<Diary Index Page> 2018年3月
昼食のため車に乗って出たのだが勝浦の道の駅が大混雑。徳島からの道は駐車場待ちの車で200mも渋滞していた。金曜だったか相次いでローカルニュースに取り上げられた影響だろう。桜の下の船下りもあっていいところなのだがここまで混むと大変だ。午後遅く帰ることにした。
いつものこはくの天使に行くと上勝のO西氏が客人を連れてコーヒー豆の焙煎に来ていた。その後マスターお奨めの羽ノ浦の道を通って桜を見つつ何となく南に。結局195号線を相生まで。喫茶店カントリーロード前の国道が店裏に付け替えられて工事中。手前のラーメン屋はなくなった様子。
そのまま走って相生から日和佐へ。よく走りに行く道だが今日も上勝から出て行ったO川氏の車を見つけた。のんびり桜を見ながら日和佐の道の駅で休憩してさらに南下。大砂海岸の上で休憩してUターンして17時半頃に帰ってきた。桜は今が満開。勝浦も上勝に帰ってきても桜を楽しめた。
夜は宴会。K谷の花見に誘われ19時。見知った人ばかり20人弱ぐらいだったか。私は年齢が下から2番目。と言っても1番下は地域の自治組織「名」副総代。そのT氏や総代A氏や近所のH氏に町議H氏とか当家Y氏らとあれやこれや。でも次がれるままに飲んで酔って21時半頃に辞して帰ってきた。
大学時代の彼女は堺の寮を1年か2年で出て奈良の生駒に引っ越した。引っ越し先は私と2人で探した。大阪府下近鉄沿線の世帯用アパート1Fの部屋も見てみた。古くて階上でトイレを使うと部屋中に音が響くようなところ。結局生駒の女性専用マンションにした。1Fの一番奥の1Kだった。
後日共通の知人がそこに住んでいると聞き顔を合わせないように気を付けた。生駒からは近鉄を使い西大寺で乗り換え京都駅まで1時間ほど。京都駅からバスで25分ほどで私の下宿に来ることができる。だから彼女はよく京都に来ていたし私が生駒に行って泊まって帰るようなこともたびたびあった。
彼女のマンションから朝大学に行こうと西大寺で電車を待っていると奈良から通う同じサークルのY君と会って気まずかったこともある。2人で遊びに行くこともあったが貧乏学生であって寺社を回ったことはあまりない。ジェットコースターに初めて乗ったのはあやめ池遊園地で彼女と一緒だった。
徳島では彼女を送っていく途中に広島ランプの駐車場に駐めてよく話をしていた。彼女はなぜか中学を卒業したばかりの弟と母の3人だけで鳴門公園に行っている。母がカメラを開けて卒業式の写真が写ったフィルムを感光させて弟が怒っていたという話を彼女から聞いたから覚えているのだけど。
大学卒業前に別れた彼女と1988年のGW明けに話をして次に会ったのは10年半後の1998年冬。彼女から連絡をもらった恩師の葬儀のときだった。彼女は私の実家に電話をして母に名乗らず伝えたのだったか私の電話番号を聞いた上で連絡してきたのだったか。ともかく葬儀の場で顔を合わせた。
そのときだったか後日電話があったのだったか再び会いたいと言われて川内のマンショに来てもらった。人に見られないように配慮して私の車を来客用に移し奥の駐車場に駐めてもらった。彼女はこの日のために美容院に行ったのではないかと思うほど一本の乱れもない美し過ぎる髪でやって来た。
覚えているのは誘われていた福岡のD社に行くか社長から勧められていたJ社に復職するか相談したこと。その社長に恩があるなら戻ったらいいと思うと言われたが私は福岡に行くことに決めた。どこか車で連れて行って欲しいとも言われたが断った。私の態度を覚ったのか1時間もせずに帰った。
彼女は10年前の彼とは違う男性と結婚していたが母上は結婚式で衣装を着ている最中までまだ間に合うと言い続け反対していたと。その結婚の決断には私とのことが影響していたのだとは思う。後日あの日掛けていた音楽は何かと電話があったからエンヤだと伝えた。それが最後のはずだったのだが。
