2006年8月

退職 (8月31日・木)


勤務先その1を辞めた。 正確に言うと1年半前から業務委託契約になっていたので既に勤務先ではなかった。 それでも元は社員だったから勤務先と表記していたし私も多少その意識があった。 これで名実ともに辞めたわけだ。これからはD社とでも呼ぶことにしよう。

99年に福岡本社で勤め始め2000年3月から東京。 東京で最初は自宅にいて渋谷にオフィスを借り赤坂見附に移り今は溜池山王が最寄り駅。 今も当初から手がけた製品には愛着がある。 秋葉原をはじめ各地の販売店で店頭デモもやらせてもらった。

最近は社員のようで社員でない中途半端な立場だった。 PR業務を受託していたのだからそれ以上の仕事は敢えて敬遠した。 ただPCソフトのカタログ作りは面白かった。 優秀な仲間と働くのは仕事をする喜びの一つだと思う。

今日最後に帰ろうした午後6時過ぎ。オフィスの全員が立ち上がって送ってくれた。 とっさに「お世話になりました。頑張ってください」としか言えなかった。 もう少しじっくり皆さんの顔を見て挨拶すべきだった。すみません。 とは言えJ社のときのような感慨はほとんどない。

ちなみに勤務先その2は継続しているが勤務先「その1」がなくなって「その2」の表記はどうしよう。 「その1」がないのに「その2」というのもややこしい。A社とでも書こうか。「社」ではないが。 実は既に別の活動を始めている。そのことについては時間を置いて書こうと思う。

思い出とこれからと (8月30日・水)


勤務先その1の取締役2人と飲んできた。 我が家から郊外向かって6駅目。そうと思わずOKして電車に乗ったら意外に遠くてびっくりした。 一緒に飲んだ取締役U氏のホームタウン。もう一人のH氏も電車で20分。私は最寄り駅まで11分。 21時前から飲んで24時前に帰宅。

私は7年半在籍したので思い出話もそれなりに。 話題は今のことも将来のことも。 今日も話したけど惜しむらくは2年前に亡くなった取締役だった中村さんの死。 この会社には中村さんのような人格を持った教養人が今こそ必要だと思う。

中村さんは私にとって文学や歴史の話ができる勤務先その1で唯一の人物だった。 何度か渋谷で議論をした。仕事の話から発展して文化的な話ができるのが楽しかった。 勤務先その1は新人も増え多くの人が役割の転換を求められている。今はそんなとき。

この会社は業務上の人事配置はうまいと思う。 やる気のある人を抜擢して勢いに任せることは正しい。 ただ今の規模になると精神的なケアが必要になる。 誰もが同じ目標に向くと思うのは経営者の願望と理想に過ぎない。 それを裏で支えられるのが中村さんだった。

だからといって誰も真似はできない。 人事は化学反応であって誰かが代わりはできないのである。 誰かが無理をすれば悲しみを繰り返す。 そのことを意識して業務効率だけではなく働くことの精神的な面にも目を向けるべきだと思う。 第一に社長が無理をしてはいけない。

オーマイニュース (8月29日・火)


OhmyNews日本版が28日に創刊した。 実名の「市民記者」が投稿するニュースサイトである。 表現と報道に関する韓国生まれのムーブメントと言った方がいいかも知れない。 記事は編集部が事実を確認して公開するらしい。

たまたま創刊前に準備ブログを少しだけ読んだ。 編集委員だというライターの佐々木氏が「大丈夫か?」と指摘していたが創刊したサイトを見て私も同様の印象を持つ。 市民による報道というより無名の人が書いた相当に個人的な意見ばかりで面白くない。

そうは言ってもこれは一つのチャレンジである。 Internet Watchによると「実名で発言する文化を日本に定着させたい」と編集長が言っている。 一方株価操作を目的にした記事にどう対応するのかと聞かれた編集長は「編集部の職業的な直感で嗅ぎ分けるしかない」と答えている。

これを批判的に報じたメディアもあるが私は素直な回答だと思うし正しいと思う。 職業的直感があってこそ記者である。 そして専門的に訓練された記者が書く新聞社に比べOhmyNewsのデスクには高レベルの常識とバランス感覚と反射神経が要求されるだろう。 新聞記者の能力を最大に発揮できる仕事かも知れない。

内部を知る友人によると編集部には実際に大手新聞社からの転職者が多いらしい。 とすれば報道に値する記事の頻出が今後の課題だろう。 記者は約1,000人で始まり2年以内に4万人が目標だとか。裾野が広がれば質の高い記事も増えるはず。 少し長い目で見てみよう。

韓国の友人 (8月28日・月)


妻が4年前ニューヨークに留学していたとき同じ寮だった韓国のJSP氏が来日するというので会ってきた。 同じときの仲間だった日本人のミホとユリコも一緒。 P氏は今は韓国一の広告代理店に勤めているそうで同僚であり上司であるG氏と一緒に来日。 私があったのは4年前のニューヨーク以来。

彼らは浅草とかスタジオジブリとかに行ったらしい。 秋葉で買ったガンダムの模型の大きな箱を持ったまま。 29歳と30歳だと言う。ミホは25歳だと聞いて若さに驚いた。 会話は全て英語。結構通じるものでゲラゲラ笑い転げる。

最初のお店でユリコが帰り5人で2軒目。 せっかく韓国から来たナイスガイ2人を前に終電も無視して飲んだら3時。 最初は遠慮がちだった英語も最後はお互い滅茶苦茶な英語で言い合って笑い転げるの巻。 言葉は関係ないと実感する。

