2011年1月
徳島市中心地を流れる新町川沿いの「ボードウォーク」で日曜は農産物を生産者自ら販売する「とくしまマルシェ」が開催された。そこから徒歩1分のアーケード街では徳島B級グルメフェスタも開催。徳島ラーメンや徳島バーガーなどの屋台が空き店舗前に出店した。
この東新町と籠屋町のアーケード街はかつて徳島市商業の中心にあった。徳島で唯一のデパート「丸新百貨店」があったしマクドナルド1号店もここで開業した。ただ丸新は20年以上前に廃業したしマクドナルド1号店も昨年閉鎖。20年前には確か5館あった映画館も今はない。
徳島市の商業地は郊外に延びる国道バイパス沿いに移ってしまい最近になってスターバックスや王将の開店で徳島駅前が注目されつつも東新町〜籠屋町は蚊帳の外だったと思う。アーケード街なのにコイン駐車場があるなど最近はシャッター通りに近い印象があった。
それがB級グルメフェスタの日曜。結構な人が歩いているのである。阿波踊り期間中を除けば30年来見なかったような光景。とは言え30年間で私が東新町を歩いたのも数えるほどしかないはずだが。知人も何人か出店していて屋台を見て回るのも楽しかった。とても寒かったけれど。
土曜。19時頃お誘いがあったが食事をして風呂に入って21時過ぎに電話をして合流。N氏が来ていたご近所のS氏宅。ほどなくT氏がやってきて妻も含め5人で飲み会。24時頃我が家に戻りサッカーアジアカップ決勝のテレビ観戦。3人は前半が終わった辺りで帰っていった。
妻も早々に寝て私は延長戦と表彰式とインタビューまで見て3時半頃に寝た。外は雪。既に積雪5cmほど。T氏は自宅まで帰れないからとS氏宅に泊まったらしい。日曜は朝7時半頃に出たらしい。一方で私たちも7時半に出ようと思っていたのだが出発したのは結局8時。
上勝を抜けるまで県道の半分は凍結していた。念のため4駆の軽で行ったが特に問題はなく。徳島市ボードウォークで今日はとくしまマルシェ。私たちはUstream配信を行うのである。お店を回るiPhoneチームとは別に私は基地局で公式アカウントを使ったtsudaり担当。
ところが今回の基地局は屋外。9時の予報気温が0度。12時で3度。とにかく寒い。配信が途中で止まったりトラブルもあったが2時間半PC前で座ったままですっかり肩から背中がバキバキになった。でも今回も知人30人ぐらいと会いJ社の元同僚6人中3人は多分12年ぶり。それも楽しい。
上勝TV第2回配信のじゃんけん大会でプレゼントの「樫原の棚田」米が当たったのは5人。うち4人が県外の人だった。偶然2人が静岡県。そのうちの1人が仕事仲間と今日上勝に来たついでに我がオフィスに寄ってくれた。上勝TV第1回から見て楽しんでくれているそうだ。
初めてお会いした2人だが徳島のことや静岡のことで盛り上がり気がついたら1時間半。「上勝TVでパーソナリティが座っているあのソファだ」とか言ってくれる。最後に4人で写真を撮った。それにしても上勝に来たからとわざわざ立ち寄ってくれるとはありがたい。
彼らが上勝に来たのはチベット体操の講習のため。こうして訪ねてくれたのも縁だと思うし昼の部は参加者が少なかったとも聞いていたのでチベット体操とはどんなものだろうと2人で行ってみることにした。今日はあちこちで講演会やら会議やらが行われていたので2人だけかと危惧しつつ。
ちなみに彼は役場の某氏と高校時代の友人らしくその縁で上勝に来ているらしい。さて会場に行ってみたら参加者は5人。うち一人は旧知の女性。チベット体操とは要は腹式呼吸を中心に5つの簡単な運動を行うだけ。一つの呼吸法だ。1時間半がすぐ経った。改めて呼吸を意識してみたい。
iPhoneを使い始めて3ヶ月超。オフィスでも自宅でも電波が入らず無線LANアクセスポイントを使ってアクセスしている。電話は使えないがドコモをそのまま使っているので不都合はない。ネットだけは無線で。携帯電話を2台持っているわけだから無駄のような気もするが仕方ない。
最近は自宅でもiPhoneからアクセスしている。寝る前に明日の天気予報を見るのが日課になった。ツイッターも寝る直前まで見られるようになった。寝る前か起床後かにベッドの中で産経新聞も読んでいる。雑誌の中吊り広告も毎日更新して寝っ転がって見るようになった。
同じ住宅に住んでいるiPhoneユーザーのツイートで知って屋内アンテナの設置も申し込んでいる。フェムトセルというLAN回線に接続して電波を飛ばす仕組みは上勝のネット環境では対応できないということで屋外の電波を拾って屋内に中継するような機器を設置してもらう。
