2007年8月

ダイビングガイドのSさん (8月31日・金)


この夏のことで三宅島のダイビングガイドSさんのことは書いておきたい。50歳ぐらいだろうか。素晴らしい人だった。いつも笑っていて面白い。朝6:30に迎えに来て夜は一緒に宴会も。三宅島の仲間に会ってきたような感覚になる。何よりダイビングガイドとしての技能に感動した。

妻も感謝しているようだが私が実感したのは海中で空気残量をチェックしたとき。ビーチからポイントまで来て残量は95。最初200以上あったから片道で半分以上費やしている。戻る前に空気が切れると私は焦った。でもSさんは帰りにわざわざ生物を手にとって見せてくれたりする。

途中もう一度メーターをチェックされた。残り30。Sさんはゆっくり行こうと手で合図して落ち着かせてくれた。海中では焦りは最大の敵だ。彼が焦りを見せたら私はパニックを起こしかねない。本来は私の自己責任だが人の命を預かるプロとして彼の経験と判断と胆力を感じた。

岸に上がり車で移動中に残量のことを聞いてみた。「最初はそんなもんですよ」とSさんはあっさり言う。こちらは迷惑を掛けたと思っているのに客の気持ちに負担を掛けない物言いでこれにも感心。昔は東京で会社員だったと聞いている。人生の深みを感じる人物である。

縁と水難 (8月30日・木)


月曜日の徳島空港でJ社の2人と偶然会った。いつか飛行機で会うだろうと思っていた営業本部長のY氏と人事部長のN氏。Y氏とは年に1度ぐらい飲んだりするしN氏とは前にも会った。だから驚きはしない。経験による示唆はない。彼らはどうか知らないが。

水曜日は日本に着いたばかりのフミコさんが来て天ぷらを食べに行った。今回米国に戻ったのは「金スマ」放送翌日。成田空港で見ず知らずの人から「金スマ見ました」と話しかけられたそうだ。髪型も服装も違うのに。フミコさんも驚いていたが私たちも驚いた。

水曜日は昨年仕事をした元クライアントの担当者から間違いメールが届いた。そしたら今日は別の担当者から転職の案内が届いた。何かが続くときは続く。でもこれはただの偶然だ。こんなことに意味を求めていたら逆に間違ったことをしてしまいそうだ。

月曜日夜水道工事の影響で断水した。火曜日朝になるとトイレのタンクに水が溜まらなくなっていた。管理会社に連絡してお昼頃修理してもらったら夕方からは雷雨。寝室の窓を閉め忘れ絨毯を激しく濡らしてしまった。明日もタンクの点検断水。雷雨で涼しくなったが今週は水難が続く。

体重 (8月29日・水)


6月から始めたダイエットの目標を2〜3年前の体重を目指して4.5kg減にすると前に書いた。でも2年前は健康診断での数値である。排尿排便の上で何も飲食せず計った数値。一方で今は朝食後に計っている。着ているものも違うから目標は4kgで構わないかと思ったりもしていた。

ところが現在のところ既に4kg減。帰省前は2kg強から3kg減のレベルだったから徳島のお遍路が効いたのかも知れない。それより食事で野菜を意識して白米の量を減らした効果が大きいと思う。と言っても夕食で茶碗1杯半から2杯食べていたのを1杯に減らしただけなのだが。

4kg減で確かに背中はスッキリして腹も前ほどではない。でも今ひとつ。一応4.5kg減のレベルで標準体重なのだがスポーツクラブに通っていた当時からは筋肉も落ちただろうから4.5kgで満足してはいけないのかも知れない。今の筋肉量を考慮すれば5kg減で当時のレベルだろう。

でも当時でさえ体脂肪率は20%を切る程度だったから6kg減を目標にしてみよう。それでも学生時代はもちろんJ社時代よりも重い。太鼓腹状態は脱したがまだ満足してはいかんのである。そんなわけでもう少し続けてみようと思っている。

自然の美しさ (8月28日・火)


今回の徳島で発見したのは自然の美しさである。例えば何重にも山が連なった様は素晴らしく美しい。遠くに行くほど薄くなる色合いとそれでもくっきりした稜線。でも発見したのは自然の美しさではなく自然を美しいと感じる自分の心かも知れないとも思う。

子供の頃なら山は虫取りに行く場所で眺めるところではなかった。それ以降も関心がなかったような気がする。例えば鷲敷ラインは何度も車や二輪で走ったが景色に目を遣るのは桜の季節だけだったかも知れない。今は自然と景色を見て美しいと感じ入る。

特に太龍寺ロープウェイから見た眺めは絶景だった。遠くまで重なり合う山々もそうだが眼下に見える曲がりくねった那賀川も。下りるに従って見えてくる鷲敷の小さな盆地に不規則に並ぶ田んぼと如何にも小さな街の有り様も。

山に行かなくても鳴門の街中を西に向かうとき見える讃岐山脈もとてもきれいだ。気付けば美しい自然に視線がいっている。私がこんな感じを持つようになったのは歳を取ったから得られた感覚なのか。東京暮らしとの対比なのか。あるいは経験として与えられた何かの示唆か。

