2011年3月
9時50分頃にホテルを出て地下鉄で有楽町経由モノレールで羽田空港。帰りの便は空いていた。妻に迎えに来てもらって昼食はトンカツを食べて15時過ぎに上勝に戻った。3泊4日の東京出張は上勝に引っ越してから最長だったが何の違和感もなくあっさり終わった。
さて東京の夜は暗かった。早めに帰る人が多いらしく19時前後の電車の混みが酷いらしい。ビルは電気が消えていてコンビニも看板を消し天井蛍光灯も一部が消えている。新宿西口の屋上看板も消えていた。徳島の繁華街レベルの暗さだがいいことだと思う。これまでが明るすぎたのだ。
コンビニでは水のペットボトルが少なかった。1人1本か2本の制限。護国寺前には少量だがあったものの飯田橋には500mL以上のペットボトルがなかった。だから毎晩ホテルには2Lのポカリスウェットを買って帰った。買い占めは良くないが現に水がないと不安に感じると思う。
ところで私は電車の乗り間違え多数。初日の六本木からの帰り大江戸線から南北線に乗り換えたが周りの人が降りるからここが終点かと勘違いして乗った電車が逆向き。もう一度正しく乗ったら三田線で大回りして飯田橋まで帰った。今日もJRのつもりが有楽町線に乗っていたり。やれやれ。
今日も朝から護国寺。午前中は昨日ミーティングした件について原稿を書きかけたが10時過ぎから5Fの狭いスペースで別の会議。12時前に6Fに移り外部の方を含めた打ち合わせ。弁当を食べながら。さらに13:15から会議。14時半頃まで。この手の会議に出たのは5年ぶりぐらいだろうか。
事前打ち合わせでご挨拶した地図大手Z社N氏の方からお久しぶりですと言われ以前会っていたことを思い出し。フォント大手M社K氏とは会議が終わって雑談。多分3年ぶり以上だと思う。法務担当の繋がりで元同僚で大阪にいるO氏とは会っているとか。
午後は再び原稿を書いて18:30前に退社。ホテルに荷物を置いて三軒茶屋へ。かつての通勤コース。三茶の階段でT氏と会ってそのまま「名西酒蔵」。東京時代によく行った徳島の神山出身G氏が大将の徳島食材にこだわった居酒屋である。遅れてT氏の同僚O氏。
今日は秘密のプロジェクトの顔合わせのようなもの。初対面のO氏から現状を聞き問題の打開策についてアイデア出し。他の対策についても少し話をした。T氏と私は問題意識は共通しているが今後さてどうなるか。ソフト開発の奥深さに触れられて楽しい。
朝は護国寺。10時半頃からK氏と打ち合わせを始めて結論がでないまま昼食は講談社前へ。15時過ぎに事務所を出て荷物をホテルに置いて駒沢大学へ。義母のマンションを訪ね地震のことや品不足のことなど雑談を結局40分ほど。元気そうでよかった。
渋谷経由で新宿ヨドバシ。ソフト売り場をチェックして丸ノ内線で赤坂見附へ。今回の出張の目的だった送別会。こんなところに店があったとは知らなかった「うまや」。古い日本建築。1Fでは接待と思われる外国人も多数。2次会はPDAの師匠M氏とよく行ったバー「モダンタイムズ」。
送られたのは半年ほど私の部下だったこともある広報担当N嬢。2003年から8年いたらしい。彼女と最初に会ったのはいつでどういうシーンだったか全く覚えていない。でもニュースリリースの書き方を伝えたところ即座に理解してくれたことを覚えている。
そして最近は彼女が書くニュースリリースで修正すべき点はなかった。私から見て完璧なニュースリリースだった。その功績は最初に教えた私にあると挨拶で話をしたがもちろん彼女の能力の高さ故である。凄い仲間と仕事ができたことを感謝する。まずはお疲れ様でした。
11時半前に上勝を出た。空港ではいつものように徳島ラーメンを食べて13:40発JAL便で東京。京急とJR秋葉原経由で飯田橋。花粉症や放射性物質対策でマスクをしている人が多いかと思ったが山手線内マスク率5%といったところ。表向き平穏な東京である。
夜は六本木で宴会。発行されて1年近く経つのだが『図解 わかる著作権〜クリエイティブ×ビジネスの基礎知識 』の打ち上げ。打ち上げするのを忘れていて諸事情があり3月中にやろうとなった。私を含め原稿執筆を担当したメンバーと監修いただいたN弁護士と。
東北応援という選択で「東北居酒屋なまはげ」。銀座店は私も妻も行ったことがあるが六本木店は初めて。途中になまはげが客席に回ってくる趣向。今回の趣旨は本執筆の打ち上げだったが話題のほとんどが震災のこと。当日の話や後日談など。あの日のみんなの生の体験を聞いた。
