2008年2月

義母の入院 (2月29日・金)


実は義母が入院している。その前の週は義母の体調が悪く食事を作ってくれなかったと書いたが私たちは風邪だと思い込んでいた。でも月曜日に妻が近所の巨大な国立医療センターに連れて行き検査をしたら即日ICU(集中治療室)に入院となった。

ここに至る経緯は妻の日記を読んで欲しい。今週木曜に手術について説明を受けたがこの病気は最初の出血で10〜20%の人が死ぬらしい。義母は日曜(2/17)から頭痛が始まったというからその日に出血したはずで検査に行く月曜(2/25)まで8日間も痛みに耐えていたのだ。

これを思うと辛い。最初の1週間に義母と直接話はしなかったがなぜ私はもっと注意を払わなかったのか。でも義母は痛みに耐えながら死ぬこともなく麻痺もなく今はICUにいる。そのことに感謝しよう。医療センターの対応も素晴らしかったと思う。

義母は月曜日に手術を受ける。次に出血して死ねばいいと義母は言うしリスクを考え手術を回避することも考えた。でも2度目に出血をすると死亡率は64.5%で1月以内が最も危険という。死ななくても麻痺が残る危険もある。手術を受ける以外ないと決めたのが昨日。

人類文明と皮膚ダニ (2月28日・木)


地球環境がいつか瓦解すると最初に知ったのは立花隆『文明の逆説』を学生時代に読んでからだ。しまい込んでいた講談社文庫を取り出してみたら1984年の初版。単行本は1976年に発刊されていた。この本からはモノの見方の影響を受けた。また読み直してみようと思う。

この本によると前にも書いたことがあるのだが地球を生命体だと主張している学者がいるらしい。比喩ではなくホンモノの生命なのだと。それと何年か前にワイドショーで観た皮膚ダニが結びついて今の私は地球についてあるイメージを持っている。

それは乾燥した季節に顔に寄生して一夜で増殖するダニの話。皮膚ダニは朝起きて顔を洗うとほとんどが流されてしまうが同じように地球に寄生して増殖したヒトは地球が目を覚ませば顔を洗うがごとく流されてしまうという感じ。ブルブル揺すってジャブジャブ流してサッパリ。

ヒトが朝顔を洗うのは1日ごとだが地球のそれは5000年かも知れない。人類文明の終焉はそうやって起こるのだろうと思っている。皮膚ダニが増殖と死滅を1日ごとに繰り返すように人の文明は直接的に発展したのではなく何度も発展と消滅を繰り返してきたはずと私は思う。

太陽活動のピーク (2月27日・水)


2012年12月21日に神山に移住していたらホームパーティを開くつもりだが本当に現代文明が瓦解して私たちが生き残っても次世代に繋げられないと意味がない。そこでパーティには小さな子供を持つ人と原始社会を生き抜く知恵と技術を持った人を呼びたいと思う。

さて2012年というマヤカレンダーに引っかかりつつアマチュア無線の勉強をしていたら2012年がここでも出てきた。それは電波の伝搬状況を左右する約11年周期の太陽活動がピークを迎えるという事実。太陽の黒点数が最大になり磁気嵐が吹き地球の気温が高くなる年である。

この年の前後は太陽活動が活発で地球の電離層の密度が高くなる。電離層の反射で電波が思わぬ伝搬を行う一方で磁気嵐で数十分に渡り電波妨害が起こることがある。オーロラが観測されるのもこの時期が特に多い。経済活動や景気に影響を与えるという説さえある。

ちなみに太陽活動サイクルは極小期から次の極小期までを指し2008年1月から始まったのがサイクル24と呼ばれる。もし2012年に人類社会が壊滅しこのとき太陽活動がピークだとすると無線通信には絶好である。つまり私がアマチュア無線を復活させているのも必然だったりして?

マヤカレンダー (2月26日・火)


マヤカレンダーによると5000年以上に渡る現在の人類社会が地震によって2012年12月21日に終焉するらしい。前回の人類社会の終焉は洪水が原因。世界各地にノアの方舟伝説が残っているから事実だったかも知れない。ということは2012年も事実だと解釈できなくもない。

実はマヤカレンダーについてはこれ以上の情報を知らなくて勝手に想像して楽しんでいるだけなのだけどノストラダムスの大予言が記述された詩をどう解釈するかという議論であるのに対し少なくともマヤカレンダーは解釈に議論を挟む余地がないと思う。

そんな大事件がこの時代に起こるはずがないという反論もあるだろうが私の年齢を単純化して50歳とすると前に書いた人生単位で数えれば1000年の間で私が経験する確率は5%で5000年のうちでも1%であって遭遇しないとの断定はとてもできない高い確率だと私は思う。