一応みんな若いので飲み代は全て私たちが払いJSP氏の両国までのタクシー代も渡した。 妻が韓国に行くと最大限の歓待を受けるそうだから当然だろう。 途中で日韓領土問題や靖国問題も話をしたが特段対立もなく日本人の心情を話して理解してもらったつもり。

帰れなくなった25歳のミホは結局我が家に来て私たちの寝室で一緒に寝てもらうことした。 25歳の女性と同じ部屋で寝るなんて私が20歳代のとき以来で実は興奮いや緊張している。 すぐ横に妻がいて私はベッドの下で寝るしかないのだけれど。 あぁ。酔っ払いの午前3時半。

『情報の文明学』 (8月27日・日)


A.トフラーの新著を買った。A.トフラーと言えば『第3の波』である。1980年出版。 ところが当時内容が同じだと話題になった論文があるらしい。 1963年の「情報産業論」がそれだと言う。 この論文が収められた梅棹忠夫『情報の文明学』(中公文庫)を読んだら書いてあった。

1963年の「情報産業論」は朝日放送の広報誌で発表され『中央公論』が転載した。 1980年代にも『広告批評』『コンピュートピア』が再録したそうだ。 つまり時代の名作のようである。

しかも「情報産業」は著者の造語だそうだ。 つまりいくつかの予見とともに情報産業の本質を解説した古典なのだろう。 しかし内容は今読むとありふれたものだ。 産業を人間機能の段階に当てはめれば農業は消化器官で工業は筋肉で情報産業は感覚器官だと書いてある。

聞き飽きた比喩である。 しかし聞き飽きたのはこの論文を下敷きに論説が出尽くしたからだろう。 「情報産業」という言葉つまり「情報産業」なる概念がない時代に書かれたことに価値がある。

ただ情報の価格決定法についての考察は面白い。 例えばお布施は坊さんの格と檀家の格で決まるという暗示。 そのことから情報産業時代の最大の価格決定原理はお布施方式だと書いている。 その心は社会的公共的性格を相互に認め合う経済であるという論理だ。

株主主権主義への一つのアンチテーゼである。 情報産業における価格はコストや商業的マーケティング理論で決まるものではないと読める。 情報産業とは社会性公共性に皆が敬意を表し個々の事情に応じた関わりを持つことだと私は読んだ。

外苑前の結婚パーティ (8月26日・土)


日経BP某編集部記者の結婚パーティに行ってきた。 と言っても勤務先その1の仕事で新婦と2度会っただけで別の編集部にいる新郎とは今日が初対面。 出席者は30人弱。日経BP以外なのは私だけ。 なぜ私が呼ばれたのだろう。記者さんからも「どうして?」と聞かれる始末。

私こそ訊きたいわけで幹事である日経パソコンY嬢に聞いたら飲み会が何度か延期になっていたからと。 そう。日経BPから新聞に出向しているPDAの師匠と新郎新婦4人の飲み会が師匠の事情で3度ほど延期になっているのだった。

さてパーティ出席者30人弱のうち良く知っているのは5人ほど。 例えば日経パソコン前々々編集長にして現・子会社社長のO氏とか日経WinPCのI編集長とか。 10年ぶりで話をする人は10人弱。 日経コンピュータのH氏とか元・日経バイトのM氏にT氏やA氏とI氏ら。

そんなわけで少しだけ旧交を温められたし初めて会う日経NETWORKの副編集長とも話をしたが結婚パーティ自体は隅の方でビールばかり飲んでいた。 写真も撮ったが28mmの広角は遠くから望遠で撮るには向いていない。 しかも照明が暗め目でうまく撮れなかった。残念。

写真はともかく新婦の母上と妹君もいらして小さなアットホームなパーティでとても良かった。 おそらく新婦はIT系メディアで最も美人だと思うが初めて会う新郎も格好いい。 スライド上映や諸々趣向があって結構笑って楽しめたのである。 次は4人で。ね。>師匠

上海の同僚 (8月25日・金)


お昼頃にオフィスに向かっていたら大声で「お昼一緒に行こう」と声がかかった。 勤務先その2のボスの声だと分かり見渡したが分からない。 多分3秒ほど経ってタクシーの中からだと気が付き同乗させてもらった。 そこには上海から来日した同僚もいた。1年半ぶり。

大塚まで行って古い鮨屋。ボスと何度か夜に来たことがある。 聞けば歴史は60年近いと言う。大将1人だけの店。年老いたお母さんがお茶を運んでくれる。 カウンターは8人でいっぱい。座敷に6名分ぐらいか。 目の前がラブホテルで知らないと入れないお店。

ところが食いしん坊のボスが上海人をわざわざタクシーで連れて行くぐらいだから美味しいのである。 しかも握りコースの最上級が3,500円。ウニにトロがついてこの値段。 ウニは最高級だと言う。 東京でお金さえ出せばうまい鮨は食べられるがここは料金が破格なのだ。

夜は上海から来た同僚を囲んで11人で神楽坂の歓迎会。ボスは不在。 2次会はカラオケ。みんなで弾けた。 上海の同僚は明日中国の政府一行6名を迎えに成田に行き日曜日は新幹線で日帰り京都観光なんだとか。 来週は日本の政府機関との会合が立て続け。

日本に住んでいたこともあり日本語は不自由なく使える。 それでも政府機関の折衝の通訳はさすがに疲れるらしい。 私と同年代。 前にも書いたが中国人の悪いイメージを忘れて人間として付き合える素晴らしい教養人だと改めて思う。 お昼からとても楽しかったのである。

連絡先データ (8月24日・木)


会社の机に続いてOutlookの連絡先を整理した。 勤務先その1では使っていないがその2ではOutlookである。 それに合わせて自宅でも連絡先の管理はOutlookにしてPDAとも同期している。 つまり連絡先リストは自宅と勤務先その2とPDAにあって常にバックアップされている。

