2009年5月
土曜と日曜は棚田で田植え。全国棚田100選の1つである樫原の棚田で今年はオーナーになっており日曜日は仲間と一緒に朝から出かけた。一旦我が事務所に集まって車に分乗して9:45出発。妻はおにぎりやおかずを作り早朝から準備していた様子。
仲間のうち1人だけ子供の都合で日曜は参加できないということで私たち夫婦は土曜に上勝の移住者仲間T家のヘルプで田植えに参加。結局子供は学校の都合で参加できず友人Nと私ら夫婦だけ3人で田植えをさせてもらった。
土曜は狭い2枚を私たち3人で。金曜に隣町で慌てて買った田靴を履いて。田靴というのはぴったりしたゴム長靴で口がすぼんでいるもの。田の中で靴が脱げないようゴムの輪を足にかけて。妻は普通の長靴で足を抜くのに苦労していたが友人Nは裸足でやっていた。
土曜はJ家が翌日に備えて温泉でキャンプ。夕方そこに合流して子供たちと遊び夜は交流会。いろんな人と話をした。ある女性と話をしていたら中高時代の2コ下の後輩と分かったり。日曜は私は田植えをせず見るばかり。棚田でおにぎりを食べダム湖畔で遊び夕方解散。
火曜日の祖谷観光の最後は三好市山城町の「児啼爺」の石像見学で終えた。「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する「児啼爺」は実は柳田国男が昭和初期に発掘した山城町の妖怪なのだ。そして一緒に行った作家のK氏は作家・京極夏彦氏の妖怪小説のプロデューサーでもある。
山城町は「世界妖怪協会」が認定する「怪遺産」の第2号認定地である。第1号は「ゲゲゲの鬼太郎」の作者にして「世界妖怪協会」会長の水木しげる氏の出身地・鳥取県境港市。怪遺産制度を作ったのが妖怪雑誌「怪」。一緒に行ったF氏はこの出版社の担当ではないが編集者。
だからお客様3人は全員が妖怪と山城町に縁を持つ。でも今まで賢見神社に行くだけで町内を回ったことがなかったらしい。そんな彼らから裏話を聞けば怪遺産は当初境港市だけのつもりだったらしい。第2号認定を行ったのは山城町から強い働きかけがあったからだとか。
3月にホラ吹き検定の支部認定式で上勝に来た方を今回訪ねたが山城町の元気は彼らの熱意によるものなのだ。訪問した歩危マートで地元産の茶葉を使った「妖怪茶」なる350mlのペットボトルをもらったが商品開発のスピードと地域の熱さに山城町への興味が高まった次第。
賢見神社に行った夜は夕食後一眠りして作家K氏と編集者F氏の部屋に集まり話をした。ケータイ配信会社のH社長も一緒。それと祖谷に住んでいるHさんの友人の若い女性も参加。話の内容は怪奇現象について。K氏が怪奇現象や妖怪について詳しくて現地取材の趣もあり。
K氏とマネージメントのHさんが賢見神社に年に何度も行くのは怪奇現象を本にする前と後に憑き物を落とすためらしい。聞けば執筆中よく邪魔が入るそうだ。それ以上書けないようにする何かの力が働くらしい。Hさんの友人女性からは身近にいる犬神憑きの人の話も聞いた。
K氏から聞いた話は興味深い。例えば大津から京都に向けて峠を越えるタクシーに乗ったとき真っ直ぐ走っているのに同じ景色を何度も見て変だと思っていたら通常の何倍もの時間と距離を走っていたといった類の。人の意識を制御できればこうしたことは起こりうるという話も。
不思議なことはあるものなのだ。K氏の話を聞いている間ときどき後頭部に寒気が走ったが私は怪奇現象あるいは超常現象の存在を受け入れている。人知の及ばないことを怪奇現象と言っているに過ぎずそれほど人は自然の中では小さい存在であるということだと思う。
上勝に先日お越しいただいた東京のT氏からご案内をいただき藍ろうつけ染の個展に行ってきた。出展者はJ社の元監査役。J社創業者の母上でもある。作品集『天醉藍色』の出版記念とのことで大道2丁目のギャラリー。16時過ぎにお邪魔した。