気になったのはお店の入りが半分以下で六本木も人が少なかったこと。電車も混雑していないし電気の消えた看板やオフィスが多く街が暗い。一方私は何も考えず周りの動きに合わせていたら帰りに2度も乗り換えに失敗。東京では集中していないとダメだ。
とくしまマルシェ×UstTodayと城南高校 (3月27日・日)
前夜「徳島UST春の夜」後の飲み会でツイッター“おそれいりこだし”部長らと2時半まで飲んで私たちは予めチェックインしていたホテルに帰った。富田浜の越久。そんなホテルがあるとは初めて知ったが何せ駐車場込み2人で5,500円と格安。日曜は7時40分にホテルを出た。
今日は「とくしまマルシェ」。これもUstTodayに配信してもらう手はずで東急インに8時にM氏とN氏を迎えに行った。9時には女性パーソナリティ2人をお迎え。10時からの配信は室内予定が写りが悪いということで基地局も屋外へ。回線はLANがなくWiMAXを使ったらしい。
女性パーソナリティ2人はツイキャスで配信しながら食べ歩き。その配信を基地で取り込んでUST配信。日曜朝というのに同時視聴者数は上がり私が見た限り最高で302だった。とくしまマルシェと徳島のPRになったと思う。選挙運動中の飯泉知事も来たので妻が配信のことを説明して。
私はネットブックでUST画面に書き込んでいたが動かなくなったりドタバタした。マルシェ自体の人出も今までより少なめ。おそらく同じ時間にあった高校野球・城南高校の試合をテレビ観戦している人が多かったと予想。そして城南高校は報徳学園に勝った。いやビックリ。
(この日記は日曜夜にアップしました)
土曜は人気Ustream番組「UstToday」を東京から来てもらい「徳島UST春の夜」というイベントがあった。徳島でUSTムーブメントが起こってから約1年ということで徳島県商店街振興会青年部が企画。徳島のUST番組が一同に会しUstTodayがそれらを紹介しながら配信した。
H氏から相談されたのが2ヶ月近く前。当日は8つのUST番組が集まり上勝TVからはパーソナリティ2人が出演。私は上勝TV公式アカウント担当。急造スタジオとは違う階から持ち込んだネットブックとiPhoneを駆使してツイートやリツイート。一方で約5番組が会場から同時に配信していた。
それよりUstTodayの特別ゲストが加ト吉のツイッター部長として有名になった末広栄二氏。今は加ト吉を退職され神戸単身赴任中ということで末広氏の提案で徳島入りされたとか。上勝TV技術担当M君が109Uを見てくれていた部長に「徳島にも来て」と伝えていたことを気にしていたのだとか。
末広氏は企業のソーシャルネットワーク利用での第一人者だろう。著書はアマゾンのカートに入れたまま買ってなかったことを少し後悔しつつ懇親会で末広氏の斜め前に座り2軒目で行ったロングバーでは正面に座り双方とも酔っぱらって話をした。いい体験をさせていただいた。
先日来目覚まし時計の電池が切れていた。単1が1個。2週間ほど経った今日になって替えたのだが予備の1個は目覚まし時計の中で切れた電池と同じ2010年8月が使用期限だった。多少液漏れしていたが使えたのでヨシとする。それにしても単1電池。普段は全く意識しない。
ところが東京では手に入らないそうだ。原発事故で関東圏は計画停電の最中にあり懐中電灯用に単1電池が大量に買われたらしい。今日になってコメリやコンビニで注意してみると徳島でも単1と単2は消えていた。頼まれて関東の親戚知人に送っているのだろう。単3と単4は豊富にある。
我が家の懐中電灯は確認していない。ここは徳島。計画停電とは無縁で時間も停電することは今は考えられない。とは言えキャンプ用のランタンは3晩ほど持つ燃料があるし3日ぐらいなら湯を湧かせるほどのカセット燃料もある。そもそも山の中。水もあるし木を集めれば湯ぐらい湧かせる。
さらにネットブックとドコモ通信カードで数時間ならネットにも繋げられる。今や入手困難なエネループも震災10日前に買っていてiPhoneの充電もできる。こうした防災対策も改めて見直すつもりだが今ではない。世間が落ち着いてから確認するつもり。数ヶ月後だろうか。
徳島県知事選挙と徳島県議会議員選挙が昨日告示された。知事は現職の当選が決まっているようなもので関心はないが県議選には少し目を向けている。我が選挙区から何人立候補しているかは知らないが私が認識しているのは今のところ3人。現職と上勝出身者と小松島の同い年。
