2012年3月

東京のライターSさんと鳴門〜神山 (3月31日・土)


妻が東京で一緒に仕事をしたライターのSさんが徳島の企業取材に来られていて私たちが観光案内をすることになり9時過ぎに出発。徳島駅前のホテルに10時5分。私は初対面だと思っていたら既に会っていたらしい。多分2007年の三宅島に行く直前。渋谷のお好み焼き屋だと思う。

上勝を出るときは暴風雨に近い雨。まずは鳴門の四国八十八カ所一番札所・霊山寺は傘を差して。次にすぐ近くの大麻比古神社。第一世界大戦で捕虜となったドイツ兵が地元民と交流して作ったドイツ橋なども見学。昼食は「あらし」。やっぱり今日も行列ができていたが5分ほどで席に。

午後は神山へ。徳島でスピリチュアルポイントと言えば何を置いても神山である。まずは今日も迷いながら立岩神社。行き帰りとも20mはあるだろう杉1本を載せたトラックが山道で難渋しているところを抜かせてもらい。道の駅に寄ってから上一宮粟神社。ここはもっと知られていいと思う。

神山から石井に下りて国府町の気延山にある八倉比売神社。天照大神の葬儀次第が伝わる。東京時代に神山移住を考えていたとき訪れ感動した神社ばかりだ。時間がなく慌てて四国三郎橋付近で道を間違えながら空港に。強風で45分遅れた飛行機にお見送り。

香川からのお客様とテニス (3月30日・金)


香川からお客さんが来た。Ustreamやツイキャスで配信をしている方で妻に誰かから紹介があったらしい。香川の短大の準教授とツイキャスなどで番組を制作している方々。それに彼らの視聴者である上勝の友人も一緒に。四国のソーシャルメディアで先頭を行っている人たち。

10時頃来られて1時間半事務所で話をして「いっきゅう茶屋」で昼食を食べながら1時間。ゴミステーションなどを見学して3時間話をした。早速ツイッターやFacebookで繋がるのも面白い。ゼロ・ウェイストアカデミーの局長にも言われたのだがUstやっている人って特徴的な何かがある。

午後は役場に2度に渡って行き今年度の仕事に区切りを付けた。今週は上勝での年度末の仕事に忙殺された感がある。戻ってテレビを付けて高校野球。6回あたりから見たが県代表の鳴門高校は9対1で負けた。2戦連続サヨナラ勝ちで期待したがベスト8止まりだった。

夜は月ヶ谷温泉近くでテニス。私は5ヶ月ぶり。仲間が予約してくれて遅れて夫婦で行って最後は5人。休みながらだけど2時間半ほどプレイした。サーブの練習をやってみたらと妻に言われて最後は10球に2度ぐらい入るようになった。戻って4人でビールを飲んだ。仲間に感謝。

鵜野田尾峠での事故 2 (3月27日・火)


当然シートベルトをしていたが頭をフロントガラスにぶつけていたようだ。「ハザードを付けて」と言い車から下りてもらった。頭をぶつけた以外の外傷はなかった。「警察に連絡して」と言われて私はUターンして派出所に駆け込んだ。確か誰もおらず派出所の電話で連絡をしたように思う。

事故は右コーナーを抜けて後輪が流れたMR-2を立て直そうと左に逆ハンドルを切ったことで左のガードレールの支柱に突っ込んだようだ。エンジンは後部にあるからフロントが緩衝材となった。しかも支柱には車の中央をぶつけたから緩衝効果が高かったのだと思う。

ハザードを付けたときフロントバンパーの左右のランプが向かい合って点滅した。よく見れば中央のナンバープレートがほぼ中央から曲がってほとんど平行になっている。つまり事故はフロント中央をガードレールの支柱にめり込ませ支柱を起点に車が回転して逆を向いて止まったのだと推測した。

警察を待つ間に通りかかった車がスピードを落として見ながら行く。中には声を掛けてくれる人もいた。JAFを呼びレッカーで鴨島を経由してかちどき橋のトヨタに運び込んだのだと思う。翌日だったかI瀬君と改めて事故車を見に行った記憶がある。23年前か。あの事故は忘れられない。

※過去の業務ファイルのあった社内報原稿を見ていてこの事故が1989年10月上旬だと分かりました(2021年3月27日追記)。

鵜野田尾峠での事故 (3月26日・月)


I瀬君が入社早々に乗っていたのはトヨタMR-2だ。ミッドシップエンジンの2人乗り。私は入社した秋に日産シルビアQ'sを買った。1,600cc。デザイン性からバカ売れしたらしいシルビアを私はFRだから買った。そして金曜の夜は徳島県内の峠道を一人で走ることが趣味になった。

