2012年1月
将来のための記録である。先週月曜に喉が痛いと感じ水曜午後も痛かった。土曜には喉全体が腫れた感じと書いている。日曜は「響」の練習を本番1週間前にもかかわらず休んだ。今も喉の腫れは全く引いた感じがしない。熱はないが昨日あたりから咳が出るようになった。
それは風邪ではなく埃によるものではないかと妻に言われ寝室と仕事部屋に掃除機を掛けた。そう言えば2004年がそうだった。と思いつつ調べてみたら昨年は記述がなかったが2010年は風邪を引いたとあり2009年には喉が痛いと書いてある。
思い出した。2009年は湿度が高い上勝で加湿器まで掛けたのだった。今回はタオルを濡らしてベッドの頭の部分に掛けている。それより2009年は喉の痛みに続いて熱が出て病院に行ったようだ。参ったなぁ。熱はないからビールは飲んでいるし昨夜は風呂にも入ったが。
私はことさら埃に弱いのだ。それなのに3年前に続いて喉を痛くしたというのは湿度が高いと思い込んで加湿器は掛けていないからかも知れない。東京時代は家では加湿器をガンガン掛けて外出にはマスクをしていた。3年ぶりに同じ轍を踏むのはそういう予防的な発想がなかったからか。
土曜の早朝に変な夢を見て未だに覚えているので記録しておく。季節は秋頃か上勝の奥にある寺に妻と行った。その寺は大きく上勝にある寺ではない。何か特別な日で人が多い。庭に面した廊下を進み既に20人ほどがいる4間を抜いた合計30畳ほどの部屋に入り奥の中央付近に座った。
何かの出し物が終わり幕間に正面を見ると女性の顔が左を向いて白壁に埋まっている。普通の人の2回りほど大きい。壁に向かって私は右奥にいたから中央まで移動して確認すると女の目が動いている。状況が飲み込めず元の場所に戻って壁に埋まった顔の左側だけを見ていた。
そうしたら突然その顔が叫びながら裂け血の付いた肉片を落として顔が小さくなった。さすがにギョッとして後ろに仰け反り倒れたらそこにいたおじさんに「これで驚くとは何かやましいことがあるんですね」と言われた。訳が分からず妻と表に出てネコを抱いたり仰向けにして遊んでいた。
そしたら目の前に消防車があり消防団員が訓練している。といっても2列縦隊で野球のノックを受けるようなものだ。訊けば広い場所が寺の駐車場しかないと言う。ともかく慌てて立ち上がり挨拶をしてその場を立ち去った。有機農業研究会が寺の建物を借りているとも聞いた。訳が分からん。
今回のプロジェクトはあくまでWeb制作が主役で写真展は付随的なものだった。Webに載せる写真を集める広報目的が第1。第2の目的があったとすれば写真を提供してくれた方への感謝の場だ。ところがフタを開けてみれば写真そのものを楽しんでくれる多くの方々がいた。
写真は古く場所がどこなのかも写っているのが誰なのかもほとんど分かっていなかった。それは来た人が教えてくれるだろうと思っていたが予想以上だった。ほとんど全ての写真について場所も被写体も特定できた。そして誰もがそのことを話すことを楽しんでくれていた。
25日には感動的な場にも立ち会った。立木写真館撮影の昭和元年の家族写真を掲示していてそれが誰かは分からなかったが若いN嬢が自分の先祖だと教えてくれた。その場には偶然来てくれていた立木さんもいた。昭和元年の撮影者と被写体の子孫が写真の前で体面したのだ。
期間を2週間にすればもっと多くの人に見てもらえたと思う。でもそれは開催前は分からなかった。仮にそう想像したとしても現実的には難しかっただろう。1週間だからドラマがあったのかも知れない。でも私は大いに得るものがあった。何より私自身が感動したのである。
写真展が終わった夜は20時頃にスカイプ。東京の同僚たちが送別会の最中で送別されるU氏と話ができるよう段取りしてくれたのだ。私は自宅にいてPC。相手はiPhone。音声も映像も悪くまともな会話ができたわけではないが面白かった。会場の雰囲気もよく分かった。