そこで神山へ移住である。電気水道ガスが途絶える原始社会でどう生きるか。その生活を2012年より前に始めておきたいというのが最近の私たち夫婦のテーマだったりする。本当に神山にいたら2012年12月21日は避難を兼ねて親しい友人とホームパーティを開催したい。わはは。

田舎暮らし (2月25日・月)


実は農業をしたいと思っている。昨年から山の中で生活することに夫婦して憧れているのだが自分たちが食べるものの一部でも作れればいいなと考えている。現在のところ移住先の第一候補は徳島県神山町だが佐那河内村でも勝浦上勝でもいい。何となくあの辺。

田舎に移住したい理由はいくつか挙げられる。一つは食の安全。肉や魚は買わざるを得ないが野菜の一部だけでも自分で作れば美味しいだろう。温暖化対策のため食品の輸送距離を表すフードマイレージを最小にすべき努力をしてみようというのは真剣ではないこじつけの理由。

マヤ文明のカレンダーで人類社会が終焉するとされる2012年12月21日より前に自活できる環境を作っておきたいのも理由の一つ。もちろん本気で信じているわけではないがそれを理由に挙げるというのは何となく田舎暮らしをしたいと魂が欲しているのだろうと解釈している。

それに都会の仕事が何も生み出していないことに空しさを感じている。人間の傑出した能力を発揮する環境を作っているとは思うが一方で人間社会の総体においてはその能力を退化させているように感じる。そこで今回も私は社会の多数派とは別の道を行ってみようかなと。

古い価値観と我が道 (2月24日・日)


『ウェブ時代をゆく』の中に「『時代の変わり目』を生きるためにいちばん重要なのは、『古い価値観』に過剰適応しないことである」とある(p.199)。大学時代から私は「そのことに自覚的かつ意識的で」あった。過剰なまでに。

大学を卒業して当時100人しか社員がいなかったベンチャーに就職したのは「古い価値観」を拒否する生き方をしてみたかったからだ。数年が経ち普通の会社になっていくにつれ仕事に興味をなくしていったのも「古い価値観」を指向し始めた会社がつまらなく見えたからだ。

99年に福岡のD社に行った動機の一つは私が入社する前のJ社を追体験したかったからだ。今また独立してスモールビジネスを起こしたのも同じようなことだ。サラリーマンを否定はしないがそれさえも私には「古い価値観」に見える。それに同化する気になれない自分がいる。

それにしても私は「古い価値観」に反する気持ちを過剰に持ち過ぎているとは思う。常に社会の多数派と反対の道を行きたがる。多数派の道を行けば私の場合はおそらくストレスで潰れていただろうと思うと結局のところこの道しかなかったわけだ。と思いはするのだが。

名西酒蔵 (2月23日・土)


義母が風邪を引いて寝込んでいるので今週は夕食を作ってもらえなかった。水曜までは妻が作ったが木曜は妻も外出で外食にした。それで思いついたのが昨年4月に一緒に飲んだ隣町に住む友人お奨めの新しいお店。思い出して友人も誘って初めて行った。

行くことにしたのが水曜の夜でそれから友人にお誘いメールを出し返事を読んだのが翌朝。携帯電話にメールすればよかったのだが何も考えずにPCメールで返信したら彼は読む環境になかったらしく当日夜になって携帯電話に連絡が来た。そのとき既に妻と飲み始めて1時間。

ともかく19時に行き友人が21時前に来て奥様も合流。ここは大将が徳島神山町出身。メニューはフィッシュカツはじめ徳島の食材が並ぶ。美味しくて常連さんも多い。トイレに行けば徳島の地図に阿波踊りのポスター。東京でここまで徳島に浸れる店はないかも知れない。

大将に聞けば何と私と同じ高校の後輩にあたる。創立何十周年記念かで作ったらしい高校校舎の航空写真のテレフォンカードを見せてもらった。結局酔っぱらってバカな話を25時まで。恥ずかしながら友人夫婦に奢ってもらい歩いて帰った。ありがとうございました。

起転承結 (2月22日・金)


ニュースも扱う女性週刊誌に今は変わってしまったAERAだが創刊当時は硬派だったと思う。創刊1年後ぐらいの1989年頃から私はほぼ毎号読んでいてここ数年は宅配してもらっている。今や「これは」という記事を読むこともなく取っているのは惰性でしかないのだが。