一方で勤務先その1の仕事で使う連絡先はExcelで管理してきた。 このExcelデータとOutlookデータの整合を今日行ったわけだ。 しかも手作業。 と言ってもOutlookのデータはExcelデータの中から特に親しい人しか入れてないから大変というわけではない。

ただし例えば電話番号が変わった連絡先の場合それが1箇所ならいいが複数あると面倒だ。 Excelならコピー&ペーストで一気に修正できるがOutlookは一つ一つ連作先カードを起動して直す。 別の方法があっても良さそうだが携帯メモリ編集ソフトと同様の使い勝手の悪さ。

csv書き出しなどはできるはずだから全てのデータをOutlookで管理していた方が簡単だったかも知れない。 と言っても盗まれる危険があるPDAに個人情報を大量に入れて持ち歩くのも気が引ける。 結局こうやって手作業でときどき見直すしかないのだろう。ただの愚痴である。

過去の仕事データ (8月23日・水)


勤務先その1の机の周りを整理した。 特に汚かったわけではないが古い書類を捨てずに溜め込んでいた。 引き出しの中の書類は片っ端から捨てた。一部はシュレッダー。 必要なものだけを残したらスペースが1/10に減った。

大変だったのがFDとCDとMO。 不要なものを捨てるのだがこれが面倒。 3.5インチFDとMOはシャッターを開けて磁気ディスクをハサミで切りCDは裏面と表面に傷を何カ所か。 中身が不明なものもあってPCで確認するがこれが手間。

多くは仕事で使っていた初代NECデスクトップと2代目東芝ノートが壊れかけて慌ててバックアップを取った名残。 2000年とか2001年当時のバックアップデータ。 あるいは配布用に作成したベータ版ソフトCDの余りやデザイン事務所とやりとしたMO。 合計100枚程度を処分した。

机の上に置いたままだった掲載紙は該当部分を切り抜いてまとめたが専門誌には手つかず。数十冊ある。 明日以降にしようと今日は撤収。 いざとなると大変である。 メールデータも何かしらの処理をしようと思っているがどうしたものか。

そう言えばJ社時代のデータは数十枚に渡ったFDを退職後に知人の自宅でMOに収録した。 ところがMOドライブがなく見ることができない。 CDにしたいと思いつつ一方で見直すことがあるのかとも思う。 今日のように潔く過去データは捨て去るのが正しいのかも知れない。 実際のところ今日捨てた過去データには何の感慨も持たなかったのである。

サーキュレーター (8月22日・火)


暑い日が続いている。 我が家には私たちの寝室とリビングにエアコンがあるが他の2部屋にはない。 2部屋とは私の書斎と義母の部屋。 両方ともリビングに面しているからドアを開けておけば涼しい空気が入らなくもない。

実際にはドアを開けても温度が全く違う。 そこで書斎と義母の部屋に向けてリビングから扇風機を回し風を送り込んでいた。 でも効果は今ひとつ。 一方で私たちより早く寝る義母は夜になるとリビングとの間のドアを閉めるから窓は開けていても暑くて寝られないと言う。

そこで扇風機を義母の部屋用にしてアマゾンでサーキュレーターなるものを買った。 原理は扇風機だが風が広がらず直線的に強い風が遠くまで飛ぶ。 本来は部屋の空気を循環させるためのもの。 これを使って書斎と義母の部屋にリビングの冷風を送り込むことにした。

これがなかなか優れもの。 正面で受けると風の強さは扇風機の比ではない。 窓に置いて強制吸気や強制排気に使えると箱に書いてある。 Honeywellターボサーキュレーター(首振り) HFT-114 -BK。 2部屋に送風するため首振りモデルを買った。シーズン末期で安かったし。

義母の部屋には本当はエアコンを買ってあげたいが義母は冷房は嫌いだと言うし電気代を気にして日中でもリビングのエアコンを使おうとしない。 だからとりあえず5年ものの扇風機。これで義母が寝やすくなってくれればいいのだが。

近藤様方 (8月21日・月)


思い出して19歳のころの日記を引っ張り出した。ノートに鉛筆で書いただけ。 内容のほとんどが1日に使った金額のメモばかり。 それによると昼食400円夕食500円というのが多い。パン200円ビスケット200円という記述も。 どうもパンとビスケットを昼食代わりにしていたようだ。

家賃は18,480円。戦前からある木造2F建ての玄関脇の3畳二間。 ふすまを開けて廊下に出ればすぐトイレ。 前の人が置いていったセミダブルベッドが3畳をほぼ占有して生活スペースは残り3畳だけ。 南向きだが窓の60cm先にブロック塀と隣家があって日は当たらなかった。

玄関を出ると木の柵があり草が生えていた。 コンクリートで固められた通りの中に現れた昭和20年代。 だからなのだろう。 駅から近かったこともあり終電車のころには我が下宿に向け酔っ払いが立ちションしていくのである。 木造だから音がよく聞こえてこれには閉口した。

真上の部屋に東京経済大の4年生がおり下宿人は2人だけ。 上の部屋には2週間に1度ぐらい休日の夕方に女性が来た。 声は筒抜けで2Fの足音も聞こえるのだが30分ほどの会話の後パタリと声も音もしなくなる。 友人Tと何度も耳を澄ませたがとうとう何も聞こえなかった。

大家さんは近藤き久さんと言った。 当時80歳前後だったはずで1F奥に住んでいた。 大学教授だという息子さんがときどき訪ねてきていたようだが私が転居するときには入院していた。 何の挨拶もしなかった。 夏はよく「ムシムシするねぇ」と言っていたからムシムシする日には近藤き久さんを思い出す。

