2006年9月
この日記とは別にブログをやりたいと考えていたことは以前書いたとおり。構想はあったのだが原稿を書き続ける自信とブログ開設の覚悟が決まらず日が過ぎた。が何日かかけ原稿を書きブログサービスを検討してきて覚悟を決めることにする。
ブログサービスは会員でもあるASAHIネットの「アサブロ」を考えていたがレイアウトの自由度が今ひとつ。ポッドキャスティング用に契約した「ケロログ」とニフティ「ココログ」のアカウントもあったが友人のブログも含め調べた中からJUGEMで開設することにした。
他のサービスを細かく試したわけではないが自由度の高さとアクセス解析機能が決め手になった。特にテンプレートを元にレイアウトをhtmlで直接操作できることとcssにも直接手を入れられるのはとても便利。機能の多さと操作の分かりやすさが両立していると思った。
早速適当なテンプレートに手を入れて構成を変えた。PDAの師匠にして新聞記者M氏に意見も求め構成を微調整。あらかじめ作っておいた原稿を流し込むと長さは丁度いいかも。さてテーマは何にしたでしょう。もったいぶっているがブログの正体は明日に明かそう。
あっという間の1週間だった。日々のことをまとめておこう。勤務先A社は今週広報室長が新婚旅行。ところが摘発強化月間の最終週というわけで事件が多い1週間。ニュースリリースが6本予定されていて月曜日から極力オフィスに行くようにした。
火曜日は某社に寄って午後からA社。夕方はクライアントの仕事で某誌。PDAの師匠とばったり会ったり別の某誌F編集長とも会った。仕事の後で再びF編集長を呼び出して会議室で相談1時間半。ほとんど雑談だったけど。
水曜日は夜になって元同僚2人と渋谷。途中で妻も合流してあれやこれや。木曜日は5時半に起き7時前に板橋に行き某グループと合流。ほとんど車で待機。結局私の出る幕はなし。午後A社に戻り広報担当Nさんが作成するニュースリリース2本のチェックとWebページの制作。
金曜日は妻とキャピトル東急。某氏と待ち合わせて内緒の相談。食事も済ませ出ようとしたらソニー元会長の出井氏を追い抜いた。数年前A&Vフェアですれ違ったときは側近10人に囲まれて歩いていたが今日は一人。時代が変わったことを知る。午後A社で原稿1本。
前に日記で書いていた事故経験で忘れていたことがあった。幼稚園児の列に車が突っ込み死傷者が出た事故のニュースを見ていて思い出した。私もカセットテープかCDを操作していて追突事故を起こしたことがある。そして狭い抜け道を毎朝の出勤時に爆走していた経験がある。
実家から通っていた88年から92年。国道の渋滞を避けるため鳴門から吉野川大橋を渡ってすぐ左折。常三島の裏道を南に向かって爆走していた。9時10分から20分にかけてだから学生はもういない時間。それでも小さな十字路がいくつもあって強引に鼻先を入れて飛ばした。
追突したのは88年か89年だったと思う。実家を出て2kmぐらいの鳴門市大津の旧11号。まさにカセットテープかCDを入れ替えているときだった。信号が赤で前に数台の車がいてブレーキを踏みつつ操作していたら追突した。前を見ていなかったからブレーキの踏み方が甘かった。
追突した相手は40歳ぐらいのおじさん。ファミリアかカペラだったと思う。全面的に私が悪いのですぐに謝った。そしたら目の前のマツダ販売店に勤めている人だそうで「凹んだバンパーは適当に部品を探して直しておくよ」と言ってくれた。話は3分ぐらいで終わってしまった。
「よそ見してたら危ないよな。でもあんたも急いでいるんだろ。まぁいいよ。」と言っていた。事故に遭ったらごねるのが徳島流だと聞いていたのでびっくりした。そしてこういう大人になりたいものだと思った。運転しながらのCDの入れ替えはそれ以来絶対にしない。
書店で見てタイトルに惹かれた。これは面白そうじゃないか。白田秀彰『インターネットの法と慣習 かなり奇妙な法学入門』(ソフトバンク新書)。Hot Wired Japanでの連載をまとめたものだと言う。しかしサブタイトル通りで「かなり奇妙」なのであった。
内容は欧州における法の成立過程の解説から始まり英国法と大陸法の違いなどの説明が第1章。第2章は紛争解決手段についての説明から始まり知的財産権を王が管理する開墾地といった比喩で権利保護の是非が解説されている。
しかし説明というより単なる思考実験。知財の権利保護に反対の立場から無理矢理ネットワーカーに通じる乱暴な論理を考えついたようにしか読めない。第3章になってようやくネットワーク社会の法のあり方について真っ当な意見が開陳される。
現在の立法過程の解説がなされネットワーカーの意志が立法に反映されない状況についての説明。ユーザー団体を作って政治活動に参加すべきと私には読めたがこの意見には賛成。ただし法にも権利にも無関心なネットワーカー対象の文章だからか話が言ったり来たり。
文章も軽すぎて読んだ気がしない。特にタイトルの期待に近いのは第3章だけ。うしろ3分の1を読めば十分だと思う。正直言って期待はずれだった。