今日その工事案内が来た。申し込みの電話をして書類が届き返信して。工事日まで3週間といったところ。屋外の電波も弱く一抹の不安はあるし屋内アンテナの通話範囲は4〜5mということで心許ないが仕方ない。2月上旬には事務所でソフトバンク携帯が使えるようになると期待したい。
お昼頃に人が来た。アマゾンからの宅配だと思って出ると近所の方。開口一番「鹿いるで?」と。有害獣駆除の一環で猟師の方が仕留めた鹿肉はときどき我が家にも回ってくる。料理をするのは妻だから彼女に訊きたいが今日は不在。思わず答えに窮した。
「いるなら置いていくでよ」と。もしかして捌いていない状態のものなのか。表に出たら軽トラの荷台に案の定そのままの姿の鹿。意外に小さい。「メスやけんな」とご近所さん。「置いておいたら2〜3日は保つでよ」と。でも解体しないと肉は食べられないし私は捌けない。
そう言えば鹿の解体を見せてもらったのは2年前。解体を見たのはそのときだけだが鉄砲で仕留められた鹿はときどき見る。いずれも軽トラに載せられている状態。近所のY氏の畑では防護ネットに掛かった鹿が死んでいてブログで見たりもした。生きている鹿は山道でときどき見かける。
今日の鹿のことは直後にツイートしたら5人が反応してくれた。北海道に住む後輩は「たまに頂きます」と。でも皮も剥いでいない鹿は私の手には負えないのである。ご近所さんも本気で「いるで?」と言ったわけでもなさそうで一しきり鹿談義をして軽トラは鹿を載せて走り去ったのである。
まだ20歳代なのに創業者の伝記が映画化されて話題のfacebook(フェイスブック)。2年ぐらい前から聞いてはいたが先日やっと話題に乗じて登録した。米国を中心に5億人が登録しているというソーシャルメディアである。日本で言えばmixiのお手本になったようなものだと理解している。
facebookは流儀として実名と経歴をつまびらかにすることが求められる。高校以来の経歴を詳細に書いたら次々と友人のアカウントが提案された。その結果J社の元同僚が1/3。日経BPの編集者が1/3。ツイッターの徳島クラスタが1/3といった構成になった。高校大学の友人はまだ1人だけ。
仕事で関わっていてよく知っている人のアカウントも提案された。よく知っている関係だが彼女と私が知人だと何故分かったのだろう。いろいろ考えてスカイプIDからだと推測している。私は彼女のスカイプIDは知らないが妻のスカイプIDを経由したとしか考えられない。この推測機能は凄い。
さてfacebookは用途が分からず困惑気味。とりあえず特集している週刊ダイヤモンドをネットで注文した。この過程でアマゾンで買えないとツイッターで書いたら週刊ダイヤモンド編集部の旧知のデスクが即座に品切れの可能性と別の買い方を教えてくれた。それも凄い時代。
昨年11月に出演した全日本合唱コンクール全国大会の詳細な成績表を見た。主催した全日本合唱連盟が発行する「ハーモニー」誌の冬号に掲載されている。我が「響」が出演した33人以上の一般部門Bグループで出演した16団体に対して9人の審査員が順位を付けている。
総合点は9人の審査員の順位から新増沢方式という方法で算出したものだ。その結果として総合点では16団体中15位。2007年の東京大会と同じ。課題曲と自由曲が全く同じで金賞を受賞した男声合唱団「お江戸コラリアーず」は総合3位。
一方で9人の審査員が付けた順位を見ていると意外にもバラバラ。なるほど審査員の個性で多方面から審査しているということか。結果は最高で7位。8位を付けた人も1人いる。最下位だと言う審査員も1人。対談方式の講評も掲載されていたがボロボロな言われよう。
さて算出方式が難しい新増沢方式は1位から決めていく。これを最下位から選ぶとどうなるのだろう。詳細な順序付けは面倒なので行わなかったが「響」の順位は14位。どちらにしても銅賞には違わなかった。各審査員でバラバラな順位を見て結果には意外に納得している。
新しく買ったハードディスクレコーダー(HDR)を使い始めて1週間。説明書を読まずに使っていたがインターネットも使えるというのでLANケーブルを繋いでみた。アクトビラという仕組みはクレジットカードを登録して映画などを見るためのもので私は興味がない。ところがYouTubeも使えるらしい。