21時過ぎには友人がやってきて歌の練習。無謀にも2月に行われるライブに出ようと練習を始めたのだ。メンバーの1人S氏は欠席したが阿南から来てくれたF氏の同僚と音取りから。私がピアノを弾いて録音したデータを事前に送っていたのだが速度が遅くDigiOnSoundで速度を変えて。
終わって23時。もう写真展に関わった8日間の疲れで眠くて仕方がないのだが1人でビールを飲み始め結局3本。土曜は予定がなかったからとにかく寝ようと思って実際に昼食も食べずに寝続けたのだが全く疲れが取れない。腰は痛いしからだは怠いし。
おまけに写真展最中から喉が痛かったのだが本格的に喉全体が腫れている感覚がする。土曜夜はビールは控えて日本酒で暖まりながらテレビを見て。集中から弛緩すると私はたいてい体調を悪くするのだが今回も。体調は悪いが意識は高揚していて何だかバランスが悪い。
写真展が終わった。今日は朝からスタッフ4人体制で。地元のKちゃんは勝浦のTさんを伴って4度目。Tさんは2度目。地元企業の方々も昼休みを中心に相次いで来てくれた。「郷土のあゆみ」のIさんは3度目。昨日までに撮影した会場の様子をDVDにして持ってきてくれた。
Kちゃんに教えられたというお母さん2人は「こんな写真展やっとったんや知らなんだけど来て良かった。うれしかった。ありがとう」と言って帰られた。感動。終了間際には山本副町長。いろどり横石社長も。副町長のお祖父さんが福原電話局初代局長とのことでその写真もあった。
15時過ぎから撤収。撤収を始めてからも3〜4人の方が来られた。口コミで情報が広がったようだ。写真は木枠を付けたままあらかじめゴミステーションから調達した段ボールに入れて教育委員会に運んだ。撤収は意外に早く17時には全てが片付け終わったのだった。
帰宅したらFacebookにFM徳島「上勝いろどりラジオ」の宏香さんが会場を「町全体の同窓会のよう」と表現してくれていた。まさに。来場者は1週間で約250人。実質人口の14%に相当する。写真を見ながら話が弾み楽しく過ごされた方を見て本当に良かったと私自身が感動している。
写真展。水曜には今回のプロジェクトで最初に写真を提供してくれたIさんが来てくれた。大正15年のお生まれだったか。昭和31に町の歴史を写真で残そうと「郷土のあゆみ」という写真アルバムを作っておられた。私たちのプロジェクトの偉大なる先人である。
2時間あまりおられただろうか。私が非番だった今日もIさんが来られたそうだ。水曜は地元のSさんが2度目の来訪。寺子屋を壊した写真を半日かけて探してくれていたらしい。この日は昔話を聞かせてもらったKさんがお友達を連れて3度目。今日はYさんがTさんとともに3度目。虫眼鏡を持って。
水曜に勝浦の方が熱心に見ておられたのだがやがて他のお客さんと話を始め聞けば私の地元出身とのこと。ある出役後だろう写真について場所と何をやっていたかを解説してくれた。こうやって写真の概要がお客さんに教えられて判明していったのである。その話を聞くのが面白いのだ。
先週金曜から準備をして土日を会場で過ごし疲れたのか月曜午後に喉が痛かった。火曜は感じなかったが水曜にまた喉の痛み。水曜も今日も口が渇いて目が覚めた。乾燥しているのかも。写真展は明日で終わり。ホッとするような寂しいような。
日曜日も月曜日も写真展のスタッフとして朝から夕方まで常駐していた。来客はほとんど途切れることがない。町内が8割だが徳島市や阿南や小松島からも来てくれる。滞留時間は町内の年齢が高い人ほど長い。小さなスペースに110枚の展示でたいてい40分ぐらい。
日曜は旭地区の30歳代の方が来てくれた。いつもソフトボール大会で対戦するチームの捕手をやっている人だ。70歳を越えたお母さん2人組とかも多い。40年前に上勝で新任教師だった教育長は2度も来てくれた。1年半前に消防団研修で一緒になった人が小松島から来てくれたり。