ご家族のことや作品のことを10分ほど伺った。J社の沖浜時代の本社入口に作品があったことは覚えている。その話をしたら「これね」と作品を指された。でも作品までは覚えていなかった。今になって藍や文化に興味を持つようになったが当時の私は何も見ていなかったことを悟った。
鑑査役と言えば1995年頃にNHKスペシャル「新・電子立国・日本の自叙伝」の取材でJ社創業当時のエピソードを話され広報担当としてヒヤヒヤしたことを覚えている。創業間もない頃に営業がうまくいかず社長が縁側で不貞寝していたといった話が山ほどあったもので。
あれは監査役のご自宅だった。J社創業の地である。創業当時の看板も見せてもらったような。監査役とその後お付き合いはなかったが今回再びお話ができてこういう機会が与えられたことに感謝した。個展は総合ビルメンテム1F(大道2丁目)で30日(土)16時まで開催中。
月曜に行った賢見神社は徳島ではあまり知られていないと思う。徳島市から高速を使っても2時間近くかかるから気安く行ける場所ではないが私が存在を知ったのは妻経由で東京の人からだった。何でも願い事が叶う神社だと聞いたが行ってみて感じたのは別の凄さだった。
私は作家のK氏とマネージメントのHさんとK書店の編集者F氏と妻と一緒に初めて神社でご祈祷を受けた。祝詞と言っていいのか分からないが仏教の経文より多少は聞き取れる言葉もある。ただし独特の節が付いていてときどき宮司様に合わせて柏手も打つ。
Hさんによると徳島には犬神など邪気を取り憑かせる家が7家あるらしい。そして賢見神社は取り憑かれた邪気を払うことで日本で唯一の神社だと聞いた。宮司様によると祈祷で私たちには何も起こらなかったが中には座ったまま後ずさりして逃げ出す人や泣く人もいるらしい。
東京から夜行バスとキシャを乗り継ぎ山道を5km歩いて毎月やってくる若い女性もいるそうだ。GWに行ったとメールをくれたMさんによるとGW中は何組もがご祈祷の順番を待っていたとか。徳島にいて全く知らなかった。祖谷や山城町など徳島の西部はなかなかに奥深い。
日曜夜は宴会後26時就寝。月曜7:37に出発して新浜から末広経由で8:50に空港近くの日産レンタカーに到着。そこに東京からお客様2人が合流。作家K氏と大手出版K書店の編集F氏。土曜からのお客様はK氏のマネージメントと携帯公式サイトの運営会社を経営する女性のH社長。
Hさんがレンタカーを借り2台に分乗して高速から徳島最西端の三好市へ。池田ICで下りドラッグストアーでお酒を買いHさんの先導で今日は賢見神社への参拝なのである。徳島での知名度はあまりないが作家K氏とHさんは参拝のため年に数度も徳島に来ているらしい。
ここで私たちも一緒にご祈祷を受け宮司様とも雑談を交わし祖谷温泉ホテルへ。渓谷の崖の上に立ち露天風呂へケーブルカーで下りる徳島では有名な温泉旅館。源泉掛け流しの天然温泉は四国では道後温泉本館とここだけらしい。ここにHさんのコネで宿泊。
夕食後しばらく寝て夜は5人で怪談話。25時頃解散して火曜は10時出発。私が先導してかずら橋に行き大歩危峡にある石の博物館に寄り子泣きじじい像を見学して解散。私たちは3月に上勝で一緒にヤッホーをした山城町の方と会ってきた。夜は徳島から友人が来て今日も宴会。
予告なく日記を2日休んだのは数年ぶりだったかも知れない。一部の方に心配をかけたかも知れないが理由は単純なもの。金曜日に書いた日記をアップしないまま寝たからだ。土曜に泊まった実家で気づいたが実家からアップしてしまうと金曜分を後で消す恐れがあったので諦めた。
さて金曜。午後から徳島に出て車を受け取り夕方から近所で鯉のぼりの12mの支柱を下ろすのを手伝ってそのままバーベキュー。帰宅したのは早かったがヘロヘロに酔っぱらっていたので書いていたヒマネタをアップせずに寝てしまったららしい。そういうことはときどきある。