早速アクセスしてみた。ログインする必要があってIDとパスワードの入力が面倒だが確かに繋がった。ただし自由検索するにはまた面倒な文字入力が必要。リモコンで操作するからまどろっこしくて仕方ない。それでも「響/徳島」で検索したら妻がアップロードした演奏会の動画が見つかった。
一方で予約録画は旧型機と要領が違ってまだ慣れない。例えば毎週予約という項目はあるが月〜金といった予約は毎週予約とは違う設定が必要らしい。ただし番組表から予約しておくと放送時間が変わっても追随してくれている様子。これは旧型機にはなかった機能。素晴らしい。
でも不満もある。例えば「ワールドビジネスサテライト」を予約しておいたのだが土曜の予約が履行されていない。調べてみると土曜は番組名が違っていて「WBSウィークエンド」だからの様子。賢いのか賢くないのか。HD容量との兼ね合いでベストな録画画質も手探り中。
2年連続で国立大学工学部の受験に失敗したが今から思うと下手に合格しなくてよかったと思う。なぜなら入学して2年目から本格的に通い始めた同志社大学で私は授業に付いていけなかったから。大学の専門教育は高校の比ではなく難しかった。
特に私は電子工学科なのに苦手だった電子回路の講義はほとんど理解できなかった。理解できないから授業にも行かなくなった。そして試験ではいつも苦戦した。ドイツ語も人称活用を覚えただけ。語学の授業は出席しないと単位がもらえないらしく授業には出たが全く付いていけなかった。
プログラム概論も分からなかった。言語はFORTLANなのだが理解できずBASICに逃げた。実験科目だけは必ず出た。でも2週間に1回だが午後すべてを要して課題実験を行う。私は1年履修と2年履修の2科目があったからきつかった。実験レポートの締切前は徹夜。それが2科目分。
入学した年に1留しているのにさらにもう1年留年したのだから私の成績は相当に悪かった。受験した国立大学に行っていたら早々に落ちこぼれて引きこもっていたかも知れない。同志社にはサークルを通じて既にいた友人が私を誘い出してくれた。何が幸いするか分からないと今では思う。
東京工大の合格発表から西荻の下宿に昼頃戻り私は寝た。起きたら日が暮れていて西荻アーケード街の出口角の公衆電話から実家に電話をした。不合格だと伝えていたら涙が出た。とにかく徳島に帰ろうと新幹線に乗った。と言っても夜のうちに徳島までは帰れない。京都で下車した。
友人が何人か京都大学に進学していたから頼ろうと思った。留学して米国の高校卒業資格で共通一次900点以上を取り難関の工学部情報工学科にいたT原。クラスメートで理学部数学科にいたS見。城南高校から経済だか法学部にいたS。京都で降りればどうにかなると考えた。
京都駅からT原の下宿に電話したら不在だったが地下鉄で今出川まで行き東に歩いた。京都大学農学部近くに彼の下宿はあって30分ほど歩いて行った。しばらく待っていたら帰ってきたので事情を話して泊めてもらった。確か銭湯にも一緒に行った。廊下の洗面所で顔を洗った。
徳島に帰ると同志社からは後期授業料の督促が来ていて支払えば1留で済むだけだった。これ以上成績が上がるとも思えず2浪はしなかった。結局大学と予備校の授業料に生活費を無駄にして京都に戻った。迷走の終わり。1年やって踏ん切りもつき気持ちは意外に切り替えられた。
同志社大学に入学したのに結局は浪人するため東京に行ったことは以前に書いた。初志を曲げ同志社に進学したことが1つ目の迷いだとすると東京に行ったのは迷いの2つ目だ。東京・西荻での生活は3度に渡って書いた。下宿や池田高校の活躍や音楽のことなど。思い出深い。
さて2度目の受験で共通一次試験をどこで受けたか覚えていない。ただ2日目の後だったのだろう西荻北口を東京女子大学に向けて歩いて途中にあった「ニューバーグ」でT取と夕食を取ったが彼との答え合わせで私の合計点が790点ぐらいだと覚った。1年目よりも下がっていた。
この時点で2年目の受験も失敗することは今から思えば決まっていたようなものだ。当時の私は秋頃からゲームセンターに通い沢木耕太郎など読書にはまり勉強をあまりしていなかった。そんな状況を客観的に見ようとせず私は無謀にも東京工業大学を受けた。そして玉砕。
高校の隣のクラスにいた友人で既に東京工大の学生だったTの下宿に受験前に遊びに行ったことがある。そのTが大学の入口で待っていて合格発表会場まで一緒に行った。私の姓はあったのだが女性の名でTが「なんだ女か」と言った。これで私の迷走の1年が終わったのだった。