昨夜DNSの切り替えを申請しておいたら今朝には手続き完了のメールが来た。旧サーバーは既に表示できなくなっているはずなので全面的に新サーバーに移行した。アクセスカウンターは昨夜66,413だったから適当に66,450からリスタート。妻のページは22,745に15を足した。
夜になって作業を始めて「響」掲示板の移行で大チョンボをやらかしていたことに気づいた。わざわざCGIの設定を変えて全ツリーを一覧表示にさせ全データをダウンロードしていたのに後から最近10ツリーだけの表示したものを上書きダウンロードしてしまっていた。
既に旧サーバーのCGIは動作せず再度100ツリーのダウンロードは不可。ローカルディスクのバックアップファイルもご丁寧に上書きしてしまっていた。2時間試行錯誤したものの何とも手の施しようがなく最近10ツリーだけの旧データをアップロード。
掲示板の書き込みデータは全て揃ってはいる。インデックスに相当するページが最近10ツリーだけしかないのである。全部のツリーに手作業でリンクを張れば過去の発言を全て再現はできる。が面倒だし見栄えが悪いしそこまでして過去データを見る理由もないと考え諦めた。
準備万端整えていたつもりが慎重にバックアップをしたがためにミスにつながった。そのことにショック。そんな事故もありながらサーバー移行は完了。したはずなんだけど・・・。
この日記を運用しているWebサーバーを替えることにした。GMOのiSLEホスティングサービスを利用してきたが同じ会社の新サービスに移行する。週末に移行申請をしていたら今朝9時過ぎに新サーバー設定の連絡を受けた。
夜になって新サーバーにデータをFTPでアップロードした。DNS(Domain Name Server)の切り替え申請をしたばかりだから皆さんが今見ているこのページは旧サーバーのままである。右下のアクセスカウンタが表示されなくなったら新サーバーのはず。
新サーバーでのアクセスカウンタも設定しておこうと思っていたのにDNSが切り替わらないと設定できない。同じ理由で私のサーバーで運用している「響」掲示板も移行できず。仕方がないのでDNSが切り替わるまで待つしかない。
旧サーバーではメール設定にユーザー名とメールアドレスとパスワードの3つが必要だったが新サーバーではアドレスとパスワードだけで済む。設定画面は違いがあって戸惑うがいずれ慣れるだろう。サーバー移行は面倒かと思っていたが意外にあっさりできそうな感じ。
そうは言いつつ「響」掲示板を設定して旧掲示板をHTML化して別途アップロードしリンクを変えてアクセスカウンタを設定して・・・。やるべきことは今からの方が多くなりそう。
東京の通勤では当然電車に乗る。徳島時代の10年間は車で通勤していたし福岡時代の1年間は徒歩だった。だから特に思うのかも知れない。押しくらまんじゅう状態の満員電車に乗るバカバカしさを。
特に今はオフィスにいても仕事の連絡は社内外ともメールが中心である。ケータイもある。FAXだけはオフィスが必要と思っていたが今はメール添付のPDFで送られることが多い。だとしたら毎日決まった時間にオフィスにいることに意味はないように思う。
もちろん仲間とオフィスにいるからこそできる仕事も多い。でも世の中には忙しくてオフィスに常駐していない社員もいる。それでも本人も周りの人も工夫をすることで仕事は回る。だとしたら来客や何かの打ち合わせほか必要なときだけ行けばいいのではないのだろうか。
出勤が一切不要だとまで言うつもりはない。ただ勤務する全員が意味もなく同じ時間に集まるために満員電車に乗らなければならないことがバカバカしいと思うわけだ。
業種や職種に依るとは思う。でも全員が午前9時半に集まる必然はないと思う。そう考えている人は多いはずだ。でも会社とはそういうものではないという思想に抗しきれない。経営者はともかく社員は思考を停止しているのではないのか。
私がなぜフリーランスになったのか自分の心を整理するために書こうと思う。 4年ほど前に当時の勤務先だったD社とは別にA社で仕事をしようと思ったのはD社の仕事が面白くなく感じるようになったからだ。 私企業が作る趣味のソフトを売る努力を空しく思い始めたのである。
A社は公益法人だが業界の代弁者に過ぎないという指摘もあるだろう。 それでも法の遵守を訴える仕事は社会秩序の安定に向けた努力であって社会的な意義は格段に大きいと思った。 現実的な仕事は理想ばかりではないが社会的なやりがいは大きいと今も思っている。
そして両社に無理を聞いてもらい双方契約社員にさせてもらったのが4年前。 今般さらに一歩進めて半フリーになったわけだ。 D社を辞めたのは私の気持ちばかりでなく会社の都合もあった。 だがフリーになって現実的なメリットを最近よく意識する。
単純なことだ。満員電車に乗る義務がなくなったことと会議に出なくてよくなったこと。 今は自宅でやるべき仕事があるから朝は自宅でいて必要があれば午後出社する。 帰りのラッシュアワーは乗り換えをうまくすればさほど混雑はしない。
そして下らない連絡だけの会議で時間を無駄にすることもなくなった。 これらは思いの外大きなメリットで私はこの環境を求めるためにフリーになったのだとさえ思うようになっている。 金銭的な不安はあっても仕事のストレスは減った。 精神的にはむしろ健康ではないかと思う。