普段なら翌朝に日記をバックナンバーに移動させるのだが土曜は東京からのお客さんを迎えに朝から徳島空港に行ったもので確認せず7時半出発。1時間で着きお客さんとそのまま鳴門観光。昼食は大井で鳴ちゅる。大塚国際美術館に行き今回は駆け足で見て滞在3時間。
渦の道にも久しぶり。夕食は「あらし」。夜は友人のライブを見に行き24時過ぎに実家に帰宅。日曜は7:45に実家を出て上勝。妻らは別行動で私は午後から上勝観光。ゴミステーションに寄り樫原の棚田とダム湖でヤッホー。いて座造船所も。夜は宴会。明日も更新できないかも。
天下一品より京都と言えば「餃子の王将」。不況だと言われるご時世だが「餃子の王将」は増益だそうだ。先日来テレビなどで盛んに「餃子の王将」が取り上げられる。それによるとチェーン店だが店長の裁量が大きく地域特性に合わせてメニューさえも店によって違うらしい。
学生時代にはよく行った。餃子のタダ券を配っているのでそれを入手すると友人EIKが誘いに来る。たいてい出町柳店か白川北大路店だった。でも私は王将の脂っこさが今ひとつ好きになれなかった。だから王将よりもよく通ったお店がある。
「大眠」。大宮鞍馬口にあったお店。1983年から2年間住んでいたのが堀川鞍馬口下ル西入ルあたりで原付に乗って行ったり時には歩いても行った。確か26時まで営業していて私が行くのは23時とか24時とか。あの2年間は週に3回以上は通っていたような気がする。
客はたいてい学生だが一度下宿の大家夫妻も見かけた。すっかり常連になり話をしていたら大将の奥さんが徳島出身だと言っていた。半田か三加茂か西の方だったような。5年前に前を通ってみたら店は健在だった。大眠は私にとって青春の思い出の味である。
先日スターバックス(スタバ)のことを書いていて調べてみたら徳島にはスタバの店舗がないことを知った。気になって調べてみたら四国でスタバがないのは徳島だけ。全国では青森・山形・鳥取・島根・徳島の5県だけに店舗がない。
わざわざスタバでコーヒーを飲みたいとは思わないが店舗がないと知ってしまうと何だか徳島の後進県ぶりを思い知らされたような気分になる。スタバがあることが文化的先進地とは限らないが少なくともスタバ自体は一種の文化だと思っていたので。
それよりラーメンチェーン「天下一品」である。京都に本店があり学生時代の最後の1年は1週間のうち5回ぐらい食べていた。10年前には徳島市助任の国道沿いにあってたいてい深夜に食べに行った。ところが最近なくなっているのに気づいてネットで調べてみた。
そしたら徳島に現在お店はゼロ。あの助任のお店で深夜に食べるといつも腹痛を起こしたものだが日が経つと中毒症状が襲ってくるから結局食べに行く。それが私にとっての天下一品だったが店舗がないと知ると寂しい。スタバはいいから徳島で天下一品のラーメンが食べたい。
「ICT」は何の略か。Information & Communication Technologyだと言われている。ところが異説を唱える人がいる。ヤッホーのカリスマT氏である。T氏によれば「愛をキャッチするテクノロジー」。T氏は全く天才だと思う。ちなみに上勝では「愛シーテー」の略だという説もある。
さてICTの意味するところは何かとなると実はよく分からない。人によって想起するイメージが違うのがこの世界のいかがわしさだ。例えばICTを直訳すれば「情報と通信の技術」で字義通り解釈すれば電話はまさにICTだが家の電話をICTとは普通は呼ばない。
ICTの「I」にはインターネットのニュアンスが含まれているかも知れない。だからここ10年以内の情報通信技術をICTと呼べば外してはいないはずだ。ちなみに私もやってしまうが「ICT技術」と言っては間違いになる。「T」は「技術」なので「情報通信技術技術」になってしまうから。