現職の方は1月以上前だと思うがあいさつに来られた。最近よく話をする友人の父上でもあり親近感はある。一方で上勝出身だと噂の方はよく知らないが母上があいさつに来られた。同い年のは留守中に奥さんがあいさつに来たらしい。名刺が入っていた。
こうした戸別訪問は今まで徳島でさえ経験がなかったので驚いている。田舎の選挙を初めて経験。ちなみに同い年の中山俊雄氏は中学の同窓。上勝の友人F氏に教えられたとき小松島から来ていたソフトボール部のヤツだとは覚えていたがクラスが一緒になったことはなく記憶は薄い。
それにしても県議会議員の仕事は何だ。みな耳障りのいいことをパンフレットに書いているがそれは県議としての仕事なのか。15年ほど前だが県議会での質問を徳島新聞の報道だけを頼りに行っていた県議たちの態度を知り私は不信感を持っている。投票までにこのことを質す機会を得たい。
高校野球が今日開幕。プロ野球セリーグは関東地方が電力不足にも関わらず3月中の開幕を強行すると反発を受けている。一方世界のスポーツ選手が今回の震災に対してメッセージを寄せている。それで思い出したのが阪神淡路大震災があった1995年のオリックス・ブルーウェーブだ。
そのことを知ったのは秋だった。経団連の外郭団体である経済広報センターが主宰する企業広報大賞の授賞式があった。私が広報責任者を務めていた当時のJ社が富士通とともに大賞を受賞した。個人賞をオリックスグループの創業社長だった宮内義彦氏が受賞した。
帝国ホテルであったその授賞式で宮内氏のスピーチを聞いた。ブルーウェーブは神戸グリーンスタジアムが本拠地だったが1月の大震災で傷んでいた。観客動員が期待できないと1995年に限って本拠地を別に移そうという検討が社内でなされたという話である。
その稟議に対して宮内氏は「震災で傷ついた神戸の人々に勇気を与えるのが我々のやるべきことだ。本拠地は神戸で行く」という意味のことを言ったらしい。そしてプロ4年目のイチローの活躍もありリーグ優勝した。今年は。楽天は嫌いだが少しイーグルスを応援してしまいそうな。
日曜は徳島市で午後から「響」。今回は5月4日の定期演奏会で歌う曲の作曲家を招いての強化練習。北川昇氏。大阪のアマチュア合唱団でも歌っているそうだが何と27歳。一昨年に練習を受けた信長貴富氏は当時38歳。若い作曲家たちが活躍している。素晴らしい。
練習では北川氏特有の楽譜の癖を本人が伝授。細かく記された強弱記号を忠実にやるよう求められた。が私は音取りがやっとできたような段階。歌詞を付けて歌うのも3日目ぐらい。とにかく必死。前回も思ったが作曲家の言葉は大いに役立つ。4時間の練習でクタクタ。
春分の日でもあった月曜夜は隣町である勝浦町で宴会。上勝TV第4回に出演してもらったり協力していただいた方たちとの反省会。というより交流会。スタッフ側は私たち夫婦と地元のT氏。勝浦からは最初に相談してプレゼントを提供してくれたT氏と全ての連絡を引き受けてくれたS氏。
さらにビッグひな祭りを主催するNPOの方ら。場所は小学校を改築した「ふれあいの里さかもと」という宿泊施設。ここのボスと女将さんも参加いただき。J社F社長の実家がある地区でもありF氏の話も出た。大いに飲んで食べたのだが随分と安くしていただいた。ありがとうございました。
福島第一原発の放射線漏れについてAERAが「放射能がくる」と表紙で書いてツイッターで大クレームに遭っている。記事を読んだ東京の友人Y氏によると記事は真っ当らしい。AERAは不安を煽って壺を買わせる霊感商法のようなものだ。でも買ってみたら意外に役に立ったということか。
放射線被害のことについてはツイッターで流れてくる情報の中から既に何十本もの記事を読んだ。中部大学教授の武田邦彦氏のWebもその一つ。武田氏と言えば2年前に読んだ『偽善エコロジー〜「環境生活」が地球を破壊する』などで有名だ。際物扱いされがちだが真っ当だと思う。
読んだ記事の中で最も分かりやすかったのは「放射線と放射性物質の概念を混同して国民の不安をメディアは煽らないで欲しい」と題したガジェット通信の寄稿。何と著者は苫米地英人氏だ。「サイゾー」の連載やちょっと怪しい著書が多くて心配していたが今回初めてブログも知った。
苫米地氏とは1994年頃から数年間仕事で関わったし2001年頃にも何度か会った。オウム真理教の洗脳除去にも関わっていた彼のことは改めて書こう。そう言えば彼のブログで知ったのだが今日3月20日は地下鉄サリン事件が起きた日らしい。あれから16年。このことも記録しておかないと。
