2015年1月
昨夜は妻が地域のグループで食事会に行っていた。食事会は19時からなのに24時を回っても帰ってこなかったから近くまで戻って誰かの家で飲んでいるのだろうと思っていたらS氏から電話がかかってきたのが25時頃。やはりS氏宅にいるらしい。電話は私にも来ないかというお誘いだ。
でも1時を回っていたので寝ようと思っていたら妻が帰ってきてT氏が迎えに来てしまった。そこで妻と入れ替わりでS氏宅。T氏は酔っていてS氏N氏といろいろ話しつつ2時20分に3時になったら解散しようと決めたはずなのに結局家に帰ったのは4時半過ぎ。皆は朝から仕事なのに。
私は昼まで寝て14時に上勝を出て末広。集落再生で視察に行くときの講師をお願いしているH氏との打ち合わせを沖浜コーヒーワークスでやろうと思っていたが末広とよとみ珈琲でイマジンが写真展をやっているというので急きょ前夜に場所を変えたのだ。とよとみ珈琲は初めて。
14:50頃に着いたので2Fでイマジンの写真を見て少し話をして。H氏は沖浜から来たので20分遅れ。その間に上勝のNちゃんN君が別々にいてツイッターで知り合ったD君と野菜ソムリエTさんが来て「響」元団員のM君も。打ち合わせで諸々の懸案もだいぶ整理されて少しホッとしている。
運命を考え出すと高校入学に遡る。私の人生でどん底だったと思うのは大学受験に失敗して仮面浪人していたときと大学時代の失恋後だが高校時代も暗かった。中学時代がいい仲間たちに恵まれて楽しかった反動もある。大学受験を常に意識させられ気分が暗かったことも根底にはある。
だが第一は高校時代の友人とは関係が希薄だったことだと思う。11学級あった普通科の2クラスだけの英数コースにいて誰もが受験を強く意識していたからかも知れない。KやIら中学以来の仲間もいたしNら深く付き合う親友も得たことは得たのだが他の友人とは関係が浅かった。
それを考えるとき他の高校に入学していたらどうだろうかとつい考える。なぜなら仮面浪人も大学時代の失恋も私自身に原因があるから仕方はないが私が入学した高校はクジで決められたのだ。私は城南を希望していたがクジの結果で第2希望の市高に回されたのだった。
市高時代は女の子と仲良くならなかったことも大きい。2週間付き合った子がいただけ。いっそ女子が多かった第3希望の城東に回された方が学校生活は楽しかったのではないかと想像する。進学高校をクジで決めるという当時のシステムに今になって恨みを持ってしまうのである。
昨秋から作業をしてきた「山の聞き書き」。今日は話を聞いたFさんに会って原稿を読んでもらい内容の確認をしてもらった。ここまで事務局には年末に原稿を出し年明けに修正提案がありさらに提出した原稿に直しが入り4回ぐらい原稿のキャッチボールを行っていた。
今年度が2回目の人たちは何度も話を聞いて内容を濃くしているようだが私はインタビューは一発で終わらせるべきだと思っているので補足的な話を1度聞き電話で数点問い合わせただけだった。だから早くに原稿はできていて修正が年明けになったことには正直不本意だ。
とはいえ事務局による疑問や修正はもっともなものばかりなので今日はその点も合わせてFさんに訊いた。そんなわけでFさんによる修正点が昨日編集した画像も含めて5カ所ほど。原稿だけは15カ所ぐらい修正しただろうか。新たに昔の写真も手に入れたので編集して原稿に組み込んだ。
原稿は2本で合計約12,000字。写真が合計28点。今日は注釈番号や書式も整理し原稿と写真はCDに焼いた。明日このCDを事務局に持ち込んだら作業は終わりだ。いや昨日までやっていた作成画像の解像度が心配だしゲラの校正もあるのだろうが。それでも一旦落ち着くことができそうだ。
「山の聞き書き」原稿の挿入イメージをJ社の図形編集ソフト「花子2013」を使って作成した。桶の完成図と作成途中の手順を示したものと丸太から材料を取り出す方法を解説したもの。合計3ファイル4図形。1ファイル作るのに5時間。3日間もかかった。