平日でもマグカップ5杯つまり1リットルほど飲むサントリー「ダカラ」について妻が飲む量を減らすか水で薄めろと言う。 この本を読んで影響を受けたらしい。話題の書である。 安部司『食品の裏側―みんな大好きな食品添加物』(東洋経済新報社)。
一般的な加工食品にいかに食品添加物が使われているかということが紹介されている。 例えばミートボールは牛の骨から削り取る端肉に20〜30種類の添加物を使うらしい。 あるいは100kgの豚肉から130kgのハムができるらしい。
そういうことはあるだろうと何となく思っていたがコーヒーフレッシュの例は知らなかった。 コーヒーに入れるミルクのようなフレッシュはサラダ油と添加物と水でできているという。 問題は個々の添加物の表示がされずPH調整剤や香料とか調味料と一括表示されていることだとも。
成分表示を個別にしなくていい法律の抜け道がいくつもあってメーカーは敢えて複数の添加物を入れて一括表示し成分を少なく見せる工夫をすると言う。 とは言え今さら添加物のない食品はほとんどないわけで著者はそういう現実を知って選択すべきと主張する。
子どもたちのために添加物に気を付けるとともに食べ物への感謝の気持ちを持てるように料理の過程を見せるべきだとも片づけを手伝わせるべきだとも書いている。 内容は同じような話が多いがテーマを考えれば仕方ない。 親は一応目を通しておくといいかも知れない。
名刺の整理をした。ではなく始めたところ。 97年だからJ社に勤めていた最後の1年からの名刺が33箱。つまり約3,300枚。 これをジャンル別会社別にファイルしようという試みである。 今日のところは日経BP社にインプレスとアスキーの3社の整理だけ。これだけで4時間もかかった。
まず日経BP社の名刺を選り分け編集部毎に山を作りファイルに入れていく。 ところが5年も前の名刺だと異動している場合が多い。 なので現在どの編集部にいるかを基準に並べていく。 日経パソコンの名刺だけど日経コンピュータの項目に行くパターンもあってややこしい。
現在編集部が不明な人は一括して順不同でファイルした。 インプレスとアスキーは名刺通りの順にファイル。 ところがここでメディアの名刺はないだろうと思っていた箱から発見してしまった。 さっきのファイルに追加して落ち着いたところでまた別の箱から発見。
そんなことを繰り返し。 全ての箱をチェックする手間を惜しんだばかりに余計な手間。 メディアだけで10箱。ただし同一人物の名刺も多い。1人に5枚も6枚も名刺がある例も。 重複した名刺は重ねてファイル。無駄な気もしながら面会履歴を物語るので捨てられないのである。
そもそも何時間もかけて名刺を整理することに意味があるのかという疑問はある。 必要なデータはExcelなりOutlookに入力しているので名刺を見直すことはほとんどない。 それでも整理していると記者の転職履歴が見えてきたりして面白い。 これも一種のリストマニアである。
妻がマンガを積み上げていたベッドサイドの地層の中から発見した。 もう13巻になる。 前巻の関ヶ原前後の話は面白かったから期待して読んだ。 井沢元彦『逆説の日本史 13 近世展開編江戸文化と鎖国の謎』(小学館)。
内容はキリシタン禁制と鎖国から茶の湯や演劇の話を経て5代将軍綱吉の「生類憐れみの令」に至る。 キリシタン禁制の背景は論理的に初めて知ったかも知れない。 スペインがカトリック布教を水先案内人にして侵略するつもりだったことを排除した英断だと書いている。
確かにマヤ文明など南米はことごとくスペインとポルトガルの侵略を受けたわけで納得がいく。 長崎出島でオランダだけ交易が認められたのはオランダがプロテスタント国でカトリックと対立していたのが理由なんだそうな。 一方鎖国は政策ではなく何ら明示的な宣言がないらしい。
演劇の話も面白い。当時の演劇は旅芸人によるもので女優は売春を生業にしていたそうな。 そこで風紀の乱れを取り締まる中で幕府は女優を禁じた。それが歌舞伎の始まりだとか。 当初は少年が女優役をしていたが男色の温床になっていたこともありこれも禁止されたらしい。
これが歌舞伎文化を創る契機になった。 時代は下り綱吉による「生類憐れみの令」は戦国時代における武断政治と決別し「殺人は悪」という意識を植え付けた意味で価値があったとする。 勉強にはなるが実は前巻に比べ感動は今ひとつ。歴史において平和な時代は面白くない。
8月まで勤務先その2と書いていたA社からは報酬をいただいているから厳密なフリーではない。 D社とは業務委託契約だったが元は社員だったからフリーという意識もなかった。 それでも今はフリーランスと言った方が私の立場を言うには現実的だと思う。
ところが以前にも書いたがフリーになったからと言っても不安がない。 サラリーマン時代でも将来への不安が強かった時期があったのに。 収入が安定しているわけではない。 特に悪くなったわけではないが良くもない。 半年先に収入が半減する可能性は50%を超えているのに。