ツイッター仲間も2人。徳島から日曜にmimomimo_tooさん。鳴門から月曜にarudeyoさん。中高の後輩で昨年再会した内科医W君や近所の企業に勤めていたが大怪我をして実家に帰るというN君。母が友人2人と来ていて昼食に行ったいっきゅう茶屋で会ったのには驚いた。
火曜は8時半に高鉾公民館に行って健康診断。2年ぶり。今日は写真展は非番だが昼食後に寄ってみた。ブログでしか知らなかった地元のお母さんとお話したり。終わって帰ろうとしたら電話があってほどなく町長が来てくれた。教育長から勧められたとか。40分じっくり。ありがたいことです。
9時集合。私は来賓の一人であるKさんをお迎えに8:47に家を出た。が途中で今日のために用意したCD-Rを忘れたことに気づき一旦帰宅。ところが9時のお迎えには間に合ったがCD-Rがラジカセから音を出してくれない。そんな焦燥の中でオープニングセレモニーをささやかに開いた。
音声はICレコーダーからラジカセに繋ごうかと思いながらセレモニー後に念のためCDを再生してみたら難なく音が出た。気温が低かったのが悪かったのだろうか。ともかく写真展である。来賓の方々をはじめ多くが2時間も写真に見入ったり話し込んでおられた。
13:30頃に昼食のため「いっきゅう茶屋」に行っていたら先ほど写真展で話をした81歳だという方が後から来られた。その方はコーヒーを注文してから携帯電話で3人の方に次々と電話をして写真展を紹介してくれていた。「面白い写真がよーけあるわ。いっぺん行ってみぃ」と。
新聞を見たからと徳島市からご夫婦で来られた方など知らない方も多かったが町内の見知った人たちも大勢来てくれた。午後には中学の同級生で徳島県議N氏夫妻も小松島から。友人が来てくれるのもうれしいがお年寄りが喜んでくれていたことが何より良かったと思う。
明日から始める写真展会場に10時集合。プリントされたA4〜A2サイズの写真を木枠に両面テープで貼り付けていく。両面テープを貼る係と剥がす係と写真を貼り付ける係と配置をしていく係に自然と分かれて。私は剥がす係と周辺で木枠を運んだりユーティリティ。こういう役割が好き。
午後から展示作業。だいたいの配置をN氏が決めていて押しピン(画鋲)で写真を掛けていく。水平に飾るために何度も直したり。東京から来たN氏も朝から作業に参加してくれておかげで16:45頃には全ての作業を終えることができた。最後に椅子を並べて明日朝のレセプションの準備。
ところで会場では前にインタビューした音声を編集して流すのだが木曜に焼いたCDが今日試したらラジカセで音が出ない。仕方がないのでラジカセを持ち帰りCD-Rを新しく買い直し焼いてみた。でもうちのプレーヤーでは大丈夫でもラジカセではダメ。設定を変えて焼き直したがそれでもダメ。
結局は妻のPCで焼き直したらあっさりOK。CD-Rドライブのレーザー強度の問題かも知れないし書き込み速度を制御するソフトの問題かも知れない。さて今日は今回のプロジェクトについて寄稿した文章が会社の紹介などとともに徳島新聞に掲載された。写真展をぜひ見に来てください。
土曜に配信した上勝TVのテレビトクシマ用の編集は今回また私が担当した。今回扱ったテーマが私たちが上勝で開催する写真展についてであって放送がいつになるかは分からないが写真展が終わる来週金曜までに放送される可能性があるなら最大限の努力をしようと急いだのだった。
火曜19時頃からカット編集を始めたのだが使い慣れないMacintosh相手で戸惑いながら。それでも妻が事前にカットすべき箇所の候補をピックアップしてくれていたので意外に順調に進んだ。ところが編集作業が全て終わってから音声と動画が微妙にずれていることに気がついた。
深夜24時を回ってスタッフのMくんに電話したりしたが原因は分からずファイナライズにかかったのが27:30頃だったか。朝DVDに焼いたら今度は4秒短い。またやり直し。それでも午後にはテレビトクシマに納品。音のずれは画質が悪いから遅れるような気がするのだろうと問題なしとされた。