私は彼女のことが好きだったし信頼していた。だから彼女は人生を決める試験を前に一時的に不安定になって級友を好きになったと言っているだけだと頭では分かっていたのだ。でも心が付いていかなかった。考えるほどに悪い方に向かい辛く落ち込んでいった。考えなければ何ごともなかったのに。
彼女が無事に国家試験に合格し徳島で就職したと聞いていた1988年のGW明けすぐ。昼休みが終わった頃に研修中だった私に電話があった。驚いたことに彼女からで会いたいと言う。その日の夕食をどこかで一緒に取ったかどこかで待ち合わせて私の車に乗って鳴門公園に行って展望台で話をした。
新しい彼氏をGWに連れて来たところ皆から歓迎されなかったらしい。ご両親は私を信頼してくれていたから娘が私と別れたことに落胆していたとは想像できた。高校時代の親友からも「らしくない」と言われたらしい。それで目が覚めたのだろうか。だから私に電話をしてきたというわけか。
その時点で私は既に立ち直っていた。Y嬢のおかげでもあるし入社して環境が変わり研修のことで頭がいっぱいなときであって別れた彼女のことは心の中で片を付けられていた。結局彼女は後悔したのかも知れないが私の心は元には戻らなかった。その次に彼女と会ったのはそれから10年後だった。
大学時代に3年半付き合った彼女と30年前に別れたことは何度も書いてきた。私の人生で最大に落ち込んだ失恋だったがここに書いて何度も読み返してきたことが癒やしになったのかも知れない。あの辛かった気持ちは浄化されて今はむしろ彼女との楽しかった思い出の方に目が向いていたりする。
彼女は私の2つ下で大阪の専門学校に入学した初夏あたりから付き合い始めた。1984年のことだ。当時は堺の寮にいて東大阪まで通っていた。携帯電話はないしお互い電話は呼び出しだったから最初はGW後あたりに私が手紙を書いた。最初の頃は手紙のやり取りだけだったように思う。
彼女は2年への進級試験の8割の科目で追試になったと言っていたように思う。私は毎日手紙を書いて励ました。無事2年になってそれを聞いたご両親に呼び出され感謝されたのは松茂の加賀須野橋近くの喫茶店だった。そのご両親は夜間高校で知り合ったらしい。彼女はそんな両親を尊敬していた。
私は彼女のそんなところも好きだったのかも知れない。頭のいい子ではなかったが優しく素直で謙虚だった。思いやりが強すぎて試験前に級友のため奮闘した友人に好意を寄せたのだろう。真面目だから嘘が付けず私とは別れる選択をしてしまったのだろう。当時もそれは頭では分かっていたのだ。
徳島出身のシンガーソングライター米津玄師のことを以前書いた。最新作はTBSドラマ「アンナチュラル」の主題歌で「lemon」という。私はこのドラマを観ていなかったが今期最も皆の評価が高かったようだ。ドラマに興味はないのだが3月14日発売の主題歌を聴いて先日のカラオケでも歌った。
聴き込むうちにこの歌詞は私だと思うようになった。曲の中での「あなた」は男性で「わたし」が女性のような気もするしネットで検索すると「あなた」は死んだ恋人だという解釈がある。確かにドラマのストーリーからしても死者に向けたものとの考えが素直だし死者との対話のようにも読める。
でも私は私自身と過去の彼女の関係と解釈した。彼女とは30年前に卒業前の私を精神的に救ってくれたY嬢のこと。サビで2度歌われる「胸に残り離れない苦いレモンの匂い」の意味は最後に歌われている。「切り分けた果実の片方のように/今でもあなたはわたしの光」。苦いレモンを切り分けたような2人だったとすればそれはあのときの私と彼女じゃないか。
そうなると前半の「きっともうこれ以上傷つくことなどありはしないことは分かっている」「受け止めきれないものと出会うたび溢れて止まないのは涙だけ」「あんなに側にいたのにまるで嘘みたい/とても忘れられないそれだけが確か」も私と彼女のことに思える。この季節はいつも感傷的になる。
土曜は街に出てカラオケ。本当は昨年10月のメンバーで行くはずだったがT君が風邪を引いたと欠席。代わりに急遽S嬢を誘って17時半に迎えに行き4人で蔵本。何度か行っている潦(にわたずみ)。予約しておいたが意外に満席で驚いた。私は一昨年9月以来。会計のときに覚えていると言われた。