ICTとよく似た言葉にITがある。ITは経済産業省が使う用語で一方「通信」を管掌する総務省はICTと言う。ITの方がより技術寄りなイメージがあるが元は官僚の縄張り争いなので同じ意味で使って構わないと思う。結局のところITやICTとはその程度でいい加減なんだと思う。
新型インフルエンザの水際対策は万全だと言われていたのに神戸や大阪で罹患者が見つかり既に100人を超えた。神戸とは橋で地続きの徳島。ETC車の高速割引もあって神戸や大阪とは多くの人たちが行き来しているから徳島で患者が見つかるのは時間の問題かも知れない。
さて今のところ患者の多くが高校生。その理由を朝日新聞は「通常のインフルエンザでも感染を繰り返すうちに免疫がつくので、若いほど免疫がない。『子どもたちは免疫の面でも、新型ウイルスに無防備なのかもしれない』と、CDCの担当者はいう。」と報じている。
もし本当にそうだとすれば今のうちに罹患しておくことで強毒性のインフルエンザへの備えになることにならないか。それにこのまま大流行に突き進めば1ヶ月後に罹患しても病院は混乱して十分な医療が受けられないかも知れない。今ならまだ大事に治療してくれている。
危険なのは強毒性に変異した後の大流行だろう。そのときの感染確率を下げられるなら今のうちに免疫をつけておくことに意味があるように思えてしまう。でも本命は鳥由来の致死率60%とも言われるH5N1型。今のウィルスに罹患してもH5N1の免疫にはならないのだろうか。
先週だが夕刊フジのWeb版ZAKZAKで「学校で〇ンコは大問題!男子用“個室”トイレ増殖中」という記事を見つけた。学校ではからかわれるから我慢する子供が多いのだとか。気持ちは分かる。実は私もそういう一人だった。
実際のところ小学校の6年間で私は一度も学校でしなかった。このことは小学校の卒業式が終わってからしばらく私自身の密かな自慢だった。別に褒められた行為でないのは分かっていたが私自身ががんばった成果には違いない。私にとってはあれもがんばりだったのだ。
でもそのがんばりの裏には「犠牲」もあった。あれは小学校3年のときだったと思う。我慢しながら帰宅したときのことだ。我慢しながらだから帰り道は走らなかったような気がする。早歩きというか。そして自宅の玄関の戸を開けて靴を脱いでいるとき・・・。
あれは家に入った瞬間に緊張が緩んだとしか解釈のしようがない。その後どう処理をしたかは覚えていない。いずれにしても我慢には犠牲が伴うのだ。そして我慢は緊張が緩むシチュエーションでこそ踏ん張りどころなのだ。それを私は小学3年にして学んだのである。あぁ。
この業界にいて情けないことにMSのビル・ゲイツやスティーブ・バルマーを私は見たことすらない。アップルのスティーブ・ジョブスも。1988年にボストンで開かれていた展示会「Mac World」に行ったときジョブスはジョン・スカリーからアップルを追われNeXT社にいた時代だった。
表計算ソフトLotus1-2-3のロータス社には多少縁がある。創業者ミッチー・ケイパーは知らないがマッキンゼー出身のCEOジム・マンジとは五反田の日本法人で会って挨拶して握手もした。彼が自社株のストックオプションで米国1の大金持ちだった頃だ。
ネットスケープの創業者マーク・アンドリーセンを見たのは少し自慢。イリノイ大学で「モザイク」と名付けられた世界初のWebブラウザを開発したのち独立した当時のヒーローだった。1996年5月にオラクルが開催したネットワークコンピュータに関する発表会の壇上にいたのだと思う。
ということはオラクル創業者のラリー・エリソンも見たのかも知れないが覚えていない。もしかしたらサン・マイクロシステムズのビル・ジョイもいたのだろうか。最近のGoogleやYouTubeの創業者と会いたいとは思わないが私の時代の業界のヒーローたちにはまだ少し関心がある。