午後に妻と出かけて徳島市川内町へ。新築した友人宅に招かれ遊びに行ってきた。事前に地図を見ていたのに一旦通り越して電話したり。F氏とは今回改めて聞けばJ社に私と入れ替わりで入社したらしい。集まったのは私らを含め元同僚ら10人ぐらいと子どもたち。
F氏邸では話題はさまざまに飛んだがやっぱり震災直後であり地震と津波のことも。あるいは原子力発電の是非や被災したときのグッズに宇宙戦艦ヤマトのこと。さらに節電するために何ができるか。そこから生き方や働き方のことにまで議論は発展して面白かった。
運転は妻に任せて私は日中から飲んでいたので今日は震災ニュースを見たのは22時半頃に帰宅してから。ツイッターは少し拾い読みしたが。福島の原発は現場で作業をしている社員ら50人の奮闘と自衛隊に東京消防庁の活躍で落ち着きのメドが立ちそうな情勢だ。本当に頭が下がる。
原発の状況に光明が見え始めたことで今後は政府やマスコミへの批判が渦巻き始めるだろう。ツイッターでも徐々に通常のツイートが増えてきたことと同時に感情的なツイートも目に付くようになってきた。ツイッターとの付き合い方を考え直すときかも知れないと思ったり。
大地震から1週間。この間に私は「響」の練習が2回と月曜は飲みにも行ったが妻は土曜に買い物に出たきり外出していなかった。テレビとPCで情報が気になるが家に居続けては気が滅入る。今日は午後に誘って小松島の「こはくの天使」に行ってきた。偶然あるツイッター仲間とも初対面。
さて原発は自衛隊と消防が3号機に放水したらしい。一方で停電している原発に東北電力の電力線を引き込む工事も続いている。リカバリーに向けて前進しているようには見える。ツイッターでは放射線や原発についてさまざまな意見がある。安全だと言う人に対して御用学者だと批判する人も。
作家の広瀬隆氏は第一に電源回復に努めるべきで海水を使った以上回復は望めないとCSニュースで言いAERA記者だった烏賀陽弘道氏は放射線危機を煽っていると古巣である朝日新聞を批判。計画停電の首都圏では同じ映像を繰り返す民放は輪番で停波せよという意見もある。
被災者を受け入れようと徳島県を含む関西広域連合が動いたところに辞めたばかりなのに前夜官房副長官に現場復帰した仙谷由人氏が横やりを入れたという情報も。緊急時なのだ。やれるところから進めればいいではないか。この期に及んで極左活動家の権力闘争を見る不愉快。
妻は福島県いわき市小名浜で生まれた。その小名浜の一部は今回の津波で壊滅した。親戚のほとんどがいわき市にいるから今回の震災は人ごとではない。ただしいわきは広い。放射線が漏れている福島第一原子力発電所から親戚がいる地区まで60km近く。今のところ避難地域ではない。
ただ諸外国は自国民に原発から80kmの地点以遠への待避を求めたそうだ。妻の親戚も異母妹と姪はその地にいる。早い段階で徳島に疎開して欲しかった。でも交通機関が回復していなかった。今はガソリンがないようだ。私は焦っている。焦っているが何もできない。
今は政府を信じようと5日前に書いたが私は政府に対して怒りを持っている。命を削って奮闘している東京電力の現場社員には感謝している。でも遅すぎるじゃないか。自衛隊も機動隊も。核燃料を冷やす放水は10分後に始まるとNHKが言ってから何時間待たせるのだ。
その怒りは筋違いだ。現場の努力は大変だろう。でも今夜一時ツイッターが見られなくなったとき政府が原発の現状を隠蔽するため規制を掛けたと思った。そして今日のテレビを見ているとマスコミが政府とグルになって動き始めたように私には見える。ただ祈ることしかできない感情的な私。
仕事が手に付かない。テレビを付けて主にツイッターを注視して情報を集めて結果として精神的に消耗している。私は何やっているのか。福島原発の状況は刻々と変わり原因不明の白煙だとか3号機建屋が吹き飛んだ写真を見て官房長官や原子力安全保安院の記者会見を見て。
テレビはCMが再開したがACばかり。サウンドロゴが耳に障って仕方ない。記者会見はNHKでさえ質疑応答の最後まで放送せずスタジオでの解説に切り替わってしまう。生の情報が欲しいのに。民放を含め役割分担をして欲しい。同じような映像を各局がやることはないだろう。
ツイッターでは「子どもにも分かるよう説明して」と記者が東京電力の社員に言ったら「それが記者の仕事だろう」と答えたという話を読んだ。TBSの女性アナウンサーはm(ミリ)とμ(マイクロ)の違いを説明するゲストに分かりませんと言い放った。マスコミのアホさばかりが目に付いてイライラ。
