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2018年2月

日経新聞の福崎さん (2月28日・水)


私の広報の師匠3人目は日経新聞の福崎直明さん。K氏の2代前で多分1990年3月から1993年2月の徳島支局長。私より10歳ぐらい上で出向先の日経コンピュータ編集で渡辺洋之さんの上司だったとも聞いた。検索すると日経系のシステム開発を担当するQESという会社の社長を1年前に退任している。

徳島県が徳島市川内に造成していた土地へのJ社の移転を巡り県とJ社が対立したとき背景取材を一番に申し入れてきていた1人である。記者クラブ相手ではなく依頼のあった数社だけを対象に開いた共同取材を県議会の開会前日に行うなどニュース価値を高める戦術の指南役でもあった。

その過程で私は新聞記者との付き合い方を学んだ。彼も私を教育しようとしていたと思う。新聞記者の習性や裏の話をいろいろ聞いたように思う。N嬢と3人で飲みに行って私が酩酊したときタクシーで送ってくれたこともある。あれは結婚していた昭和町8丁目だったから1992年のことなのだろう。

彼が東京に異動してからは経団連の関連団体が主催する企業広報大賞の1996年秋の授賞式で再会した。福崎さんは選考委員だったかそもそもこの賞に推薦してくれたのが彼だと覚った。私やJ社の広報スキルを記者として教育した上で後から褒めてくれたわけだ。勝手に師匠として今も感謝している。

サン・マイクロシステムズの真部さん (2月27日・火)


私の広報担当としての勝手に師匠の2人目は当時サン・マイクロシステムズの広報だった真部(まなべ)一善さん。サンはワークステーションというPCの親分みたいなコンピュータと一般には全く馴染みのないUNIX OSやアプリケーション群を開発販売していた米国の会社の日本法人である。

多分SunのUNIXで動作するATOKを開発したか何かの1991年11月にあった協業発表だと思うのだが彼がそのニュースリリースを書いた。当然文面は専門用語ばかりなのだがそれにも関わらず分かりやすいことに私は感動したのである。広報文とはこう書くのかとショックを受けるほど勉強になった。

発表内容が専門的だから難しくなるというのは広報としては言い訳に過ぎないと知りそれから真部さんが書いたニュースリリースを私なりに分析した。これほど分かりやすい文章になるのは何故なのか。一般的な広報の教科書的な文献も参考にしながら構成や表現を自分のものにしようと読み込んだ。

その後サンがオラクルに買収された頃には辞められていたと思う。今はPR代理店などが役員に名を連ね広報PRの啓発活動を手がける公益社団法人日本パブリックリレーションズ協会 の事務局にいる。企業の広報担当は何人も知っているが彼が一番だと思っている。私が勝手に思っている師匠なのだ。

広報の師匠の日経新聞渡辺洋之さん (2月26日・月)


私がJ社で広報を担当するようになって勝手に師匠だと思っている人が3人いる。第1の師匠は当時日経パソコン編集にいた渡辺洋之さん。私の2つ上で新潟の柏崎出身で早稲田の数学科を出たのに日経新聞に入社。日経BPに出向していたが日刊の新聞記者より月刊の編集者が楽だと後に転籍する。

社長秘書として彼の社長インタビューに同席して見知っていた私はJ社の一太郎Ver.4のバグ騒動の後1989年の秋に誘われて東京で一緒に飲んだ。そのとき広報業務の必要性を熱心に説明してくれた。そのことが提案書を書く動機になった。その後も広報業務で頻繁に相談させてもらった。

私がJ社を辞めた秋のWorld PC Expoだったと思うが幕張メッセで偶然会って職業人人生の2/7が終わったばかりだと嘆いたことがある。彼は当時3/8だったか。まだ倍以上働くことにうんざりだと話し合った記憶が残る。その彼は日経パソコン編集長からパソコン局長を歴任。

日経BP社での経験でデジタルメディアに精通したことで日経に呼び戻されたが検索してみると今は常務執行役員デジタル事業担当という肩書きになっている。日経新聞デジタル版事業を立ち上げ統括している。インタビューの上手さでも3本の指に入る名手でもある。やっぱり彼は凄いな。

入社前のアルバイト 2 (2月25日・日)


入社案内冊子で知っていた喜屋武さんを見かけて話しかけたけど対応は冷たかった。知らない学生に突然何か言われても困ったとは思う。紺屋町の南側を歩いて昼食から帰ってくる社長や喜屋武さんら数人を見かけて道の反対側から挨拶をしたこともあった。

それにしても返却されてくる一太郎Ver.3バージョンアップ版のパッケージは膨大だった。毎日数十個が戻ってくる。でも私が具体的に何をやっていたかというと実のところ覚えていない。本社の経理に何かデータを持って行くとか持ち帰ってくるとか使い走りをやっていたんだと思う。