今なら私の立場をサッカーJリーグ監督と同じようなものだと考えることができる。 それが不安だと前なら思ったが今は同じような人が多いことを前向きに捉えている。 なぜなのか。私にも理由が分からない。ただ気分がそうなっている。
サラリーマン時代には将来が不安だった。 会社が傾けば社員の立場も安泰ではない。 むしろサラリーマンの不安感を払拭するために私は敢えてフリーに耐えられる立場に追い込んだ面がある。 開き直りと言うべきかサラリーマンの呪縛から開放されたというべきか。
この心境の変化をもう少し論理的に語れないものだろうか。 とは言え妻を見ていて思うが気持ちの浮き沈みが激しくなるのかも知れない。 私の精神状態の浮き沈みは妻と違って長いサイクルではあるのだが。
部屋の整理を少しだけ。 半年の間に溜め込んだDMなどをシュレッダーにかけるのに数十分。 我が家のシュレッダーは簡易なもので1枚ずつしか対応できず時間がかかる。 厚めの紙は裁断できずミシン目が入るだけ。 家で仕事をするとなると真っ当なシュレッダーも必要になりそう。
それとD社から宅配便で送っていた荷物もやっと整理した。 と言っても部屋の空いたスペースに押し込んだだけのようなもので段ボール箱がなくなっただけに等しいが。 シュレッダーの周りに乱雑に散っていたDMが全てなくなり目に見える床の面積が広くなった。
机の上は貰い物の時計付きペン立てを片づけ代わりにペン立て付き卓上電卓を置いた。 カレンダーも時計もデジタル表示するが必要なのは世界時計機能だけ。 明日から妻が米国出張だから現地時間を見るためだけに置いたようなもの。
机の上で散乱していた飲食店のカードもホルダーに入れた。 数は多くないが役立つこともあるだろう。 名刺を整理しようと数ヶ月も前に買っていたホルダーを使ったのだが大量の名刺をどうしよう。 ほとんどの名刺は使わないが必要なときに探すのに手間取る。
J社時代の名刺は会社ごとに整理しているのだがたまに見直すと発見もある。 例えばD社の取締役U氏とは80年代に会っていたことや最近仕事をしている相手の元上司の名刺が出てきたり。 そんなこともあるからこの機会に整理したいと思いつつ。
この日記とは別にブログを始めようと思っている。 テーマその他は考え中。いずれお知らせしようとは思う。 とりあえずブログサービスをいろいろ調べて検討しているところ。
その過程でこの日記サイトを置いてあるホスティングサービスがSix Apart社のMovable Typeに対応していることが分かった。 ならばMovable Typeをセットアップしてこのドメインでブログを始めるのが美しい。 ところが事はそう簡単ではなかった。
Movable Typeを利用するにはホスティングの新しいサーバーに移行する必要がある。 ところが私のサイトで運営している我が徳島男声合唱団「響」の掲示板CGIは移行できないのだと言う。 掲示板データはHTML化できると分かったので過去ログにすることで解決はできる。
しかし私が今契約しているのと同じ料金の新サービスではデータベース性能が劣る。 DB性能を確保しようとすると月2,100円余計にかかる。 劣ったDBだと20エントリー以上の動作保証をしないと言う。 それでは話にならないではないか。
月2,100円も払ってブログをやる価値があるのか。やっぱりノーだ。 サーバーは新しい方が信頼感も高いし「響」掲示板を過去ログとして整理することにも意味はある。 だからサーバー移行はやるつもり。 でも結局ブログは世にある無料サービスから探すことになってしまった。
懲りずにまた近所の賃貸マンションを見学してきた。 今のマンションは3LDKで家賃は徳島の相場の2倍から3倍だが今日見てきたマンションの家賃はさらに2倍以上。 2戸あって1つは3LDK/185m2。もう一つは4LDK/225m2。 見るだけはタダだし。
自宅から徒歩4分。 ときどき前を通る度に凄い立派なマンションだと思っていた3F建て。 今日行ってみると総戸数たったの5。玄関だけで4畳はある。 3LDKでもトイレは3つ風呂が2つ。 据え付けられた洗濯機と乾燥機と食洗器はドイツ製。 要は外国人向けマンションなのである。
赴任する外国の大使館員などが住んでいたらしい。 だが最近は都心に住むことが多いとかで部屋の空きが続いているそうだ。 数ヶ月前に十数パーセントも値下げしたと言う。 とは言ってもそれでも十分高すぎるのだが。
昼食後には妻と2人で近所を散歩。 前にあった外国人用テラスハウスを探したがなくなっていた。 途中で新築一戸建てを見学。 2F建て3LDKだが私たちはとても住めない狭さ。 それで7,800万円。東京で家を買うなんてやっぱり私たちには考えられず。
さて引っ越しを考えているのは家で仕事をすることが増えて環境を整えたいというのが直接の動機。 義母の部屋とリビングが隣接していて生活パターンが合わないのが遠因。 ペットが飼えればいいなぁという希望も少し。 前も書いたとおり近所限定なので探すのは難しいのだが。