店を出で紺屋町地下駐車場に車を置き秋田町シダックスへ。と店の前に同じ住宅のF君がいる。「何やってるんですか」を連発されたが君こそ何の飲み会か。と思えば信号を渡ってきたのがM課長以下役場住民課の面々。同じ住宅のN嬢もいる。結局顔見知りの皆さんと同時に入店。彼らは2F。私らは4F。
歌ったのはチェッカーズ「ジュリアに傷心」backnumber「ハッピーエンド」「クリスマスソング」「幸せ」「花束」「はなびら」「ヒロイン」「世田谷ラブストーリー」「瞬き」米津玄師「lemon」「青と灰色」近藤真彦「愚か者」爆風スランプ「Runner」BLUE HEARTS「Train-Train」。
コブクロ「蕾」は合唱パートを覚えたのにT君欠席で急きょS嬢に歌ってもらった。全15曲か。24時頃に店を出たと思うが金比羅タクシーを呼んで3人には帰ってもらい私は一人で街をぶらぶら。結局BARATEIでカクテルを1杯飲んでママさんと話して先日の代行さんで2時半頃に帰宅したはず。
アマチュア無線局の更新申請は終わったものと思っていたら申請手数料の納付手続が必要だった。そう言えば1,950円の支払いはしていなかった。木曜にメールで問い合わせ番号というのが届いたから総務省のサイトに以前登録したIDとパスワードを使ってアクセスした上で問い合わせ番号を入力。
そうすると今度は収納機関番号と納付番号と確認番号という3つが表示される。ATMからペイジーで納付するときはこの番号を控えて行く必要があるらしい。ややこしい。私はインターネットバンキングで納付することにして納付番号をクリックすると金融機関を選択する画面に行く。
最初は三菱東京UFJ銀行を指定したのだがワンタイムパスワードの入力で挫折。iPhoneに三菱のアプリを入れていたのに既にこのアプリではパスワードの提供をしていないとか。これまた面倒な。もう一度最初からやり直して次は金融機関に阿波銀行を選択してみた。
ところが阿波銀行のIDかパスワードが違うと言われる。よく見るとパスワードは6桁らしい。今どき数字6桁のパスワードに驚きながらようやくアクセス。すると既に1,950円ほか必要な情報が表示されていて確認ボタンをクリックするだけ。ドタバタしたもののそれでも20分ほどで納付終了。
木曜はビールの空き缶144本と焼酎の空き瓶10本をリカオーに持ち込んで焼酎を1本だけ買いS神歯科に17時過ぎ。駅前に行きいつものCoCo壱番屋でカレーを食べて時間が余ったので先日行ったビリヤードに。私しかおらず店主と話しながら教えてもらいながら25分だけやって19時に「響」の練習へ。
最近車の中で米津玄師やback numberを歌っていたからか喉の調子が悪い。練習前にコンビニで「龍角散ののどすっきり飴」を買って舐めながら。団長が血圧計がいつも高めに出るから測定しなくなったと話して皆で大笑い。21時半より前に練習を終え帰ってみると地元の仲間たちが宴会中。
ソファ中央に座らされたが訊けば19時からの会合で19時半から飲んでいたらしい。私が帰宅したのが22時過ぎで既に皆は出来上がっている。このテンションに付いていけないのは昨年12月と同じだ。戸惑いつつ喉が悪いのであまりしゃべらないことにして皆の話を聞く。
会合には関係ないT君も来て皆が議論している横でソファチームで別の話をしていたり。最後は皆が喧嘩を始め怒って帰った人がいたりでも戻ってきたり。そしてさっきまで喧嘩していた人たちが泣きながら抱き合っているの巻。私は最後まで乗り切れなかったけどこの仲間たちが大好きなのだ。
中学2年のときのカノジョと中学卒業以来9年ぶりに再会したのが1988年3月29日にあった母校の定期演奏会の会場だった徳島市文化センターの楽屋。そして私たちが中学2年のときすなわち1977年の秋にあったことを10年半経って彼女が説明してくれた。