昨年10月に原稿を書いた時点で絵は手書きで描いていたが今ひとつ。単純なものなら手書きでも構わないが複雑なものになるとダメなのである。いずれにしても清書は必要だと思っていたが字も汚いから活字にしたい。となると絵そのものもデジタルで作るしかない。
花子をここまで本格的に使ったのは少なくとも20年以上ぶりだと思う。花子Ver.1なら仕事で少し使っていたことがある。でも一太郎2013プレミアムに同梱されていた花子2013はメニュー体系も画面も機能そのものも変わっていて使い方自体に戸惑ったのだ。
特に図形を合成して塗りを加えて背景を隠したいという使い方で合成ができず2時間ぐらいを無駄にした。結局ビットマップで書き出して花子フォトレタッチで加工。3ファイル目は少し慣れて花子特有の癖も理解できてきたのだが。花子を使いこなせたら便利だろうと思いつつ酷く疲れた。
大学を卒業して徳島に帰り就職したことでY嬢と自然消滅してしまったのは既に書いたようにお互いの傷を癒やすための存在でしかなかったのかも知れないが当時の環境が今とは違っていたことも影響があったのではないかとも思う。携帯電話とメールがなかったことだ。
大学時代にサークルの何人かが車に乗っていたときKがI嬢に電話をして今から下宿に遊びに行きたいとしつこく言っていたことがあった。記憶の中では車中から携帯電話を使っていたようなイメージにすり替わっていたが30年前のことだ。車を降りて公衆電話から架けていたのである。
携帯電話がなかった時代にどうしていたのか感覚が分からなくなっている。デートした別れ際に翌日の待ち合わせ場所と時間を決めていたのだろうか。もしあの頃に携帯電話があれば日常的に連絡を取り合っていただろう。メールやメッセンジャーも頻繁にやりとりしていたに違いない。
就職した私たちはともに実家暮らしで生活パターンも分からず実家に電話をするようなことはなかった。携帯電話があれば状況が違った可能性はあるが常に繋がっている感覚はそれはそれで鬱陶しいと思う。正直に言えば私の青春時代に携帯電話やメールがなくてよかったと思っている。
Y嬢のことを思い出していて運命のことを考える。私がJ社に就職したのは同じ辛い仕事をするなら生まれ育った徳島の方が楽だと考えたからだが当時付き合っていた彼女が国家資格を取って専門学校を卒業したら徳島に帰ると言っていたので私が合わせたという面も少なからずある。
J社の内定を得ていた1987年の夏休み。彼女の実家に行ったら父上が私に就職特集の新聞広告か何かを見せながら会社はいっぱいあるのだからよく考えたらどうかと言った。娘に合わせて徳島に帰ることはないという親切心だったと思う。J社の将来性が不安視されていた面は大きいが。
だから彼女に振られるのが半年早ければ関西か東京で就職していたかも知れない。1988年卒業の電気系工学部生は超売り手市場でどんな企業でも学校推薦で就職できたのだ。私は成績不良だったので松下電器と三洋電器とシャープとソニーとトヨタとホンダだけは無理だったが。
そうなるとJ社で得た友人たちとは知り合わず最初の奥さんとの結婚はなく今の妻とも縁はなかっただろう。そして卒業直前の深夜にやって来たY嬢と付き合っていたら2人の関係は卒業後も続いたと思う。結婚したかどうかは分からないが可能性はあったわけで人生は全く分からないものだ。
卒業直前の失恋の中から事故のように付き合い始めたY嬢とはお互いが就職してから連絡をとらなかった。就職したJ社では研修で忙しく新しいことに目が向いていて精神的にはすっかり立ち直っていた。一方のY嬢は関西で就職していたのだと思うが後に結婚して東京で住んでいたらしい。
あるときY嬢が私と会いたがっていると共通の友人から連絡があった。そこで東京出張の金曜に延泊して土曜昼に会った。確か京王プラザホテルで中華料理を食べたと思う。京王プラザにしたのは広報のS嬢と知り合いで利用してあげようと思ったからだろう。Y嬢は変わらず美しくかわいかった。