さてAERAから文章を学んだのは1995年前後だったと思う。当時は出張の度に買って移動中に読むのだがあるとき記事に一定のスタイルがあることに気がついた。多分1ページなりのニュース記事を最後まで読ませる工夫だったのだろう。知ってしまうと正しいスタイルのように思う。

一般的に起承転結と言うがAERAの記事は起の次は承ではなく転だった。そして承に繋がる起転承の順なのだ。次は結でなく最初の起転承を新たな起として再び起転承が始まる。それを重層的に繋げていき最後に結が来る。1〜2ページの記事ならほぼ例外なくこのスタイルだ。

起の次に承ではなく転が来るのは常に目先を変えて興味を引き続ける文章スタイルなのだと思う。その目で見ると名文と思うレポートはどんな媒体でも多くがこういうスタイルだった。実は私もこの日記で少しだけ意識している。起承承承で終わることも多々あるのだが。

本を読むこと (2月21日・木)


私は生きるヒントを求めて本を読んでいると昨日書いたがそれは東京に来た2000年以降の意識に過ぎず以前はそうではなかった。J社時代はほとんど本を読まなかったし大学時代はむしろ社会を知りたいという動機の方が大きかったと思う。

だから大学時代は小説よりも沢木耕太郎や柳田邦男や立花隆に本多勝一とか小室直樹などのノンフィクションに傾倒していた。城山三郎や山崎豊子に有吉佐和子などの小説も基本的に社会を知るためだったと思う。例外があるとすると村上春樹と向田邦子か。

例外の中で向田邦子には多大な影響を受けた。エッセイしか読まなかったが文章とはこう書くのだということを学んだと思っている。彼女の世界観は女子なら小学校高学年で面白く読めるはずだ。私は大学時代だったが若い頃に良質な文章に触れられたのは幸せだった。

同じように素晴らしいと思ったのは『江夏の21球』で有名な故・山際淳司だが彼の作品はすぐに飽きた。最近凄いなと思うのは高村薫。AERAの巻末で社会批評コラムが連載されていて楽しみに読んでいる。そう言えばAERAの記事から文章を勉強した時期もあった。(続く)

『ウェブ時代をゆく』 (2月20日・水)


梅田望夫『ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか』(ちくま新書)。別の著書で宣言してあった通りで20代などの若い人たちに向けて書かれたと思われる内容。それもあってかyabushoさんは「今さら『あちら側』には行けない」と書かれていたが私は結構面白く読んだ。

共感したのは本の読み方。私の読書は生きるヒントを求めている。ロールモデルを探すためと表現する著者の姿勢と近いに思う。でも当時は高速道路はなかった。けもの道の歩き方も中途半端で気持ちはあったも行動を起こさず今まで何も得たものはない。

私には「あちら側」に行って「知的生産の技術」を実践したい願望はある。でも確かに難しいかも知れない。「新しい知的生産への道を歩むための絶対条件」である「ネット上の不特定多数を信頼する」ことが私にできるだろうか。この日記ですら検索を拒否しているぐらいだし。

それでも今の時代を生きる上で十分に知的な刺激を受けた。私の年代は読者対象からは外れているが10代〜20代の人は必読だと思う。Webが前提の時代に人生に踏み出す人の一つの考え方だと思う。少なくともこうした実践例を知ることができる今の時代を素晴らしいと思う。

肌診断 (2月19日・火)


妻の知人に頼まれて肌実験に参加してきた。サプリメント開発のためのデータ収集への協力である。郊外の研究施設の会議室でアンケートに答え顔を3方向から20cmの距離で接写され頬と頭皮をマイクロスコープで撮影。さらに専用の器械を使い水分や油分などの測定も。

4週間前にも同じ測定をして以後毎日サプリメントを飲み続け今日は事後測定。今日は前回の測定結果の説明も受けた。それによると肌の水分は64歳レベルで油分は56歳とか。でも明るさは36歳でシワ数と色素沈着総面積は37歳。ふーん。そう言われても何の興味もない。

測定前に渡されて使った洗顔石けんの泡立ちやら泡のキメやら使用感も訊かれたが何が違うのかよく分からない。さらにジェルを渡されて顔に塗ったが普段しないことについてスッキリ感とかしっとり感とかの感想はない。男に訊いて有意な統計が取れるのだろうか。

郊外まで電車で20分。さらにタクシーで1メーター。移動時間を含め拘束1時間半にしては割のいいアルバイトだった。さて4週間毎朝飲んでいた開発中のサプリメント6粒。明日から飲まなくていいのだが朝の習慣がなくなるのも何だか寂しい。

働く時間 (2月18日・月)