その内容は書かないが第3者が介在していたということだ。私は納得したし私の態度が引き起こしたとも思えたし彼女を守れなかったことも反省点だと理解した。でも所詮は中学2年のときの話である。お互い子どもだったよねと笑いあった。そして彼女の勤務先である我が母校を4月になって訪ねた。
1988年4月。職員室の彼女の席で話をしたように思う。場所を変えて話をしようと2人で母校を出て彼女の車の後ろを付いていくことにした。ところが正門前のバス停に合唱部の後輩がいる。3つか4つ下のソプラノの子なのだが大学時代のOB会の帰りに歩いて彼女の家まで送って行ったことがあった。
それで車を駐めて少し話をしていたら前を走っていたN嬢も待っていてくれたのに業を煮やして先に行ってしまった。電話番号を調べて電話したり自宅を探そうとしたが諦めた。それでN嬢とはそれっきり。次に会うのは「響」に参加した埼玉のK元と一緒に彼女が結婚していた11年後の広島だった。
火曜日は先日書いた壊れたステッパーをゴミステーションに持ち込んで捨ててきた。その足で小雨の中をビールと焼酎を買い夕方早めに上勝を出発。洋服の青山に寄ったが中井さんは産休。そのまま妻の出迎えに徳島空港。ロビーにいると元同僚でロシアのセキュリティソフトK社のY氏が下りて来た。
私には気づかず前にいた女性と並んで歩き出す。おや彼女はY氏の奥様か。2人が立ち止まり向き直ったから挨拶に行ってY氏と立ち話。彼女と会ったのは生原さんの葬儀以来。ほどなく妻が来たがY氏とは気づかなかったらしい。妻に彼女すなわち元妻を紹介するのも変かと思い挨拶もせず立ち去った。
そこから川内のK氏宅に行き彼を乗せて両国で下り彼に傘を貸し車は妻に任せ2人で飲みに。雨の中を店を探して結局秋田町の柚。話題は彼の今の会社の話。言ってみれば私は彼の仕事の悩みと愚痴の聞き役である。それにシングルファーザーであるK氏の女性関係の話など。ビールを5杯か6杯飲んだ。
次に先日行ったT氏のいるGOTO'S BAR。K氏によると私とJ社同期の松浦素子やT本氏ら数人で来たことがあると言う。全く記憶がない。ここを出てK氏とは別れ1人で上勝の有美ちゃんの店グラスホッパー。さらにロングバーで松浦マスターと昔話をして金比羅タクシーに乗ったのが3時前。6,850円。
中学2年で同じクラスだったN嬢と付き合うようになっ契機は何だったか全く覚えていない。ただ矢三にある彼女の自宅には夏休みに行ったことがある。午前中が合唱部で午後はバスケットボール部の練習だったようなとき昼休み時間に訪ねて母上が作ってくれた昼食を一緒に食べたりしていた。
鳴門の私の家に来たこともある。私は弟と2人の男兄弟で母は「女の子が欲しかったのよ」と言って彼女のことを歓迎していた。ピアノが弾けると聞きエレクトーンの前に座らせ何か演奏してと母が言って彼女を困らせてもいた。彼女はバスで来たはずだが私は一人で帰したのだろうか。
そんな付き合いだったが9月になって彼女は私に冷たくなり結局別れた。何と言われたか全く記憶はないしショックはあったのだろうけど中学2年のときのことであって引きずった記憶もない。ただ中学2年で男女の付き合いということを面白がったクラスメートの悪ふざけには参っていた。
そう言えば中学の修学旅行で最初に乗ったバスで私の隣の補助席に偶然彼女が座った。何となく持っていたカメラを向けたら顔を背けられて「そこまで嫌わなくても」と思った記憶がある。あれも修学旅行の思い出と言えば思い出だ。14歳だった40年前のこと。
これまでJ社を辞めた20年前や大学を卒業してJ社に入社した30年前のことは何度も書いてきた。では40年前は何をしていたのかと考えてみると中学2年から3年になるときだった。1978年3月は中学の修学旅行があった。記憶が薄れているが覚えていることを記録しておく。
まずバスで高松からフェリーに乗り岡山から寝台列車に乗ったと思う。朝になって着いたのは長崎。蛇踊りを見た。あとは阿蘇山に行った風景と別府温泉で間欠泉を見たこと。九州を離れるときバスガイドさんとの別れで皆が泣いていた光景。別府ではK嬢と2人でバスを下りた記憶がある。