29年前の2月は2度にわたり香川大学に行った。私立大学の地方試験を受験するためだ。一つは関西大学工学部。もう一つは後に入学することになる同志社大学工学部。片方は父が車で送ってくれてもう一方は汽車で行ったように思う。車で行ったときは誰だったか同級生が同乗していた。
父の車は国道11号ではなく西の方から峠を越えた。塩江温泉の街道だろうか。徳島側の平野部のワインディングを2車線フルに使って飛ばしていたことを覚えている。計算してみると当時の父は48歳。今の私とほとんど変わらない年齢だった。
香川大学では偶然会った中学の同級生F川と話したことを今も覚えている。彼は私立大学を10校だか15校だか受験するため70万円とか80万円を持って全国を旅行していると言った。受験料だって1回あたり2万円とかしていたわけで豪快な受験旅行に大いに驚いた。
大阪大学は不合格だったが私大2つの受験は模擬試験のつもりだったからリラックスしていたのだろう。2校とも合格通知を受け取った。母が「おめでとう」と言ったが入学する気がないのだから「何がおめでとうだ」と私は思っていた。ところが浪人が急に怖くなり同志社大学に入学してしまう。
ブルーレイディスク対応ハードディスクレコーダー(HDR)を買った。今日届いてセッティング。これまで使っていたHDRは2004年12月28日にヨドバシで買ったもの。あれは赤坂見附の居酒屋「三間堂」でPDAの師匠M氏と飲んでいてヨドバシ新宿まで一緒に行って買ったのだった。
あれから6年。録画番組は基本的に見れば消すので160GBのHD容量を使い切ったわけでもないがBSチューナーがなく不便だったのだ。それとPDAの師匠に言われていたのだがテレビがハイビジョンになってアナログ放送の録画画質がいかにも見劣りするようになったのも理由の一つ。
これまで使っていたのがPanasonicだったので今回も同じ。新製品が出る2月を前に値下がりした型落ち。DIGA DMR-BW690。ヨドバシのナイトバーゲンで64,800円(ポイント10%)。HD容量500GB。2番組同時録画。早速使っているが操作の継続性が全くなくて戸惑いっている。
それと手持ちのアンテナケーブルがなぜか使えず今日追加で1本発注。アンテナは新HDRとテレビのそれぞれ地上波とBS用に加え旧HDRのアナログ地上波用とFM放送受信用にも接続。テレビとはHDMIケーブルであっさり接続できたが背面の配線がさらに凄まじいことになってしまった。
高校3年のときに受験した共通一次試験で800点そこそこだったことは政治経済が難しすぎたこともあるが840点ぐらいを想定していただけに実のところショックだった。当時進学を考えていたのは大阪大学か横浜国立大学か神戸大学か大阪府立大学あたり。いずれも工学部の電子系。
結局その中で一番難しかった大阪大学工学部を受験した。アマチュア無線家だった私はレーザーなど波動系の技術に関心があって通信工学科を目指したのだった。受験日は3月4日ぐらいだったと思う。前日は千里阪急ホテルに宿泊して朝は受験生の送迎バスが出た。
宿泊する前に私は大阪大学千里キャンパスに受験会場の下見に向かった。でも受験票に記された教室棟が見つからない。もしかしたら1時間ぐらい歩き回ったかも知れない。最後に気づいたのは受験票で見ていた記号は教室棟ではなく何か別のものを指すものだったことだ。
私は焦っていたのだ。前日にして冷静さをなくしていたということだ。その時点で失敗は決まっていたようなものだと後になって思った。試験を終えたときの感想は覚えていないが徳島に帰ったときには既に9割以上合格できないと感じていたように思う。それから私の迷走の1年が始まった。
雪なのである。土曜夕方から降り始めた雪はみるみる積もり日が暮れることには2cmほどになっていた。これは私が住んでいる住宅前のことでY氏のツイートを見ると車で10分弱のところでは夜10cm弱積もっていたようだ。気温予報は午前3時に-8度。妻は夕方徳島に出かけていた。
その夜は市内に宿泊することになっていたから心配はしていなかったが雪の状況と寒さは気になる。20時前に雪が積もった駐車場を撮した写真をツイートしたらそれを見た地元のT氏が帰るのを諦めると書いていた。彼の自宅はさらに奥なので夜中に帰るのは危険と判断したらしい。