水曜夕方からは写真展用PCのセッティング。妻が前に使っていたミニタワー。Adobe CS2などをガンガン削除。復元ポイントも削除してDドライブを統合したら28GBの空きができた。今日は会場でネットワークに接続できず焦ったが物理原因で解決。床に座ってのPC操作で腰が痛くなった。
1988年から10年間に仕事で作成した文書ファイルを保存してあるMOのファイルを見ていて発見がいろいろある。まずファイル数が非常に少ないと感じたこと。それでもフォルダのプロパティで確認すると5,583ファイル。年平均560。1日1.5個のファイルを作っていたことになる。
フロッピーディスク(FD)単位でファイルを管理していたからフォルダ分類が細かく分かれていて少ないと感じたのかも知れない。何十というファイルを開いてみたがJ社の歴史に関する貴重な文書も見つかった。当時の部下たちの査定表もある。議事録やメモ的なものや。
出張報告書でいきなり今やソフトバンクモバイルの社長である宮内さんとのミーティング議事録が出てきたり現在の社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会が当時の日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会から独立する前夜の生々しい状況を社内向けに書いたレポートがあったり。
でも本当に求めていたファイルがない。ピンク・フロイドを解説したものなのだけど。書いた記憶があるのに。プライベートなファイルは別に管理していたのだろうか。そんな記憶も既になく。手元にはラベルがない10枚ほどの3.5インチFDもある。次はこれをサルベージする必要がありそうだ。
私がJ社に勤めていたのは1988年4月から1998年3月まで。パソコンソフト開発会社だから当初からPCを使っていたが入社当時は10MBのハードディスク(HDD)が20万円もしていたはずで後にソフトはHDDに入れるようになっても文書などデータはフロッピーディスク(FD)に保存していた。
FDは後に3.5インチが主流になるが当初は5インチだった。いずれドライブがなくなり読めなくなるような気がしていたのだろう私は1999年に全てのデータをMOにコピーした。MOのラベルによると1999年2月6日。U氏主宰の投資クラブメンバーだった徳島大学のH先生の鳴門の自宅に行って。
そのH氏がMOをお持ちだったので彼の自宅PCを使わせてもらって5インチや3.5インチFDからコピーしたのである。あれから11年。そのデータを見たくなった。MOドライブは持っていないがツイッターに書いたら3人が貸してくれると言ってくれ上勝TV技術のMくんが持ってきてくれた。
今日MOをNASにコピーしたのだがMOのフォルダはFD単位になっていて数えたら50枚分。私が10年かで作成した仕事の文書はたった49MB。テキストだけの時代だからそんなものなんだろうけど。ファイルを開いて読んでみては全く記憶のない仕事の内容に驚いているところ。
朝9:35に出発して徳島空港。東京から来られたUstToday三上さんとノダさんをピックアップし上勝へ。三上さんは羽田空港からツイキャス配信。徳島に着いてからも道中ツイキャス。40人ぐらいが見てくれていたらしい。途中リアルな猪の看板で車を停めたりしながら12時半頃に上勝着。
いっきゅう茶屋で昼食を食べゴミステーションを見学し樫原の棚田。Y氏の「いろどり」作業を見せてもらい射手座造船所。その間ほとんどずっとツイキャスをしていて常時40人ぐらいが見ていたらしい。狭く深い凄いPR効果だと思う。そしてN氏宅。17:30頃にゼロ・ウェイストアカデミー。
準備は上勝TVスタッフのMくんを中心に順調に進み地元のみつさんで作ってもらったお弁当を食べ20:20頃から打ち合わせ。20:50からオンタイムで番組開始。一時はUstream Asiaトップページにバナーが掲載されたらしい。瞬間最大200人を越えていたらしい。総視聴者は2,119人。
