医学部病院勤務の医師が救急集中治療部に異動したということ。
徳島のクラス会の幹事もまた総合病院の救急部に勤務。彼は徳島大学医学部病院にいたはずだと思い過去のメールを探してみたら当時から救急医療担当だったようだ。今までは特に関心を払わなかったが医師になった彼らの大変さを改めて思う。
確か2人とも専門は心臓外科だったはずだから毎日の仕事は本当にハードだろう。今回のように身内が入院して医師を含む病院スタッフと話をしていると丁寧に声をかけてもらうことが本当にありがたい。次のクラス会では彼らの話をぜひ聞きたいと思う。
手術は無事終わった。今日は11時前に病院に行き11:20頃病室の義母を見舞ったが検査が終わり麻酔でまどろんでいる状態。一旦退出したが妻は再度病室に戻りシャスタで買ってきたパワーストーンを義母の頭にかざしたらしい。医師からは立ち話で簡単な説明を受けた。
正午前に1Fのレストランで昼食をとり救急救命フロアに戻っていたら義母は13時過ぎに手術室に運ばれていった。手術中は誰かが待機しておくようにと言われており妻が居残り私は仕事でA社へ行き原稿3本の簡単な調整だけで17時過ぎに病院に戻った。
18時前後に交替して夕食をとり義母が戻ってきたのが19時前。なるほど6時間弱の手術だった。頭の骨を外して脳の間を分け入って3mm弱の動脈瘤の根本にクリップを付けるだけ。医師からはそう説明されたがイメージできず。ちなみにクリップはチタン製らしい。
手術前のICUは個室で安静のため暗くされていたが手術後は大部屋をカーテンで仕切った救急救命治療室。医師の説明によると手術中に狭心症の心拍があったようで少し気がかり。面会したが意識はあって頭が痛いと言っていた。順調に行けば1週間で一般病室のはず。
確定申告書を作成した。毎年のことで気合いが入らなかったもののギリギリになるのも避けたかった。夕方から始め少し迷いながらデータ自体は夕食前にできあがった。夕食を挟んで印刷と必要書類を貼り付けて封入してあとは郵便局に持って行くだけ。
昨年の私は2月からは全て個人会社の給与所得なのだが1月が曲者。A社からは給与所得があり半年仕事をしたT社からは個人事業所得。もう一つ妻の仕事関係でもらっていたコンサルタント料があって事業収入2と給与2という構成だった。うち3つは源泉徴収されている。
3カ所から源泉徴収されていたこともあり今回は還付がある。平成18年は納付が必要になって額は最新PCが軽く1台買えるぐらいと当時書いたが今回の還付額は最新PCの本体だけがギリギリ買えるぐらい。納めるより還ってくると素直にうれしい。
さて今年は妻の確定申告も行った。1月まで働いていた会社の給与と退職金があったので。妻は2つの給与所得だけだったから簡単だった。還付額は最新のPCが22インチワイドディスプレイ付で買えるほど。ともかくこれで2月の肩の荷が下りた。
特に意味はないと思うが書き留めておく。木曜日に妻が朝仕事で外出しようとしたときドンドンと大きな音がしたらしい。私には聞こえなかった。直後に病院から電話があり手術についての説明の時間が伝えられた。その日の16時に私も同行して医師から説明を受けた。
我が家はリビングルームの隅にダイニングテーブルを置いている。その真上には電灯が天井から吊り下げられている。元から備え付けられていたものだ。これには60W型電球が3個付いていて普段は食事などテーブルを使うときに十分な明るさがあるので1個だけを点灯させる。
手術の説明から帰った夜は自宅で食事をした。食後しばらくして手術承諾書など何通かの書類に妻が署名しようとダイニングテーブルの電灯のスイッチを入れたらパチンと音がして一瞬で切れた。電球を換えようとしたがソケットの電極付近が焼き切れてショートしてしまっている。
ダイニングテーブルの電気は夕食のときまで普通通り点いていた。これは何だか妻が署名するのを妨害するようなメッセージと捉えられなくはない。不安がよぎる。でも論理的科学的に考えれば昨日書いた結論しかない。そう納得して書類は金曜日に妻が提出してきた。
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© 2008 Takashi INAGAKI