ますます気になり室内に置いてある気温計付電波時計を屋外に出してみたのが深夜1時頃。みるみる気温は下がって2時頃に-4.3度でベランダに場所を移した。ベランダでは-3.5度。朝は日の出前の7時頃にベランダの気温計が-3.2度。朝8時前には-2.4度。
14時頃にはベランダで+3.5度ぐらいになっていた。自宅近くの道路に雪はなく既に乾いていたが日が当たらない場所には残っている。駐車場は車で踏み固められるからか凍結状態。予報によると明日未明は最低-5度だが日中は8度ぐらいまで上がるらしい。一息つけるかな。
(この日記は日曜午後にアップしました。)今日と明日は大学入試センター試験。上勝も積雪しているが全国的に雪の予報で心配している人も多いだろう。私が受検した1982年の共通一次試験の当日も雪だった。1月16日と17日。どちらが雪だったか忘れたが試験開始の2時間ぐらい前に出て父が車で送ってくれた。
鳴門高校から後に早稲田大学商学部に進学する従兄弟と途中で待ち合わせて彼も同乗した記憶がある。1日目だったのか2日目だったのか両日だったか。待ち合わせ場所をどちらかが間違えて右往左往したような気もするが。当時は携帯電話などなかったから大変だった。
会場の徳島大学には早く着いて別の教室の友人らと話をした。試験開始前に彼が選手宣誓するらしいと冗談を言ったり。このときの数学で3人が行うじゃんけんであいこになる確率を求める問題があってグーチョキパーと分かれる場合を想定しなかったK元が悔しがっていたことを覚えている。
私の成績は数学と物理は満点か1問間違っただけだった。政治経済が倫理社会より平均点が数十点低くて後に社会問題になったが私も40点ぐらいだったような。化学と地理は80点ずつぐらい。英語が160点ぐらいで国語が150点ぐらいか。合計が確か802点とか804点とかだったような記憶。
寒いのである。最近の上勝では夕方頃に道路上の温度計が2度だったりする。夜間は氷点下だろう。普段過ごしている事務所ではファンヒーターを使っていてデジタルの気温計によると室温は18度から19度。あまり上げたくないが風邪を引いては元も子もなく。
12月は室温が20度を上回らないと暖かいと感じなかったが外気に合わせて暖かいと感じる温度も下がってきている。ただし1月に入り灯油の補給は2日に1度。それより寝室の寒さが問題。寝る前にファンヒーターで温めるが明け方に寒くて目が覚める。
そこで昨夜から試したのが毛布を下に敷く作戦。確かに効果があったかも知れない。次に少しでも冷気の進入を防ごうと窓の下部に立てて置くボードを買ってきた。発砲スチロールのような軽い材質で窓の下部から入ってくる冷気を空気の緩衝領域を作って防ぐ。
事務所では昨年1月に鴨島のホームセンターで高さ45cmのタイプを買って使っていた。今日買ったのは高さ105cmのタイプ。窓に合わせ切り込みを入れたり固定させたり。これを事務所に使い寝室には昨年版を持って行った。これで室内の冷気は少しマシになるだろうか。
先日読んだ『<神道>のこころ』の著者によるCDブック。葉室頼昭『大祓 知恵のことば―CDブック』(春秋社)。CDには春日大社の例大祭で奉じられた大祓(おおはらい)の祝詞(のりと)が収録されていて著者の語りが冊子として付いている。馴染みのない祝詞を聞きながら冊子を読んだ。
今の祝詞は神へのお願いの場合も多いが元来は神が人に伝えた言葉である。特に大祓祝詞は長い年月にわたり伝承されてきたものらしい。仏教のお経のようなものだがお経が基本的に漢語であるのに対し祝詞はやまとことば。漢字で表記される場合もあるが当て字である。
だから著者は漢字の意味に引きずられてはいけないと繰り返し語る。例えば「祓い」はやまとことばで言えば「は」が生まれるの意味で「ら」は「私ら」というときの複数形を指し「い」は「命」。「命がたくさん生まれる」が「祓い」の本意だと。だからただ宣(の)ればいいのだと。
「穢れ」も本当の意味は「気枯れ」であって元気がなくなった状態を指すらしい。「清め」るとは体の負の部分に水を加えて正に変えることだと解説している。さて祝詞はやまとことばだから理解できる部分もあるが全体的には全く分からない。唱えるのは難しそうだから当面は聞くだけにする。
天野仁『宇宙の存在(いのち)に癒される生き方―生きがいを発見する科学。』(徳間書店)が言う生気体とは目に見える肉体に重なっている目に見えない気体状の部分のこと。その生気体が魂であり心であり意識や意志を担当しているとする。生命体だけでなく無機物にも生気体はあるとも。