私はクイーンをK嬢から教えられたからなのか「手を取りあって」とか4枚目と5枚目のアルバムの曲を聴くと別府温泉の情景をリアルに思い出していた時期があった。でも何度も聴くうち記憶も薄れた。あとは修学旅行で研究レポートの提出が必要だったが私の班は寝台列車について提出したこと。
班のメンバーだったN井が鉄道オタクで彼の案で彼が一人で書いた。後に灘高から東大に行った彼の原稿を班長だった私は少し直したのだが後から文句を言われた記憶もある。座敷の夕食でおかわりのご飯を受け取るときは座れと担任のタイマンが言った記憶も。残念なことに記憶は以上が全て。
大学を卒業して30年である。卒業式に出て下宿を引き払って徳島に帰ったのは1988年の今頃だったか。1月か2月の深夜から事故のように付き合い始めたY嬢と少しでも長く一緒にいたくて引っ越しは3月末ギリギリだったような気もする。でも3月29日には我が母校の定演に行ったのだから徳島にいた。
あの日は午後に定演会場の徳島市文化センターに行って楽屋を訪ねた。驚いたのは中学2年のときにカノジョだったN嬢がいたこと。カノジョと言っても中学2年のときのこと。キスはもちろん手を繋いだこともなく学校帰りにただ一緒に帰る程度の付き合いだった。3ヶ月ほどで別れたが。
彼女は高校は城北だったのになぜ市高の定期演奏会にいるのかと訊けば奈良女子大だったか大学を出て高校教師になって我が母校で教えているのだと言う。
それと勤務先の市高で試験監督しているとき私と同姓の男子がいて気になって訊いてみたら私の弟だと分かったとも言っていた。弟はその年に市高を卒業している。「似てるよね」と言われたがそうかな。中学2年のときのカノジョN嬢とはその後4月になって母校を訪ねてもう一度会った。
フィットのタイヤ交換とドラレコの妨害電波 (3月17日・土)
定期的なフィットのオイル交換を昨日やってもらった。今回のインターバルは5,478km。一昨年11月に前輪を冬タイヤに交換していて既にフォレスターを買っていたのでフィットで冬タイヤは不要かと思いそのまま履きつぶそうと使い続けていたのだが今回ようやく夏タイヤに換えた。
それより一昨年11月の同じときにドライブレコーダーを取り付けたらFM放送の入感が落ちた。上勝でもFM徳島やFM大阪は普通に聴けたのにノイズだけ。車内では「響」の音取り音声をICレコーダーで聴くことが多く妻はHDDの音楽が中心でFMラジオは重要ではなくなっていたのだが。
それでも元ある機能が使えないのは何だか悔しい。フィットを使っているときにラジオの情報が欲しいときもあるかも知れない。対策を考えて欲しいと伝えて1年半。原因はドライブレコーダーの電源ケーブルからFMアンテナケーブルに混線していると思っていてシールドで対策すると聞いていた。
でも原因は後ろに付けたドライブレコーダーが妨害電波を発していたからだとか。とりあえずブースターを付けてノイズ交じりながら上勝でもFMラジオは入感するようにはなった。でも妨害電波をまき散らしているとすると周辺にも迷惑を掛けているかも知れない。抜本的な対策を取るかどうか。
私が住む上勝町を舞台にした映画が数年前に制作された。映画の公開は2012年9月のことだったらしい。町内での撮影は2011年にやっていて役者を見かけたり撮影現場を通りかかったり。この映画「人生、いろどり」には何人もの町民がオーディションを経てエキストラとして出演している。
消防点検などのときにご近所でエキストラとして参加した人たちから失敗談なども聞いたしラストシーンの花嫁行列には妻も行列を見守る町民役として参加している。でも私は映画館はもちろん町内で開かれた上映会にも参加したことがなく観ていなかったのである。
先日ふと思い出して検索すると既にDVDが販売されている。地元の映画だし知人が多数出演しているし高いものでもないのでレンタルで観るのではなく買うことにしてポイントが付くヨドバシ.comで注文。取り寄せという状態だったが今日になって届いたので早速夜になって観た。