『神との対話』 (8月27日・月)


これまでの私の読書や知的好奇心はこの本を読むためにあったのかも知れない。そう思うほど凄まじい影響を受けつつある。この日記でも既に何度か触れた。ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話―宇宙をみつける自分をみつける』(サンマーク文庫)。

米国人の著者が自分の不幸を嘆いて神に手紙を書いたところ次に感情に従って書き連ねたのが神の言葉だったという想定である。事実かも知れないし作り話かも知れない。でも田口ランディがあとがきに書いているが根拠はどうでもいい。内容を信じるかどうかだ。

神は常に私たちとコミュニケートしている。その手段は最初に感情。そして思考。経験。最後に言葉。神は完全であるが故にそれを知るため対比としての不完全な世を作った。不完全な人の魂も実は神であり単に記憶を忘れているだけ。人生の目的はただ思い出すこと・・・。

キリスト教の教えを随所で明確に否定している。宗教にしろ私たちが信じている多くは人が作った価値観であって自分の感情と思考と経験に従えと言う。言葉はエネルギーで不安は現実を引き寄せるとも。そして不安の反対語が愛であると。

本書の内容は一貫していて矛盾がないように読める。これまで何となく感じていた世界観を論理的に明示されたような気もする。私はまだ1回読んだだけで完全に理解したとは言い難いがともかく一読をお奨めする。人生観が変わるかも知れない力を持った本だと思う。

強化練習 (8月26日・日)


8:30過ぎに家を出て徳島駅前。いつもの練習場所の駐車場に車を止め今日は郷土文化会館での強化練習。9:30〜16:00。先週の木・土と今週の火・木・土と続いた練習は今日が私の最後の出席。間で実家でも練習したから成果は上がったはずなのだが。

難しい自由曲はほぼ暗譜できた。不安なのは掛け声のような音のタイミング。それと掛け声だけになった後に始まる音程。ハ長調で言えば曲はラから始まるが途中からシのフラットで新たに始まる。この音が難しい。バリトンの半音上だと言うのだけれど。

一方の課題曲はまだまだ。曲は比較的簡単で歌詞も単純。音も取れたが歌い込みが足りない。長音は2拍半なのか6拍半なのかパターンが様々でこれを覚え込まないと。問題は歌いながら動作を加えることで動きに気を取られて歌がおろそかになる。

本番まで1週間あるので1人練習で歌い込もう。明日一旦東京に帰って日常生活に戻るが土曜日再び徳島に入る。本番は日曜日の高松。それにしても徳島で12泊は1999年に転居して以来。出演を誘ってくれた指揮者と勧めてくれた妻と一緒に努力をしている仲間たちに感謝する。

『フューチャリスト宣言』 (8月25日・土)


現代社会とかネット社会に関して何か面白い価値軸が得られるかなと思って読んでみた。『Web進化論』の梅田望夫氏とNHK「プロフェッショナル」司会者で脳科学者の茂木健一郎氏の対談。『フューチャリスト宣言』(ちくま新書)。

前半はgoogleやネット社会の意義といった業界では半ば聞き飽きた話が続く。2人の個性が化学反応を起こし始めるのは中間あたりから。特に梅田氏が「大学で教えるぐらいならネット上で本気で教材を公開する」と断言するあたりからスピード感が出てきて面白い。

茂木氏はネットを「言語獲得以来の地殻変動」と言っている。相転移(水が水蒸気になることなど)が起こり概念が覆っているからと。例えば若い人の中に情報の私有を悪と考える人がいることをあげている。コピーレフト論に近いが理解できなくはない。

2人に共通しているのはネット社会の未来を極めて楽観的に見ていることだ。悪いこともあるが全体からすれば些細な範囲でネットの大部分は善であると。『Web進化論』ほどのインパクトはないがネット社会を考える数々のヒントがある好著。

『名づけえぬものに触れて』 (8月24日・金)


上質な小説を読みたいと何十年も思いながら私は新しい作家にトライすることにためらいがある。よしもとばななさんの本もそうだった。失敗したと思いたくないというのが単純な動機だが逆に心を抉られるかも知れないことへの恐れがある。

そういう複雑な感情において柳美里は私にとって最右翼である。だから買うことには多少の勇気が要った。ではなぜ買ったのかと言えば知人がこの本を企画して編集したからだ。日経エンタテインメント誌のH嬢。編集中の奮闘も読んでいたから応援したいと思い。

柳美里『名づけえぬものに触れて』(日経BP社)。著者の熱心なファンの自殺を契機にファンサイトの掲示板への書き込みを始め後に開設したブログでの発言をまとめたもの。精神状態の善し悪しが読み取れドキドキするところもあるが基本は日記なので読みやすい。

死と病的な精神状態が何度も顔を出す。最後に日経クリック掲載のエッセイがある。「ネットは、現実のなかでは抑圧せざるを得ない感情を暴発させる『お祭り』のための場なのだ」。最初の投稿「Are You Happy?」を受けたこのエッセイによって本全体のメッセージを強く感じた。