私は就職してすぐ25歳になったはずで60歳まで働けば35年間だと計算していた。そしてJ社を10年で辞めたとき10/35=2/7しか過ぎていないことに愕然とした。それまでの10年の2.5倍をさらに働く必要があると思ったからだ。ほとんど燃え尽きた気分だった私にはきつかった。

2000年頃幕張のイベント会場で立ち話をした日経パソコンの前編集長W氏は私の3つ年上のはずだから当時40歳ぐらいだったと思うが私に向かって今までの倍以上働かないといけないと言ったことをよく覚えている。私はまだ2/7+アルファしか働いていないと彼に嘆いた。

私が辞めた翌年だったかに取締役のK氏が辞めたとき彼は40歳直前だったはず。K氏は20歳ぐらいから働いていたからサラリーマン人生のやっと半分。私はそれを指して逆にまだ未来があると激励するようなメールを送った。それは人にだから言えたことだ。

今年はJ社を辞めてさらに10年になるのだから35年の4/7が過ぎようとしてる。いつの間にか過去と未来の年数が逆転していた。これまでは将来の長さにうんざりしていたのに将来が過去より短いと知ると何だか寂しいような少し焦るような。我ながら勝手だなと思う。

人生の折り返し (2月17日・日)


記憶の記録化に興味を持ったりアルツハイマー病を意識しているのは人生を折り返したからだと思う。確率的には5年以内に死ぬ可能性もあるわけだが特に最近2〜3ヶ月の間に意識するようになったことが意味するのは今までの人生の2倍に相当する89歳までに死ぬからなのだ。

日本人男性の平均寿命は79歳ぐらいだから89歳なら大往生だ。でも長生きかどうか判断するのは私の場合は父が死んだ69歳になると思う。あと25年。その25年を逆に遡れば私は大学2年の頃であって遠い昔のことではない。残された時間は25年。改めて意識してみようと思う。

私は19歳のときに生き方の意識が変わったと思っていたが今から見ると思考方法の論理を修正しただけだったかも知れない。厳密なフィードバック回路にバイパス回路を付け加えて入力信号に対してダイレクトな出力を出すようにしたような。

ある時点で精神の成長が逆回転し始めたと考えた時期もある。折り返したと言っていた年齢は19歳だったか25歳だったか。それに従えばどちらにしても今は6歳の精神性。残りの25年は論理では考えなかった6歳ぐらいの精神年齢で生きていられれば幸せだと思うのだが。

受験勉強 (2月16日・土)


2アマ国家試験の受験申請をした。昔なら申請用紙を取り寄せて郵送したが今はネットからオンラインで申請もできる。受験料は別途郵便局から振り込んだ。来月末頃受験票が届くらしいのでそれを持って4月に試験。受験会場は全国で11カ所。私は東京で受験する。

徳島に住んでいて受験しようとすると会場は大阪か松山。30年前にも不思議に思っていた。四国の中心は一般的に高松だと思うのだが旧郵政省系の出先機関はなぜか松山。今は高速道路もできて便利になったと思うのだが。ちなみに九州の場合は福岡でなく熊本らしい。

さて勉強の方は問題集を1/3ほどやった。やり始めて少し後悔した。何でこんなことをやっているんだろうと。難なく解ける問題が1割。何となく解ける問題が2割。全く分からない問題が2割。ほぼ同じ内容だから解ける問題が5割。つまり7割の問題を理解する必要がある。

抵抗回路の直接/並列の合成抵抗を求めるのは簡単だ。でもLCR回路の合成インピーダンスを求めたりトランジスタの出力電流を計算するのは難しい。3桁と3桁の掛け算や割り算を筆算でしたのは久しぶり。でも同じような問題が解けると楽しくクイズ感覚でやっているところ。

テレビ (2月15日・金)


同僚2人と元同僚2人と池袋で飲んできた。帰宅してHDRでテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」を見たところ。A社のコメントが紹介されていたが横で見ていた妻が番組に怒っていた。その理由は著作権問題の本質を突いている。妻の問題把握能力には感心することが多い。

それはともかくA社は最近テレビ取材が続いている。今日は関西テレビとNHK。どちらか忘れたが私の後ろ姿が映っているかも。撮影中はキャンディも食べられないし変な画面を見るわけにもいかず姿勢良く仕事しているフリをするのに緊張する。机の上を整理しておけばよかった。

妻も今日はテレビ局。「おもいッきりイイ!!テレビ」に2度目の生出演をしたフミコさんと一緒に日本テレビ。昨日は「ハピふる!」インフォマーシャルでフジテレビ。先週はショップチャンネル。でもテレビに出ても知名度が上がるだけで儲けには繋がらない。