Y嬢の相手は学生時代のバイト先の仲間で彼の推しに負けて結婚したのだと言っていた。あれは95年か96年かと思いつつ検索してみると彼女のご主人がWebに書いた原稿があった。結婚したのは96年春のことらしい。私が会ったのはその後だと思う。
食事後は新宿御苑をふたりで歩いて話をした。暑くも寒くもない季節だった。彼女は私の2歳下だったから30歳ぐらいか。もう人妻だし手も繋がず2時間程度で別れた。でも27年前のこの季節のY嬢は特別だった。魂をなくしていた私に神様が遣わしてくれた天使だったと思うことにする。
失恋した辛さに耐えられず2週間に1回ぐらい2度ほど元彼女に電話をしたことがある。冷たく言われて泣いて電話を切っていた。そんな状況が救われたのは旧知のY嬢のおかげだと思う。1月だったか2月だったかの深夜。彼女は私の下宿1Fの公衆電話から連絡をして私の部屋にやってきた。
スキーツアーから帰って彼氏の部屋に行ったら別の女性がいたから泊めて欲しいと言う。それは深夜の1時頃だったかどうか。コーヒーを飲みながら明け方まで話をした。下宿で少し寝たかも知れないが朝は街に出て映画を見た。「ラストエンペラー」だが2人ともほとんど寝ていた。
失恋した私と裏切られた彼女。その日から毎日会った。彼女が大学を卒業した夜に彼氏と過ごそうと予約していたホテルには私が泊まった。私の下宿から歩いて船岡山を散策したときは1分に1度はキスしているねと話をした記憶がある。それが私にとっての癒やしだった。
大阪難波でウィンドウショッピングもした。それまでよく知らなかったお互いのことを知ろうと濃い毎日を送った。でも結局お互いの傷を埋めるための存在だったのかも知れない。私が徳島で就職して連絡は途切れた。私も連絡はしなかった。数年後に一度だけ会ったのだが。
※当時の手帳のメモによるとY嬢が電話の上やって来たのは2月19日(金)の午前4時だった(2022年2月4日追記)。
気持ちが沈んでいるときは過去の同じような境遇にあった頃の日記を読み返す。大学受験に失敗して東京西荻で暮らしていた頃とか大学卒業直前に失恋した頃が相応しい。まだ書いていない当時のことも記録しておこう。そうでないと忘れてしまいそうだ。
大学を卒業する前の12月頃に3年半付き合った彼女と別れたことは既に書いた。その後のクリスマス直前だったと思うが卒業研究の相棒で後に亡くなる大道に誘われて花園ラグビー場に同志社の試合を見に行った。そこから彼女がいる生駒は近鉄で近い。花を届けに行こうと大道が言った。
花を買ったかどうか覚えていない。当時は携帯電話もなかったし連絡を取ったかも忘れた。買ったけど断られたような気もする。そして年末は徳島に帰省した。相生に実家がある大道と一緒にOの親戚がいる岡山に行って一泊した。その家でファミコンというゲーム機を初めて見た。
Oの親戚宅でも食事は満足に取れなかった。皆に心配された。翌日は翌4月に廃止が決まっていた宇高連絡船で高松に渡った。瀬戸内の島々が美しかった記憶は鮮明に残っている。あの正月をどう過ごしたのだろう。京都に戻ってからは卒業論文と別の女性のおかげ生きていられた。
何だか閉塞感がある最近。冬だからか睡眠時間だけは長いが長すぎるのも精神によくない気がする。別々の仕事をしている妻とは夜も見るテレビが違うし私より2時間も遅く寝るから話もしなくなった。やることだけは多くて何とか普通に生活できているようなものだ。
昨年書いたが今まで住んできた場所の中で実家を除けば現在の部屋が最長になった。実家でいた子ども時代は幼稚園に通い小学校に行き中学からは徳島に行ったから全く同じ生活環境にあったのは小学校時代の6年が最長。現在は勤務先というものもなく小学校時代も超えて6年1ヶ月。
これが閉塞感の原因ような気がしないでもない。これまで好んで環境を変えてきたわけではないが結果として1年か2年か3年か4年か長くとも5年以内に環境が変わっていた。住む場所が変わったか仕事先が変わったか。それが6年を超えてしまった。