一方ツイッターは偽情報はなくなってきたが私が使っているWebアプリHootSuiteでは公式RTされた価値の高いツイートが読めず取りこぼしも多い。それで別のWeb画面で読んで公式RTをしている。フォロワーに余計なツイートを読ませなくて済む。そんなことやって疲弊して落ち込んでいる私。
月曜。所用で出ていた徳島からの帰りに電話を受けた。飲み会のお誘い。被災地の情報で滅入っている妻を一人にすると不安がるので断ったのだが妻には夜に予定があったらしく結局夕方再び徳島に出た。車は友人の実家に勝手に置かせてもらい徒歩で秋田町へ。
会ったのは2月に会社を辞めたE氏とY氏。先日の日記に書いた2人。Y氏は東京で単身赴任中だが今回の地震を受けて急遽戻ってきたらしい。原発も心配だと言っていたが小さな節電にもなる。Y氏とは東京青山で飲んで以来5年ぶり。E氏とは7年前に会ったが飲んだのは12年ぶりだと思う。
この2人と一緒に飲む機会はそう多くないと思って出かけてJ社の話も出たには出たが話題は結局地震と津波のこと。楽しかったと言えば楽しかったが3人で黙り込むこともあって。帰りは代行で。東京時代に鳴門まで送ってもらったことのある人。上勝までは初めて利用した。
帰宅後テレビを見ると原発の動向は次々と変わる。火曜も原発の動向が気になって仕方ない。原発から20km〜30kmは自宅待避と。ちなみに妻の親戚は原発から30kmと書いたがいわき市は広く60kmぐらいありそうだ。それでも気になり夕方になって妻が義妹に電話して。
朝8時に集合して上勝町一斉清掃に参加した。各地区でゴミを拾い集めるのである。私が行ったのは山の奥。町道から捨てられたゴミを拾うのだが杉林の急斜面を下りなくてはならない。傾斜60度とか場所によっては75度。木に掴まりながらときに滑り落ちながら斜面を下る。
私は10人ぐらいいたグループの中で若い方から2番目。皆さんに続いて斜面を下り始めて早速ゴミを発見。缶コーヒーやドリンク剤のガラス瓶。洋服やコンビニ弁当など。5年ぐらい埋まっていたようなものもあるし昨日捨てられたようなものもある。タイヤも見つけてロープで引き上げてもらった。
私だけで大きなビニール5〜6袋はゴミを集めたと思う。3時間強で軽トラ2台の荷台が満杯。滑りやすい急斜面を何度も上り下りして汗だくでクタクタ。本当は午後から分別作業があったのだが一時帰宅して食事してダウンしてしまった。きつかった。でも多分次も参加する。
今日は夕方から「響」。確定申告書も夜間ポストに入れてきた。帰ってテレビでニュースを見ている。妻が生まれた福島県いわき市でも死者65名と。義父が生まれたあたりは津波被害に遭ったらしい。幼い姪2人がいるから福島原発の動向に気が気でない。ニュースを見ては夫婦で泣いている。
金曜に東京の友人たちは会社から歩いて帰り5時間かかったとか6時間かかったという人がいる。都心から神奈川の平塚まで歩き出した友人もいるし茨城まで帰る同僚や千葉に帰るツイッター仲間もいた。茨城の同僚は途中でタクシーに乗れて深夜帰り着いたとの報告を読んで私は寝た。
阪神淡路大震災のとき私は発生直後に東京出張に行き日中はテレビを見ないのでほとんど情報が入らなかった。東京の人たちは平穏に仕事をしていた。でも今回は事務所にテレビがあるしツイッターで情報も入る。自分に何ができるだろうかと考えるしそうツイートしている人が大勢いる。
午後に福島の原発で爆発が起きた。原発から20km以内に避難勧告らしいが30kmのところに妻の腹違いの妹がいる。妻は義父が亡くなった後に初めて彼女と会ったほどで関係は疎遠だが幼い姪が2人いる。姪2人だけでも徳島に避難させようと話をしたが交通手段が復旧していない。
ツイッターでは周りを津波で破壊された民家の2階から救助を待っている人の画像が流れてきていた。福島の原発について日本中が注目した政府の会見もテレビで見た。でも今は政府を信じよう。みんなで力を合わせよう。批判も検証も後回し。夜になってもテレビとネットを注視している。
今日は下界に降りて飲み会のはずだったが中止になった。宮城県沖で地震があったからだ。私が気づいたのはツイッターで発生から10分ほど経っていた。テレビを付けたら映像とともに速報していて揺れの激しさに声を上げた。それからテレビをつけっぱなし。