今日の朝日新聞によると死亡事故のうち飲酒による事故の比率で我が徳島県はワースト4位だという。 ちなみに隣の香川県はベスト2位。死亡事故はともかく徳島で飲酒運転が多いことはよく分かる。 私自身が何度もやっていたのだから。
街に出て飲んだときは代行運転かタクシーを使うようにしていた。 でも会社帰りのビール4本なら運転して帰った。多分400回ぐらいあると思う。 ほとんどは車で5分の距離に住んでいた頃。 1度だけ検問に遭い「酒の臭いがする」と言われたが暴走族の取り締まりで検査を免れた。
実家から通っていた頃は特に飲み慣れていない時期でもあって代行で帰ることが多かった。 ところが狭い自宅前への侵入を自分で運転して駐車しようとしたところで脱輪したことがある。 深夜2時頃に両親を起こし3人がかりで車をあげた。飲酒運転は怖いと実感した。
一番酷かったのは福岡時代。同僚と飲んで何故か車で送って行った帰り。 初めて走る道で右折して対向車線に入り込んだり信号無視を3度ほどやった。 運転しているときは冷静で集中しているつもりだが後からさすがにやばいことをしたと思った。
東京に来て日常の運転をしなくなると昼間に乗るときでさえ少し緊張するようになった。 以来徳島でも飲酒運転はしていない。本当に怖くなってしまった。 それでも私が今20歳代だったらどうだろう。 この時代に私が分別のある大人になっていて良かったと思ったりするのである。
日曜日から咳が出る。火曜日ぐらいから東京は急に寒くなったし体調は不安定。 日中はいいのだが寝ようとすると咳が出て寝られない。 咳が出るからビールを控えていて余計に寝付けなくなったのかも知れない。
そんなわけで仕方がないのでアルコール消毒である。 元同僚のM氏に誘われて18:15に恵比寿。予感したとおり待ち合わせた改札が違う。 いつものことだと諦めて合流して行ったのは立ち飲み屋。 私とは初対面の米国人K氏も一緒。
立ち飲み屋で結局3時間。途中でK氏の奥さんが一時合流。 2軒目はK氏お奨めの歌謡曲バー。1960〜1970年代の歌謡曲ばかりが流れる。 K氏は何人もの芸能人をここで見たそうだ。 私はピンキーとキラーズ「恋の季節」をリクエストした。
そもそもM氏とまともに話をするのは3〜4年ぶりかも知れない。 昔はよく話をしたこともあって一応彼が先輩だが遠慮がなくズケズケと話をさせてもらった。 もう少し突っ込んだ話をしたかった。それは次回に取っておこう。
恵比寿から電車はまだあったが立ち飲み屋で3時間もいたから帰りはタクシー。 今日の運ちゃんはベテランさんで裏道を通って最短距離。3,000円弱で帰れた。
苦労して私のアンテナは完成した。 クリエイトデザイン社の6エレ八木は18,800円ぐらいだったか。 ケンプロ社のローテーターは14,800円あたり。 内径50mmの水道管は1.5mぐらいに切断した2本を近所の工事会社から500円ぐらいで譲ってもらったような気がする。
自室からリモコンを操作すると2F屋根の上の3m×6mの巨大アンテナが回転する。 ただ一点。使い続けるうちに大いなる不安が押し寄せてきた。 アンテナが転倒するのではないかという恐怖である。
何せ私と友人だけで行った素人工事だ。 ステーは2段各4本あるから大丈夫だと思いつつも屋根から外れるかも知れないし切れるかも知れない。 水道管が折れるとは思わなかったが屋根馬が割れる危険はゼロではない。
特に台風の日は肝を冷やした。何十時間も強風が吹き6エレ八木は大きく上下に揺れるのである。 冬の強風にも参った。水道管は中空だから強風によって笛になってブォーンと超低音が鳴り響くのである。 怖くて2Fベランダから屋根の上を何十分も見続けたこともある。
結局アンテナは倒れなかった。 私が大学に入学して2年生で帰省するまで放置していたが大丈夫だった。 ただ冬の風の日のブォーンという超低音をときどき思い出す。 寒さも感じずベランダから屋根のアンテナを見続けた冬の夜の暗さとともに。
TVなら電波塔は同じ場所にあるからTVアンテナの向きは電波塔に向けて固定している。 ところがアマチュア無線の相手は南か東か北か西か時々で変わるのである。 八木アンテナは遠くまで飛ぶように指向性があるのであって横を向けていては極端に電波が弱くなる。
そこでアンテナを回すのである。 と言ってもいちいち屋根に上ってアンテナを回すわけにはいかない。 そこでローテーターというモーターを噛ます。 これを部屋から遠隔操作するのである。 3m×6mの巨大アンテナを屋根の上で回転させるのだ。
まず電器屋で木製の屋根馬を買った。当時は金属製全盛で苦労して探した。 次に水道管を買った。内径50mmもある太いもの。 これを屋根馬に機材を使ってボルトで固定し水道管の上にローテーターを取り付ける。 さらにアンテナを取り付けた別の水道管をこの上に乗せる。
これだけでは風が吹けば倒れるから被覆線でステーを張った。 アンテナのすぐ下とローテーターのところの2段。それぞれ屋根の4角の4方向。 もちろん雷対策で両端には碍子(がいし)を噛ます。 6mの長さは2Fの屋根の短辺を突き出るほど。アンテナを回すと壮観だった。