だからといって住処を変える選択肢はない。通勤しているわけでもない。何かライフスタイルを変えるしかないのかも知れない。それならと車を買い換えれば気分が変わると考えたがお金がない。そんなわけで夢も気力もなくなった。暖かくなれば気分は変わるのだろうか。
昨年9月から最近数年の中で最も忙しく11月中旬にようやく落ち着いたと思っていたのに年明けから再び忙しくしている。一つは9月に忙しかった原因である本業の原稿のゲラチェック。それに同時期にやった聞き書き原稿のチェックが重なっている。後者は仕事でないので後回しにしているが。
さらに昨日も書いた集落再生プロジェクトである。視察の段取りやら書類作りやら。会合案内に視察案内に役場に提出する書類が4つ。いずれも短時間で作れるのだが気を遣うのだ。役場には昨日持って行ったが間違いを指摘されて今日作り直してHさんに印をもらい再提出。
昨日も今日も役場を往復してきた。役場まで信号は一つもないが2車線のワインディングで10km弱ある。それに昨年中に支払った外注費の源泉徴収票を税理士さんに作ってもらったのでその郵送やら手持ちで届けたり。今日はT嬢とT氏に持って行った。あとは郵送で今日投函。
もう一つは一昨年来お付き合いのM社から発注があって先日来取りかかっていたこと。今日で終わったと思う。ただ今回の仕事は担当者のレスポンスが非常に早く連絡が的確で気分的に楽だった。仕事のできる人とやり取りするのは楽しい。そんなわけで今週いっぱいは余裕がありません。
土曜日は集落再生プロジェクトの会議。開始時間がだんだん早くなって今回は18時半始まり。参加者は6名で視察の件の相談と先日やった山の調査の報告など。少しばかり突っ込んだ話にもなったが実質1時間ぐらいで終わっただろうか。ほどよいところでビールとなる。
第3のビール350mL缶が空いていき1箱分がなくなった。会議室は22時までだが1時間ほどあるので私が自宅から焼酎の一升瓶とビールを持って来た。焼酎は残りが少なかったためすぐになくなりさらに一升瓶を妻に持ってきてもらう始末。結構酔っ払っていろんな話をして面白かったのだ。
日曜は「響」の練習で徳島へ。日曜の練習は18時始まりなので20時半に終わった後に夕食を食べる。以前はかつやでカツ丼だったが最近は大阪王将で食べることが多かった。でも大阪王将でラーメンを食べるぐらいなら美味しいラーメン屋を探そうと八万の旧道へ。
中学の同級生T石が奨めていたラーメン店は休みのようで小松島食堂まで行ったらSちゃんと会って一緒に食べた。Sちゃんは徳島大学時代から自転車で遊びに来ていた上勝で就職したものの昨年から阿南の不動産屋で働いている。昨今の不動産事情を教えてもらいちょっと勉強になった。
あと数時間で阪神淡路大震災から20年だ。当日のことは既に何度か書いているがまだ覚えていることがある。記憶が消えていく前に書き残しておく。当日のことではなく後日談だ。既に書いているように私はあの日から2泊ほど東京に出張してから徳島に帰った。
当日は東京で同僚と飲んでいたのでホテルに戻ってテレビで知ったがあの日の神戸は大規模な火災が発生していた。徳島本社の社員食堂のテレビでそれを見たある社員がきれいと言ったという話を後日聞いた。その事実を否定する電話をその人の彼氏が深夜に架け回っていたという話も。
特に怒っていたのはS君だ。後に会社を辞め大学院に入り直し今は北海道の大学で教授になっているがS君は神戸出身だった。親族とも連絡が取れない中で怒るのは無理もない。ニュースステーションでは震災を見物に来る人たちのことも報じていた。物見遊山で行くものではないと憤った。
でも神戸出身のS君は見に行って欲しいと言っていた。震災で神戸がどうなったかを知って関心を持って欲しいという意図だったと思う。私が神戸に行ったのはそれから半年以上経った秋だったと思う。大震災になるとあのときのS君のことも思い出す。