これは柳美里の強い感情とネット社会における感性に感応したH嬢の企画力と編集力による秀作である。私は著者の人間性を少し知った気がして小説を読む勇気は出た。心揺さぶられるとも覚悟はできた感じがする。そう考えるとこの本は柳美里の入門書としていいかも知れない。

高校野球と『がばいばあちゃん』 (8月23日・木)


昨日の高校野球決勝は広島広陵と佐賀北だった。多分3回と7回の表裏だけテレビで見た。4対0で広陵が勝っていて佐賀北にはとても勝ち目がないと思い自分の部屋に戻り本を読んでいた。そしたら満塁本塁打で逆転して試合が終わっていた。

佐賀北の選手の中には島田洋七氏のご近所もいるらしい。そして島田洋七氏は広陵高校野球部OBなんだそうだ。そんなわけで読んでいたのが島田洋七『がばいばあちゃん佐賀から広島へ めざせ甲子園』(集英社)。 主人公が広島で高校野球に打ち込む前後の物語である。

高校に入学し広島のお母さんの元に移り買ってもらった自転車で佐賀のばあちゃんに会いに行く。お寺の軒下で泊まろうとして夕食をご馳走になり身の上話をするところなどでばあちゃんの話題が出る。「貧乏人にできることは、まず笑顔じゃ」は覚えておこう。

あとは著者の青春物語である。友情やケガで野球を諦めたことや八百屋での仕事のことなど。折々でばあちゃんの話が出てくるしまずは面白い。でも昨日の決勝戦8回から見ていた方が感動していたような気がする。この本を読んでいて現実のドラマを見逃したことがちょっと残念。

耐震診断 (8月22日・水)


実家が無料の耐震診断を受け今日結果説明を母と一緒に聞いた。地元の建築会社のボランティア。分かりやすく好感が持てる。さて診断方法は壁の位置と大きさなど家の構造を一旦図面にしてコンピュータではじき出す数値で判断する。築年数を考慮した構造上の推測値も乗じる。

結果の数値が1.5以上なら震度6強の地震で「倒壊しない」。0.7以下は「倒壊の可能性が高い」で全4段階に分かれる。我が実家は1Fの南北方向が0.57。2Fの東西方向が0.55で共に「倒壊する可能性が高い」。1Fの東西方向と2Fの南北方向は「倒壊する可能性がある」。

結果の大きな要因は重心と剛心の距離にある。重心は建物の重さの中心で剛心は壁の強さの中心。この距離が大きいと剛心を中心に重心が振り子になり揺れ幅が大きく倒壊の危険が高まるという理屈らしい。合わせて基礎のひび割れや屋根裏の梁の不具合などの指摘も受けた。

屋根裏は40年近く前の2F増築の際に無理が出たのだろう。重心と剛心のズレは十数年前に増築した部屋に依ると思う。このズレの修正には簡易な工事で約20万円程度。直下型で浮き上がることを防ぐ工事も含めれば全部で60〜70万円かかるようだ。

築50年近く。母と相談して耐震工事は何もしないことにした。壁が多く比較的安全な西側の部屋を中心にいるようにすることと我が実家の場合は家具の固定などの対策が先決である。

修行と苦しさ (8月21日・火)


今回のお遍路は2日車を使ったが焼山寺は奥の院まで1.1kmの山道を歩いた。ヘトヘトになったのは前に書いた通りで車を使った2日分の何%かの修行にはなったような気がする。でも苦しいのは体だけ。私の心や魂はむしろ楽しんでいる。

登りで妻は後半から光明真言というお経を心で唱え始めたら足が軽くなったと言っている。帰りは2人で声に出して唱えながら歩いたらすぐ着いた。弘法大師が後ろから押してくれたとは思わないが教訓は得た。目標を決めてやるべきことを淡々とやっていれば辿り着くのだ。

このときのお経と足が軽くなったことに宗教的な意味はない。駅伝の掛け声みたいなものだろう。苦しいと思う気が紛れるのだ。ということは苦しいと思うときは別のことを同時にやってみるといいのかも知れない。日々の生活でも同じことだと思う。

仕事で疲れるなら毎朝歌を歌うとかスポーツをするとか。こう書けば当たり前のことだ。楽しいことを同時にすれば気が紛れる。そして淡々とやっていればいつか目標地点に行くだろう。それでも心や魂が苦しければ止めればいい。人生において苦を尊ぶ考えは間違いである。

鳴門うどんと合唱の練習 (8月20日・月)


昨夜は飲み過ぎ二日酔い気味。B氏から「鳴門にいて知らないのか」とけなされた大井食堂に昼前に行き鳴門うどんを食す。コシのない細いヘナチョコ麺だ。悪くはないがわざわざ食べに行くほどのものではないと思う。食後はそのまま空港に行き1人帰京する妻を見送った。

午後は仕事を少し。後は1人で合唱の練習。今回1週間居残ったのは響の練習に参加するため。9月2日にあるコンクール四国大会に向けた特訓期間である。東京からわざわざ参加するのもどうかと思ったが指揮者の並々ならぬ決意を聞き一緒に努力してみる気になった。

しかも自由曲の歌詞が仏教の文句。僧侶の団員S氏の解説によると密教行者が最初に唱えるべき経文らしい。タイトルは供養しようとする神仏を呼び寄せる意味なのだとか。私はお遍路でお経を読み始めたからこれも縁かと妻の勧めもあってやってみることにした。