あるとき宅配業者さんが来て帰っているとき小川さんが「佐川さん呼び止めて」と私に言った。あの人は佐川さんという名前なのかと宅配業者さんに向かって「佐川さん」と声を掛けた。佐川さんというのは彼の名前ではなく佐川急便さんという意味だったと気づいたのは後の話。

大学6回生の私はお金もなく酒を飲むのはサークルのコンパのときだけだったから紺屋町という徳島一の飲み屋街にいて17時半か18時には業務を終えていたのに飲んで帰るようなことは一度もなかった。アルバイト料がいくらだったのかも全く記憶にないが相場よりは高かったと思う。

入社前のアルバイト (2月24日・土)


なぜ私がJ社に入社しようとしたかについては既に書いている。6月に内定をもらって1月半の間迷いに迷った。相談した人にはことごとく反対された。賛成してくれたのはアマチュア無線仲間で日経マグロウヒル(現日経BP社)のM氏と中高時代の友人で徳島大学の学生だったI氏だけだった。

当時のM氏はニューズレターの日経データプロ編集にいて業界の専門家だった。その彼の意見を信じた。というより感覚的にどんどんJ社に惹かれ始めていて入社を後押ししてくれる意見を探していただけだと思う。結果として98%の人の意見より私の感覚の方が正しかったと今でも思っている。

入社を決めたのは8月の帰省前で総務のY原氏に電話をして内定受諾の意向を伝えるとともにアルバイトできないか相談した。すぐに決まって8月に2週間ほど働いた。紺屋町の突き当たりにある三木ビルに入居しているとき私は籠屋町の1本西の雑居ビル2Fにあったユーザーサービス部門で働いた。

6月に発売された一太郎Ver.3のバージョンアップ版が宛先不明で大量に返送されてきていて私はその整理を担当していた。浦崎さんという女性が指導役で部門長は小川さん。三木ビルにも1日1回程度行ったように思う。入社案内冊子で知っていた喜屋武さんを見たのもそのときだった。

山火事 (2月23日・金)


昨夜は2時半に就寝。4時半過ぎに目が覚め6時まで眠れず今朝は9:37に目が覚めた。だから起きていたのだが防災無線のスイッチが最大音量のノイズを発して入った。火事だ。アナウンスが始まる前に着替えを始めトイレに行きマウスピースを外し水を2口飲んで携帯電話と鍵だけ持って長靴で表へ。

既にK分団長が消防詰め所のシャッターを開け消防車を出しているところ。無線機を積んでいたら役場N君が来てN部長とA総代も。5人が消防車に乗り込みN君運転でサイレンを鳴らしながら猛スピードで福川地区。ポンプを下ろし軽トラに乗せ替え細い山道。私はホースを抱えて山道に延ばして行った。

急な登り坂で汗が噴き出し口がカラカラ。畑にしようと焼いていたら手が付けられなくなったか段々の広範囲で火が燻っている。放水現場が見えない下段でホースの取り回しをしていたらバスケットを吊したヘリコプター。私の真上を通って10m先に注水。それが4〜5回。まるで爆撃を受ける気分。

上から見ると消防車を駐めた道路から垂直に100m以上。吸水をしている勝浦川から500m〜700mぐらいか。30本以上のホースを連結し間に4台か5台の可搬ポンプとポンプ車という構成だったと思う。放水は徐々に下りて来て他分団と一緒にホースの取り回し。最後は外したホースを抱えて下りた。

一旦13時過ぎに解散して役場M氏T君と呑口のラーメン。14時半再集合で朝の現場まで上がって下りて詰め所に戻ってホース洗浄班と合流して最後の解散が16時半。我が分団のポンプは負荷が掛かりすぎたのかエンジンが焼き付いて壊れたと後から聞いた。低血糖なのか頭痛がするほど疲れ切った。

『ジャストシステム』(光栄) (2月22日・木)


後に私の妻になる当時PR代理店プラップジャパンの担当だった鈴木さんが私に興味を持ったのは初めて会うより前だったらしい。彼女の雇用契約書によるとプラップに入社したのが1997年9月8日(月)。彼女の記憶では2日後に徳島に出張したというから私と会ったのは9月10日(水)か。

その出張の飛行機の中で上司のA氏から渡されて読んだ本に私の名前が頻出していたというのである。高橋範夫『ジャストシステム―「一太郎」を生んだ戦略と文化』(光栄)。「信長の野望」で知られるゲームソフト会社の光栄が出版部を作りシリーズ化しようとしたビジネス書の1作目である。

改めて斜め読みしてみると浮川社長と初子専務に福良取締役とATOK開発の阿望さんや販推の喜屋武部長に総務の山原部長プロ推の井内仁美さんサポートの原佳子さん長井洋子さんが登場している。言われるほど頻出しているわけではないが私の名前も発言とともに10カ所以上に登場している。

社長や専務へのインタビュー時間の要望が膨大で私が答えるから勘弁してくれと言った記憶はある。読み返すと喜屋武さんの発言の自由さには負けるが私も会社の欠点を正直に答えていて面白い。巻末の謝辞に新入社員として松川美鈴さんの名前もあった。1995年9月30日発行。いろんな思いが蘇る。

back number「アンコール」 (2月21日・水)