先日NHKで空き家問題の特集をやっていた。東京の住宅街でも空き家が増えているのだとか。よく言われているように更地にするより固定資産税が安いため放置されている家が多いらしい。さまざまな解決の案が出されていたが上勝でもこれから問題になってくると思う。
それより深刻なのは鳴門の実家周辺だ。2軒隣から北側は田んぼを埋め立てて作られた10軒程度の新興住宅だが町内会が違うらしい。古い我が実家周辺の町内会だと北隣が数年前にお父さんが亡くなり空き家。南隣は3棟の木造アパートだが1年ほど前から誰も住んでいないらしい。
アパート2階屋根の樋が落ちそうになっていたり前の道路は草が生えていたり。向かい2軒は更地でその南は居住者が変わって男性が1人で住んでいる。ただその南隣も空き家。アパートの南隣は娘婿が跡を継いだ建設会社兼住居であって古くから知っている唯一のご近所さん。
実家にしたところで母が1人で住んでいるだけ。母が亡くなって家が売れるかと言えば狭い路地で土地にも価値はない。売るとすれば隣のアパートとその西側の今は駐車場になった土地などまとめないとどうしようもない。結局うちも空き家のまま放置するしかないかも知れない。
ファンヒーターを使い始めて1月が経った12月に設定は14度で室温18度と書いた。ところが正月を実家で過ごして3日半空けたところ元に戻ってしまった。つまり正月明けから設定16度か17度にして室温表示が20度を超えていないと寒くて仕方がなかったのだ。
それがまた温度を下げても大丈夫になってきた。事務所は朝まず石油ストーブとファンヒーターを付ける。このときの設定温度は16度か17度。朝の室温は3日半空けた後に7度代だったが今は前夜の暖房が残っていて12度代。すぐに暖まるからストーブは1時間経たずに消すことができる。
それで今は室温18度代でファンヒーターの設定は15度か14度に下げる。夜には13度まで下げることがある。うちにあるコロナのファンヒーターの最低設定温度は12度。ほとんどギリギリまで下げても平気だ。おそらくこの違いは室温では分からない壁や窓からの放射熱の影響だと思う。
内装は木だから保温性が多少あるのだろう。設定温度が低めなのは今シーズンから部屋でも着るようになったダウンベストの影響もあるかも知れない。ちなみに自宅は寝る直前にファンヒーターを入れるが室温6度程度で設定は12度。寝るだけなのでそれで十分。
4日の消防出初め式の後に分団が集合して一斉放水したのだがそのときに使ったホースは吊して干していた。今日は担当班長K氏の依頼を受けてそのホースを一緒に片付けに行った。地域の重鎮H氏と3人。ホースを下ろしたらロープが絡まっていてH氏が支柱を上まで登ってくれた。
4日の宴会では記憶があまりないのだが今日のH氏も最後まで一緒に飲んでいたらしい。失礼なことを言ったかも知れないので今日は最初に謝っておいた。本当に記憶がなく一緒に飲んでいた消防団員でもある妻に聞くと現町議が引退した後の後継出馬を皆で話し合っていたらしい。
現町議F氏とも出初め式の日に話をして少し事情について伺った。妻によると最後まで飲んでいたのは分団長K氏と同じ年代のN氏T氏と妻と私。さらに地域の重鎮H氏A氏Y氏がいたらしい。このうち3人が町議に立候補すると言っていたとか。妻は混ぜっ返したり別の人を推したりしたそうで。
酔っていたので皆が好き勝手言ったらしい。妻は某氏に向かって「ダメだ」と突き放したそうだが私は誰かに「町議には向いていない」と言い放った記憶がある。いずれも私より15歳ぐらい上の方たちだ。そう言い合えるのがいいところでもあると思うが正気になると申し訳なく。
昨年末のNHK紅白歌合戦に米国からの中継で中森明菜が出演して今日はNHKでその舞台裏を放送していた。1980年代に松田聖子か中森明菜かというトップアイドルで私は歌のうまさを含めて断然明菜派だったから彼女の動向はつい気になって番組を見た。でも今の歌い方は好きじゃない。
既に書いたが中森明菜がデビューした1982年に私は仮面浪人生活を送っていた。毎日通った東京・杉並西荻南の錦星食堂で週刊ポストと週刊現代を読んで生意気な新人歌手として知ったがザ・ベストテンで次は中森明菜というときに店の親父がチャンネルを変えて憤慨したものだ。