高校野球 (8月20日・日)


今夏の高校野球は夜のニュースで見るだけだったが凄い逆転試合が続いた。 そんなこともあり今日の決勝戦。早稲田実業対駒澤大苫小牧を9回から見た。結果は延長15回引き分け再試合。 早実の投手は明日も投げれば4連投。 それを思うだけで感動してしまっている。

テレビを見ていて思う。 甲子園出場チームなら技術はあって試合では選手の心理が大きく影響するのだろう。 1982年の徳島池田高校がそうだった。 大会直前に不注意から顔にボールを当てたことで発奮したか唇を腫らした遊撃手が活躍した。 恐怖の9番打者と呼ばれていた。

私が西荻で暮らした夏。3年生になった荒木大輔投手の早稲田実業が優勝候補だったと記憶している。 東京で一人暮らしを始めたばかりの私は大会が始まってから池田高校の快進撃に熱中した。 池田の試合時間は図書館から帰り喫茶店でテレビ観戦し試合の翌日は図書館にある新聞の高校野球に関する全ての記事を読んだ。

早実との準々決勝は下宿で見た。 大家さんが呼んでくれて部屋のテレビで見させてくれたのだ。 決勝戦は予備校に行って見られなかったが初回に6点入れてリードしているとお茶の水で偶然会った高校のクラスメートSが教えてくれた。 大家さんが再び夜のニュースを見せてくれた。

高校野球をあれほど集中して見たことはない。 あのころは郷里の池田の活躍が嬉しかったが今は選手の心を想像して感動している。 勝っても負けても彼の人生にとって大きな経験なんだろうとも思い。

西荻 3 (8月19日・土)


西荻に引っ越した直後に友人から中高が同じだったTが近所にいるはずだと聞かされた。 Tとは1月ほど後に私の下宿の前で偶然会った。 自転車で宮前図書館に行って昼食を食べに駅前に戻ったときだった。 彼も予備校に通っていて私の下宿の前をいつも通っていた。

クラスが同じだったことはなく話したこともほとんどなかったと思うが会ってすぐ意気投合した。 彼もビートルズをはじめ洋楽ばかり聴いていたのだ。 美人のお姉さんがいる喫茶店を見つけてはコーヒーを飲みに行こうと私を誘った。

予備校が休みの日はたいてい一緒にいた。 銭湯にも行ったしハンバーグ屋「ニューバーグ」や小さな定食屋「キャロット」によく行った。 時には私の下宿に来てPink Floydも聴いた。 私のミニコンポは京都の友人に預けてきたがTが自分のラジカセを私の下宿に持ち込んだのだ。

彼の下宿も間借りで隣の部屋に浪人2年目か3年目の男がいた。 そいつが自分の部屋をときどき覗いているのだと受験が近づいてTから聞いたことがある。 そうした悩みがあったからか共通一次は900点を超えていたが受験した東大に落ち早稲田に行った。

彼の実家は私の実家から車で20分ほどの距離にあった。 夏に帰省したときなど3日に1度は遊びに行った。 でもそれも1〜2年だけだったか。いつか疎遠になり以来話をしていない。 22年は経った。飛びきり暗い青春の9ヶ月間にいつも一緒にいたTのことは少し気がかりである。

西荻 2 (8月18日・金)


ネタがないので19歳のころ暮らした西荻のことを書く。 正確な住所は松庵と言った。1982年6月13日に引っ越した。 京都から送った荷物は隣の美容室に預けられていて引き取って運んでいると貧血を起こした。

夏頃から予備校に通い始めた。 通学を始めて1週間目の中央線快速で再び貧血を起こして座り込んだこともある。 その頃は駅前角の「松屋」で牛丼ばかり食べていた。 食生活の改善になったのが家を出てすぐ角の「錦星食堂」だった。

50を越えた夫婦が厨房にいて30歳ぐらいの娘さんが配膳係。 いいことがあった日と栄養が足りないと思ったときは店で一番高かった730円の味噌カツ定食を食べた。 雑誌類も充実していて週刊現代と週刊ポストを読むことが習慣になった。

1982年。週刊誌によるとデビューしたばかりの中森明菜という歌手がずいぶんと生意気だという。 あるとき錦星食堂のテレビで歌番組をやっていて中森明菜を初めて見るチャンスが来た。 ところが直前に店のオヤジがプロ野球にチャンネルを変えた。

秋になってから日曜日は駅前にできたばかりの商業ビルに行くようになった。 2Fにある電器店のテレビを見るのである。 そこで石川秀美や小泉今日子ら1982年デビューの歌手を見ることができた。もちろん中森明菜も。 そんなときは近所にいた中高時代の同級生Tがいつも一緒にいたのだが。

西麻布 (8月17日・木)


夜になって西麻布。妻の前の勤務先にいる後輩の結婚祝いで4人で飲み会。 新郎はPR代理店のIT担当。私たちの結婚パーティにも来てもらった。 当時は入社1〜2年目だったそうだが今や31歳の中堅どころ。 彼の会社下で19:30に待ち合わせタクシーでお店へ。

雨と晴が6巡ほどして雷も鳴った1日。 タクシーを降りたら豪雨。 すっかり晴と思い込んでいた私は傘がなく妻に文句を言われながら辿り着いたお店。 小さな隠れ家みたいなところ。妻は2〜3回目らしい。

蒸し暑い日。 ビールばかり飲んでいると脱水状態になって貧血になって倒れるというのは昨日の教訓。 だからビールは控え目にしようと思いつつ多分5〜6杯。 でも今日は結婚祝いということで。 新郎も前よりすっきりして逆に若々しくなった感じ。 いいカップルだと思うぞ。