実は最初に外径30mmぐらいの細いマストに取り付けて一気に立てようとしたことがあった。 友人3人に手伝ってもらったがアンテナが重く無理だった。 このときアンテナを壊したのだが屋根の上で作業する友人たちが怪我をしなくて良かった。 思い出すと冷や汗が出る。
出力1.5Wのハンディ機で内蔵アンテナを使っていたのでは電波が遠方まで届かない。 そこで屋根の上に設置する八木アンテナを買った。 VHF帯TVアンテナでよく見かける肋骨のようなアンテナである。 肋骨が3本ある3エレを最初に買って後に思い切って6エレを買った。
八木アンテナの肋骨の幅は300/周波数/2で求められる。 50MHzの周波数の振幅は300/50=6m。この半分がアンテナの幅になる。 一方長さはアンテナ理論によって異なるが肋骨の数すなわちエレメント数が増えれば当然長くなる。
一般的に八木アンテナの肋骨は後ろから順にまず電波を跳ね返す反射器がある。 次に無線機と接続して給電する輻射器が後方2本目にあり前方の導波器と続く。 肋骨が6本ある6エレメント八木アンテナは反射器と輻射器が各1本と導波器が4本の構成だ。
無線機と接続された輻射器の長さが理論的な振幅の半分。 反射器はやや長く導波器は短い。 私が買った6エ八木は当時最先端理論に基づいているように見えたもので組み立てれば幅3m強で長さ6m弱になった。 想像して欲しい。屋根の上に乗せると巨大なのである。
アンテナも屋根に置いていたのでは真価を発揮しない。 当然ポールにくくりつけて屋根から離さないといけない。 今にして思うと私は凄いことをやっていた。 父母が何も言わなかったことに感謝さえする。 さて私はどうやって巨大なアンテナを屋根に設置したか。
中学2年で父に買ってもらったトリオTR-1300は50MHz帯SSBのハンディ機。 SSBはFMやAMと同じ概念の変調方式の一つ。Single Side Band。 搬送波に振幅変調を掛けるAMの片側の変調波を切り落とし受信時に復調する。 音質は劣るが帯域が半分で済むから効率がいい。
50MHzは76〜88MHzのFM放送に近い。ちなみにTVの1〜3chは92〜108MHzだったはず。 FM放送やTV放送の周波数帯はVHFと呼ぶ。Very High Frequency。超短波である。 この上はUHF。Ultra High Frequency。極超短波。VHFの下はただのHF。短波放送の短波だ。
VHF以上の周波数はFM放送と同様に見通し範囲内しか電波が届かない。 一方HFつまり短波だと中国など遠方の放送を聴くことができる。 これは地球を覆う電離層と地表を電波が反射しながら届くから。 つまり周波数帯によって電波が届く範囲が違い楽しみ方が変わってくる。
ところが春から初夏にかけてスポラティックE層という電離層が時間によって出現するとVHFでも見通し範囲外まで電波が届く。 まだ始めて間もない頃に青森の人と交信できてねぶた祭のカードをもらったときのうれしさはよく覚えている。
ハンディ機だから内蔵アンテナがあったが免許では10Wまで許されている出力が1.5Wでは通常は遠くまで届かない。 そこで外部アンテナに接続することになる。 専門誌を読んで電灯線を使ってアンテナを自作したこともある。 そして中学3年になった私は大勝負に出た。
先日のニュースでケンウッドが「トリオ」ブランドのオーディオ機器を発売するという記事を見た。 少し前にはアマチュア無線機で「トリオ」を復活させるというニュースもあった。 調べてみたらアマチュア無線機もオーディオもニュースリリースがあった。 創業60周年記念なんだとか。
トリオは私が10代の頃に最も憧れたブランドである。 アマチュア無線機としてのトリオは中学生や高校生だった私にとって垂涎の的だった。 中学2年のとき当時の電話級アマチュア無線技士の国家試験に合格し父に頼んで買ってもらったのがTR-1300というトリオだった。
充電池で動作するハンディ機で定価4万円ぐらいだった。 当時最も安い無線機だった。 据え置き型の無線機はHFという周波数帯のものが多くTS-520といったか普及機で12万円ぐらいした。 人気が高かったTS-820という機種は23万円だったような記憶がある。
そう言えば貧者が4万円のハンディ機しか買えなかったころ徳島大道のハムショップで私と同学年だったはずの阿南の中学生がTS-820を目の前で買っていったことがある。 あの驚きは忘れられない。即金で20万円を払ったはず。
今回復活したトリオ機のベースモデルはアマゾンで調べると30万円だ。 最近は愛好者も減って無線機も売れていないと思う。 それでもケンウッドによると生産数の3倍の注文があって抽選したそうだ。 もう無線はやらないが復活トリオを注文する気持ちは私にも分かるのである。
7月8日の日記に書いた『日本史を読む』がまずまず面白かったので同じ著者の対談を読んだ。 丸谷才一・山崎正和『二十世紀を読む』(中公文庫)。 ところが難しかった。思想家文学者政治家哲学者に関する基礎知識が足りない。ほとんど飛ばし読み。