ただし歌詞は衆生無辺誓とか天下法界といった漢語が繰り返し続く。音は声明を模したのかパート間で半音違いだったり半音だけ上がったり最大8部に分かれたり。全パートほとんど歌いっぱなしで難しい。男声合唱らしいかも知れないが合同練習だけでは追いつかないのである。

四国初ダイブと宴席 (8月19日・日)


6:50出発。今日は宍喰のショップに9時集合でダイビング。途中GSとコンビニに寄って10分弱使ったが2時間で現着。ほどなく大手紙Kデスク夫妻も来て各自の車で出発。室戸の先の小さな港。途中歩き遍路を何人も見て余ったお弁当をお接待しようかと話ながら時間がなかった。

今日はボートダイブ。透明度が意外に悪く泳ぐより漂って魚を見る趣。エアの消費は半分程度。2本目は他グループの後で私ら4人だけ。耳抜きはすんなりいかないがダイビング自体は問題ない。エアも重りもマスクも。重りは1本目6kgを2本目5kgに減らしたが4kgまで減らせるかも。

ショップに戻ってログを付け17:20出発。日和佐で筍寿司を買い運転しながら食べた。往復で300km超。夜の宴会は19時始まりで15分遅刻。メンバーは一緒に潜ったK氏夫妻と現支局長M氏と当時のアシスタントS嬢とT嬢。お菓子材料通販のS社長と地場プロバイダのT社長。

それとTV局支局長のK氏。5月に結婚したばかりの奥様も。奥様は東京芸大出身で三味線で徳島では有名人らしい。結婚の経緯を聞き新婚さんの仲良い様を見て幸せな感じになる。帰りは代行。お店の割引券を使い2,500円で帰宅。これは安い。とにかく楽しく飲み酔っぱらった。

炎天下の歩き遍路 (8月18日・土)


弟が海に行ったようで朝車がない。それでゆっくりして10時前出発。母に車で送ってもらい6番・安楽寺から今日は歩き遍路。最高気温36.1度。6番から7番へは1km少しだから良かったが8番へは4km弱。平地のアスファルトで暑くペットボトルの水を3本飲み干した。1日合計約7km。
※写真は、6番・安楽寺、弘法大師像。

途中自転車のカップルに追い越され8番・熊谷寺で話をした。彼女はあどけなく高校生にも見える。東京農大の学生と言うから私の自宅近所。東京からバスに乗り神戸から自転車に乗ってきたと。その他にも歩き遍路が多い。若い女性の1人や2人組や老夫婦が目立つ。

9番・法輪寺前の店で冷やしうどんを食べたのが14時頃。母に車で迎えに来てもらったのだが迷ったらしく40分の距離を倍ぐらいかかって到着。寺に気づかず目の前を通り過ぎた母に電話してUターンしてもらったり路上で何分も待った。歩き遍路と言えズルをした罰が当たったか。
※写真は、炎天下、8番から9番へただ歩く。

16時頃帰宅しシャワーを浴び私だけ早い夕食。妻を私の友人K氏宅に預け「響」の練習。私の曖昧な音を何カ所も指摘される。妻はK氏宅でバーベキューをしてもらい子供たちと遊んできたらしい。練習後は妻を迎えに行き22時過ぎに帰宅。朝から夜までみっちり修行した感の1日。

焼山寺とお接待 (8月17日・金)


昨夜は飲み過ぎたわけではないが暑さの疲れで朝は早く起きられなかった。いきなり計画を変更して今日も車で行くことにした。12番・焼山寺。午後早く出て車で1時間半。途中で駅前に寄り春に結婚したテレビ局支局長K氏へのお祝いを買う。

焼山寺は難所の一つだが車だと山門近くまで行くことができる。参拝後は帰りに11番に行くことも考えたが奥の院があるというので行ってみることにした。行き45分帰り30分と聞かされたが幅50cm強の獣道。何度も妻は立ち止まりそれでも行きは35分ぐらい。
※写真は、四国八十八カ所12番・焼山寺から奥の院に獣道を歩く妻。今から見たら笑ってしまうほど苦しそう。

弘法大師の伝説が数々残る山頂に着けば雲上の趣。神山が下界に見える。人の営みが如何に小さいかを思う。奥の院の祠でもお経を読んだ。Tシャツがびっしょりで汗を絞る。帰りは本堂まで20分。駐車場で母のおにぎりを食べ帰路はシャツが冷たく妻の白衣だけを着て帰った。
※写真は、焼山寺奥の院から見た風景。神山の街が見える。

途中トイレに寄ったら前の店「藤川食堂」のお婆さんに声を掛けられ売り物のアイス最中をお接待された。雑談しながらありがたく感謝し頂いた。さて今日は最終便で弟が帰省。20時過ぎに鳴門の初めて行く鮨屋「すし一」。悪くない。弟と一緒に帰省のケースケとも久しぶり。

車でお遍路と軍国バー (8月16日・木)