例えばテレビに出てもWebアクセスは2〜3倍に増えるだけ。以前msnの特集に掲載されたときは20倍ぐらいになった。視聴者は圧倒的にテレビの方が多いはずだがWebとはリンクしていない。メディアには特性がある。テレビこそ観る側のリテラシーが問わるわけだ。

歴史時代感 (2月14日・木)


私の年齢を1とする単位を「人生」と名付け数えると明治元年は約3人生前である。と昨日書いてからいろいろと遊んでみた。この単位系を使うと歳を取るほど生まれる前の歴史が近くなる。さらに私と年齢の違う人は当たり前だが私とはモノサシが違う。

例えば終戦の年は私にとっては1.4人生昔だが70歳の母にとっては0.9人生前である。私が小学校を卒業したときは終戦の年から2.5人生で私が今の母の年齢になったときには1.26人生と短縮される。これは歴史感覚が相対的なものだという気分をよく表している単位系だと思う。

ちょっと違うが生まれてからの出来事でも私の場合は事によって時代感が違っていて面白い。例えばヒットした音楽は80年代までが私にとっての昔で90年代以降が最近。日常生活は東京に来た2000年以降が最近で仕事についてはA社に行き始めた2002年ぐらいからが最近。

私には子がないが親子の会話でかみ合わないことがあるとするとこの時間感覚の違いが原因ではないか。15歳の中学生にとって5年前は0.33人生の大昔だが45歳のお父さんにとっては0.11人生でしかない。ちょっとした遊びだけど何だか世代格差を納得した気分になった。

人生と歴史 (2月13日・水)


テレビでやっていた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」を録画して週末に観た。見終わった後になっても妻と泣いた。さて映画の中でテレビが届いたのは1958年。映画の中の少年たちと私は約15歳違う。私が物心ついたときには家にテレビはあったから時代感覚も微妙に違う。

一方で私の生まれが終戦から18年後だったことに今さらに驚いている。最近30年前のことなどを日記に書いていると18年前は最近のことのように思える。つまり私が生まれた頃の父や母にとって戦争が昔のことという感覚はなかったのではないかと思い至った次第で。

そう気づいて私が歴史を計る物差しは小さくなってしまった。そう言えばNHK大河ドラマ「新選組!」のDVDを最近また観ているのだが永倉新八が天保生まれという台詞があった。母方の祖父の祖父は天保5年生まれ。調べてみたら近藤勇と同じ年の生まれである。

だからどうしたという話なのだが気づくと私にとって歴史が近くなった感覚があって変な感じ。私がこれまで生きた時間に「人生」という単位を与えて数えると明治維新は3人生前。関ヶ原の戦いだって約9人生前に過ぎない。それこそ「だからどうした」というだけのことなのだけど。

局免許復活と2アマ問題集 (2月12日・火)


新しいアマチュア無線局免許状が届いた。四国管轄のコールサインなので実家の住所で申請していた。それで実家に届いたのが先週木曜。申請書を送ってから2週間とかからなかった。母に転送してもらって今日手元に。免許状を見ると過去のものと書式が違い時代の変遷を感じる。

勢いに乗って上級従事者免許の勉強を始めたわけだが『第2級ハム国家試験問題集』も買った。1988年から昨年8月までの出題が網羅されている。これを完璧にこなせば合格できる。試験は年3回。最近の合格率は30%台半ば。ここまで来たら4月の試験にトライしてみよう。

高校時代は1アマを受験したが今回はランクを落として2アマにした。当時失敗したモールス試験は今は1アマも2アマも同じレベル。でも無謀な挑戦は失敗を呼ぶというのが高校時代に得た教訓。難易度の差がどれほどかは分かっていないが今回は確実性を重視した。

運用上も私の場合1アマ免許は不要である。1アマの最大出力はHF帯1kWで50MHz帯が500W。2アマはHF帯50MHz帯ともに200W。中高時代は50MHz帯1.5Wだったわけで本当は3アマの50Wでも構わないほど。さて受験に際し私の興味が4月まで保つだろうか。それが最大の懸案だ。

知恵 (2月11日・月)


『新上級ハムになる本』を読み終えた。全408ページのうち無線工学は328pで電波法規が54p。1pごとに1〜4つある説明図や相当な頻度で表れる数式の意味をいちいち理解しながらだから時間がかかった。毎日1〜5時間使い10日かかってやっと一通り読み通すことができた。