六本木に勤めている新婦と話をするのは初めてだと思っていたら何度か会っていると妻から指摘された。 あまり覚えていない。前に住んでいた街にいたころ近所に勤めていたと聞いて思い出しはしたが。 今年結婚したが付き合い始めて10年なのだとか。そのことにびっくり。

それより待ち合わせ前に妻の元上司で昔一緒に仕事したA氏とすれ違った。 彼は気づかず通り過ぎた。 それでも私が見送っていたら彼が急に振り返った。 挨拶だけして別れたが妻に話すと彼は脳内処理に数秒かかるのだと笑う。 みんな歳をとった。そういうことだな。

西荻窪 (8月16日・水)


19歳の9ヶ月間だけ杉並区西荻窪に住んでいた。 京都の大学に入学したものの仮面浪人で東京に来ていたのだ。 駅から徒歩3分の旧家に間借りしていた。 その家がもうないことは17年前に見に行ったときから知っている。 東京に転居した5年前にも妻と見に行った。

今日たまたま仲間を送って夜タクシーで西荻に行った。 そのまま帰るのももったいないので当時住んでいた辺りを歩いてみた。 17年前にも5年前にも歩いたところ。 ところが以前なら目印にした隣家の美容室もなくなり跡地がどこか分からなくなっていた。

それより驚いたのは家の前の道の狭さ。車1台ギリギリ。 一番近かった銭湯の辺りにも行ってみたがアパートしかなかった。 郵便局も美人のお姉さんがいた喫茶店もなくなっていた。 駅前の松屋だけは当時のまま。いやカウンターの作りなど内装は違っていたが。

5年前には居酒屋に変わってしまっていた24年前の「錦星食堂」の場所に「お食事処きんせい」の看板を見つけた。 また定食屋に戻ったんだろうか。当時は昼夜合わせ週に最大10食を食べていた錦星食堂が復活したのなら一度訪ねてみたい。

京都の学生時代も濃い青春だったが西荻とお茶の水または四谷に通った中央線もまた私にとっては青春の1つだ。 それも飛びきり暗いものとしての。 浪人してまで受験した入学試験に落ちて実家に電話しているうちに涙がこぼれた公衆電話もなくなっていた。

沢木耕太郎 (8月15日・火)


ときどき読売新聞を読むことがある。 我が家は朝日で勤務先その1に日経があるので機会があれば読売毎日産経に目を通す。 今日は妻と田舎から戻った義母と3人で夕食を近所の居酒屋に行って読売に目を通した。 そしたら連載小説が19日から沢木耕太郎なのだと言う。

読売新聞によると沢木耕太郎が書く小説は2000年の『血の味』以来2作目だと言う。 私は『テロルの決算』によって本の面白さを知り読書が習慣付いたと公言するほど沢木耕太郎のファンである。 その割には著書を全て読んだわけではないのだがとても気になる。

実は買ったのに読んでいない沢木耕太郎の本が一つある。 父上の介護と死に立ち会ったノンフィクション『無名』という作品だ。既に文庫にもなった。 ところが時期が私の父と重なり読む勇気がなかった。 半年ほど前に単行本で買ったのだが読めないままだ。

一方2000年の『血の味』は単行本で買って読んだ。 「中学3年の冬、私は人を殺した。」で始まる小説だ。 私は2000年11月の日記に書いている。 しかし今回の読売の連載は恋愛小説だと言う。 読売を毎日読むこともできないから本になってから読もうとは思う。

読売の連載はともかく沢木耕太郎は読む側に覚悟がいるような気がする。 実は知らない作品を読むのが怖い。 心が震わされると思うからか。 『無名』だけは勇気を持とうと思うのだが。 少なくとも電車の中では読めない。どこか落ち着ける時間と場所を見つけようと思う。

『逆説の日本史』 (8月14日・月)


井沢元彦『逆説の日本史〈12〉近世暁光―天下泰平と家康の謎』(小学館)。 関ヶ原から江戸幕府のシステム確立まで。 このシリーズは図書館で借りてきて読んでいた。 前巻ぐらいから単行本が出るたびに買っている。 史料絶対主義の歴史学を徹底的に批判するのも本シリーズの特徴である。 さすがに12巻目。批判は少しだけ大人しい。

徳川御三家は将軍家に跡取りがなかったときのバックアップであることは常識だと思う。 事実8代吉宗は紀伊から将軍になった。そこまでは知っている。 だが著者の説として血統のバックアップは紀伊と尾張だけだと言う。 最悪のシナリオとして天皇家と戦争になった場合には天皇家に味方し徳川家を存続させるための存在が水戸だというのだ。

だから水戸出身の15代慶喜は官軍を前に敵前逃亡したのだ。 ではなぜ慶喜が将軍になってしまったのか。 それは紀伊が将軍家の血筋を受け継ぐため8代吉宗がシステム化した御三卿の一つである一橋家に慶喜が養子に入っていたから。 一橋家から将軍が出るのは構わないが慶喜の出身は天皇に味方するはずの水戸だったということらしい。

慶喜は腰抜けか先見の明があったか議論はあるが実はなってはいけない血筋だったという説。 ともかく本書を読めば水戸徳川が将軍になるという計算違いはあったにしても家康が作り上げたシステムがいかに凄いかよく分かる。 家康が過去の失敗を研究したように歴史はこうやって役立てるのだという教訓でもある。

地下鉄路線 (8月13日・日)


3月に亡くなった妻の親戚の初盆で義母が電車で地方に出かけた。 妻と私は居残り。 我が家からターミナル駅までの路線は極めて単純ながら東京の電車に一人で乗れない義母は数週間前から今日のことを気にしていた様子。 最寄り駅まで送って妻が途中まで同乗した。