帰省した夜に作戦会議をしてお遍路の予定を立てた。私の合唱の練習とダイビングの予定があるが4日間のお寺巡りをうまく割り振った。それで今日はとても私たちが歩いて行けそうにない山のお寺を車で巡ることにした。22番・平等寺から逆打ち。
※写真は、帰省した翌日、車で行った22番の平等寺。中央が妻。左の日傘が母。

母は膝の関節が痛むらしいと妻から聞き平等寺は足腰に御利益があるそうなので母も誘って3人で9:15出発。それにしても暑い。車を降りて参拝30分弱でシャツがビショビショになる。21番・太龍寺はロープウェイ。往復2,400円には驚いたが絶景に感動。ここは素晴らしいと思う。
※写真は、8月16日、ロープウェイで行った太龍寺・太子堂前の母と妻。この直前、ムササビを木の上に見た。

20番・鶴林寺と19番・立江寺で時間切れ。帰宅しシャワーを浴び仕事のメールをやり取りして私だけ早い夕食。従兄弟のサツマイモ農家Hちゃんに迎えに来てもらって徳島へ。妻はHちゃんに預けて私は合唱の練習。合同練習初回にしては歌えたかも知れない。

練習後は妻と合流。軍国バー。私が前にHちゃんに連れられて行ってから妻が行きたいと言っていたのである。ここで妻は軍歌を何曲も歌う。一番驚いているのが妻本人。どこで覚えたのだろうと。さて明日以降の予定は再検討せざるを得ない。とても歩いて回れない暑さなのである。

徳島空港の偶然か必然か (8月15日・水)


徳島に帰省した。今回は帰京の日が夫婦で違うしダイビングとお遍路もあるので荷物を分けた。コロコロを2つ。来週は特に予定がないので本も何冊か持ってきた。この機会に読もうと思って。16:30過ぎに家を出たがとにかく暑くて汗だくになって羽田。18:30発。

徳島空港に着いたら奥さんを迎えに来ていたY氏と会った。J社時代に私が作った入社案内の2冊目以降の写真を担当してもらったカメラマン。奥様は海外の著名な化粧品を日本に輸入し販売したことで美容業界ではカリスマらしく妻は仕事で会ったこともあると言う。

この奥様と妻は最近の妻の仕事相手を挟んでニアミスを何度も繰り返していて家でもY氏の話題をしていた。その奥様が同じ飛行機に乗っていたらしい。そして徳島出身で迎えに来ていたY氏と私が会った次第。お嬢さんもいたが徳島空港ロビーで4人が情報交換をいろいろ。

これは偶然か必然か。徳島出身だからといえJ社の人と偶然会うことはほとんどない。それなのに奥様と妻が仕事を通じてニアミスを繰り返した末に4人が同時に会うとはどういうことか。東京に戻ったら改めて会うことになるかも知れない。今回の徳島はいきなり驚きから始まった。

暑さと眩しさ (8月14日・火)


東京は猛暑である。我が家は3階だが周りに遮る建物がなく窓を開けると風が通る。7月までは湿度が高くても最高気温が30度に届く日がほとんどなく風が吹けば涼しく感じていた。でも梅雨明け間近からはもうダメだ。風がなくなりエアコンを使い始めたのは7/28土曜日から。

南西向きの窓しかない私の部屋にエアコンはない。妻の部屋は南東と南西に窓があって広いから暑くなると思いエアコンを付けた。私は年に1〜2ヶ月だから我慢するつもりでリビングの冷気をサーキュレータで送り込んでいるのだがリビングに比べ1〜2度ぐらい温度が高い。

最近になって理由が分かった。リビングと妻の部屋の室外機が私の部屋のベランダにある。そこからの排熱が原因だった。室外機とダクトからの熱でガラス窓が熱くなっていて窓際で暖房しているようなもの。

それは諦めるとして外出すると最寄り駅まで10分歩くから汗だくになる。そして何より日差しが強い。眩しくて目が痛くなる。それで先日から外出のときはサングラスを持って出るようにした。海が近く緑も多い徳島ならまだ過ごしやすいと思うが東京の日中の暑さは尋常ではない。

お盆の魂と帰省 (8月13日・月)


宗教の考え方には真理と物語が混在している。例えばお盆に死者の魂が帰ってくるというのは創作された物語だと思う。文化としては面白いが私は信じない。ただし誰もが信じれば事実になる。魂は目に見えず想像するしかないのだから皆が信じれば実体を持つ。でも実は虚像だ。

私は魂の存在は信じている。生まれ変わりも前世も信じている。でも年に1度だけ帰ってくるようなものではないと思う。真理は前にも書いたが「千の風になって」の歌詞そのものだと思っている。お墓の中にではなく鳥になり風になり私たちの周りにいつもいるのである。

だからお盆の行事には消極的だ。一昨年は父の初盆で帰省したがほとんど覚えていない。去年は帰省すらしなかった。部屋に飾った父の写真を見て線香をあげてときどき話しかけているから十分だと思っている。父や祖父母の魂は鳥や風になって私の周りにいつもいるのだから。