CWやSSBにFMといった電波形式と送信機や受信機の理論は付いて行けたが電源回路と測定器は難しかった。LCR回路を使って入力に対する出力電圧を計算するようなことはやっぱり苦手。改めて私が進学した電子工学科は間違った選択だったような気がしてくる。

それに対してアンテナや電波の伝搬理論は楽しい。中学時代にスクエアローアンテナを自作したこともあったしヘンテナと呼ばれる変なアンテナを作って電波を出したこともある。私が忘れているだけかも知れないが30年前にはなかった新しい理論もあって楽しいと言えば楽しい。

かつては図や数式は丸暗記するしか勉強の術を知らなかったように思うが今は経験上の論理と推測で頭に入れている。記憶力は1/5に落ちたかも知れないが推論力は2倍以上になったと思う。歳を取って難しいことに挑戦するのは不利なことばかりではない。そこは面白い。

積雪と腰痛と焼肉屋 (2月10日・日)


最近の生活をまとめておこう。2月3日(日)に雪が降り我が家の周りは5cmぐらい積もった。月曜日は積雪の中を義母が友人と箱根に2泊温泉旅行。箱根に雪はなかったそうだ。東京は水曜にもまた雪。昨日9日(土)にも。今日はすっかり溶けたが昨夜は2〜3cm積もっていた。

今年はよく雪が降る。降ったのは4日ぐらいで積もったのは3日か。とにかく寒い。そして体が硬くなる。6日(水)朝コーヒーメーカーに浄水ポットから水を注いでいて量を確認しようと体を屈めたら腰の左がピキッと鳴った。洗面台に肘をつかないと顔も洗えない。

よくある腰痛に比べ症状は軽く痛みは夜には治まった。そして油断した。翌朝シャワーでシャンプーに手を伸ばしたとたん同じところに痛みが走り顔を洗おうとしてダメを押した。日常生活に支障はないが金曜にはお尻の筋肉まで引っ張られる感じになった。今も痛い。

今日は夕方風呂に入り義母を誘って焼肉屋。1月早々行こうとしたら予約ができず隣町の天麩羅屋に行っていたし最近はお金がなくて外食を控えているので今年初焼肉。いつもいるお兄ちゃんも娘さんもおらずママさん自ら注文も取る混乱気味のお店でお腹いっぱいになった。

痴呆対策 (2月9日・土)


高校時代の記憶があまり残っておらず気になり始め過去のことを記録しておくことに目覚めてしまった。というのも若年性アルツハイマー病を描いた映画「明日の記憶」を前に観ていたせいかも知れない。渡辺謙と樋口可南子が主演。映画の最後の方は夫婦で大泣きした。

映画の主人公は広告代理店の営業部長。実話に基づくことで話題にもなった。アルツハイマー病は老人が罹るという認識が一般的だが働き盛りでも発症することがあるらしい。私たちの親ならある程度の確率で起こり得ることで他人事ではない。

昨日の金スマを観て再び考えた。山口美江がアルツハイマー病に罹った父親の介護をしていたという話。もし仮に私の母や義母が痴呆になればどうするか。東京で同居するのは難しく徳島に戻るしかないのか。施設に入ってもらうと決めたところでどこも入居待ち状態だとか。

親は私たちがどうにかできるが子供がいない私たちが罹ったらどうするか。徘徊しても森しかないような田舎に住み事故死もやむなしと考える。あるいは夫婦どちらかが罹患すれば心中するというのが昨日の結論。医療はもちろん社会的にも無理な延命はしたくない。

グリークラブの新歓 (2月8日・金)


大学の飲み会で忘れられないものを記録しておく。仮面浪人から戻った83年の体育のゴルフ授業で私はグリークラブの人と知り合った。小曽根さんと言ったか彼の伝手で84年に入団。御所での練習に2〜3回行って辞めたが新人歓迎コンパには行った。これが凄まじかった。

大学グリー全盛時代。新人だけで40〜50名いたはずで総勢120名とか150名いたかも知れない。もちろん男ばかり。座敷の鍋料理だったと思う。記憶が混濁気味だが鍋の蓋に日本酒を注いで一気飲みするようなこともあったと思う。私も飲んでしゃべっていた。

ところがトイレに行くと飲み過ぎた新入部員だろう5〜6人が広い床に倒れている。気になって一人を介抱して吐かせたりした。彼の口の中に指を入れたかも知れない。グリークラブは体育会的で新人を酔い潰すことが目的だったところもあったのだろう。