出演した私の反省は挙げれば100項目もあるからゆっくり一人で反芻する。終わってお二人を徳島市までお送り。ついでに番組でも紹介した鳴門うどんを秋田町の舩本で食べてホテルにお送りして解散。25:30頃に帰宅。そう言えば14日は徳島新聞でも取り上げてくれた。怒濤の一日が終わり。
14日付になるが昨年2月から取り組んできたプロジェクトによるWebサイトを25:30に公開した。タイトルを「拝啓 そちらはいかがですか−上勝デジタルアルバム−」と言う。私が住んでいる上勝町の家庭にある古い写真を集めデジタル化して整理の上でWebサイトを制作したものだ。
私にとってこのプロジェクトの発端はA社で取り組んだ仕事にある。2008年7月に発行された提言「知的財産モラルに立脚した地域活性化策〜文化・産業発展の新しい形を目指して〜」。この12ページの論文で書いたのは地域の文化資源をデジタルで発信する可能性のことだった。
その年の年末に私は上勝に引っ越した。すぐ地元の写真家N氏と知り合いこの論文の趣旨を話した。彼は即座に理解して「それは自分がやらなあかん仕事じゃ」と言ってくれた。そのときのことが彼のブログに残っている。今回のプロジェクトはあのとき話したことを具現化したものなのだ。
来週土曜からは一部をプリントして写真展も行う。明日14日(土)21:00からはUstream配信も。私たちが手がける上勝TV枠だが東京から超人気番組UstTodayのナビゲータを迎えた特別番組。Ustreamサイトにはバナー広告も掲載された。私も出演する予定なのでよければ見てください。
昨年後半だと思うのだけど上勝に職を得て移住してきた若い男性がいる。昨年ツイッターで知り合いFacebookでも友達申請が来た。基本的に面識のない人とは「友達」にはならないようにしているが彼にはOKをした。そのまま会いに行けばいいやと思ったから。実際30分後に話をした。
偶然だが彼は私の大学の後輩だった。25歳ぐらい違うはずだから何の関係もないのだが25年違いであれ同じ教室で学んだ空気感は共有していると思う。そんなわけで喜んでいたら彼は何とピンクフロイドのファンでもあった。同じ職場の女性もフロイドファンだと言う。
教えてもらうことがあって今日会いに行くつもりだったら昼食で偶然会った。彼のオフィスに行き一通り話を聞き話題がピンクフロイドになってその同僚女性がCDを貸してくれた。ロジャー・ウォータースの「The Wall Live at Berlin」だ。ベルリンの壁崩壊後1990年に現地で行われたライブ。
1980年のアルバム「The Wall」をほとんど忠実に再現している。話題になったので私も帰宅後改めて探してみたら映画「The Wall」をLaser DiskとDVDでも持っていた。そのほかにもロジャー・ウォータースのライブDVDも出てきた。彼らと鑑賞会をやろうという話をしている。
J社時代の部下で今は上勝の棚田で米作りを一緒にやるなど仲のいい友人Z嬢がFacebookに私たち広報チームが毎朝やっていた仕事について書いていた。通称「新聞Pick Up」。毎朝届く新聞に手分けして目を通し業界関連記事をピックアップして全社に配信していた仕事についてである。
当時購読していたのは徳島新聞と日経・日経産業・日刊工業・日本工業・電波の6紙は確実で朝日・毎日・読売はとっていたと思うが自信がない。産経も覚えていない。なにせ記事の見出しを1行にまとめて新聞名と面数を記載しイントラネットの掲示板にアップしていた。
初期の頃は社内メールで同報していたかも知れないしZ嬢によると変遷はあったらしい。私は担当した新聞の紙面に付箋紙を貼り配信担当に回すだけだったような気もするが1行見出しを自分で書いていたような記憶もある。Z嬢が最終配信担当で毎日3行の前書きを書いていたらしい。