先日とっと屋さんでカラオケをやって歌って楽しいのは私の場合back numberだとの思いを強くして結局ベストアルバムを買ってしまった。「アンコール(ベストアルバム)(通常盤)(2CD)」。2枚組で全32曲。このうち4曲は既に覚えて先日も歌ってみた。

このほかに歌えるのが「瞬き」と「ハッピーエンド」のカップリング曲である「君の恋人になったら」の2曲。全部覚えたら34曲。いや全部覚える気も時間もないので気に入ったものだけをピックアップしようと思う。ちょうど「響」の本番も少し先なので車の中で聴き込むのにちょうどいい。

とりあえずPCの前で座ったときに聴くのでCDから取り込んだところ。おそらく私の設定の問題だと思うがiTunesに取り込まれた。ダウンロード版を聴いているAmazon Musicで聴くにはフォルダにコピーすればいいのだがICレコーダーで聴くためにはMP3に変換しなければならない。面倒なことだ。

とりあえずDigiOnSoundを経由して変換しているがしばらくはiTunesでアルバム単位で聴いておくことにする。ところで先日のとっと屋さんでは米津玄師「灰色と青」がなかったのだがDAMのサイトで調べてみると機材によるのかも知れない。次に街でカラオケに行ったときに試してみようと思う。

従兄弟と祖先 (2月20日・火)


鳴門の芋農家の従兄弟が鳴門金時を持って来てくれた。コンテナに半分ほど。会ったのは2年ぶりぐらいだと思う。慈眼寺への参拝ついでと連絡があったのだが結局行かなかったらしい。昨年末には鴨島に稲垣神社というのがあると教えられていた。そんな話題で思い出したので記録しておく。

私は祖父から見て次男の長男。今日の従兄弟が長男の長男。小学校の頃に伊勢志摩に家族で行ったとき稲垣氏の鎧というものが展示されていて興味を持って我が祖先について母経由で祖母に訊いてもらった。それによると古く江戸期かそれより前か伊勢の方から流れてきて土着した武士が祖先らしい。

江戸期には庄屋だったが曾祖父が放蕩の末に田畑を売り払い没落し子がなかったために祖父と祖母を他家から迎えて養子にしたそうだ。だから鳴門に土着した祖先とは祖父の代で血の繋がりはない。祖父は松茂で祖母は鳴門の高島の出と聞いている。祖父の旧姓が酒井というのは従兄弟に聞いた。

四国に流れ着いたのだから下級武士だろうが日本刀もあったらしい。ところが太平洋戦争出兵の知人の写真撮影用に貸し出して戻って来なかったと。私が知っている祖先に関わることはこれだけ。とりあえず姓を継いでいる私は鴨島の稲垣神社には一度行ってみようと思っている。

とっと屋さんで3人でカラオケ (2月19日・月)


土曜はカラオケに行って来た。先日の大宴会でお世話になった町内の「とっと屋」さん。18:45に迎えに来てもらい妻とT君と3人。羽生結弦が金メダルと獲ったピョンチャンオリンピックの映像を見ながらまずは唐揚げなどを食べて19時半前にはT君から歌い出していただろうか。

私が歌ったのはback number「ハッピーエンド」「クリスマスソング」「瞬き」「世田谷ラブストーリー」「ヒロイン」。「瞬き」と「ヒロイン」は高すぎたので後から半音と1音下げて歌い直した。「ヒロイン」は1音下げでちょうどいい。「クリスマスソング」はお店のS嬢にも好評だった様子。

ほかにチェッカーズ「ジュリアに傷心」「夜明けのブレス」。平井堅「瞳をとじて」。尾崎豊「僕が僕であるために」「I LOVE YOU」「15の夜」。「ジュリアに傷心」「15の夜」以外は聞いていてつまらないと妻の指摘。私も歌っていて面白くなかった。なるほど。

22時半頃に店を出て再び送ってもらい事務所でT君も来て焼酎お湯割りを飲みながら話題は男女問題や恋愛話など。T君が帰って妻から前夫の話を聞く。妻が離婚したのは私と同居するために家を出た頃だったらしい。同居当初に彼女の精神が不安定だったのは仕方がなかったと今にして思う。

ミニスカートの鈴木さん 2 (2月18日・日)


福岡時代の日記を読み返していると東京に住んでいた鈴木さんとは前回書いたように9月にも10月にも会っていた。11月にも何をしたのか覚えていないが東京に行っているからこのときも会ったのだろう。8月の京王プラザは彼女のことを書いたのかも知れない。

12月23日に原宿散策と書いてあるのも彼女とのデートだった。表参道のイルミネーションが美しかった。翌日の日記に書いたクリスマスソングを少し歌ったことも覚えている。翌年になって東京でPCをセッティングしたと書いているのも彼女のためのものだ。新宿のさくらやに一緒に買いに行った。