たいてい1人で走るので2台で遊びに行くことはほとんどなかった。でも1989年の秋。沖縄の社員旅行から帰った翌日は休みで夜なぜかI瀬君と2台でドライブに出かけた。近場で気に入っていた鳴門の大谷から瀬戸に抜ける峠道をまず私が先行して走った。

瀬戸内の国道11号に出てI瀬君に先行してもらい彼がよく行く峠道に入った。鵜野田尾峠だ。私は1車線の狭くスピードが出せない道が好みだったが彼が入った峠は両側で2車線ある。当然スピードが出せる。山道に入りいくつかのコーナーを経て私は付いて行くのを諦めた。彼は速すぎた。

私は車内でディープパープルか何か音楽を大音量でかけていた。でも右コーナーの手前で異音を聞いた。そのコーナーを抜けると50mほど先の直線でI瀬君のMR-2は左車線でこちらを向いて止まっていた。私は彼の車より10mほど手前に止めハザードを付け車を下りて駆け寄った。(続く)

同期のI瀬君 (3月25日・日)


J社を辞めて愛知の実家に戻るI瀬君のことを書こう。1988年の3月30日と31日は入社前研修だった。入社式を含めてそのときのことは以前書いた。姓の五十音順に並んだはずで隣がI瀬君だったはず。私がJ社で初めて話をした同期の友人だと思う。それで私は最初に彼と仲良くなった。

入社した秋に買ったS13シルビアQ'sで初めて事故を起こしたときに同乗していたのがI瀬君だ。社内でジムカーナ大会を始めたのもI瀬君。彼が社外の大会に出場したとき美郷のカートランドに見に行ったこともある。彼が何度目かの走行で第1コーナーに突っ込んで事故したのも見た。

八万のハイツ福寿園という借り上げ社宅にもよく遊びに行った。2LDKの間取りは単身者には不釣り合いでこんないい社宅を用意してくれた会社は凄いと思ったものだ。同じ社宅にいた同期のT本氏宅にもよく行ったがこちらが乱雑だったのに対しI瀬君宅はいつもとてもきれいにしていた。

ソニーのハンディカムを買って車に付けてジムカーナの走行を録画していたように思う。当時30万円近くしたはずだ。バイクも1,000ccを超えるような大型に乗るようにもなっていた。車はMR-2からCRXそしてRX-7などだったようだが何と言っても私にはMR-2の印象が強すぎる。(続く)

退職するI君ら同期の仲間と (3月24日・土)


J社同期入社の友人Kから「I瀬君が辞めて愛知の実家に帰るから最後に会わないか」と連絡があった。そして昨日金曜。Kの都合で会社近くの川内の居酒屋に21時集合。皆は15分遅れぐらいから集まり始め顔だけ出した人を含めて総勢14名。最後は11名で23:40頃まで話をした。

私を除く13人は現役社員。と思えばI瀬君もM子嬢も昨日付で退職したと。何となく2人の送別会の趣。M子嬢のことは旧姓から「やっこ」と呼んでいるが旦那のMちゃんは東京転勤なんだとか。何も飲まず帰ったK部君は糖尿病で2月に2週間も入院したと言うし大変だなぁと思った次第。

I瀬くんM屋くんら独身も多いが70人いた同期のうち同期同士で結婚したのが6組。昨日はうちM田君とM川君が夫婦で参加。K保家はえっちゃんだけ。O川家はO君だけ。Y田家はYちゃんだけ。ちなみに昨日参加者の中に同期ではないが社内結婚したのが私を含めて2人。いずれも離婚。

24年経ったが研修で苦労した青春の仲間たちなのですぐに当時の感覚に戻る。Yちゃんが淡路の公園でやっこの紫のパンツを見たとか何故そんなことを覚えているのかという無駄な記憶を披露し笑い転げるの巻。帰りは逆方向なのにM川夫妻に鳴門の実家まで送ってもらった。ありがとう。

石井町での演奏会 (3月18日・日)


9時過ぎに出て石井町公民館へ。今日も眉山の南西を通ったら1時間3分で着いた。10時半から混声合唱のリハーサルがあり終えてソロステージのリハーサル。「響」メンバー5人で「筑波山麓男声合唱団」を歌った。ピアノ伴奏は昨日急きょ依頼した名西高校のI先生。私の元同級生。

用意されたサンドイッチを食べて13時から本番。女声合唱は悪くないが後半に名西高校合唱部が加わると全く違った。特にソプラノは若さだけで美しい。ソロのステージではM先生の教え子なのか名西高校出身者なのか東京から来たのだろうソプラノの2人が演奏。素晴らしかった。

出演者の中に三線を弾く若い男性がいてM先生の息子だと聞いたから話しかけたら孫だと言う。彼の母上がM先生のお嬢さん。それは中学の合唱部で2歳後輩だったJ子さんだ。沖縄で精神科医をしているらしい。帰りにM先生からは出演のお礼として泡盛などをいただいた。