さて光は粒子(光子)であり波動(電磁波)であると高校物理で私は習った。生気体を構成する素粒子も同様に粒子(サイ粒子と命名)であり波動(思念波)を持つ。電磁波の場合は光子-電磁波-電磁場-電磁気力の対応関係があり同様にサイ粒子-思念波-生命場-生命力が対応する。
生気体の波動の側面である思念波が集合すればユングが言う集合的無意識になる。人が死んで生気体が肉体から離れれば宇宙に帰る。あるいは輪廻転生するかも知れない。そもそも宇宙の成り立ちを考えるとき大本の生気体が進化の途上で私たちを作ったと言うこともできる。
だとすればこれは『神との対話』で説明されていることと同じだと思う。私たちの魂は神の一部であり個々人の魂の集合が神であるという・・・。特に無機質にも生気体はあると言う著者の説明は神道の考え方と同じでもある。でも私の興味は理論物理学へ。今の知識では判断できん。
昨年1月いっきゅう茶屋で偶然会った上勝のT氏から勧められた本。今になってやっと読んだ。天野仁『宇宙の存在(いのち)に癒される生き方―生きがいを発見する科学。』(徳間書店)。著者は物理学者ながら学会での批判を恐れてか詳しい経歴は分からない。何せ凄い本なのだ。
まえがきにはこう書かれている。「私の『魂』って、一体どういうものでしょうか。身体から抜け出したりするのでしょうか。このような問題を、理論物理学でやってみようというのです」。「この本では、物理的科学と、精神的な事柄、即ち超常現象や霊的なことなどを、統一的に論じます」。
超常現象で言われるサイキックボディなど肉体外の概念を著者は生気体と呼ぶ。第1部では生気体の存在を通じて霊的な現象を説明。第2部では生気体の存在を証明するための物理学の解説。素粒子物理学の最先端にある超弦(ひも)理論から超常現象は全て説明できるとする。
私たちは4次元時空間に生きているが超弦理論は10次元であり影の世界の存在を示すものだと。本書は難しい内容を分かりやすくするため話し言葉ですんなり読めるが説明が冗長。肝心の超弦理論は理解できるほどの説明がなく消化不良。魂や神の正体が科学的に分かった気にはなる。
(この日記は火曜夜にアップしました。)10日(月・祝)は上勝TVの第2回配信があった。今回は樫原の棚田からT中さんと84歳というT上さん。さらに役場職員でもあるK原さん。3人とも棚田オーナー制の受け入れ農家さんで特にT中さんには私たちも2年連続で米作りのお世話になった。
真冬であることだしゲストが3人なのでスタジオにこたつを持ち込んだ。これも樫原地区からの借り物。日曜に取りに行った。当日は樫原地区で9名の方が集まってPCの前で一緒に見てくれた。その設定に夕方行って。一旦帰ると今度は妻がゲストのお2人をお迎えに樫原へ。
前回の配信はPCのCPU使用率が100%に張り付き綱渡り状態だったから今回は技術担当のO君が凄まじい機材を持ち込んだ。23インチディスプレイ2台に17インチディスプレイ。さらにハンドマイクなどO君自身の最先端の機器を投入。PCはCore i世代でCPU使用率は数%だったらしい。
20:45に音なしで配信スタート。パーソナリティは棚田米を食べて。21:15からゲストとのトーク。22:05過ぎに終了。時間スケジュールもほぼオンタイム。ピークは88人。合計238人が視聴してツイートは前回より約100少ないだけの1,718。終わって飲んだ影響もあるが集中しすぎて火曜はダウン。
年末の東京出張の際に見つけた本。葉室頼昭『<神道>のこころ』(春秋社)。著者は藤原氏の末裔で平安末期から天皇の神事に携わってきた公家の家系。それが大阪大学医学部に進み形成外科医になる。学生時代には罹患した肺結核が消える体験をしたらしい。
現在は60歳を越えて猛勉強の末に神官となった春日大社の宮司。この本では神道の考え方を中心に著者の経験をインタビュー形式で語っている。繰り返し語っているのは感謝の心の大切さ。人は生きているのではなく生かされているのだから感謝することが大切だと。
私は『神との対話』の3冊を3年前と2年前に読んだが米国人の著者ニール・ドナルド・ウォルシュ氏と葉室氏は驚くことに同じことを言っている。神は自分の姿を見ることができないから鏡として「実際に表現してくれる人間という生物をこの宇宙の星に作ろうと思われた」という点。