広報部門として社内へのサービスでもあったし業界のことを自分たちが知るためでもあった。新聞に親しみ広報として対峙する相手を知る目的もあった。それにしても具体的な業務フローを私はほとんど忘れている。一度Z嬢と話をして何をやっていたのか思い出させて欲しいと思っている。
4日の出初め式後の懇親会で飲んで記憶をなくした私の行動が明らかになってきた。地元の消防団員の友人2人がやってきて話をしていて3人の行動を付き合わせて分かってきたことだ。それによると13時頃から飲み始めたはずの懇親会は実は16時半頃には終了したらしい。
私がY氏らと話をしていたのは1時間ぐらいだと思っていたがその記憶は正しそうだ。私がトイレから戻って別の席で町会議員さんと話をしていたK氏を見つけ横に行って話を始めた記憶はある。その後K氏が宴会の準備をしてくれたミセスの会の迷惑にならないよう仕舞おうと言ったらしい。
その記憶はない。さらに最後はF氏が締めの挨拶をしたらしいがそれも覚えていない。そして地元の居酒屋に歩いて行った。その過程は覚えていないがそこでK氏と2人で話し込んだ記憶はある。ただし20分程度だと思っていたが実は2時間ぐらいはいたらしい。
そしてK氏と2人で自宅に戻ったのは19時より早いはずだとS氏は言う。K氏が帰りメールを寄越した着信履歴を見たら20:45だ。つまり自宅で1時間半以上飲んでいたということか。そして意外に早く寝たようだ。随分と周りに迷惑を掛けた気もするがまぁ仕方ないと今回だけは割り切ろう。
この本では村社会で性はオープンだったと言う。「歌垣は見物人の前で歌の掛け合いをすることによって〜男女の仲は公然であったし、雑魚寝の場合、誰が誰と関係したかはその場面にいれば明白であり、夜這いの場合も、村の若者がどの女性のもとに夜這いに出かけるかは周知のこと〜」。
一方で敢えて関係を秘めた「亡者踊り」のことも報告している。阿波おどりと岐阜の郡上踊りに並び日本三大盆踊りとされる秋田西馬内の盆踊りでは黒い覆面に目穴だけを開けた踊り子が踊るらしい。この頭巾が「愛の営みのための小道具」だったという識者の発言を引用している。
ではなぜ乱交の場としての盆踊りが廃れたのか。一つは明治政府による禁止令だ。混浴を禁止したのと同様諸外国の目を気にしたのだ。それでも数百年続いた伝統を守るため庶民は抵抗したらしい。盆踊りで女装した男や男装の女が警察に取締りを受けたエピソードも載っている。
ロシアの言語学者によると「踊り」は「(女による)男取り」が語源と言うが盆踊りが廃れた理由には女性が踊らなくなったことがあると言う。村を出て進学した者と地元に残った若衆が分化し内部崩壊したのだと民俗学者・宮本常一の発言から示唆している。民俗学の裏面として面白い本だ。
3日はJ社時代の後輩で今は東京在住のT氏が遊びに来てくれた。年末に東京で会った慶応大生の仲間でもある。前に会ったのは昨年3月の東京。ゴミステーションで待ち合わせて棚田や射手座造船所など町内をご案内。戻って自宅で情報交換。夫婦別々にお土産をいただき申し訳ない。
4日は消防団の出初め式。地元の分団詰め所前に8時集合で車に分乗して小学校校庭。とにかく寒いので今回は過去2年よりも厚着で臨んだ。下はパッチではなく部屋着のジャージ。上はセーターを着込んだ。休めの姿勢では膝を軽く曲げたりして脚が固まらないように努力もしつつ。
勝浦川から各分団の一斉放水がありその後は消防ポンプ車と何人かで神社に行きお参りしたあとは地元の公民館で賞状の伝達など分団の出初め式。そして懇親会。私はちらし寿司を食べただけで隣のY氏らと夫婦関係やら血液型の話ばかりしていた。そのうち酔っぱらって記憶が曖昧。
気が付けば地元の居酒屋。6〜8人がいたと思うが公民館の後半から話をしていたK氏と抜けて自宅に戻り飲んだものの記憶がほとんどない。PCを使おうにもキーボードが打てず諦めて寝たのは21時半頃か。夜中に気分が悪くなってトイレで意識をなくしそうになったり酷い飲み方をしたものだ。