さて今年もお盆だが何もしない。そしてお盆が終わる15日の夜に帰省する。阿波踊り期間中に宿が取れず徳島行きを1週間ずらしたK記者にただ合わせただけ。お遍路の続きと19日には県南にダイビングに行く予定。妻は月曜に帰るが私はさらに1週間滞在する。理由は後日。

魂と運命 (8月12日・日)


私は運命論者である。つまり人は決められた通りに生きているだけで病気も死も仕方がないと思っている。だから私は死ぬことを怖いと思わない。それは運命だから明日事故で死んでも納得する。

今読んでいる『神との対話』によると人は体と心と魂で構成されているとある。魂が納得していなくて事故などで体が死ぬことがあるだろう。魂を納得させるため葬式や成仏を願う祈りがあると私は解釈している。

この本は米国のものだが仏教の世界観に近い。この考えに従うと死んでも魂は残る。死を悲しむのが間違いなのだ。魂のこの世での修行が終わったのだから祝うべきかも知れない。魂は自由になったのである。

私は特に2年ほど前から魂に従って生きたいと考えるようになった。だからキャロルと知り合いシャスタに行ったと思っている。世俗一般とは違う価値観を得つつありそれに期待しているし楽しみでもある。

死者に体と心はない。残ったのは魂だけだ。そうであれば体と心を媒体に魂が触れあった人にしか死の門出を祝す資格がないように思う。逆に生前に魂が触れあった人なら死を祝してあげるべきとも思う。

葬儀 (8月11日・土)


A社のボスの母上が亡くなり今日告別式があった。と言っても私は行っていない。それは非常識だと妻から言われたし当初は行くつもりだったが考えるうちに止めた。このことを話し合っていて葬儀や死者と残された人への考え方は個人的な死生観に依存するものだと分かってきた。

葬儀は故人の魂に死んだことを告知する意味があると思う。家族にとっては踏ん切りの儀式だろう。参列者にとっても同じだと思う。でも私は故人と一度も会ったことがない。どんな人かも知らない。それで参列しても悲しみも踏ん切りもない。義理であり偽善的な引っかかりがある。

残された人へのお悔やみの気持ちを伝える場ではあると思う。でも後日会うのだからそのときで構わないと私は思う。ところが妻は例えば義母が亡くなったら葬儀には義母を直接知らなくても妻の友人に大勢来て欲しいと言う。義母がそれを喜ぶからと。

私は自分の葬式には知らない人に来て欲しくない。私は人と恒久的な魂の付き合いを求めているのであって魂が触れたことのない人が葬儀だけ来るのは引っかかるし逆の立場では非礼だと思う。私は死と葬儀についてそう考えるのだが。

三宅島と民宿 (8月10日・金)


ドルフィンスイムの後は一旦民宿に帰り昼食を取り荷物をまとめダイビングショップに寄って精算。民宿代も全てショップで支払った。私たちは2日目のダイビングをパスしたので当初予算を下回った。別途ビール代は6,000円を負担した。そのぐらい飲んだような気もするし。

三宅島からは14:30発の船に乗る。日曜日で人が多い。ガイドさん2人と居残ったTさんが岸壁で手を振ってくれる。船の中では仕事を1時間。先に飽きたのは妻で我がM氏を食堂で見つけ飲み会に参加。私も誘われ1時間強バカ話いろいろ。その後下船まで特2等で少しだけ寝る。

三宅島は噴火の跡をそこここに感じる島だった。港は火山ガスの高濃度地区にあって常駐の人がいない様子。この地区の山にある木は全て枯れて白樺のよう。異様な光景である。硫黄臭が結構する。パンフレットには高濃度地区ではガスマスクを着用するように書かれている。

民宿の食事は地元の魚と野菜が中心で豪華かつ美味しかった。2Fに5部屋あったが3部屋を使って私たちの貸し切り。部屋にはエアコン。共同の洗濯機もある。水着などは風呂で洗って脱水機に掛けた。次の三宅島ダイビングでもここに泊まりたいと思ういい民宿だった。

ドルフィンスイム 4 (8月9日・木)


ドルフィンスイムをするのに前日のシュノーケリング練習は本当に役立った。水着だけでマスクとシュノーケルとフィンを付けて何度も垂直に潜るジャックナイフの練習をしたのが本番で生きた。水深20〜25mぐらいある海域で最深5mぐらい潜れたと思う。

しかも練習と違ってイルカがすぐそこにいるもので息苦しさも忘れている。潜って海中を水平に泳ぐことができたからイルカも寄ってきてくれたのだと思う。それでも潜っていられたのは20秒ぐらいだろうか。

私たちのガイドSさんはカメラマンでもあり15mぐらいまで潜ってカメラを上に向けて構えていたりする。スキューバダイビングのような中性浮力がない素潜りなのに海中の一点で固定して1分ぐらい動かない。私は海面から見ながらひたすら感心していた。さすがプロは違う。

ただし耳抜きはやっぱり忘れていた。耳抜きの方法である唾を飲み込む余裕はなくシュノーケルを咥えていてアクビの顔もできずマスクの中に鼻から息を吐き耳抜きをしたつもりになるだけ。去年ほど酷くはないが中耳炎の様子。自分の声がくぐもって聞こえにくい。やれやれ。