結局トイレで介抱した彼を先輩たちから託されて下宿まで送ることになった。水を飲んだ方がいいと缶コーヒーかお茶を買ってあげ四条あたりから今出川を越えるあたりまで一緒に歩いた。彼の名前も出身地も忘れたが鴨川沿いを1時間近く歩いた風の感じをなぜか覚えている。

凄い時代 (2月7日・木)


考えてみれば凄い時代だ。相変わらずアマチュア無線の話をするがモールス信号の受信練習をするのに私はVectorからソフトをダウンロードしてアルファベットをランダム再生させてICレコーダーに録音して外出するときに聞いている。

でも高校時代に受験したときはPCはなく(アップルが誕生したばかりの時代だ)ウォークマンもない。モールス練習は市販のカセットに頼るしかなかった。最悪は自分で打鍵しラジカセで録音する方法もあっただろうが当時は市販のカセットを買って聞き込んだように思う。

それだって鳴門に住んでいた私は(高校に通っていたから通り道ではあったが)徳島まで出かけていき数少ない選択肢からカセットを買うわけだ。多分1アマ受験用を買って欧文60字/分と和文50字/分に最初からトライしたのだろう。それはやっぱり難しかったのだと思う。

今はダウンロードしたソフトを使うと再生速度も再生時間も選択できる。ゆっくり再生させて慣れたら速度を上げるといった練習方法が使える。自由に自分にあった練習が選択できる。同じ勉強を32年ぶり29年ぶりにしていると現代の環境を凄い時代だと思わざるを得ないのである。

夏休みの無線講習 (2月6日・水)


アマチュア無線の試験勉強を最初にしたのは中学1年の夏休みだった。我が1年4組男組の担任だった山本幸男先生が技術教科の担当だったからアマチュア無線部に所属したのかも知れない。その部に所属したから勉強したのだったけか。実は経緯を忘れてしまった。

それでも中学1年の夏休みに徳島市文化センター会議室で講習を受けたことは覚えている。山本幸男先生が依頼した徳島大学工学部の先生が教えに来てくれていたと思う。生徒は10〜15人ぐらいだったろうか。5〜10日ぐらいだったか無線工学の講習を受けた。

電波の周波数帯を表すHF(短波)の上はVHF(超短波=Very HF)。その上はUHF(Ultra HF)でさらに上がSHF(Super HF)だ。それを指して電波の上ではウルトラマンよりスーパーマンの方が上だと講師の先生と話した記憶がある。

『新 上級ハムになる本』を読んでいて思い出したのがダイオードのA級増幅の歪みは小さいが増幅率も小さくC級増幅は歪みが大きく増幅率も大きいという理論。話を歪めて大きくする人に「それはC級増幅だ」と後に日常会話で使うようになった。何と32年も前のことである。

『上級ハムになる本』 (2月5日・火)


1アマ受験をした高校時代に使っていた参考書の改訂版だと思う。丹羽一夫『新 上級ハムになる本』(CQ出版社)を買った。再び受験をするなら過去問題集での勉強が不可欠だが今の私に受験する根性があるかまずは無線工学を復習して確かめてみようという気になった。

内容は高校物理から大学の電子系工学部の専門分野までに及ぶ。電界と磁界の力学関係を表すフレミングの法則は高校物理。リアクタンスLと静電容量Cと抵抗Rの回路でインピーダンスZを求めるのは大学の教養レベル。ここまでは読むうちに思い出した。

交流電圧電流の大きさと位相を複素数で表す原理は過去に勉強したはずだが初めて理解できたかも知れない。真空管やP型/N型半導体さらにダイオードとPNP/NPN接続トランジスタやFETの理論までは理解していた。知っていたことを思い出して結構楽しい。

ところが増幅回路などの設計理論に付いていけない。これでよく大学卒業できたものだ。ともあれ過去問題だけで勉強しては味気ないと思い読み始めると説明が論理的かつシンプルで理解が進む。ノスタルジー混じりで知識欲が満たされ勉強し始めると意外に面白いのである。

ベンチャーの限界 (2月4日・月)


今年になり大学のサークル仲間や高校のクラスメートと会い気づいたのが転職経験者が私だけだったこと。今の時代に珍しいと思いつつ個別に書いたとおり彼らは名の通った大手企業に勤めていて辞める理由がないのだろうとも思う。

私はJ社を辞めて10年が経つ。J社を辞めた理由は数えれば10や20は言えるがその一つとして仕事に飽きたことはある。入社2年目から広報担当で業務をゼロから作り上げたし経営者がやるべき仕事もやらざるを得なかったからベンチャーの面白さを存分に味わうことができた。