ツイッターでは東京青山で水道管が破裂して水が溢れている動画を見たし心配になって東京の義母に電話をした。世田谷では棚のものが落ちたぐらいで被害はなかった様子。そのうちテレビで津波の映像が流れてきて。車も家も畑の上を船と一緒に流していく。徳島沿岸部にも大津波警報。
あまりの映像に鳴門の母に妻がメール。返事がないので電話したら暢気なことを言っていて妙見山に避難するように言った。結果として鳴門に津波被害はなかったと思うが。一方で東京では電車が止まり帰宅できそうにない人たちが多数。彼らにツイッターで情報を提供しつつ。
深夜に気仙沼での大規模火災映像。そうだった。阪神淡路大震災のときも地震発生から徐々に被害が伝わってきて全容はとんでもない規模だったんだ。あの発生は朝6時前。今回と9時間のずれ。今も被害は進行中だ。周りを津波で破壊された人が2Fから撮った画像を見て泣きそうになったり。
私がJ社に入社した1988年当時の東京営業所は飯田橋の春日ビルと言った。飯田橋から九段下に歩いて左側。サポートセンターは右に少し入ったところにある岩見ビル。外装はレンガ。確か2Fにあったように思う。私たち本社の社員が東京に行くとサポートセンターを拠点にしていた。
おそらく晴海の見本市会場で開催された秋のデータショウのときだったと思うのだがソフトのデモの準備をサポートセンターでやっていたとき東京の社員は23時頃に次々と帰っていったことに驚いたことがある。徳島は車社会で夜はエンドレスなのに東京には終電があることを初めて知った。
このときだったか営業トップだったK府さんら先輩方と表に出てタバコを吸った光景を覚えている。あの頃はソフトのこともデモのやり方も見本市のことも何も知らなかったはずだが何故か私も準備に参加していた。役に立っていなかったような気がする入社1年目の秋だ。
昼食は大通りに出た角にあったトンカツ屋に行くことが多かった。岩見ビルでは後の東京支社長になるT氏が社長を訪ねてきた場にいたこともある。東京時代にビデオSALON誌で知られる玄光社によく行っていて岩見ビルを見に行ったらあのままだった。それも10年近く前のことか。
3月末に東京に出張することになった。目的は送別会と打ち上げ。つまり宴会。いや。本当の目的は別にあるのだが送別会の日程に合わせた仕事であって。打ち上げはさらにそれに合わせた日程であって。3泊して最後の夜は別の飲み会を設定しようとしているところ。
予約したホテルはエドモント。JR東系で今はホテルメトロポリタンエドモントと言うらしい。飯田橋駅から徒歩5分ぐらい。最近泊まっていたホテルモントレ半蔵門は狙っていた宿泊プランが半日で消えて3泊で3,000円値上がり。慌てて飛行機をマイレージで予約してホテルを検索。
私がJ社に入った23年前から数年間は東京営業所とサポートセンターが飯田橋にあった。エドモントは東京営業所の裏に入ったところ。帝国ホテルに泊まるようになる前の社長の定宿だった。当時は高級ホテルだったが老朽化したのだろう。意外に安かったのである。
エドモントでは社長に連れられて地下の鉄板焼屋で何度か食事したことがある。鉄板焼を初めて食べたのがこのホテル。その後どこで食べても当時のエドモントを思い出す。先日会ったN氏がまだ三洋電機の社員だった頃に初めて会ったのもあの店だ。まだあるだろうか。
先日ワールドビジネスサテライトを録画して見ていたらテレワークが特集されていた。会社に行かず自宅勤務する人たちと企業のこと。今は週8時間だけ自宅で勤務したらテレワークと言えるらしい。週1日だけ。でも逆だろう。週1回だけ会社に行くというスタイルの方が自然だと思う。
かく言う私もテレワーカーだ。社員として働いているわけでなく外注契約だが仕事は電話とメールで進めている。パソコンとインターネット回線がなければできない。仕事先は東京だから頻繁には行けず昨年は1回しか行かなかった。今年は3月末に行こうかと思っているが。
15年以上前にJ社の創業社長が面白いことを言っていた。「昔は会社の建物に朝みんなが集まってきて夕方になったら一斉に帰っていた時代があったと笑い話になる時代が将来来る」と。テレワークが当たり前になった時代から見たら通勤という行為が下らない過去の悪弊とみなされるだろう。
顔を合わさないとできないことも確かにあってテレワークだけで十分だとは思わないが今の通勤のあり方は単に過去の習慣の延長のようにも見える。特に都市圏での通勤の労力を考えるとテレワークを真面目に検討してみてはどうかと思う。単に思考停止に陥っているだけのように思うのだが。