忘れられないのは福岡キャナルシティの駐車場で車に乗ったところに電話があり土曜の夕方なのに泥酔した彼女の話に2時間も付き合わされたことだ。そのとき彼女が負っていた心の傷に触れて私が近くにいた方がいいように思った気がする。私も精神的に疲れていて流されてみようと思ったのだろう。

その後。皆さん既にお気づきだと思うが鈴木さんは今は私の横にいる。2000年3月に同居を始め11月に結婚した。鈴木という姓は前夫のものだ。離婚しても手続が面倒でそのまま鈴木で戸籍を作っていた。今の本名は私と同じ。通称は義母の姓。私が再婚したのは鈴木という姓の女性だったのである。

ミニスカートの鈴木さん (2月17日・土)


PR代理店プラップジャパンで担当になった鈴木さんは顔が小さくスレンダーでいつもミニスカートだった。聞けば私と同じ34歳。でも私は東京の闊達なお姉さんに気後れしていた。あるときJ社東京オフィスで会合がありお昼になったところで昼食に誘われたのに私は後ずさりして断ってしまった。

J社を辞めて失業保険をもらっていたときにときどき電話をもらった。徳島にいてはダメだと東京の転職情報誌が送られてきたこともある。彼女が足を骨折して松葉杖を使っていたときも約束だからと会いに来てくれた。彼女は既婚者だったが当時の私はあまり気にしていなかったように思う。

98年か福岡時代の99年か大勢の人が行き交う渋谷の西武百貨店の工事中だった壁に押しつけられてキスしたことがある。私の秘書だと名乗って京王プラザホテルに電話をして部屋を予約して一緒に付いて来たこともある。道玄坂のホテルに行って彼女は深夜自宅に帰っていくようなこともあった。

当時の彼女は仕事でよく沖縄に行っていて羽田からの直行便を使わず福岡に寄ってくれることがあった。99年9月の熊本黒川温泉への1泊旅行は彼女と2人で行ったものだし福岡でドライブしたこともある。故・大道正徳の実家の兵庫県相生に行ったときも新幹線のホームで短い時間だけ会った。

プラップジャパンと担当の鈴木さん (2月16日・金)


90年代後半になって一般紙誌向けの広報はPR代理店プラップジャパンを使うことが増えた。あるとき間に入っている広告代理店を外して直接契約できないかと担当のA氏が言ってきた。当社は何ら支障はないが広告代理店としては面白くないだろう。でも私が広告代理店に話をしたらあっさり通った。

プラップは当時同じような案件が2つあったらしい。そのもう1社は広告代理店を含めてトラブルに発展したらしい。なぜJ社はあっさり通ったのか。それは私の人徳のおかげだとプラップでは認識されていたらしい。そう部長が言っていたと後に担当になった鈴木さんという女性から聞いた。

鈴木さんと初めて会ったのは97年9月。一太郎を使えると面接で言ったためにJ社の担当になり入社2日目に出張で徳島に来たと言っていた。その夜はA氏と私の部下のN嬢と4人で南昭和町の旬で鮨を食べた。その後ConceptBaseのメディアキャラバンのアポ取りをしてくれ何度も同行してもらった。

当時ConceptBaseの説明を土曜の午後メールしたら10分後に返信が来て驚いたことがある。そのときだったかクライアントの私の説明が丁寧だと喜んでくれたりもした。私は98年3月にJ社を辞めたから仕事の付き合いは半年未満だったが当時既婚者だった彼女とは後に個人的に2人で会うようになる。

一太郎出荷本数で発表会 (2月15日・木)


一太郎100万本達成のニュースリリースは大きな成果を上げたので500万本だったか1000万本のときに2匹目のドジョウを狙った。2回目だからインパクトは下がる。その分をカバーするため発表会を開いた。ターゲットは普段から付き合いのあるPC専門誌ではなく新聞や週刊誌など一般紙誌である。

ただ当時の私たちには一般紙との付き合いはほとんどなかった。そこで頼ったのがPR代理店だった。この発表より前に販売推進部と付き合いのあった広告代理店の東急エージェンシーインターナショナルから提案があって私が乗ったのだと思う。毎月支払う報酬は80万円だったか120万円だったか。

実際にPR活動をするのはPR代理店のプラップジャパン。私と同年代のA氏が担当で日本プレスセンターだったか100人ぐらいの会場で発表した。登壇したのは社長ではなく喜屋武さんか営業部長の加藤氏だった。驚いたのはやってきた記者の皆が高齢だったこと。地方紙の東京駐在員が多かったのだ。

いつだったかと検索すると500万本が1996年4月。でも700万本のときにも発表している。私が書いたか指示したか承認したはずだが中途半端で恥ずかしい。そして1,000万本が1997年9月。このときかも知れないが全く覚えていないのは2匹目以降のドジョウには興味がなかったということだろう。