演奏が終わった後に今日も女性から話しかけられた。「H見です」と言われて分からなかったが97年に出演したミュージカルでダンスチームにいた人だった。何度か車で送ってあげたしファミレスで偶然会ったこともある。今日出演していた男性の彼女らしい。懐かしい人と再会が続いた2日間。

名西高校 (3月17日・土)


先週も練習に行ったのだが今日も。徳島県立名西高校。徳島市の西隣の石井町にある。先週も通ったが八万から神山に行く道を途中から北進して徳島市内をショートカット。国道55号は渋滞していたが今日は1時間10分で着いた。車中でおにぎりなどを食べながら。

本番が明日で地元のママさんコーラスグループが出演する。私は男声の助っ人。よく分かっていなかったのだが名西高校合唱部も一緒に出演するらしい。名西高校には芸術科音楽専攻があって合唱部は女性ばかりだが県内の高校では今一番上手いと思う。今日は合同練習を行った。

練習前にピアニストの1人に話しかけられた。先週見かけて気になっていたのだが高校の合唱部の3つ後輩だったI藤嬢。私とは重なっていないが大学時代に遊びに行って何度か話をしたことがあったのだろう。どう見ても30歳代の若さだったので驚いた。ピアノ教室の先生らしい。

パート練習が終わって合流したとき別の人に話しかけられた。今は姓が変わっているがS藤I代嬢。中学3年と高校1年でクラスメートだった。高校時代はオーケストラ部でヴァイオリンを弾いていて確か音大に行ったと思うが今は名西高校のピアノ教師なんだとか。驚き2連発の名西高校。

原子力発電の是非 (3月16日・金)


原子力発電についてどう考えるかというと私は反対派である。福島第一原子力発電所が爆発して放射能をまき散らしてから1年経って今なお原子力を推進しようという人がいることが信じられない。その人個人の利益があるのだろうと推測するしかない。あり得ない判断だと思っている。

ただしタイミングについては議論があることを認める。今すぐ全ての原発を止めて廃炉を進めるのか当面は原子力を併用しながら別の発電方式を推進するのか。風力や地熱や波や太陽光などさまざまな発電が実験され一部実用化されているが原子力の不足分を補うには時間がかかる。

それでも私は今すぐ廃炉にすればいいと思う。今年は関西も四国も原発は検査で停止していて電力は足りないだろう。それでも今の電力で何とかすることを考えるべきだ。これまでが電気を使いすぎていたのだ。私が山の中で住んでいるから言えることかも知れないが。

問題は電力会社のあり方にある。原子力が止まり火力に頼っている昨今は燃料費が高くなっているらしいが自動的に利用料金に反映される仕組みになっていて電力会社は絶対に損をしない。そんな甘やかされた企業を信用できるわけがない。政府が真っ当な判断をすることを期待する。

瓦礫処理 (3月15日・木)


東日本大震災から1年が過ぎた。11日は名西高校で合唱の練習中だったが男性4人が集まったパート練習のとき4分遅れだったが皆で黙祷した。さて震災から1年経って気になるニュースは被災地の瓦礫処理についてである。今日のテレビで見たが6.7%しか処理されていないらしい。

被災地以外での瓦礫処理を進めるため他の自治体が瓦礫受け容れを表明すると一部の住民が反対するらしい。東京電力や政府が福島第一原子力発電所の状況について震災直後にウソをついていたことが明らかになっているから放射能への不安とともに政府への不信感があるのだろう。

でも私は反対派の意見に反対だ。宮城や岩手の瓦礫が汚染されていると決めつける根拠はない。受け入れを表明した静岡県島田市は住民にも放射線量の測定を勧めているらしい。安全を担保しながら手順を踏んで進める自治体に反対する感情的な態度こそ批判されるべきだ。

この問題については反対派を「黙れ」と切り捨てた石原東京都知事が正しいと思うし広域処理を進めると言った野田首相を支持する。政府がウソを付いたのは事実だがその問題と混同するのは間違っている。徳島県がこの問題について判断を避けていることにも不満を持っている。

上勝TVと名西高校で合唱の練習 (3月11日・日)


土曜は上勝TV第16回。1月に続き会場は「くるくる工房」。今回は町内で撮影が行われた映画のロケについて。ロケに参加した妻が出演することにしてパーソナリティのうちるぱんとまりりんには休んでもらった。特別にノダさんも参加。準備中に元スタッフのN氏が謝りにきたのには驚いた。

技術統括Mくんが投入した新兵器が悪いのかカメラの映像が途中で止まりiPadのカメラを使って配信を続けた。そのほかにもハプニングはあったのだがここには書くまい。我々とは常識が違う人も世の中にはいるのである。番組は同時視聴のピークが62で総視聴363だったか。