地球に生物が誕生した35億年前からの記憶が人間の細胞には詰まっているといったことを意外なことに医者としての経験から語る。針治療など東洋医学の効用も自身が施術した実例を挙げて言う。誤解されそうな内容もあるが本書が言う神の存在を私は信じているのですんなり読めた。好著。
2011年になって1週間。元旦に上勝に戻り2日は遅く起きて仕事を少し。夕方からビールを飲んだ。3日も遅く起きて午後になって近所の神社に初詣。ちなみに氏神様とは地域の神様を指すように思っていたが元来は字のごとく一族の神を指すらしい。
4日は朝8時に集合して消防出初め式。今年は上勝中学校グランドで。開会の10時まで整列や行進の練習。太陽が当たり始めたのは10:55頃から閉会までの30分弱。それまで日陰で行進以外は直立と休めの繰り返しだけなので肩は固まり終わっても膝が痛くてすぐに走れない。
友人が使い捨てカイロをくれたので足裏に貼っていたが効果が分からないほど寒かった。来年の教訓にする。式典が終わってキャンプ場に移動し一斉放水。地元に戻って神社に参拝。地区の公民館で表彰状の伝達式などがあって宴会。私は17時前には帰宅したと思う。
それから爆睡して夜中に30分ほど起きたが夜もまた寝た。5日は疲れが残って使い物にならず。午後に新しく買ったホットプレートが届いたので夕食はお好み焼き。ただしビール抜き。6日は今年初めての「響」の練習。その後市内で打ち合わせ。仕事は6日から本格化。そして禁酒4日。
地元の秋祭りが終わるたびに神道や神社について関心が高まる。一昨年も読んだが昨年も。年末に読んだ3冊目。三橋健『神社の由来がわかる小事典』(PHP新書)。類書に比べ古事記や日本書紀の神々の説明があまりないところがよい。それでいて神社の総論的なことが薄く網羅されている。
元来神社には何もないと岡本太郎は言い4年前には私も実感したわけだが本書でも様々な実例をあげて神社には元来何もないと書いている。杜(もり)や社(やしろ)は何もない禁足地を指す言葉だったらしい。そこに岡本太郎が言うところの目印が建てられる。みや(御屋・宮)である。
昨年10月に上勝・旭地区にある神明神社の秋祭りに行ったが「神明」とは天照大神を指すらしい。本書を読んで新しく得られた知識はここまで。他は延喜式内社のことや例大祭など祭りの解説など。人に説明はできないが既にどこかで読んだことがある内容ばかり。事典として使おう。
さてこうした本を読むたび古事記の舞台が阿波だったと推測できる記述がないかと探ってしまう。本書には何もなかったが「筑紫の日向の橘の阿波岐原」で天照大神らが生まれた経緯について私は仮説を持っている。神道系の本はまた数冊買った。しばらくこの方面の知的冒険をするつもり。
年末の30日に妻と母と3人で食事に行く途中で小橋文具店の前を歩いて通った。かつて通っていた鳴門市撫養小学校の通学路にある。撫養小学校の西門を出て南に歩き旧・撫養街道を過ぎたらすぐ右にある。店はもう閉めているが看板はそのままだった。
撫養街道沿いには古くから加藤文具店がある。小橋ができたのは私が小学校2年か3年のときだと思うが通学路上にあったから用がなくても友だちに付いて行って寄ったりした。小橋ができてから加藤には行くことが少なくなり子供心に加藤が気の毒に思ったりもした。
小橋は子供5人で一杯になるような小さな店だった。それに比べて大きな店だと思っていた加藤も先日中を覗くと小さな店でびっくり。でも当時小橋のおばさんは店に商品がないと加藤に行くことを奨めていた。それも面白かった。商売というより子供が好きで趣味に近かったのかも知れない。
上勝に越して近所のS氏と話をしていて小橋さんがS氏の祖母の妹さんだと分かった。小橋さんは昨年1月に亡くなったらしいが小橋さんの親族からS氏を通じて昨年お菓子をいただいたりもした。もう面影は思い出せないが私ら子供たちを見守っていた小橋さんに改めて感謝する。
年末に読んだ本2冊目。佐々木俊尚『電子書籍の衝撃〜本はいかに崩壊し、いかに復活するか?』(ディかバリー携書)。KindleやiPadの発表を受けて昨年4月に発行された本である。当然「ガラパゴス」は含まれていない。発売後すぐに買ったのに電子書籍の動向部分は古くなってしまった。
著者は昨年春にソフトバンク孫社長とUSTREAMで「光の道」対談をやった。津田大介氏と並びツイッターで私が最初にフォローしたジャーナリストだ。Outlookの中に彼の連絡先情報が入っているから会ったこともあるはずなのだがいつどこで会ったか全く記憶にない。