バレンタインのチョコレート (2月14日・水)


心の中に思い出としてしまっていたことだが何だかもう忘れてしまいそうなので記録しておく。バレンタインデーにチョコレートをもらったときのこと。と言っても40年以上前の中学の頃のことだけにする。これを読んでいる同級生に誰だか分かって欲しくもないのでイニシャルも避ける。

初めてもらったのは中学1年だったと思う。K本嬢が楽しそうに「ロッカーの中を見た方がいいよ」と言ってきた。K本の友人が私に渡そうと入れていたらしい。私がいた1年4組は男ばかりで女子はバスケット部の子ぐらいしか知らず彼女とは話をしたことがなかったはず。なぜ私に好意を持ったのか。

2度目は中学3年のとき。T中嬢に呼び出され教室脇の階段で待っていたらその彼女が走ってきて手渡して無言で走り去った。仲のいい女友達だと思っていたのでびっくりした。進学希望の高校が違っていて何日か後に呼び出して断った。中学卒業後は疎遠になり話をしたのは大人になって2回ほど。

中学1年のときの彼女には返事もせず結果として無視する形になったと思う。そのことは少し気になっている。彼女が進学した高校の学園祭に行って久しぶりに会ったら凄くきれいになっていて中学1年の私は失敗したと思ったのだった。でもなぜ私だったのか。いつか会って訊いてみたいと思っている。

第九の演奏雑感 (2月13日・火)


今回の第九の演奏で私の席はオーケストラの真横だったわけだが特にトライアングルまで1mもなく第1バイオリンの一番後ろまで3mという間隔だった。さらにシンバルは2mでティンパニも3m。第4楽章の最後のクライマックスでティンパニとシンバルが連続して鳴ると自分の声も聞こえなくなった。

指揮は昨年分かりにくいと毒づいていた私だがツイッターにも書いた批判が届いたのか今年は身振りも大きく比較的分かりやすかった。シンバルとティンパニに合唱もかき消された最後は指揮者だけが頼りだが1カ所を除いて大胆にritardandoが掛かった演奏にもついて行けた。

第3楽章までは第1バイオリンの最後列や指揮者を見ていたが意外に面白かった。バイオリンの彼女はスクリーンに映る正面の顔は優しいのに斜め後ろから見える左眼が怖いほどに鋭かったしコンサートマスターが指揮者から目と手で指示されると今度は彼が腰を浮かして周りに意図を伝えていたり。

あるいは弓ではなく指で弦を弾く奏法は第1バイオリンから第2バイオリンそしてビオラやコントラバスと移っていったり戻ってきたりと曲に込められたさまざま工夫というか表現に気づいたのも収穫だった。第九はLPやFMで何度も聞いてきたはずだが近くで見たことで自分の演奏以外でも楽しめた。

第九アジア初演100周年演奏会 (2月12日・月・休)


昨夜24時に積雪1cm。24時半には寝て5:39に目が覚めたとき積雪は5cmほど。徳島市も積もっているとFacebookで見たので予定を30分繰り上げ準備をして7:07に上勝を出た。道路は徳島市内まで雪。でも冬タイヤを履いたAWDの雪道最強フォレスターである。雪で遅い合計6台を勝浦で追い越した。

沖洲マリンターミナルに着いたのが8:15前。シャトルバスに乗りアスティ徳島に8:40頃到着。雪予報で予定が変わり9:50から発声練習だというのに去年に続き早く着きすぎた。去年の初音ミクのような下らない演出はなくゲネプロはスムーズに進行してあっさり終了。弁当は自席で食べた。

客席の最上段に関テレK氏を見つけ手を振って弁当後に話しに行って一昨年以来。観客が入ってきて昨日Cちゃんの座席を教えてあげたZ嬢を探すのだが見つけられず。本番演奏は前半頑張ったものの後半で高音が出ずファルセットで逃げた。それでも昨年と違い歌ったので気持ちは良かったと言うべきか。

アンコール前に中学の同級生で県議のN氏を見つけた。全て終わりT江嬢と落ち合い写真をH見嬢に撮ってもらいFBにアップ。寒い中20分もバスを待って車に戻り着替えて夜は「響」の練習。夕食に行くのにそごうの中を通ったら同期T氏が20歳代だろう女性と一緒にいて超びっくり。早速Z嬢に報告。

第九演奏会リハーサル (2月11日・日)


妻が出張に行った月曜からback numberや平井堅を歌っていたら喉を使いすぎた。水曜には頭痛と眠気。木曜は消防分団役員会でビールを飲んだら頭痛と寒気がしてきて金曜は昼まで寝てビールを抜いた。土曜も飲まず体調回復に努めたのだが今日は第九前日練習で疲れたからビールを飲んでいる。

朝は11時過ぎに出てサンクスに寄ったら改装中でローソンでパンを買い食べながらアスティ徳島に12時過ぎ。受付前で「響」のベースT君と話をしロビーでは高校合唱部の同級O浦と雑談。開場し席に行くと1列目の席確保を頼んでいる女性。20年前のミュージカルで一緒だったH見嬢で挨拶少し。