エキストラ出演場面では一時停止して誰がいるかを確認するといった見方。当時NGを出したと聞いたシーンはこれかと思ったり。エンディングロールでも皆の名前を確認した。知っている場所や景色や人がいっぱいだったし物語そのものにも感動した。いい映画だったと思う。
ステッパーが壊れた。足で踏み込んで運動する器具である。この日記で検索すると2005年3月に買ったという記述があった。 このステッパーは踏み込むと上下だけでなく左右にも動く。踏み込みながら捻り運動が加わる。それがあって太ももの前面に加えお尻の筋肉にも効いていたように思う。
踏み込むときの負荷は器具の中のオイルが担っていたのだと思う。そのオイルが漏れるようになってきた。1年ほど前に器具の下にオイルが漏れているのは発見していてその後も使ってはいたのだが先日また漏れた。踏み込み始めがスカスカになって力を入れるストロークが短くなった。
さらに左ステップを下ろすことで動作するカウンターが付いているのだがこれがガツンと下に当てないと動かなくなった。下に当てると音が出る。これがうるさい。ただ歩くだけよりも運動効果が高かったからこれを使って増えすぎた体重を何度も落としてきたのだが処分するしかなさそうだ。
春になり運動をしようと思ったところでこの始末。外を歩いたりジョギングするには近所の道に歩道はなく危ないような気がするし暑い中で運動するのも気が向かない。エアコンの効いた部屋でできればベストだが新しく何か買うえば場所も取るし出費も掛かる。さてどうしよう。
アマチュア無線局の免許状は5年ごとに更新手続きが必要で先日この案内はがきが総務省から届いていた。私のコールサインJH5ASQの無線局免許は10年前に再取得したのに一旦失効させてしまい5年前に再申請。その免許の有効期間が今年10月30日まで。今回は忘れないように申請しようと思った。
案内はがきによると従来通り書類で申請すると3,050円だが電子申請だと1,950円という。PCからネット経由で手続きできるのだから当然電子申請を選択。今日はがきでIDとパスワードが届いた。総務省の電波資料電子申請・届出システムLiteというサイトにアクセスしてまずはパスワードを変更。
免許の有効期限まで6ヶ月もあるが再申請してもいいのか念のため確認すると無線局の更新は1年前から1月前までらしい。このサイトでは必要事項を記入するのだが免許番号を入力すると名前や住所を含めほぼ全ての項目が自動で埋められた。意外に分かりやすく便利である。
免許状の受け取り方法は窓口に行くというのと返信用封筒を郵送するのと受取人払いサービスを利用するのと3つある。受取人払いだと520円かかるが便利なのでこれを選択。あとは電波利用料の請求が来るはずなのでそれを5年分前納するだけだと思う。あっさり手続き完了。
通帳&カードケースを買った。とりあえず個人用。普段持ち歩く荷物を減らしたいと書いた対策の第一弾である。あまり使わない阿波銀行の通帳ケースが破れて一緒に入れているカードが抜け落ちる危険があったのでこの機会に4通の通帳と8枚のカードが入るタイプにした。248円。
これで財布から2枚のキャッシュカードを移すことができた。会社用にも三菱UFJ銀行とゆうちょ銀行のケースがボロボロなのでこの機会に少し高めの700円のもの。こちらはまだ到着していないが私の財布からキャッシュカードを3枚移動させることができる。
個人用も会社のものも通帳を持ち出すときは記帳または振込のためが主であってキャッシュカード単独で使うことはないので財布に入れないと割り切ることにした。さらにカードケースも買った。これもまだ届いていないがどれだけ移動させることができるだろうか。
財布には現金と一部のクレジットカードに絞ろうかと考えている。だとしてもショップカードや主ではないクレジットカードも必要なときにないのでは困るので普段から持ち歩いておかないといけないわけだがバッグに別途入れておけばいいのではないかと。しばらく試行錯誤するつもり。