それは満足しているが同じ仕事を5年も6年もやっていれば飽きる。毎年製品は違うしトラブルは新手のが出てくるが基本的にやることは変わらず私の立場も変化ない。仕事に慣れた私の気持ちはベンチャーから遠ざかる。ベンチャーの面白さを私自身が感じなくなる。

J社は適材適所の名の下に当時は異動がほとんどなかった。これが大企業との大きな違いだ。今から思えば上流工程の開発企画なりにいけば新鮮な気持ちでいい仕事ができたかも知れない。仕方はないがこれがベンチャーというか当時のJ社の限界だったのだろうと思う。

外部脳 (2月3日・日)


高校時代の記憶がなくなっていることのショックを引きずっている。1年の担任福田伝さんの教科が国語だったか社会だったかさえ覚えていない。いや生物だったか。佐川さんという英語教師の話題が出たが言われてみれば風貌を想像できるものの教えられた記憶が抜けている。

大塚製薬のK嬢によると英語にはリーダーとグラマーという科目があったらしいがそれさえも記憶にない。コンポジションという科目もあったと言うがそうだっけか。覚えていないのは覚えておく必要がないことの証明とも言えるが何とも寂しい。

J社の社長はよく「PCは脳をエクスパンションする」と言っていた。インターネットは外部脳とも言われる。新しい発想やアイデアは記憶の蓄積の上にあるはずだから全ての記憶を外部保存するのは間違っているにしても不急のものは外部脳に頼ってもいいかも知れないと思う。

そういうわけでこの日記は私にとっての外部脳である。20年経って読み返したとき考え方が変わっていなければ安心するし変わっていれば自信になる。今までは遠慮がちに書いていたこともあるが今後は20年後に思い出しやすいよう少し踏み込んだ記述にしてみようと思う。

モールス符号 (2月2日・土)


私の中の冷静な自分が呆れている。モールスの受信練習を始めてしまったのだ。モールス符号は28年前に1アマ受験で1度覚えたきり以後は全く使っていない。でもモールス暗記法であるアレー・ビートルズ・チャートルーム・道徳・絵ぐらいまではときどき思い出していた。

これはA(トツー)B(ツートトト)C(ツートツート)D(ツートト)E(ト)を語呂合わせしたものだ。I(トト)=医師やN(ツート)=農夫など半分ぐらい覚えていた。この方法だと聞き取るとき言葉のクッションが入り速さに付いていけないと言われるが覚えてしまったのだから仕方がない。

それでVectorで練習ソフトを入手してモールス信号を10分間ランダム生成させICレコーダーに録音して電車の中で聞いてみた。最初はP(トツーツート)=プレーボーイやW(トツーツー)=和洋風を思い出さなかったが20分聞くと50字/分の速さで90%聞き取れるようになった。

2日間でほぼ100%。意外にあっさり28年前のレベルに戻り驚いた。しかも今の2アマ試験は25字/分と超スロー。もし今2アマを受けても通信技術だけは合格できる。そうは言っても今になってモールスを聞き込んでいる自分に戸惑う。私の何かが暴走している感じ。

311HR (2月1日・金)


高校3年のクラス311HRの同窓会。私を含め8人で品川。前回は誰かのミスで私のアドレスが削除され参加しなかったからほぼ2年ぶり。今日の幹事は京都大学から経済企画庁に入り今は内閣府大臣官房政府広報室参事官という肩書のK。我がクラス出身で唯一の中央官僚。

日本女子大から大塚製薬にいるK(旧姓M)嬢とは卒業後会った記憶がお互いにないから26年ぶりだろう。彼女は高校時代のままの美人だが筑波大から住友電工のA氏には思わず太りすぎと言ってしまった。東京大学准教授のSは辛うじて面影を残しているだけのデブでびっくり。

高3のときマンガ「動物のお医者さん」を読んで感動して東京農工大獣医学科に進学し今は大塚製薬工場にいるDは何度か会っているが頭の様子はピカ一。京都大学理学部数学科出身キヤノンのSが次に続くか。見た目で変わらないのは大阪大学からNTT研究所にいるSぐらい。

見た目はともかく話をしていると記憶をなくしていることが分かって参った。例えば英語教師はM氏を除き全く覚えていない。C社S氏の奥さんと高校時代の彼女を間違ったり混濁した記憶も多々。記憶ではなく記録の必要性を思いこの日記もギリギリで書いた。許してチョ。

本人から間違いを指摘されました。読んだマンガは「動物のお医者さん」ではなく、「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」(立原あゆみ)だそうです。大学名も間違っていたので本文を修正しました。失礼しました。かように記憶は混濁しています。
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© 2008 Takashi INAGAKI