私はオーケストラ真横2列目で指揮者を見るとほぼ左を向く。隣は「潮」の方。ご年配だが暗譜の上に声量も高音も十分。左を向くから私の右後ろからがんがん声が聞こえる。私の前は高校合唱部の3つ下にして佐古小合唱部顧問のY岡君。J/Z家のCちゃんの席を探してZ嬢にメッセージしてあげたり。

休憩時間はソプラノ最上段にいたF井T江に会いに行きJ社同期K原嬢も来て雑談。解散後は元「響」のS氏と雑談。暗譜は諦めたが8割は楽譜に目を落とさず歌える。指揮者もオケも近いから音ずれがなく隣が上手いから昨年より数段楽に歌えた感覚。客席が近くサボれないのは諦めて明日は楽しもう。

リーク (2月10日・土)


J社時代は発表ではなくリークによって記事に取り上げてもらったこともある。最も大きな記事となったのは日経産業新聞1面トップとなったコンセプトベースの件。LANで接続された社内サーバーに蓄積された膨大な文書ファイルから曖昧な文章によって類似検索する技術である。

当時よく分からない広告代理店が社長に取り入り日経の1面トップも飾れる企業だとヨイショしていたのに喜屋武さんが怒っていてそのぐらい自分たちでできることを見せてやろうと奮起したのである。さすがに売上300億円程度の企業で日経1面トップは無理だから日経産業1面トップを狙った。

徳島支局長K氏に相談して説明したのは1997年9月だと思う。当初は確か水曜か木曜に掲載される手はずだったが海外発の大ニュースがあって延びた。土曜まで延びたら広報価値が半減すると心配しつつ東京モノレールの中で社長に報告したシーンを覚えている。

件の広告代理店は日経産業1面トップに掲載された朝アポなしで東京の社長のところに来ていた。強引にして無礼な。彼らが帰るとき下りのエレベータで一緒になり「あなたが仕掛けたそうですね」と問われたから「そうです」とだけ答えた。彼らは以後あまり社長のところに来なくなったと思う。

一太郎100万本 (2月9日・金)


J社時代の記者発表会は1993年以降1年に1回以上やったと思う。高輪プリンスホテルやホテルオークラでやった記憶がある。一方で発表会とはせずFAXだけで配信する発表は私が辞める1997年度には出版部からの新刊本などもあったため週に1本程度あったかも知れない。

その中でも最も印象深く反響の大きかったのは一太郎100万本達成の発表だった。PC時代の象徴でありワープロ専用機からPCが主体となったことの象徴だったと思う。パソコン専門誌よりも一般紙での反響が大きかった。普段は相手にもされない読売や朝日に囲み記事で掲載された。

リリースにはこの段階で一太郎が対応していたPCと製品パッケージを並べた写真も付けた。PCが10台。写真家の米津さんの川内のスタジオに運び込んだのが20時頃で撮影を終えたのは24時近かったと思う。紙焼き写真を付けたのだから発表文は郵送したのか。調べてみると1991年11月だ。

こういうリリースネタは狙っていた。毎月の出荷本数を積算して100万本になるタイミングを見ていた。発表文は私が書いて一太郎の歴史や関連資料なども広報内だけで進行して誰の確認も取らなかったような気がする。自由勝手にやって最大の成果を得る。楽しい仕事をしていたものだ。

広報提案とN嬢のスカウト (2月8日・木)


過去のファイルを探してみると広報業務について初めて社長に提案したときの文書が出てきた。日付は1990年1月26日。1995年ぐらいに偶然見直したときあまりの出来の良さに我ながら唸ったほどだ。広報とは縁の無かった新卒2年目の私がよく書けたものだと今でも思う。PDFにして公開しておく

この提案書を読んだ社長は「分かった。お前がやれ」と言った。当時「鞄を持たない鞄持ち」と言いながら秘書として社長の出張に同行していた私はタバコが吸えないのがストレスだった。社長が極端に嫌っていたのだ。秘書から逃げてタバコを自由に吸いたいという背景もこの提案の裏にはあった。

社長が報告したのだろう奥さんの初子専務から「新人の女子を1人付けてあげる」と言われ部下を1人スカウトするように言われた。迷うことなくF井T江を指名したのだが彼女はT山R子さんや先日書いたF山Nちゃんとインストラクターセンターを立ち上げたばかり。彼女はダメと専務から言われ断念。

次に指名したのが営業支援部にいたN嬢。会社の残業体質をよく批判していたし車は真っ赤なセリカで生意気だと目されていた。でも新しく部署を立ち上げるのだからそのぐらいがちょうどいい。彼女の当時の上司だった営業支援部のリーダー故・生原桂子さんからは恨み言を言われたが。

一太郎Ver.5発表会 (2月7日・水)