さて内容は電子書籍のオーバービューのほか面白かったのが日本の出版業界の成立と現在のこと。1909年に実業之日本社が初めて委託販売したらしい。雑誌と書籍の流通は別だったが大正期に1円本ブームが起こり書籍を雑誌ルートで売るようになり現在の委託制が確立したそうだ。
そして現在。昨年から仲次による総量規制がかかったが委託販売で売上を計上し大量の返品を次の新刊でしのぐ自転車操業。出版業界の疲弊。そして実は若者は本を読んでいるという統計やマイクロインフルエンサー(影響を与える者)の広がりなど出版の過去から未来が概観できる。良書。
年末に読み終えた本その1。小寺信良『USTREAMがメディアを変える』(ちくま新書)。著者はテレビの編集マン出身のライター。D社時代の東京オフィスで何度か取材に来てもらい会ったことがある。この本のことは著者のツイートやブログで知っていて読もうと思ったいたのだった。
前半の内容はUSTREAMの歴史やツイッターとの連動など基礎的なこと。USTREAMをテレビと比較すると誤りでラジオに近いと。その上で一般的な映像記録とUSTREAMとのコスト比較など具体的な記述は新鮮。技術に寄らずビジネスあるいは社会動向への考察が中心で面白い。
後半になると何故かくもテレビがつまらなくなったか。なぜテレビ産業は疲弊し収支が破綻したか。テレビマン出身者として辛辣な批判が加えられる。それでもテレビは死なない。USTREAMの台頭で「メディアが真実と称して流したものをそのまま鵜呑みにする時代が、死んだのだ」。
最後に著作権や肖像権など法的な問題も整理されている。そしてUSTREAMは「少しでも知り合いでもない誰かが興味を持って、見てくれるという連帯感に、新しい価値がある」。テレビ出身でネットをベースに活動をしてきた著者の洞察には賛成。USTREAMに関心があるなら一読の価値がある。
22時半を回って電話があった。我が「響」の指揮者S神から。飲み屋で同窓会をやっているらしい。去年はT石が電話を寄こして女性に代わった。今年も電話を代わられたら相手は女性。「駅前の本屋で会って以来だね」と言われたが分からない。駅前の本屋で会ったと言えばS原K香だが。
S原と偶然会ったのは1982年の東京杉並・西荻駅前の本屋でだった。彼女は高校のクラスメート。電話を寄こしたS神は中学の同級生であって高校は違う。一瞬混乱したら相手は「徳島駅前の小山だっけ」と言う。相手は中学の同級生らしいのだがまだ分からない。
K木R絵だと名乗られて思い出した。いや彼女のことは思い出したが中学を卒業して高校時代に小山助学館で会った記憶がない。私が人を介して連絡し待ち合わせたと言うのだが。ごめん。本当に覚えていないんだ。もしかしたら彼女の勘違いの可能性を電話を切って思いつつ。
「クイーン」を教えてくれたのは彼女で4・5枚目を録ったテープをくれた。イーグルス「ホテルカリフォルニア」が校内放送で流れたとき「間奏が長いんだ」と言っていたシーンは何故か覚えている。あれは2年2組。14歳。卒業して会ったのは事実か彼女の勘違いか。ちょっと記憶を手繰ってみる。
遅くに起床。元旦と言ってもまずはコーヒー。そして雑煮とお節。我が家の雑煮は徳島で一般的な白味噌に丸餅。ニンジンや里芋など。でも起きたばかりで食欲はなく。車で帰る予定があったからお屠蘇もなし。冴えない感覚で1年が始まった。
徳島新聞を見ていたら若手経営者の座談会ページに友人が2人。1人はJ社同期のM嬢。一昨年は上勝で一緒に田植えもしたが江戸時代創業の造り酒屋の今や副社長。もう1人は中学の同級生でサッカー部だったN。彼とは卒業旅行で萩・津和野にも行ったが今は実家の精工所の社長。
午後は読書。妻と母はまたおしゃべり。でも15時半には空港へ。母が東京に行くのである。12月に子が生まれた弟が招待して。彼の奥さんの全日空社員割引だか何かでタダらしいが空席のあるときだけ利用できるそうでだから帰りの便は決まってないと。空港では妻が付いて手続きをやって。
空港でジュースを飲んで時間を潰し母を見送り私たちは一昨日に続き「こはくの天使」へ。お節を分けて私たちはカレーを食べて。上勝に帰ると寒かった。夜はビールや日本酒を飲みながらお節。やっぱりお節はお酒といただくのが良い。そんな1年の始まりで今年もよろしくお願いします。
<Diary Index Page>
<Top Page>
© 2011 Takashi INAGAKI