決まった路線に乗るのなら看板を見ながら行けば問題ないと私たちは言うが義母は乗り間違うのではないかと怖がっている。 でも確かに東京の路線は難しい。 私にしても出張で東京に来ていた頃は極力JRに乗っていた。 地下鉄の駅名に馴染みがなく方向感が分からないのだ。

行き先が隣駅ならホームに書いてある。が2つ隣になると路線図を見ないと分からない。 例えば赤坂見附から虎ノ門に行きたいとき渋谷行きに乗るのか浅草行きに乗るのか位置関係を知らないと分からないのである。 知っていても勘違いして逆向きの電車に乗ることもある。

義母は3月に妻が同行して2度往復している。 それで多少この路線は慣れた様子。 それでも不安がっていたが結局のところ難なくターミナル駅まで行ったらしい。 これで義母が帰省するとき妻が同行しなくても大丈夫だろう。我が家にとって一安心。

PCの歴史 (8月12日・土)


月刊アスキー最終号を見ていて改めてPCの歴史を思い出している。 NECのPC-9801発売は私が大学に入った82年だ。 1983年にはPC-9801Fだったと思うがこの本によるとPC-9801VM2が1985年発売。 1987年に大学の研究室で駆使したのはVM2とVX2だったと思う。

1988年に入社したとき会社から与えられた私のPCはPC-9801VX2だった。 多分マイナーチェンジをしているはずだ。電源スイッチの色が本体と同じか茶色かで見分けたような気がする。 同年RX2が出て翌年入社の新人はこれを使う。

この本にはJ社の幻のワープロ「JS-WORD」搭載のPC-100も一太郎Ver.4.0搭載の日立PROSET30も載っている。 一太郎Ver.4はNEC向けに1月遅れで4.1が出てバグで再出荷したのが4.2。 東芝向けに4.25を出したが結局まだバグが多くNEC向けには4.3で落ち着いた。 確かこういう経過だったと思う。

さらに78年のシャープMZ-80Kや83年東芝Pasopia7に始まりアップルLisaにシャープX68030とPC-6001にPC-8801mkII。 PC-98DOや98MULTi CanBeとジョブスがアップルを追われて作ったNeXTcubeなど名機の解説がてんこ盛り。

買って思うが資料として1,280円は安いと思う。 PC業界にいる人なら買っておいた方がいいのではないかな。

月刊アスキー最終号 (8月11日・金)


今読んでいる梅棹忠夫『情報の文明学』に収録された論文にこんな一節がある。 30年前に朝日放送が発行していた『放送朝日』誌の休刊に寄せた文章である。 「脈動を停止したときが雑誌の生命のおわるときである。たとえ将来、同名の雑誌が発行されることがあったとしても、それはもうべつの生命体である。」

30年経ち「パソコン30周年記念特別号」と題された月刊アスキーの最終号を買ってきた。 「PC誌を卒業」とやって話題になった8月号だ。 休刊とは言っていないしPC誌を止めるだけだと言うが2ヶ月間休刊するのだから梅棹忠夫氏の論によれば実質的な最終号である。

編集者の名前を見ると感慨深い。 かつての編集長は編集人になり週刊アスキー編集チョは発行人だ。 仕事で付き合っている編集者の名前はあるが昔から付き合いがあるのは先の2人だけ。 親しく付き合ってきた編集者はみんな辞めた。

それにしても朝日パソコンより精神的な影響は大きい。 なにせ1977年創刊の同誌はアスキー社の旗艦誌であってPCの歴史そのものだったわけだから。 それがPCの時代ではないというのである。

内容は30年間の回顧。すっかり薄くなったが朝日パソコンが表層的で同人的だったのに対し内容は濃い。 PC-9801VM2やJ-3100SSなど名機の写真がこれでもか。 未来志向な記事もある。 ただし価格を見ずにレジに出したら1,280円もしてびっくりした。

BPQ 2 (8月10日・木)


8月8日の日記に書いた友人I氏のお父上が亡くなった。 夕方I氏からメールをもらった。 彼も東京から急遽帰省して大変だが兄上は米国から家族で帰国したそうだ。 父上は息子たちの家族全員が揃うまで待っていたようだとメールにあった。そうだと思う。

彼の父上と面識はない。厳しい人だったと勝手に想像している。 それでも最期を前に彼は病院に泊まり込むとも言っていた。 父子の関係は私の場合複雑な気持ちがあったが最期には許せた。 彼はどうだったのだろう。兄上はどうだったのだろう。

そう言えばI氏は峠道ドライブの前にプログレッシブロックも教えてくれた。 高校2年だったと思う。ピンクフロイド「狂気」とイエス「危機」を表裏に録音した90分テープをもらった。 確か兄上が好きで買っていたLPから録音してくれたのだと思う。

その後「狂気」は数千回聴いた。ここまで聴き込んだ音楽を最初に教えてくれたことには本当に感謝なのである。 こう書いていると10代後半から20代前半の青春時代に多大な影響を受けていたと改めて思う。 やっぱり会って話をした方が良さそうだな。

痴漢 (8月9日・水)


勤務先その2の同僚が今週朝の通勤電車で痴漢を逮捕した。今日その話を本人から聞いた。 人と触れない程度の混み具合の電車で女子高生のスカートを男が引き上げようとしたところを見たのだとか。 思わず男の尻を叩いて「何やってんだ」と。

駐在所から警官が来て警察署に行き調書取り。 被害者は大人しそうな高校1年生。取り押さえられるまでスカートの上から触られていたのだとか。 加害者は26歳。常習犯だったらしい。 8時半頃に逮捕して出社できたのが14時頃で調書取りや何やらで数時間もかかったそうだ。