Ustream番組「上勝TV」第4回の配信を行った。今回は勝浦町から。上勝と同じ勝浦郡にある隣町だ。徳島から上勝に来るとき必ず通る。私たちも買い物は勝浦ですることが多いし前からツイッターで繋がっていた人がいた。そんな縁もあり今回は思い切って外に出た。
最初に相談したのはみかん販売を行っているT氏。60歳前だと思うが早くから徳島の農産物をネット通販している。その方が連絡したのが30歳代のS氏。このT氏とS氏は昨年9月に私のところでの飲み会でお会いした。そんな繋がりがあって打ち合わせを行ったのが10日ほど前。
何万体というひな人形が並ぶビッグひな祭り会場をスタジオにしてやろうということになり現地NPOの方と相談してゲストの方に連絡してもらい。怒濤の準備は妻が担当。パーソナリティにも現場を事前に見てもらっていたし技術担当M君とは日曜朝にLAN環境などの確認も行っていた。
今日は18時に行きセッティング。ただ地元スタッフのT氏もN君も仕事で来られずカメラ操作は私が担当。パーソナリティ用カメラと手元カメラを操作。慣れない作業で1時間ちょっとなのにクタクタ。ユニーク視聴者数127。ピークは59だったと思う。また来月の配信では新しい挑戦をする予定。
ようやく金曜になって確定申告の書類を作成した。給与は1カ所からだけで町から消防学校に行ったときの手当などが若干ある程度。国税庁のWebから入力をして多分30分程度で終わったと思う。妻の分も作成中。今週どこかで徳島税務署のポストに入れてこよう。
昨秋買ったテレビのエコポイント申請も土曜に手を付けた。東京の義母に買った32インチ液晶テレビはヨドバシカメラから届いた領収書が会社名義だったため別途個人名義の購入証明書を送ってもらっていた。これもWebから記入して申請書を印刷。メーカーの保証書のコピーを貼って。
会社で買った40インチ液晶テレビは申請書式が別。これもWebから書き込んで印刷した上で証明書類を貼り付けるのだが企業の場合は個人と違って発注日と納品日が分かる書類が必要と書かれている。ヨドバシ.comの書類は発注日しか分からない。
ヨドバシに電話したら発注日と納品日を明記した購入証明書を送ってくれると言う。それと明日役場からもらってくるつもりの法人町民税の納入証明書を貼り付ければ申請書は完成。ただし今回の申請は法人登録と製品申請だけ。エコポイント申請は個人申請と異なり後日になる。ややこしい。
F氏に誘われて私が住んでいる地区の神社の祭りに今朝行ってきた。秋祭りは大きいが春の祭りは小規模だ。時期的に祈年祭だろう。神官も来られて神社総代が儀式をしていた。それを横目に拝殿に上がりだんじり囃子。地元の方々が叩く太鼓の真似事を少し。
午後からはUPS(無停電電源装置)の設置。主たる部品はバッテリーだから筐体の割に重い。接続したかったのはNAS(ネットワーク・ハードディスク)と私のPC。電源コードはギリギリ。NASの置き場所近いコンセントから一旦UPSに電源を入れてUPSからNASに電源を供給。ややこしい。
UPSの機能は停電になったとき内蔵バッテリーから電源を供給する。それによってPCなどのシャットダウンを安全に行うまでの時間を稼ぐ。停電などによるハードディスククラッシュを防ぐわけだ。それとは別に雷サージ防御機能もある。雷による過電流がPCなどに流れるのを防ぐ機能だ。
雷によって電話線にも過電流が流れる危険がある。私が買ったUPSには電話線の接続口もある。念のためにつないだが電話が使えなくなって調べたら古いモジュラーケーブルに原因があった。その原因究明などで1時間以上かかって設定完了。仮に停電しても私のPCは13分使えるようだ。
天野仁『宇宙の存在(いのち)に癒される生き方』(徳間書店)を先日読んで理論物理学に興味が向かい買ったのがこの本。村山斉『宇宙は何でできているのか〜素粒子物理学で解く宇宙の謎』(幻冬舎新書)。たまたまタイミング良く日経パソコンの書評欄で知ったのだと思う。
著者は1964年生まれで東京大学数物連携宇宙研究機構(IPMU)の初代機構長。副題にある通り話は宇宙の構造と素粒子理論が絡み合いながら進む。文章がうまく比喩も巧みでスラスラ読める。でも内容は難しい。スラスラ読んだのに実は頭に何も残らないというタイプの本だ。