先月29日のマイクロソフト(MS)との意見交換会の後の食事会でMS本社を訪問しようという話が出たらしい。米国シアトル。イチローのマリナーズの本拠地。MSキャンパスと呼ばれる広大な敷地は業界では有名だった。でもMSは今となっては過去形である。
パソコンソフト業界に長くいて私はMS創業者のビル・ゲイツ氏にもポール・アレン氏にも現CEOのスティーブ・バルマー氏にも会ったことがない。それには軽い後悔があって彼らに会えるなら行ってみたい気はする。でも英語で話はできないから会っても意味はなさそうだ。
仮にオフィスを見たところでパソコンに向かった社員が大勢いるだけだろう。シアトルなら今やMSよりスターバックスの方が有名で創業の地でコーヒーを飲む方に価値があると思う。それにイチローの試合ならスタジアムで見てみたいものだが。
訪問するなら今はGoogleかアマゾンに行きたい。アマゾンなら日本法人でもいい。巨大な配送センターには興味がある。あるいはGoogleのサーバーセンターとか。多分無理だけど。いずれにしても見学するなら最先端でないと意味がない。少なくとも旧世代のMSは対象でないと思う。
昨日書いた白井裕子『森林の崩壊』の最後の章には建築基準法のことが書かれている。今の建築基準法は戦後すぐのバラックを規制するために設けられたものらしい。ところがバラック規制の最低基準がそれさえクリアすればよいという標準になってしまったのが現実だと。
そして伝統的な日本家屋の建築様式は建築基準法の枠外になってしまった。伝統家屋の太い柱と梁を組み合わせた軸組は地震の揺れを逃がすしなやかな構造だが建築基準法では金属で固定しすじかいと壁による揺れない構造でないと認められないそうだ。
勢い地元の木材をそのまま用いるような伝統工法は敬遠される。その結果として木材の木目や上下を見て相性のいい木を組み合わせ建てる大工の技能が軽んじられる。それは日本の文化を崩壊させるものだと一級建築士でもある著者は強く警告している。
森も木も住宅も地域に根ざした文化である。それなのに中央が事細かに全国一律の基準を設ける愚。常に現場が一番正しい。多くの山林関係者や大工の棟梁の話を聞き外国の実情を調べた著者の本当の主張はここにある。現場の思いが伝わってくる好著だと思う。
私が住んでいる上勝町は面積の86%が森林でそのうち83%が杉を中心とした植林らしい。杉の人工林は保水力が弱く雨が降れば洪水になり降らなければ川は渇水する。昭和30年代に植林された杉林は輸入木材に押され産業として成り立たなくなり放置されがちだと聞く。
放置された植林は密集し幹が細く生い茂った枝で太陽光が遮られ下草が生えない。そのため地表が荒れ土砂崩れの危険は増し餌がないため鹿や猪が里に下りてきて農作物を食い荒らす。これは上勝だけのことではなく日本全土で起こっている現実である。
上勝に住むようになって関心が高まりより詳しく知りたいと思うようになった。それで買ったのがこの本。白井裕子『森林の崩壊―国土をめぐる負の連鎖』(新潮新書)。森林現場や伝統家屋の大工の声さらに行政のあり方や欧州豪州の事例も引いて内容は広く濃い。
問題は単純でなくこの国の行政のあり方にも起因する。例えば間伐への補助金は条件が細かく決められ地域性や樹種を無視しており現場の裁量と意欲が奪われているような。いずれにせよ山林の問題は河川の問題でもある。下流域に住む都市住民にこそ読んで欲しい。
今回の淡路島キャンプは4泊予定が妻の体調不良で2泊になった。そこでリベンジをするなら次にどこに行こうか徳島にある他のキャンプ場をネットで調べてみた。でも私が見つけたキャンプ場リストを見る限りどこも設備が整った管理されたキャンプ場ばかり。
今回行った淡路島のキャンプ場は7〜8月だけテント1張1,000円と駐車場代500円だがGWは全て無料。4泊しても食材とビールや高速料金を除けば一切お金はかからなかった。昨年夏に行った穴吹川も河原にテントを張るだけで料金は駐車場代2日で1,000円だけ。