カラオケで歌おうかと思った曲の中で音源を聴いただけではよく分からないものがある。こういうときは楽譜を確認した方がいいのではないかと思いつき検索してみたら1曲単位でダウンロードできるサイトがある。プリント楽譜というのだが著作権は大丈夫かと疑ったのだがヤマハが運営している。
それなら問題ないだろう。同じ曲でもボーカル版のほかピアノ版やエレクトーン版などがある。同声3部合唱版や混声3部合唱版も。そうしたものは編曲があるからだろう値段が高い。でもボーカル版だけなら162円。全然安いではないか。そんなわけで早速ダウンロードしてみた。
ダウンロードというよりWebブラウザに表示してそれを印刷するというシステムだと思う。おそらく著作権管理のシステムが動作しているのだろう表示には驚くほどの時間がかかる。むやみにファイルダウンロードを禁止する姿勢には賛成なので表示されたものを印刷。
ところがA4縦の設定なのに横向きに印刷され一部が切れている。画面上に設定できる項目はなくFirefoxが悪いのかとIEで試した。敢えて横向きにしたらまた失敗。ダウンロードは3回までと表示があり焦ったが3回目の印刷でA4縦で普通に印刷完了。トラブルはあったがなかなか便利なサービスだ。
今朝PCの電源を入れたらWindowsロゴで固まっている。電源を強制オフして再起動させたが復元ポイントで復旧できず。でも次の起動で普通に使えるようになった。このPCも買ってから既に5年超。妻のPCは昨年6年で壊れたとき換えどきを逸していたと反省したわけで私のPCも検討する時期だ。
ただインテルCPUのバグ問題が気になる。新設計に切り替わってからの方がいい気もするがどうなんだろう。ともかく仕事のデータはクラウドに同期させた上でNASにもバックアップするなど対策は取っているがデスクトップのデータなどをこまめにコピーするように気を付けようと思う。
最近動作が遅いと思うことも増えたがAmazon Musicでずっと音楽を再生させているのでこの負荷があるのかも知れない。使えるところまで使うならインターフェースの肝にあるキーボードを新調しようか思ったり。前に書いた一太郎専用モデルは不要だがベースモデルを買おうかと悩み中。
一方JUST My Shopから7インチモニターのDMメールが来て興味を持った。ただ7インチはいかにも小さい。そこでGPUの端子は3つあるから古い17インチを3台目として接続しようとした。ところが何をやっても表示されない。よくよく調べるとNVIDIAのGPUの対応モニターは最大2台だった。残念。
所得税及び復興特別所得税の確定申告。先月末に国税庁のWebサイトから記入して申告書を作成して今週日曜の「響」の練習後に徳島税務署の夜間ポストに放り込んできた。申告書の作成自体は毎年のことなので慣れたものだが昨年は収入が私たちの会社からの役員報酬だけだった。
いつもは町だったり会社の役員報酬以外の何かしら少額の収入があったのだが。だからなのかも知れないが今回は税金が還付されるのではなく納付することになった。9,200円。何だか悔しい。何か控除できる材料は他になかったものかと探してはみたのだが。
自宅の地震保険に入っているはずなのに控除証明書が来ていないとさんざん探してみたら火災保険主体のもので地震保険ではなかった。医療費控除は10万円も使っていないしセルフメディケーション対象の領収書はあるのだが昨年中の健康診断受診記録が必要だとか。そんなの受けてない。
納付するしかないと諦めたのだがその手続が面倒だ。と思っていたら何とクレジットカードも使えるらしい。そんなわけでカード番号を登録。手数料が82円かかるがクレジットカードのポイントで1%分92円が付くはずだからこれが正解ではないか。手続きはこれで終わったはず。
4日(日)の尺八公演に行った夜は「響」の練習だった。ところが18時を回ったあたりで停電。窓から見ると周辺の人も表に出ている。通町や八百屋町に一番町など一帯の電気が消えたらしい。徳島駅前も停電だったと友人のツイートでも確認 。練習会場は30分で復旧したが原因は何だったのだろう。