日曜は11:45に上勝を出発。途中のコンビニでパンを買って車内で食べながら石井町へ。来週ある合唱コンサートの助っ人で練習に参加。会場は名西高校。このコンサートの主宰が母校の合唱部の元顧問という縁で頼まれたのだ。私が卒業した後に赴任してこられたM本先生。

1時間15分かかり少し遅れて行ったら男性メンバーが紹介されている最中だった。先生と会ったのは多分25年ぶり。終えてたった4人の男性でパート練習。若い2人は初対面の母校の後輩ながらあまりのうまさに驚いた次第。夜は「響」で合唱ばかりの一日。

大菩薩峠 (3月9日・金)


木曜。ふと妻と昼食に出かけ何となく阿南にある「大菩薩峠」に行ってきた。この店のオーナーが自分でレンガを積み上げて建造した2F建ての喫茶店である。タウン誌などによるとまだ建造中とも聞く。一部は廃墟のような佇まいを見せ一見すると怪しい雰囲気も漂っている。

私が初めて大菩薩峠に行ったのは1983年だと思う。仮面浪人を終え名実ともに大学生になり夏に車の教習所に通った頃。友人の徳島大学工学部の学生にして県内の山道を車で走る楽しさを私に教えてくれたI氏が連れて行ってくれた。彼は県内のあらゆる喫茶店に行っていたのだ。

以来1990年代前半頃まではよく行ったと思う。最近行ったとすれば数年前。友人と行った記憶がある。その前は1998年8月。その年の3月に東京に転勤した元日経徳島支局長K氏が県内JR全駅乗降を完成させたいからと夏だけ開設される田井ノ浜駅に着たのを迎えに行った帰りだった。

その前日だったか川内の旧道で前の車に詰めすぎて道が見えず路肩の石に乗り上げて当時乗っていたインプレッサの左ドア下を壊したのだ。それで左側のドアを開け閉めするのに苦労したのが大菩薩峠の2F駐車場だった。その思い出と ともに記憶がある。

デスクの移動とパーティション (3月5日・月)


デスクを自宅から事務所に引っ越し始めたのは2月17日だった。S氏に手伝ってもらい1人で運べないものはその金曜に移動させ本などは翌土曜にやった。確かに2日間で重量の90%を運んだかも知れない。でも実のところそれからが長かった。

大きなものを運んで安心してしまったのだ。翌週は3日ぐらい作業しただけ。細々したものを運び重量で95%まで進んでいたと思うがそこからさらに2日かかった。結局28日(火)の夜になって捨てる書類や本や紙ゴミをヒモでくくり始めたのだがヒモがなくなってしまい作業終了。

水曜午後にヒモを買ってきて作業再開して書類や本の束が 6つぐらいと段ボールが4束ほど。これを車に乗せてスペースを空け掃除機を掛け夜になって妻のベッドを自宅に移動。ベッド回りの衣装ケースや本なども運んで何とか形が整った。やれやれ。

さて私のデスク回りだが目の前にレーザープリンタがあるので動作音がうるさい。待機中も音がしていて気になる。そこで人の高さほどあるパーティションを買ってプリンタの横に設置したのが今日。音はやっぱり漏れるから効果は低かったがプリンタ回りは少し整理できたところ。

一斉清掃 (3月4日・日)


朝8時集合で今日は町内一斉清掃。昨年に続き夫婦で参加。予報では午後から雨だったが朝7時の防災無線で決行するというので起き出したら雨が降っている。でも8時には地区の方が続々集まってきていたので私も参加。役場のY氏に帽子を借りて。

Y社長の軽トラに乗って今年は県道へ。既に何台もの軽トラが駐めて作業を始めようとしている。私たちは一番先まで行って県道から斜面を下りてゴミ拾い。T社長と2人のお子さんも一緒に。ゴミはどんどん見つかってすぐに大きなゴミ袋がいっぱいになる。

多いのはコーヒーの空き缶。ビール缶も何個か。それに栄養ドリンクと思われるガラス瓶。さらにペットボトル。ビニールもいくつもあった。缶は水や土が入っていて全て出し切れない。さらに雨で濡れるから重くなる。ゴミ袋を持って何度か県道に上がり私は合計3袋分になった。

軍手は水と土でどろどろになり最初は木の枝の下で濡れずに汗をかくほど暑かったが次第に雨に当たるようになって最後はずぶ濡れで寒くなった。拾ったゴミは軽トラでステーションに持ち込んで解散。山の斜面を2時間歩いて疲れてしまい風呂に入って横になったらそのまま寝てしまった午後。

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© 2012 Takashi INAGAKI