『盆踊り 乱交の民俗学』には徳島の例が多く使われている。例えば男女の性関係の糸口となる風習「歌垣」が盆踊りと合体した例として徳島県木頭村(現・那賀町)の黒谷寺で旧7月17日に行われていた盆踊り。渡辺昭五『歌垣の民俗学的研究』から引用している。
女性は手ぬぐいを持って歌い踊り夜が更けると男女一対になり定型詩から即興の交じった歌を交換し男性に手ぬぐいを渡す。無条件で相手の意に従うという意思表示らしい。この踊りが通称「ボボイチ踊り」。「ボボ」は女性器で「イチ」は男性器を表す。1961年頃まで存続していたという。
さらに皆川学編『徳島県民族芸能誌』からの引用。神山町の「12番札所・焼山寺〜では盆の15日、盛大な盆踊りが行われていた。既婚・未婚を問わない男女が大勢参集し、日常の規範から離れた盆の夜を楽しんでいた」。これを著者は乱交パーティだとする。
山口吉一『阿波ええぢゃないか』(1931年)によると幕末に流行した「ええじゃないか」踊りでは「紙一枚。老婆などはわずかに幅三、四寸を越えない帯を裸体に巻いて、その前の方にきわどく一枚の中折れ半紙を垂らしているだけだった」。阿波おどりも写真で数多く紹介されている。(続く)
HONZで知りタイトルに惹かれて買った。下川耿史『盆踊り 乱交の民俗学』(作品社)。村社会の中で男女の乱交パーティが如何に行われていたか。あるいは何故廃れたのかを大量の文献から解説した真面目な本である。それによると最古の記録は西暦700年頃。万葉集にある。
「若い男女が近所の山に登り〜お互いに見知った同士が、時には見知らぬ同士でも歌を交換するうちに気分が高揚してくれば、その場から離れて二人だけで関係するというもので、これが歌垣である」とある。歌垣は「かがい」とも言う。これは筑波の例だが後に歌の交換が省略されるようになる。
鎌倉時代以降は派手なことをして人を驚かす風流(ふりゅう)が流行し性の方向で行われたのが「雑魚寝」であるとする。地域の地蔵堂などに男女が集い行われる乱交のことらしい。さらに滋賀には女性が自分の魅力を示すため1年間に関係した男の数だけ鍋を被り参拝した神社があるという。
念仏踊りのことも面白い。時宗の開祖である一遍上人は「村人が見守る前で宗教的なエクスタシーの世界を現出してみせ」寄付を集めたとある。20人から40人の一行のうち半分は尼僧で「全裸になって陰部をさらし、頭を振り上げ足を上げて踊」ったのだとか。(続く)
実家で朝は遅く起きて母が置いていってくれたお節料理を食べて新聞を読んで。それにしても徳島新聞の元旦特集が小粒でつまらなくて呆れた。徳島ニュービジネス協議会による徳島駅裏のスタジアム計画というのも眉唾のマッチポンプの様相で。手抜き紙面にがっくり。
午後は納屋にある私の古い荷物を物色。本当は学生時代などの写真アルバムを探したのだが見つからず。上勝に持ち帰ったのだろうか。記憶がなく私の部屋の押し入れも見てみたが分からない。とりあえず学生時代の手紙から当時の住所を記録としてiPhoneのカメラに撮った。
夕方は読書。『盆踊り 乱交の民俗学』。読後に改めて書くが面白い。17時半になって実家を出発。小松島の「こはくの天使」で夕食をとり20時前に帰宅。話をしたのは「こはくの天使」のマスターだけという元旦に何だか日常を感じて今日は2日だったような気がしてくる。
夜はいただいた年賀状を見ながら宛名書き。結局のところ昨年中には1枚も書かず届いた分の返事だけ。妻と連名で届いたものの扱いが難しいが私の人脈の人には私から出すというルールで淡々と。それでも3時間近くかかった。改めて今年もよろしくお願いします。
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© 2012 Takashi INAGAKI