司会をしたのは内定者懇親会では1度だけだがJ社時代の記者発表会では何度もあった。広報担当になったのは入社2年目の冬だから1990年1月頃にN嬢をスカウトして2人で稼働を始めたのだと思う。最初の発表会は社内LANを使ったグループウェアだったか。出席した記者は70人ほどだった。

印象深く残っているのは会社の売上が2ヶ月ゼロになったバグ騒動から4年ぶりに改訂した一太郎Ver.5の発表会だ。私が全体の責任者で広報は記者の招待から当日の進行一切と配布物を全て制作する。会場の手配と造作などハード面は販売推進のM田氏が担当していた。最初の問題は会場の選定だった。

あれはファッションショーなどが開かれる原宿クエストだった。何人来るか予想できず私は親しい記者数人にリサーチしたと思う。M田氏は4年ぶりの発表だから大々的にやろうと言う。結局M田さんの意見に従ったような気がする。大きすぎて閑散とするリスクはあるが入りきれないよりはいい。

出版社の営業や広告代理店などもM田氏らが招待したが出席は260人。1992年10月26日だという貴乃花と宮沢りえの婚約会見の出席者が同じ260人で私たちの発表会はそれほど大きなものだったのだと思った記憶がある。ファイルをひっくり返して調べるとそれは1992年10月22日(木)だった。

寒波とバッテリー上がりと米津玄師 (2月6日・火)


上勝は昨夜少し雪が降ったようだが積もらなかった。徳島市は積雪で国道55号線は大渋滞だったらしい。雪予報の日の空港行きは危険だと改めて認識した次第。それにしても寒いのである。北陸の福井などでは1,500台もの車が動けなくなって10時間以上閉じ込められているらしい。

そんな午後に食事に出ようとしたけどフィットのエンジンが掛からない。寒さでバッテリーが弱ってしまった様子。とりあえずフォレスターで出かけて食事と買い物を済ませ帰宅してからブースターケーブルを繋いでフィットのエンジンを始動。1時間弱アイドリングで放置しておいた。

バッテリーを交換したのは2年前の1月。まだ頑張ってもらおう。ところでFacebookに書いたのだが関ジャニ∞の深夜TV番組「関ジャム」で音楽プロデューサーが2017年に発表されたJ-POPの楽曲でダントツ1位と評していたのが米津玄師(けんし)「灰色と青(+菅田将暉)」。徳島出身なのである。

YouTubeでback numberや欅坂46を探していると必ず出てきていて気になっていたのだが妻が既にダウンロード購入していると言うのでコピーさせてもらった。back numberと合わせて聴き込んでいるところ。そんなわけで最近はFMラジオは切ってPCの前で画面を見ながら音楽を聴いている。

実家から帰宅と第九演奏会の席 (2月5日・月)


昨夜は実家で24時半頃に寝た。でも2時半過ぎに目が覚め2時間半眠られず。布団が重いのだ。上勝の寒さに慣れた私に鳴門の気温は大したこともなく掛け布団を1枚だけにして5時過ぎに寝て8時半起床。上勝から持って行ったコーヒーを淹れ10時半に実家を出て妻を空港に送ってきた。

次は12日に行われる第九演奏会の資料を受け取るために城ノ内中高の練習に付き添っている「響」団長を訪ねて田宮の徳島県教育会館。中学の同級生で城ノ内中学教頭のF本とも会ってそのまま団長と教育会館の喫茶店で昼食。銀行を3軒回って郵便局にも寄って帰宅したのが14時前だった。

さて第九の演奏会で今年の合唱団は約3,000人いるらしい。個々の立ち位置は会場のアスティ徳島の座席で指定されいる。昨年はテナーの最上段近かったが今年は何と1列に5人しかいないオーケストラ脇のアリーナ席の前から2列目。しかも客席から向かって右端だからオーケストラのすぐ隣。

団長によると歌える合唱団メンバーを前列に配置したということらしい。フォルテシモで歌い続けるのは疲れるのでときどき休もうと思っていたのに観客から丸見えで下手をすると指揮者にまで声が直接届きそう。これではサボれない。参ったなぁ。ちょっと真面目に自主練習しておくことにする。

雪を避け実家泊 (2月4日・日)


妻が月曜から東京出張を予定している。でも再びの寒波。予報は晴れマークだが上勝では昨夜雪が降った。それより朝になって徳島市内が積雪しているという情報。明日11時には空港に着きたいが路面凍結で渋滞したら困る。今日の便に替えるにはキャンセル料と正規料金の予約で4万円の追加出費。

マイレージを使おうとしたら予約は4日前までらしい。飛行機が飛ばないということはないだろうが月曜朝の渋滞は心配。そんなわけで渋滞リスクを最小にしつつ追加料金なしという選択をした。鳴門の実家に泊まることにしたのである。ここから空港は車で10分。まず問題はないだろう。