その後就職して出張で千葉に泊まった翌朝ホテルのテレビで中森明菜が自殺を図ったと知った。直後にJ社U社長とタクシーに乗ったとき思わずその話をしたらU社長が言ったのが「そこまで人を好きになるというのは凄いことだ」という意味のことだった。その反応の意外性に驚いた。
近藤真彦の家から救急車で運ばれことで大きなスキャンダルとなったがWikipediaで調べてみたらそれは1989年7月11日。幕張メッセが開業したのは1989年10月だそうで私と社長はなぜ千葉に泊まっていたのか思い出せない。ただタクシーの中の会話だけは印象深い。
地域の古い写真を集めてデジタル化しWebサイトに公開したプロジェクトから既に3年近く経つ。展示会も開催したがそのときプリントした110点のパネル写真は事務所に置いていても邪魔なので町の教育委員会に寄贈した。それが意外に活用されているらしい。
地元の販売店が移転オープンするにあたり教育委員会が管理しているパネル写真の借り入れを申し込んだところ恒常的な貸し出しはできないと回答されたらしい。町内のイベントで展示していることは知っていたが今後も使い続けるつもりらしい。活用されていることはうれしい。
一方でパネル写真を使いたかった販売店から別途プリントしたいと相談されたのが昨年11月頃だったか。必要な写真を言ってくれれば著作者を教えるので連絡を取って許可を得て欲しいと伝えていた。そして昨日電話があり全てのパネル写真を使いたいと言って担当者が今日やってきた。
前店舗でも写真を掲示していたが経緯が曖昧だったので 写真の提供者である著作者に許可なく新たにプリントしたら違法であることを重々説明してデータを渡した。いい加減な対応をしては信用をなくすだろう。再利用してくれるのはうれしいので手続きはきちんとして欲しいと要望した次第。
私が住む町営住宅の南側に山があり鉄筋3階建て24戸の1階の部屋から見える風景は地面を除けば山の杉の木ばかり。だから冬は全く日が当たらない。12月24日から1月2日に何度か確認して写真を撮ったが12時から14時でさえ3階東側3戸の庇に日が当たっているだけだった。
私が役を押しつけられた町の集落再生プロジェクトでこれをどうにかしようと提案されたのが2年半前。我が住居の日照問題を地域の課題とするのには遠慮があったが近所の方からも住宅前の公園で冬は孫を遊ばせられないと指摘され課題として取り組もうと山主さんに相談に行ったりもした。
ただ集落再生のスキームでは費用が賄えず頓挫。それでも地域外の方からも地区の入口だからどうにかすべきだと言われたりして昨年4月以降役場に行って相談していたのである。そして今日。状況を確認するため山主さんの許可を取って実際に山に入ってみた。
9時予定が雨のため14時になり町の2人と森林組合の2人と地元のHさんと私の6人。西から急な坂を木につかまりながら登り尾根に出て東から急斜面をときどき滑りながら下りた頃には小雨。行程が100あるとしたら3歩ぐらい進んだか。先はまだ長いが協力してくれる方々に感謝なのである。
昨日の日曜は恒例の消防出初め式。問題は寒さだ。昨日は式典終了が11:23。この間グランドを1周する行進があるだけで気を付けと休めを繰り返しながら表彰状贈呈や来賓挨拶をただ聞いているのである。終われば膝が硬直して普通に歩けないほどになる。だから寒さ対策は重要なのだ。
昨日の気温は6時に-5度で9時に-1度で12時が8度の予報。昨年の日記を参考に同じ格好で行った。昨年より気温は低かったはずだが昨日も式典開始直前にダウンのベストは脱いだ。問題は地面から伝わってくる足の裏の冷たさ。カイロを前日買っていたのに貼っていくのを忘れていた。
開始前トイレに行く途中すれ違った制服の方に見覚えがあったのだがICTとくしまフォーラムのときに話をした現・徳島県危機管理部長の床桜さんだった。さて式典が終わると場所を移し各分団が一斉放水。地元の神社に行って安全を祈願し御神酒を飲んで公民館へ。