ドルフィンスイム 3 (8月8日・水)


御蔵島ドルフィンスイムで私たちは全員ウェットスーツを着たが水着だけでも構わない。実際ビキニ姿の女性を見たし男性の水着姿は何人かいた。でも水着で長くいると寒くなる。ウェットスーツを着ていれば暖かい。それにクラゲに刺されるのを防ぐことにもなるらしい。

ウェットスーツを着ると浮力が強くなるから腰に重りを巻く。今回の私は2kg。潜るとウェットスーツが水圧で圧縮されて浮力が減る。でも4kgあっても平気だったかも知れない。潜っても海底に沈むことはない。フィンで上に向かって泳げば容易に海面に出られるはずだ。

待機している間の姿勢は重要だ。海面から顔を出そうと立ち泳ぎすると疲れる。フィンも浮力があるから海面に顔を沈めて横になれば体力を温存できる。どっちにしてもイルカを探して海中のあちこちを見るから顔は海中を向いていた方が都合がいい。

シュノーケルを咥え忘れてドボンしたことが何度かあった。咥えて息を強く吐き出せば海水はクリアできる。マスクに入る水を排出する技術は昨年叩き込まれたから怖くない。スキューバダイビングと違い海面に顔を出せばいいのだから気は楽だ。御蔵島ドルフィンは本当にお奨め。

Webページと金スマ (8月7日・火)


会社のWebページを少し拡充した。秋にはキャロルの本が2冊出るから書籍紹介のページを作り会社概要ページも情報を増やした。Web上ではなるべく匿名の存在でいたいのだが企業活動はそうはいかない。Webを見て問い合わせてくる人は実際にいるので致し方ない。

とは言えトップページが何だかパッとしない。他のページを先に作りフォームに情報をはめ込んだだけだからいけないのか。時間を見てもう少しデザインの工夫をしてみることにする。でも掲載する情報がそんなに多いわけではないので限界はあると思うのだけど。

フミコさんのWebページも少し変更。女性誌とWebでの掲載情報しか載せていたかったページのタイトルを「掲載誌紹介」から「メディア紹介」に変えてテレビ出演の履歴も加えた。それというのもゴールデンタイムの出演が決まりこの情報をどうしても載せたかったのである。

どちらのページでも掲載しているが「中居正広の金曜日のスマたちへ」 (TBS系、毎週金曜21:00-21:54)出演である。今のところ今週10日放送予定。妻の日記にもあるがロケのパートで妻も登場する可能性も。ロケでは安住アナに突っ込まれたらしいが最新情報では出ない公算大か。

ドルフィンスイム 2 (8月6日・月)


御蔵島のドルフィンスイムにはいくつか決まり事がある。まず相手は知能があるとはいえ野生動物なのでストレスにならないようドルフィンスイムの1日あたりの人数が決められている。だから完全予約制。私が行ったときは4隻ぐらいいたから40人ぐらいだろうか。

次に同じ理由だと思うがイルカには触らないこと。一緒に行ったYさんによれば触ろうと思っても相手が速すぎて触れるものではないと言う。でも昨日の私は手を伸ばせば多分触れた。逆に意図せず触れてしまいそうになって腕を捻って回避したぐらいだったけど。

イルカは海面に浮かぶ人は相手にしないが何メートルか潜ると寄ってくることがある。昨日の私がそうだ。妻にもイルカは寄ってきたらしい。人はイルカがいる方に泳いで行き海中に潜るとイルカが面白がって寄ってくる。人が遊ばれているのである。

Yさんによると遊んでもらうにはゆっくり泳ぐのがコツらしい。泳ぎに余裕がないと逃げられる。ゆったりした気持ちと態度でないと嫌われるのだ。人間関係と同じである。私に寄ってきたイルカは「ヘタクソ」と言って私に向かってニッと笑ったのかも知れない。

御蔵島ドルフィンスイム (8月5日・日)


5:50起床。波は前日と変わらないぐらい高く見えたがウェットスーツを着て6:30民宿出発。15人乗りの船に乗り込み7時頃出航。私たち7人と母娘2人とガイドさん2人と船長。やはり波があり船は大きく揺れ片側は盛大に波を被る。そんな中を1時間弱ひたすら我慢して御蔵島に到着。

ここがイルカが生息する海。イルカと一緒に泳ぐドルフィンスイムはハワイなど他でもやっているがSさんは御蔵島がベストだと言う。100%会えるらしい。イルカは船長さんらが見つけ船を近づける。フィンを履きマスクを付け右舷に跨り合図とともに後ろの人から海にドボン。

初ドボンと同時に足下にイルカがいた。3mの距離。海の中は距離が近く見えるから実際は5mぐらい離れているはずだがあまりの近さにビックリ。イルカが見えなくなると一旦船に上がり再び同じ要領でドボン。海に入ればイルカはほぼ見られる。100%の意味が分かる。

4回目。後ろから向かってきたイルカに合わせ潜って泳いだらイルカは私を見ながらニッと笑って追い越した。距離40cm。触らないように思わず腕を内側に捻ったほど。これは「イルカと一緒に泳いだ」と表現して構わないだろう。6回目ぐらいには潜った私と1mの距離ですれ違った。