理解できたのは『フーリガン戦記』という本をネタにした対談。 英国のフーリガンの中に入っての体験記だが文明論でもある本らしい。 ちなみに16世紀にはテニス的なのは上流階級のゲームでサッカーは豊穣信仰と結びついた庶民あるいは下層階級のものだったんだとか。
農村の祭りは男が女装したり主人が召使いに給仕するなど秩序を転倒させる芝居で17世紀には村対抗で全員参加のマスフットボールになったと。 村対抗だから郷土意識が強く全員参加だから競技者と観客の区別がなかった。 これがフーリガンのナショナリズムの遠因だと言う。
近代化を為しえたテクノロジーの象徴であり知性である手の使用を禁じるルールは原始の血に返る志向であってさらにPK戦は手を使えるゴールキーパーすなわち近代人を血祭りに上げる残酷な儀式だとも言う。
そして英国は他の欧州国と違い貴族と下流層の結びつきが強いそうだ。 海軍国家であり同じ船の上では貴族も労働者も一心同体となる意識と符合する。 こうやってフーリガンから英国文明論やスポーツ論に話が発展する。 この章だけなら面白い。
2日続けて飲み会だった。今日は急きょ相談事でお願いしたPDAの師匠M氏。 業界で最も有名なPC誌のF編集長もお誘いしたがスケジュールが合わなかった。 銀座。飲んでいたらF編集長から電話があったが場所が遠くて結局合流しなかった。
2軒目は鉄道模型がカウンターをぐるぐる回るバー。 M氏は新幹線の模型をキープしているんだとか。 その保管料があってバーで走らせるのにもお金がかかるとか。 それでも途中で速度を上げてもらいケータイでムービーも撮ってみた。 鉄道好きは楽しめると思う。
昨日の飲み会は元同僚Y氏と半年ぶり。出張で来ていた開発のK氏も途中から合流。 K氏とは退職後だから8年半ぶりだと思う。 入社が1つ下で早くに同僚T嬢と結婚したことを思い出した。 今日もメールをもらった。昔話ができる友人は貴重である。
そんな飲み会の最中に電話をもらったのが最近徳島に引っ越したK氏。 先のK氏と同期だとかで電話を代わったり。 と思えば昨日は6つ年下のはずのT氏からもメール。 10月から東京転勤で住まいが近所になると。ときどき節目で会う友人である。 引っ越したら歓迎会をしよう。
そんなわけで元同僚ら友人たちとの関係が濃くなったような最近。 退職の挨拶メールで私のことを思い出してくれた人もいる様子。 そんなわけで仕事も含めて忙しいのである。 しばらくこの状況を楽しもうと思う。
先日の日曜日に歩いて行ける賃貸の一軒家を見学してきた。 賃貸料はただでさえバカ高い今よりも10万円も高いから論外とは思いつつ高いだけに実は住みやすいのではないかと期待感も少し。 結論は中を見るまでもなくダメだった。
今の我が家は首都高まで徒歩10分。首都高と直交する環状線まで徒歩5分強の場所にある。 ここでは外気取り入れ口の周りの壁が黒く汚れるほど排ガスの影響を受ける。 ところが今日行った家は首都高まで30mの距離だった。 排ガスはもちろんだが騒音に我慢ができない。
中は4LDKで各部屋が十分広い。作りもしっかりしている。収納が3畳分と4畳分。各部屋にエアコン。 風呂にはジャグジー。日当たりもまずまず。 だが2F南側の窓を開ければお隣の洗濯物が目の前2m。北側も事情は同じ。 どうせ排ガスと騒音で窓は開けられないから構わないが。
それと義母が毎朝ラジオ体操に行く公園が遠くなる。これは致命的で条件外。 今や町内の老人会に何人もの友人がいる義母に再び新しい土地に住んでもらうわけにはいかないのだ。 そんなわけで町内でいい出物があれば引っ越す意志はあるものの今回はパス。
我が家に戻れば3F建てマンションの3Fでしかないのに外を見れば窓がある3方向全てに遠くを見渡せる眺望を再認識。 窓を開ければ排ガス交じりながら自然の風も通る。 帰宅して思ったのは結局のところ今の家の住みやすさだったのである。
政治家が書いた本を初めて買った。 著者は現職の官房長官にして次期首相が確実だと言われている。 なぜ買ったかというと理由の一つはこれがハードカバーではなく新書だったからだ。 読んで欲しいという意欲や良し。 安倍晋三『美しい国へ』(文春新書)。
目次から拾うと「自立する国家」「ナショナリズムとはなにか」「日米同盟の構図」「日本とアジアそして中国」と著者の国家観がよく分かる。 意外に具体的な数字をあげて説明が分かりやすい。 メディア批判も対立政党への批判もあるが踏みこみすぎずバランスのある記述だと思う。
目次は「少子国家の未来」「教育の再生」と続く。 総じて私は著者の国家観にも未来像にも賛成である。 特に学校を採点してダメ教師は辞めさせるという考えには大賛成だ。 自身の子ども時代に遡って思想の理由まで説明する点も好感が持てる。
ごまかしはないかと穿った見方をすれば肝心なところで祖父である岸元首相や父である晋太郎氏の考えや行動を紹介するだけの逃げもある。 それでも良くできた本だと思う。 ゴーストライターがいるのだろうが具体的数字と構成によってすっかり説得される心地よさを味わえる。
現首相はワンフレーズの分かりやすい話し言葉で人気を得たと言われている。 次期首相は分かりやすい書き言葉でじっくり理解させようと試みている。 そのこと自体は素晴らしいことだ。 政治的批判派も一度読んでみることをお奨めする。