2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林氏・益川氏による「CP対称性の破れ」も解説されている。物質間で働く4つの力すなわち重力・電磁気力・弱い力・強い力も説明されている。でも弱い力や強い力は最近知った用語であってほとんど理解できない私。
驚いたのは宇宙のエネルギーの中で原子が占める割合は4.4%しかないこと。正体不明の暗黒物質が23%で暗黒エネルギーが73%と。研究が進むほど宇宙が分からなくなる印象。超ひも理論の10次元世界のことにも触れられている。神の世界が物理学で解説されることを期待しよう。
先日来ネット接続の調子が悪い。勝浦郡全体のネット環境を疑ったが問題が起こっているのは我が事務所だけ。土曜に上勝TVの報告会で社内のネット機器を全て取り外したのが悪かったよう気がしている。ルーターとハブ2台を外し持っていたが中途半端にVoIPアダプタだけが残っていた。
とりあえず火曜あたりに解決したはずだが問題が起こったときのバックアップ体制を厚くすることにした。ルーターは以前から予備を買っている。今回改めて予備機の設定を行った。特に重要なのがDHCPサーバーでローカルIPアドレスの振り方を現行機と同じように設定した。
ハブも新しく買った。これまでのハブは4口が1個と8口が1個。元々は4口が2個だったのを1個だけ8口に買い換えていたが今回さらに8口タイプを買った。初めてのギガビット。今回もヨドバシで買ったが既に100BASEタイプは売ってなかった。金属筐体で高かったがハブも信頼性が重要かと。
合わせて上勝TVのM君推薦でUPS(無停電電源装置)も買った。数十万円していたのは何年も前のことでアマゾンで買ったAPC RS 550VAは14,299円。上勝に来て驚いたのが湿度の高さと停電の頻度。1年に1〜2度起こる。M君によると徳島市内では電圧変動も激しいらしく安全のため。
昨日まで鎌倉から遊びに来てくれていた大とは中学1年のときに同じクラスだった。1年4組。今は知らないが当時の徳島大学教育学部(現・鳴門教育大学)附属中学校は4クラスある中4組だけは男だけだった。その男組に私と大と合計47人が集まっていた。
その何年か前まで3年間通じて男組だった人もいたらしい。それは可哀想だということで当時はどんなに運が悪くても1年間は共学クラスに入ることができた。修学旅行に行った2年に私は2組。3年の時は1組で幸い男組は1年だけだった。みんなが嫌がった男組。何せ臭かった。
体操服を洗わず置いたままにしていたヤツがいた。給食はなかったが配布される牛乳の3角パックを投げ合って爆発させるヤツがいた。男ばかりの13歳。遠慮がない。だから臭かったが楽しかった。小学校から高校までのクラスの中で私にとっては最高のクラスと仲間だった。
あるとき教頭のI内先生が教室で説教をした。このクラスはまとまりがないと言ったか。指名された級長だった大が教室後ろに貼られていた体育祭での学年優勝の表彰状を指差しながら「ではこれは何なんですか」と言った。皆が心の中で拍手をした。今もあのクラスの何人かと付き合いがある。
月曜。鎌倉に住んでいる友人が訪ねてきてくれた。同じ中学高校に通ったT原氏。中学時代男だけだった1年4組とバスケット部で一緒だった。高校2年で米国に留学して1学年下に編入したのに私と同じ年の共通一次試験で900点以上取り難関の京都大学情報工学科に入学した秀才である。
今回その話をしたら2次試験の英語で文法問題が出ず英訳和訳だけでラッキーだったと謙遜する。でも最初の会社を10年ぐらいで辞め次の会社を副社長として上場させ今回聞いたところによると次の会社もCFOとして入り経営していたらしい。今はフリー。確かに失業者には違いないだろうが。
既にご両親は亡く医師の兄上は東京にいて佐古の実家は売ったらしい。月曜は14時頃来てもらい町内を案内。妻の体調が悪かったが夜は同じ中学だった近所のF氏に来てもらいY氏にも声を掛け。火曜朝も少し町内をぐるぐる。わざわざ訪ねてきてくれたことがとてもうれしい。
大学に入り仮面浪人のためテレビを預けたのが彼だった。入試で玉砕した夜も泊めてもらった。大学卒業以降横浜にあった彼のマンションに泊めてもらったこととがある。前回会ったのはもう4年前。22年間で会ったのは多分5回。なのに心から信頼できる友人。また夏に来て欲しいと伝えた。
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© 2011 Takashi INAGAKI