13時過ぎから地元分団の出初め式で表彰状の伝達や来賓挨拶があり後は宴会。いろんな方と話をしたが次第に酔っ払って最後の方の記憶はない。分団詰め所に移動したがそこの記憶もあまりない。帰宅したときは暗かったと思うが何時だったか不明。そして朝まで爆睡したのである。
4歳1ヶ月の甥が飛行機の形をしたぬいぐるみと小さな犬のぬいぐるみを持って来たとき「前に楽しかったから遊ぼう」と言ったのである。それは1年ぐらい前ではないかと以前のデジカメ写真を調べてみた。このぬいぐるみが写っているのは2013年8月。1年4ヶ月も前だった。
記憶においても昨年8月ではない。写真に写ってなかっただけで昨年5月とか正月の可能性もあるのだが5月の段階では言葉はほとんど話せなかったはずだ。それでも嬉しそうにしたり泣いたりする。確かにぬいぐるみで遊んだとき随分と喜んでいたがその記憶があるのだと驚いた次第。
あの頃は話すことができず意思が伝わらないことがもどかしくて泣いていたのかも知れない。そう言えば1年ぐらい前だと私が叱ると泣いたりしたが今回は叱って大人しくなるが泣かなくなった。そのうち7歳の甥のように言い返したり怒ったりするようになるのだろう。
あと数年だけの楽しみだと思うが次に会うのが待ち遠しかったりする。とりあえず撮った写真からCD化するものを昨夜選別して今日はプリントするものを選びカメラのキタムラのサイトで注文した。月曜か火曜に受け取ってCD-Rと一緒に送るつもり。
6時半起床。急いで準備して7時前に出発。弟が運転する実家の車に母と甥2人。私ら夫婦は後ろから付いて行き徳島空港。チェックインに時間がかかって7:25頃ゲートに入った。東京行7:40発。ゲートを超えて見ていたら下の子が私たちを見つけて満面の笑顔。かわいい4歳児なのである。
そこから一旦実家に戻り準備をして8時半頃に再度出発。まず西新浜のマルナカで買い物をして沖浜のモスバーガーでブランチを取りユニクロへ。10時の開店2分後だったが路上に20台ほどが行列を作っていた。私が路上で待っている間に妻は買い物を済ませて上勝へ。
上勝は正木トンネル下から雪模様。住宅の駐車場も凍っている。明日朝にかけて乾雪で最低気温が-3度という予想だから路面凍結は必至。4日は出初め式があるので念のために早く帰ってきた。あのまま実家にいても甥に引っかき回された母をさらに疲れさせるだけだ。
戻って届いた年賀状の返事を書き郵便局に行き車のウィンドウウォッシャー液を補充し14時頃からお節の残りを食べながらビール。やっぱり昼寝をした。外は24時にうっすらと雪が積もっていた。そんな上勝に引っ越して7回目の正月。7年目に入った。
元旦から1Fにいる犬が6時過ぎに吠えるのである。母が起きて外に出して鳴き止んだが7時前。今度は風の音が大きくて眠れない。うとうとして妻と起き出したのは9時過ぎ。早速お節を食べて子供にお年玉。親である弟の意見に従い500円玉を1個ずつ。
あまりに寝不足で私は2度寝。とにかく風が強くて寒くて初詣もなく家の中ばかり。子供は騒いでボールを蹴るし母のキーボードを取り合って喧嘩になるし肩車をしろと乗ってくるし。7歳と4歳の男児の相手は疲れるのである。
夜は子供が好きな手巻き寿司。下の子は次々ぱくぱく食べて上の子は食べ終わってからまたご飯だけを海苔と頬張って。甥2人は19時半過ぎに風呂に入り私は下の子の歯を磨いてやり妻が本を読んで20時半頃寝に行った。
夜はNHKを観ながら弟と少しと母とも話をしてビールを今日も4本飲んだか。ANAのCAである義妹の特典で弟らは空きがある明日1便で帰ることにしたらしく見送りに行く私たちも明日は早起きなのだ。今年もよろしくお願いします。
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© 2015 Takashi INAGAKI