私たちのキャンプ仲間で行くならトイレと水場さえあれば十分。調べたキャンプ場はどこも管理されすぎているのか料金がそこそこかかる。場所代や施設維持費などさまざまな名目の料金があるが仮に3泊すれば1家族あたり1泊1,000円から1,500円が多い。無料のところもある。
最も高額なのが我が上勝の温泉キャンプ場。1泊1張3,680円。バーベキューは別途1人320円。でも誰が4,000円もかけてキャンプをするのだろう。管理された安心感はあっても行き過ぎた管理を懸念する。何せ高い。残念ながら私にとって月ヶ谷温泉は候補にさえ挙げられない。
5月2日にRCサクセションの忌野清志郎が亡くなった。このニュースは豚に起因する新型インフルエンザと高速道路が大渋滞だったことに並んでこのGW中に大きく取り上げられていた。RCサクセションには誰もが思い出を持っているのだ。58歳だったそうだ。
徳島県郷土文化会館であったRCサクセションのコンサートに高校3年のとき行ったことは書いたが実は「トランジスタラジオ」や「雨上がりの夜空に」など数曲のヒット曲しか私は知らない。そこでベスト盤だがCDを買った。「BEST OF THE RC SUCCESSION1970〜1980」。
聴いていると「YMO」や「スネークマンショー」を思い出した。それらの音楽とともにFM放送からカセットテープに録音して聴いていたのだろう。それにアマチュア無線で初夏の夕方にスポラディックE層の反射波を狙って東北や北海道の呼び出しを傍受していたときの情景も。
あれは中学2年から高校の頃だ。社会に反抗して合唱部の中で孤立していた高校2年の淡路島合宿とか。あの頃なぜか「ぼくの好きな先生」が好きだった。孤立と焦燥。私の高校生活はそういう時代だった。RCサクセションはそんな暗い青春の思い出にしみ入ってくる。
IT業界の買収で結果として実現しなかったが驚いたことが2件ある。1つは1990年代半ばにあったMSによるインテュイットへの買収提案だ。インテュイットは米国の会計ソフト大手。この提案は結果として独占禁止法違反か何か問題が指摘されて実現はしなかったはずだが。
当時MSもMONEYという会計ソフトを持っていたが営業は苦戦していた。それで打った手が自社のMONEYを売却してライバルのインテュイットを買収することだった。例えて言えばソニーがデジタル一眼部門をキヤノンに売ってニコンを買収するようなものだ。何でもアリの強引さ。
買収で驚いたもう1つもMS案件。1990年代後半においてMSのワープロソフト「WORD」がシェア1位でなかったのは世界中で日本と韓国だけだった。日本の1位は我がJ社の「一太郎」だがMSは韓国でシェア1位だった「ハングルとコンピュータ」社(Haansoft)に買収を仕掛けた。
このときMSによる買収を阻止するため韓国財界がHaansoftを自ら買収したことに驚いた。MSのシェア拡大戦術の傍若無人さも凄いが言語は文化だと理解してデジタルでの自国企業をMSから守ろうとした韓国も凄い。そういう発想が日本にないことを私は今もって考える。
IT業界ではオラクルによるサン・マイクロシステムズ(SUN)の買収で騒然となっているが資本提携を含め私が今までで最も驚いたのはマイクロソフト(MS)がアップルに出資したことだった。ASAhIパソコン最終号によると1997年のことだ。
アップルはスティーブ・ジョブスがCEOに復職したばかりで瀕死の状態だった。MSはOS市場を独占しては法的な問題などで不利と踏んだのだろう。マーケティング理論の上でも競争相手がいた方がいいとされる。それにしても何が起こるか分からない業界であることを実感した。
次に驚いたのは2004年にIBMがパソコン部門を中国レノボに売却すると発表したこと。アップルがiPodとMusic Storeで音楽屋になる一方でパソコンの本家の撤退はショックだった。もうパソコンの時代ではなくなったのだと。