妻の前々職時代の友人が主催するライブに行ってきた。渋谷でウクレレ。 前回誘われて行ったのが去年の8月18日だから1年ぶり。今回は本人もウクレレを演奏。
着いたらお客として妻の友人が2人。 一人は記憶があったけど名前が出て来ず。結婚式に来ていた人だとは知っていたけど。 もう一人は全く気づかなかった。彼女も結婚式にチャイナドレスを着て出席していたのであった。 オカマのH氏。じゃないH嬢。
ウクレレのライブはまずまず。 それより休憩でやってきた主催のU氏が話が面白い。 妻やその仲間がいかにバカなことをやっていたかという昔話。 そう言えば結婚式のときにも去年も聞いたような気はするが。
先週も月曜日は飲み会から始まった。気温が安定しないせいもあって不調だった1週間。 今週はどうだろう。新しい仕事のちょっとしたイベントが明日あったりするんだが。
D社の仕事を辞めるにあたって感慨がないと先日書いた。 8年半前にJ社を辞めたときは違っていた。 最終日に本社の各フロアを挨拶に回ったき開発部のトップだったF取締役に「こんな日が来るとはなぁ」と言われた瞬間に涙が溢れたことを鮮明に覚えている。
ところが今回は感慨がない。なぜだろうと考えてみた。 一つは心の中で既に何度も辞めていたからだと思う。 その2の仕事を始めて契約社員になったときや契約社員も辞めて外部スタッフになったときとか。 そう言えばそれ以前にも2度ほど辞めると社長に言ったこともあった。
もう一つ元同僚とのやりとりで気づいたことがある。 メールの存在だ。 日常の仕事では何人にも同報するため隣の人ともメールを送り合う。 本社にいる人など頻繁にメールはするが会ったのは2度だけという仲間もいた。 そんなわけでメールで繋がっていると錯覚をしているような。
それが錯覚かどうかは分からない。 実際に気持ちでは繋がっていると少なくとも私の方は思っている元同僚もいる。 仕事の付き合いであってもなるべく個人的な付き合いをしたいと思ってきたしこれからもそうありたい。 だから挨拶メールは個人アカウントから送信した。
なお新しい仕事の方は割と順調に進んでいる。 個人で作った名刺も届いた。 個人事業なのでただ家の住所を書いただけなのだけど。 さて将来はどうなるのだろう。 と書きつつ悲壮感も不安感もない。なぜか期待感の方が大きかったりするのである。
いただいたメールの中には食事のお誘いもある。 その中で驚きの転職をしていた先輩の誘いに乗って早速金曜に会ってきた。 J社の退職後は社長業を含め経営者として何社も渡り歩いた5歳上のK氏。 本当は自宅で仕事をするつもりだったけど驚きが勝った。 雨の中を市ヶ谷。
D社創業直後に私はK氏に仕事を依頼したことがあった。 それより今から15年ほど前にK氏が徳島にいた頃しょっちゅう土曜日に自宅に行って奥様と一緒にUNOをやった記憶の方が強い。 そこには必ずパピという名前の子犬がいた。 聞けば今年の3月に16歳で死んだそうだ。
そのK氏が何と出版社のインプレスにいるのである。 出版部門ではない。仕事の内容はいろいろ聞いたがよく分からないのでパス。 PCの昔話がここでは通じると笑う。 最近は会社に入った時点でインターネットが当たり前だった連中が多くて話が合わなかったと。
私の方はビルに着いてから名刺を作って来るべきだったと後悔した。 せっかくだから編集部への挨拶も兼ねられれば良かったのだ。 とK氏に言ったら「人生はうまくいかないもんだ」なんて言う。 ともかく業界は近くなった。 早速ある人物との食事をアレンジすることになった。
D社を辞めたことを異なる文面で3つのグループに分けてメールした。 1つは社内。全員に転送されるアドレスに配信。 2つ目は友人やJ社時代の同僚やメディア以外の仕事の知人74人。 3つ目は仕事でお世話になったメディアの人たち。これでも絞り込んで152通出した。
出した直後から返信が届いた。 私が広報の師匠と勝手に仰ぐ日経BPのW氏からは「J社を辞めたときは心配したが今後は心配無用ですね」とメールをいただいた。 このメールには感動した。さすが私に広報の重要性を説いてくれた師匠である。よくご覧になっている。
日経パソコンの4代前の編集長からも暖かい返信をいただいた。 多くの友人知人からメールが届きJ社を辞めたときのことを思い出した。 人は一人では何もできないと強く感じたこと。 人は誰かと繋がっているということも。
J社を辞めたときもメールを出した。 保険が使えるうちにと退職直前に大腸ポリープ切除のため入院した病院のベッドの上。 買ったばかりのVAIOノートで文面を書いた記憶だけがある。 W氏が言うとおり変に気負って逆に悲壮だったような気がする。今となっては恥ずかしい。
さて返信いただいた中には驚きの転職情報も。 実は今日早速ランチに行ってきた。 詳しくは後日に譲るがやっぱりときには連絡を取り合わないといけないなぁと思った次第。
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© 2006 Takashi INAGAKI