逮捕したのは同僚だから調書に加え身柄引渡確認書やら書類が多いと。 後に表彰状が渡されるらしいのだが私が驚いたのは協力金だか何かの名目で2万円もらったということ。 確かに数時間も拘束されれば金銭的補償があるとありがたいが結構な額だと思う。

同僚が逮捕したとき男の腕を掴んだらしい。 周りの乗客も協力したようで男は大人しく観念したが腰の後ろのベルトを掴み直したそうだ。 こうすると逃げられない。これは覚えておこうと思う。

一方で犯人は大人の女性と話もできない小心者なのかも知れない。 昨今の女子高生もいろいろだけど犯人はわざわざ大人しそうな高校1年生を選んだのだろう。 だとしたら。そうでなくもてそれは卑怯である。

BPQ (8月8日・火)


先日メールをくれた中高時代の友人から10時ごろ電話があった。 徳島でブロードバンドが利用できる場所はないかという内容。 マクドナルドなら可能らしいと答えただけ。 後から来たメールによるとお父上の具合が悪く先週から帰省しているのだとか。

彼こそ私に峠道ドライブの楽しさを教えた人物である。 ちなみに6月13日の日記に書いた峠の事故はI氏本人が起こしたものだったと本人からメールをもらった。 山を歩いて下りて後輩に電話して助けてもらったので記述が逆だった。

中高時代はアマチュア無線の仲間でもあった。 当時の彼の家は山の向こうで50MHz/SSB/1.5W/室内アンテナでは信号は微かで会話は不可能だったが。 高校時代は合唱部に誘うと実に安定した素晴らしいバリトンだった。 今朝の電話の声を聞いて思い出した。

今回の帰省は急だったらしく今日いったん帰京し夕方から再び車で台風の東名高速を下るのだという。 こういう話を聞くと心配になる。 今24時頃は名古屋から京都あたりだろうか。 再び帰京し落ち着いたら会おうと思う。ね。>BPQ

イルカ (8月7日・月)


勤務先その2の同僚たちと近所で飲み会。 前半は仕事のことだが最後はダイビングとドルフィンスイムのこと。 2人のダイバーが週末にイルカと一緒に泳いできたんだとか。 そのときのエピソードに笑い転げた。

1人は5年で85本の女性。もう一人は1年で50本の男性。 女性が2頭のイルカのすぐ近くにいるところを海底から撮った写真を見せてもらった。 作られた絵のようにきれい。こんなに近くでイルカが見られるのか。

ただしシュノーケルで海面を泳ぐし海中でないとイルカは寄って来ないそうだから息を止めて潜らないといけない。 そんなわけで男性の方は苦労惨憺だったらしい。

聞けばライセンスだけ取って以降やっていないダイバーも同僚もいた。 何だ知らなかった。20人の職場にダイバーは4人。 いろいろ誘われて戸惑いながらも楽しいのである。

そんなわけで丘ダイバーながら誘われながら次の機会を窺っているところ。 秋になると寒いかな。海の中は逆に暖かいらしいのだけど。

田舎コミュニティ (8月6日・日)


妻がNIKKEIプラス1に出たことを従兄弟に伝えたところ親戚の間で情報がぐるぐる回っているらしい。 田舎の親世代は話題に事欠いているのだろう。 サラリーマンだった叔父たちもほとんど定年退職だろうし話題は子どもや孫のことが中心だろうし。

しかし話題に事欠いているのは親世代ばかりではないかも知れない。 大学のころ高校のクラブのOB宴会に出たら徳島の先輩たちの話題はプロ野球のことばかりで驚いたことがある。 まだ社会人1〜3年目の先輩たちが巨人がどうこうという話しかしていなかった。

あれを見ていたので田舎で就職することには逡巡した。 田舎で公務員と銀行員と教師にはなるまいと思ったような気がする。 まだ20歳のころ。 将来に希望を持っていた目には皆で集まってプロ野球のことしか話せないのは情けないことだと思った。

当時の田舎では広い世代の人たちが共通の話題にできるのは当たり障りのないプロ野球ぐらいだったのかも知れない。 それが先輩たちの処世術だったのかも知れないと今は思う。 だとしても。だとしたら尚さら田舎のコミュニティで私の居場所はないように思った。

刺激的なことばかりでは疲れるのも事実だが私はもっと新しいことを知りたい。 人と話をするなら知らないことを教えて欲しいし議論もしたい。 と考えると私もまだ精神的には若いのかも知れない。そう思おう。 そう思っておくことにする。

掲載紙 (8月5日・土)


日本経済新聞の土曜版「NIKKEIプラス1」に妻のコメントが写真付きで掲載された。 今日掲載されると聞いていたのに午後になって思い出し慌てて近所のコンビニまで買いに行った。 本人は写真写りを気にしているが普通である。自分をどれほどの美人と思っているのだろう。

さてこの記事では取材されていた他の人が急に掲載できない事情があったとかで妻を経由して代役も探した。 そういうわけで徳島時代の元同僚も登場している。90年頃4Fにいたと言えば分かる人には分かる。 仕事の接点はないが最近ときどき飲む間柄なのである。

特に予定のない土曜日。我が家はこれで盛り上がり調子に乗って母や一部の親戚にメールした。 ばあさんの命日だから何か見えない力で今日の掲載になったのだと本家の従兄弟から返信があった。 叔母は別姓と知らず名前が同じでよく似た人だと言っていたとか。