今回のSUNの買収のこともそうだが今年初めにアップルのジョブスが病気のため休養すると発表したことも一般紙やテレビでは特に報じられていない様子。パソコンは再びマニアの手に戻りGoogleはじめネットの時代なのだ。MSでさえ旧世代に押しやられてしまったということだ。
GW中の5月5日午後に雨のなか鳴門からお客さんが来られた。元J社取締役で東京在住のT氏ご夫妻。GW中は鳴門のご自宅に滞在していて遊びに来られた。T氏とは鳴門や東京でときどき会っていたが奥様と会ったのは11年ぶり以上。T氏の手打ちそばをいただいた。
GWが終わった7日には東京からM氏。私のA社での同僚でありダイビング仲間である。彼の仕事を詳しくは言えないが徳島県警の刑事さんお2人と会うと言うので私も「響」の練習後に合流して雑談しばし。3人がいる場に行ってみるとM氏もすっかり刑事に見える。
さてM氏が会っていた県警のK警部補とは私も昔会ったことがある。そう言われたのだがいつどこで会ったか覚えていなかった。そこで古い名刺をひっくり返して調べてみると1991年1月と5月。さらに2004年にも。これは名刺がある分だけだから多分もっと会っていたはずだ。
そう言えば2004年に鳴門署で会った刑事さんは10年以上前に会った私のことを覚えていて驚いた。職業的に顔と名前を覚えるのは得意だと聞いた気がする。手元の名刺を数えてみると退官した人と警視を除いた徳島県警の刑事さんが15人。徳島では行動に気をつけておこう。
私はJ社に入社以来21年間をパソコンソフト業界で生きてきた。広く言えばIT業界だがマイクロソフト(MS)はIBMと並び常にこの世界の雄であった。私は彼らのビジネスのやり方が基本的に嫌いだが逆に嫌われるほどの存在感があったとは言える。
ところが昨今は影が薄い。Googleが言うところのクラウドコンピューティングを前にMSはビジネスの根幹が揺さぶられているように見える。そんな外敵の中Windowsを巡るドタバタである。本当の敵は内にある。10年前のJ社と同じで外敵に気を取られているときの自滅が怖い。
MSは朝青龍だ。伝統的な商習慣を無視し行儀が悪い。しかし強い。だから憎たらしく嫌われる。それが昨今は小兵にかき回されて自分を失っている。今は土台であるWindowsで横綱相撲をするべきだ。上辺だけ小兵を真似ては自滅し本来のファンも離れていくだろう。
MSがPC-DOSで飛躍を始めた1981年に私は初めてパソコンに触れた。この業界にいた期間も長く実はファンに近い心境にある。だからMSにはいつまでも憎たらしく嫌われるほど強い存在であって欲しいと今は思う。本音を隠した好かれる努力に策を弄して欲しくはない。
マイクロソフト(MS)のブランド価値はGoogleに次いで高いらしい。ちなみに3位はCoca-Cola。それほど著名な割に嫌う人が多いのは創業者ゲイツ氏の性格によるのだろうがライバルに対して攻撃的で手段を選ばないビジネススタイルに起因していると思う。
その攻撃性で現在の地位を築いたのは確かだが巨大企業になってから世間に好かれる努力をしているようには見える。MSKKは教育関係や地域活性化に関してNPOを作ったりイベントを行ったり。上勝町との提携もそうした指向の中に位置づけられていたのだろう。
でも経営者が変われば方針が変わる。現社長になって日本法人の役員の顔ぶれはがらりと変わった。古くからいる役員は辞め新社長が外部から連れてきた人が新しい役員に就いたのだから仕方がない。それが外資のやり方なのだ。
ところが方針は変わっても企業体質は変わらない。ビジネスの本音を隠した建前ばかりが目に付くようになった。努力の結果としてMSを嫌う人は減ったかも知れないが疑う人は増えたのではないか。もっと問題なのはGoogleの前にそもそも影響力が下がったことだ。それは寂しい。