私は実家に1泊だけだがそれなりに準備が必要で着替えや歯ブラシなどをバッグに入れてノートPCのアップデートを無線LAN環境で行おうとしたらバッテリーが0%。OneDrive for Businessは42個のファイルを同期。カスペルスキーの更新やWindows Updateを手動実行して3度の再起動で1時間。

18時に出て夕食は何となく旧11号沿いの藤崎屋で8月以来の鰻。蒲焼き定食の上で3,000円。40分ほど待たされたか。母と弟と行ったことがあるような気がしていたが思い違いだったらしい。実家に着いたのは20時過ぎ。母はそれなりに元気。テレビを見ながらビールを飲んで24時頃就寝(予定)。

内定者懇親会後に意気投合したF嬢 (2月3日・土)


私がJ社の入社内定者として懇親会に出たのは1987年秋だったと思う。どこで行われたか忘れたが駅前に戻ってからF嬢とコーヒーを飲みに行った。私と同じ同志社出身はいなかったが同志社女子大出身が2人いて1人がF嬢だった。徳島駅前まで戻って偶然会ったか何となく2人で喫茶店に入った。

なぜJ社に決めたのかという話をしたと思う。そして意気投合した。入社後ある女性のことで親友Kと話をしているときF嬢が来て「彼女は止めておいた方がいい」と言ってくれたこともある。亡くなったお祖母さんの家だという佐古の一軒家に住んでいて男女5人ぐらいで泊まりに行ったこともある。

一太郎Ver.4へのクレームの嵐の最中に彼女が泣いたこともある。 2歳上のT本氏の八万の部屋で飲んでいるとき彼女を呼び出し好きな人を聞き出して彼も呼び出したのがM川氏と結婚するきっかけだと思う。M川氏と飲んでいてF嬢を呼び出したのだったか。何せ彼女は佐古から八万にタクシーで来た。

辞めて以降は最初の同期会I君の送別会昨年の会ぐらいでしか会ってないと思うのだがもしかすると元同僚の女性の中で一番心が通じ合っているのは彼女じゃないかと思ったりする。J社は仕事の場ではあったが青春そのものでもあって当時の感覚はいつまでも持ち続けるものなんだなと。

内定者懇親会 (2月2日・金)


地元の酒店にビールと焼酎を買いに行ったところ先日の宴会でも一緒だったYさんと雑談になった。ここのブランドで販売している日本酒は松浦酒造が製造していて前社長のM嬢や新社長の喜屋武さんの話をしていたのだがYさんの姪っ子がJ社に勤めていたらしい。深夜2時に帰宅する日もあったと言う。

ということは部署はプロジェクト推進テクニカルライティング。通称プロ推だろう。年齢を聞くと私とは2年重なっていることが分かった。共通の知人は200人はいるだろう。私のことを知っているかも知れない。もしかしたら秋にあった内定者懇親会で私が司会をしたときの新卒の可能性もある。

そこまで思い出したが内定者懇親会の司会をいつどこでやったか覚えていない。完成前の川内ブレインズパークの新社屋で行われた懇親会に私は出席するため駐車場に車を駐めて行った記憶があるのだがそのときか。でも私はやる気がなくて渋々行ったような気分が残っているから違うような。

企業広報大賞の授賞式でオリックス宮内社長のスピーチに感動してその話題を司会の中で話したような気がするから1996年秋か。でも場所はどこだ。渭水苑祥雲閣かホテルクレメントか。そう書いていて私の入社前の1987年秋にあったはずの内定者懇親会もどこだったか忘れた。誰か。

消防点検で最後はN氏と24時 (2月1日・木)


消防団の点検の1日である。夕方まで雪が降っていたが今日集まったのは意外に多く7人だったか。分団長は別の会議で欠席していて18時に集合して鹿子山は近所のY氏に任せ日浦はT氏に留守電で依頼し4人が中央へ。残って飲むのはF君含め3人ということで私と総務部長N氏は買い出しに行った。

麻婆豆腐や餃子の準備をしたが3人のはずが阿南在住K君と役場M課長も参加して5人。でも2人は1時間ほどで帰りF君も22時からのドラマを観たい出て行き最後はN氏と2人。土曜の宴会での私の行動を確認したが特に問題はなかったらしい。そのときの諸々の話を中心にさらに2時間。24時頃に帰宅。

ここには書けない話をいろいろとしたのだが酔っぱらって記憶をなくしていた土曜の私が意外に冷静な行動をしていたことを知ってホッとした。最後は皆でハグをし合ったと聞いたのだが私はS嬢としたことを後日指摘されただけで記憶は他にないしN氏も私の行動は分からないらしい。

記憶をなくしても私は冷静だったと解釈しよう。でも今日は5時間ビールを飲み続けて酔った私は帰宅して着替えるとき転倒して右目の右上をケガしてしまった。さすがに帰宅後は白湯ばかり飲みながらback numberを聞き続けている。「長くなるだけだからまとめるよ 君が好きだ」。そういうことだ。

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© 2018 Takashi INAGAKI