昨年も行った仲間から話を聞きイルカと接近している写真も見ていたけど潜りも泳ぎも下手な私がこんな体験ができるとは思ってなかった。ドボンしてからイルカがいるところまで海面を泳いでいくので体力は使う。でも海中ではしんどさも忘れるほど楽しい。素晴らしい体験だった。

シュノーケリングとバーベキュー (8月4日・土)


昨夜は23時までに寝て6時起床。6時半から朝食。この前に今日のドルフィンスイムは中止と聞く。日本海に抜けた台風の影響か海面に波がある。みんなはダイビングに出かけたが私たち夫婦は休暇にして部屋でいたら寝てしまった。

みんなが1本目を終わって昼食の弁当を一緒に食べ2本目もパス。13:30頃みんなは出かけて私たちは部屋で仕事。キャロルの本の著者校正。14:30頃飽きてきて徒歩2分の湾になったビーチに行ってシュノーケリング。

さすがに魚は結構見られる。ドルフィンスイムの練習でジャックナイフ。水面から頭を下にして海底に向けて泳いで行く。最初は2回で息が上がってダメ。何度もトライしているうちにコツも分かって耳抜きそっちのけで熱中してしまった。

結局1.5時間遊んで温泉に行って18:30頃から民宿庭でバーベキュー。ガイドのSさんが育てていたという海の幸を残酷焼き。ビールとA社Yさん100本記念のシャンパンで酔っ払い。23:30過ぎ解散。明日は波は収まるだろうか。

ビーチダイビング (8月3日・金)


朝5時に三宅島に着いてダイビングショップの車に乗って民宿。仮眠を取り8時から朝食。慣れた人は9時にダイビングに出かけたが私たち夫婦は再び仮眠。11時に起きて不安がる妻がガイドさんと相談して結局行くことにした。

午前に潜った人たちともショップで合流して車に乗ってポイントに向かったが波が高いということで断念。別の入り江ポイントで仕切りなおした。波打ち際から歩いて海に入る。タンクを背負って歩いた距離は短いが息が上がる。

怖がる妻をガイドさんと2人で勇気づけ波の中へ。入ってしまえば平気でむしろ私のスキルが問題。やっぱり息が多く空気の消費量が多かった。海底で見た残量メーターに焦ってますます空気を消費する悪循環。岸に上がったときはほとんど残っていなかった。

私は下を向くから深く潜行してしまい浮こうとしてジャケットに空気を入れて上がったり下がったりで体力を使っているらしい。2本目は大きめのタンクで少し安心。でも結局耳抜きはうまくできない。また中耳炎になるかも。19時から夕食で20:30からログ付。生ビール2本で私たちは一足先に22時過ぎに撤収。

三宅島 (8月2日・木)


東京湾を出た外洋でこれを書いている。台風の影響を受けながら結局三宅島に向かう船の上にいる。PDAと携帯電話を使うので電波の入感次第では3日朝アップすることになるかも知れない。外洋に出て揺れてミシミシ音がする船内。

台風のニュースと船の運行状況は何度も確認した。この船も天候次第で東京に戻るという条件付きだ。現地はニュースによると4mの波と言うがダイビングはできているらしい。ポイントによるのだろう。それならばということで構わず船に乗った。

今回はA社のM氏とY嬢と私たち夫婦。さらにM氏の仕事相手のN氏。A社の会員企業の担当法務部長T嬢と友人のE嬢。Tさんだけは既に現地に行っていて船には5人。私はA社の仲間以外初対面。

船に乗ってすぐ食堂に集まってビール。1時半まで飲んでいてすっかり仲良くなってしまった感じ。1年ぶりのダイビングとスキンダイビングでのドルフィンスイムは不安があるが今回もお誘いなので楽しもう。そんなわけで明日以降アップは不定期かも。

どぶ川 (8月1日・水)


実家の前のどぶ川のことを書いていろいろと思い出した。私が落ちたときは覚えていない。多分幼稚園の頃だろう。高校ぐらいまでは覚えていたような気がするがもう思い出せない。一方で弟が落ちていたことはよく覚えている。私は小学4〜5年。彼が4〜5歳の頃だと思う。

父が仕事の相手先から養殖ウナギをもらってきていた日だと思う。ウナギは日光に当てると死ぬというので水を入れたバケツを日陰に置いた。でも太陽は動く。日向になって死にかけて慌てて調理を始めた。生きたウナギはさばけないと母が言い珍しく父が包丁を握った。

木のまな板にウナギの頭を釘で打ち付け固定して腹を割いた。私は物珍しくウナギがジタバタするのを見ていた。そんなとき弟の泣き声がずっとしていて私が見てくるように言われたのだと思う。表に出たら向かいの家の前にある柳の木の下のどぶ川に立って弟は泣いていた。

今はコンクリートで固められたが当時のどぶ川は土を掘っただけで底にはヘドロが溜まっていた。水量が多いと子供の背を上回る。転落した弟がよく立っていられたものだと思う。発見した瞬間の驚きが大きくてその後のことを全く覚えていないが忘れられない光景である。
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© 2007 Takashi INAGAKI