昭和の日だった先月29日。マイクロソフト(MS)との意見交換会というのが上勝であり参加した。来町したのはMSKKの社長とパブリックセンター担当の執行役常務ら。上勝との提携を6月に解消という記事が出たばかりだが翌日に徳島県と提携調印するついでに寄ったということらしい。
ICT化に取り組んだ3セクの担当ら上勝側5人からプレゼンがありそれにMSが意見を返して自由意見に。30人近い参加者の中で移住者ということで私は2番目に指名され妻に振ったら別の話になり改めて発言を求めて結果として町長とMS社長の次に長い時間を話したような気がする。
私が言いたかったのは上勝側はプレゼンしたのに提携先のMSが上勝をネタに町外で行った活動についてプレゼンがないのはおかしいということだ。妻によれば東京・永田町のエスカレーターでいろどり農家Hさんのポスターがあったらしいが私は初耳。町の人は知る由もない。
上勝側のプレゼンに素晴らしいとコメントするMS側。それは上から目線の表れである。こういうところに企業体質が表れる。なぜMSが世間から嫌われるのか理由を見た気がする。町もMSをありがたがっては情けない。上勝はMSなど全く必要としない力を持っているのに。
淡路島にキャンプに行くには大鳴門橋を渡らないといけない。ここは本四連絡橋の一つで高速道路である。今年も昨年と同様に鳴門北インターから乗って2区間だけ走って西淡三原で下りた。ETCがないので1,000円にはならないが軽自動車だから1,150円。
ETC車は高速利用料金がどこまで行っても1,000円だからだろう今まで見たことがない交通量だ。特に私の車は軽であってスピードが出せないので追い抜かれた車は高速2区間だけで相当な数に上る。帰りに鳴門北を下りた信号待ちで10台ぐらいが並んでいてびっくり。
大鳴門橋は強風にさらされるので制限速度は70km/h。淡路に入っても一応80km/h。ところが車の流れは100km/hぐらい出している。私は帰りにがんばってスピードを出して瞬間95km/h。ほとんど80〜90km/hで巡航した。でも90km/hだとエンジンは5,000回転にもなる。
13年落ち9.4万km走行の軽にとって高速道路は過酷だと思った。我がMOVEのトランスミッションが3速ATなのが原因なのだが。昨今のCVTならもっと快適なのだろう。そんなわけで我が3速ATで高速を走るのは車がかわいそうだと思った次第。
4月30日は鳴門の実家に泊まり5月1日から淡路島でキャンプをしてきた。昨年と同じ場所。毎年キャンプをしているJ/Z家から誘われて初日に合流。本当は4泊して5日までいるつもりだったが初日の夜から妻が体調を崩し3日朝に撤収して鳴門の実家を経由して上勝に戻ってきた。
ETC割引高速道1,000円の影響で混雑すると踏んで平日の金曜朝10:30頃にキャンプ場に行ったが我々が一番乗りだった。新しく買った安物タープをJ君に手伝ってもらい設営しJ/Z家が預かってきた2家族のテントも設置。1時間強でテント5タープ2張が整った。
私たちの次に来たお兄ちゃんが1人で巨大なタープを含む凄い装備を調えたことには興味を惹かれた。プロのレンタルかと想像したが両親を招待した豪華キャンプだった様子。そのパーティを含め全装備をColmanで揃えているキャンパーが多い。金持ちの道楽かとやっかみ半分。
2日にY/M家とK家が来て夕方にT社長が合流してテント6張タープ3張。食事は1日昼が近所でラーメン。夜は焼鳥。2日は昼がヤキソバ夜が焼肉。料理はJ氏が火を起こした炭火で。テントの中では寝袋と毛布を2セットずつ用意したから寒さに震えることはなかった。
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© 2009 Takashi INAGAKI