黒子のはずのPR代理店が表に出ていいのかという議論もあるだろうが別刷りとはいえ全国紙に顔写真入りは事件を起こさないとなかなか難しい。 そんなわけで本人は恥ずかしがっているが私は面白がっている。 義母にも渡す分も含めて掲載紙を2部も買ってしまったのである。

メール (8月4日・金)


長く会っていない2人の友人から続けてメールをもらった。 会社の同期だったり中高の同級生なのだが6〜8年は会っていないような気がする。 2人の友人はこの日記の感想としてグッズを教えてくれた。 そんなメールはとてもうれしいのである。

このサイトを始めた頃には何人かの元同僚からメールをもらうことがあった。 Webページを持っている人にリンクしてもらっていたからそこから辿って来た人が多かったと思う。 当時でも数年ぶりの後輩だったりして結構うれしかった。

多分ブログなら気楽に感想なり書き込めるんだろうなと思う。 そういうコミュニケーションに軽い憧れもある。 それでも見ず知らずの人から匿名のコメントをもらいたいとは思わない。 だから消極的にブログに移行したくないのである。

メールにしても全く無関係ない人からは欲しくない。 直接知らなくても何らかの接点があったりすれば歓迎ではある。 そんなわけで大昔の同僚だったり中学の同級生だったり一度話しただけでも構わないので密かに覗き見てる古い知人はぜひメールを送って下さいませ。

ダイブコンピュータ 2 (8月3日・木)


ダイブコンピュータを調べていて改めて勉強になっている。 私の理解はこうだ。 タンクの空気を水中で吸うと水圧で圧縮された空気だから分子は地上の数倍になる。 つまり空気中78%の窒素が水中では血中に過剰に入る。 そのまま海上に出ると窒素が排出されず病気になる。

病気を防ぐためには水深5m付近で数分間留まり窒素の排出を待つ「減圧」が必要だ。 これを減圧停止と呼ぶ。 ただし一般的に18mより浅く長時間でなければ減圧措置は不要。 それでも念のため水深5m付近で数分間留まることが推奨されていてこれを安全停止と呼ぶ。

減圧停止をしなかったら減圧症という病気になる。 検索すると減圧症で何年も苦しんでいる患者の悲痛な声が読める。無知から無謀な行為をしたと悔やむ声もある。 ダイバーの中にはガイドは信用せず水深と時間は自分で管理すると言う人もいる。 どうやって管理するかというと自分が付けているダイブコンピュータの数値を見るというわけだ。

ダイブコンピュータは無減圧潜水ができる残り時間とか減圧潜水になった場合の減圧停止時間を指示してくれる。 体内残留窒素量も擬似的に提示するようだ。 次のダイビングまでの休憩時間や気圧が下がるから危険だと言われる飛行機の搭乗までの時間も示してくれる。

潜水時間は水に入って水深1.5mより深くなると自動計測を始めるのが一般的。 水深や水温まで測れてPCにデータを転送することもできる。 ダイビングそっちのけでこれらの機能は楽しそうではないか。 本来は避けるべき18m以深の減圧潜水で試してみたいぐらいなのである。

『PR会社の時代』 (8月2日・水)


これも妻が買ってきていたので読んでみた。 著者は妻の元勤務先の社長。 今も相談に乗ってもらっているらしく後見役みたいな存在かも知れない。 矢島尚『PR会社の時代―メディア活用のプロフェッショナル』(東洋経済新報社)。

著者が社長のPR会社は昨年の衆院選挙で自民党のPRを仕切って有名になった。 私も昔仕事をしたことがあって旧知の人もいる。妻を通じて何人か見知った人もいる。 たまに仕事をすると大丈夫なのかと心配になるような社員もいるがPR会社では日本で3指に入る大手である。

本の内容はPR会社のPRである。 成功したPR事例などで具体的な社名も登場するが内容は表層的。 事例の詳細こそノウハウであって商売のネタは書けないのだろう。 よって広報担当者には退屈な内容。 広報のことを何も知らない経営層に向けたものなのだ。

経営者に向けた構成は巧みだ。 過去や米国との比較に日本の企業風土も織り交ぜPR会社の必要性が語られる。 他のPR会社の事例を社名とともに出し業界のPRに努めているのは好感が持てる。 それは市場の拡大こそが会社の成長要因であるからだろう。

他社の事例で客観を装って業界のことを説明し要所では自社のことがさりげなく書かれている。 業界をPRすることで自社に顧客を呼び込む戦略は成功していると思う。 つまりこの本そのものがPR手法の目に見える具体的な事例になっているのである。 プラップジャパン恐るべし。

脂肪 (8月1日・火)


ダイビングでウェイトを重くするのは息が浅いからだと昨日書いたが実はより根本的な原因がある。脂肪だ。 どれほど違いがあるかは知らないが脂肪の比重は軽い。 つまり脂肪が多いほど浮きやすい。

6月の2週間に合計5回ほどステッパーを使った運動をした。 少し体重が減ったか少なくとも増えはしなかった実感があったのだがベトナム旅行で中断した。 その前に梅雨の暑さでやる気をなくしていた。

多分ダイビングのウェイト量は脂肪のせいではない。 講習のとき参加していた中年男性の脂肪量は私の比ではなかったがウェイトは3kgだと言っていた。 サイパンで同行したK氏の脂肪も私より確実に多いはずなのにウェイトは6kgの私に対し5kgだった。

だからやっぱり沈まないのは呼吸が原因だと思うのだがそれとは別に脂肪は問題だ。 運動は一度切れると再開するのが億劫なのだ。

などという駄文を書いている間に運動を始めるべきなのだが今日はもうビールを飲み始めてしまった。 やっぱり再開するのは週末からにしよう。・・・こんなのばっかり。

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© 2006 Takashi INAGAKI