その前は2時間近く空いていたので団長とビリヤードに行ってきた。以前練習前に時間が空き駅前から郵便局を経由して新町川沿いを歩いていて見つけていた店。今まで目に入っていなかったのだが両国橋からすぐ。団長は大阪での教員時代によくやっていたといい私はプーケット以来18年ぶりか。
J社時代は部下のN嬢が大学のとき末広ボウルのビリヤード場でアルバイトしていたことから彼女と一緒に何度か行った。日経パソコン編集の南浦さんが取材で来た夜3人で行ったこともある。90年代後半には近所にあったキョーエー文理大前店のビリヤード場で1人で遊んでいた時期もある。
プーケットでの記憶を除けば20年以上ぶりに持ったキューは持ち方から復習。ルールも細かなところは店の人に聞いて結局9ボールを10ゲーム。私が7対3で勝った。1時間半ほどいて1人900円。なかなか思い通りにいかないことも含めて楽しめた。「響」練習前にでも1人で行ってみようと思っている。
5日(月)の山本邦山襲名披露特別記念JAZZ LIVEのGOTO'S BARを出たのが24時前。始まりが21時半だったから2時間近く演奏をしていた。19時半始まりの第1部よりお得だったかも。関係者や出演者と話をして表に出て運転代行を探した。馴染みの代行さんが引退したりしたので新規開拓だ。
そのつもりだったが月曜だからか少ない。そう思いつつ栄町に入って目に入ったのがBar Trintaの看板。以前は秋田町の東にあって20年前までプライベートでよく行っていた。当時のマスターは若く亡くなったと聞いていたので酔っていたしこの機会に関係を聞いてみようと扉を開けた。
カウンターに若者が男女3人。お店の女性と話すと亡くなった元マスターの知り合いで店を継いだと言う。彼は肺がんで悪くなってすぐ亡くなったと。数年前48歳ぐらいか。と隣の若者3人組の手前にいた若い女性が話しかけてきた。それまでの彼らの会話で彼女が25歳だということは分かっていたが。
亡くなった元マスターと一緒に仕事をして鍛えられたのだと言う。どう見ても沖縄人だった彼は高橋秀一という名前だったらしい。彼のことを覚えておいてあげようとか元マスターを偲んで若い彼女と少し深い話をした。帰りに拾った代行さんが同い年で「太陽にほえろ」で盛り上がり2時過ぎに帰宅。
日曜の尺八公演に感動して3,000円の入場料をタダにしてくれたこともあり「響」団長と6日(月)はライブにも行ってきた。19時前に紺屋町地下駐車場に駐めたら地元の消防団K分団長の軽トラが来てびっくり。ひとしきり話をして時間調整して19時半に落ち合い団長お奨めKitchen Hiroで夕食。
そこからBar Hogsheadでビール。21:15頃にライブ会場のGOTO'S BARに行った。「響」元団員M君が最前列に。素性は書けないが2年前に知り合ったT氏がスタッフでいて入場料6,000円を支払い最前列左端。ほどなく昨日水色の着物だったJ社元社長秘書K川嬢が来て遅れて三味線の吉田房代も。
2代山本邦山の尺八も2人のギターも良かったが中島みゆきなどのバックバンドで演奏しているというソプラノサックスが素晴らしかった。徳島の女性クラリネット奏者の演奏も。驚いたのは徳島県議会議長木山氏の尺八。JAZZの名曲をギターと一緒に演奏したが高齢にも関わらずJazzyで良かった。
終えて2杯目ビールを飲みながら吉田房代とK川嬢を紹介したり吉田大介の若く美人の奥様と木山議長に挨拶したり。素性を書けないT氏と話しながらビール3杯目。最後は2代山本邦山氏とギター氏と挨拶。山本氏は同じ歳だった。T氏は月火にアルバイトだと言うからまた行こうと思う。
また1日遅れの日記だが5日(月)は地元の傍示八幡神社に行ってきた。春の例大祭でだんじりと呼ばれるお囃子をやるのだが人が足りないらしい。昨年秋にデビューしたばかりの私に声が掛かったのは1日の消防点検の夜だった。午後は妻の迎えがあるがお祀り事である。「行きます」と返事した。
10時から準備して10時半から叩き始めるというので雨の中9:50頃に行ってみた。拝殿では神社総代とお当夜さんらがお祓いを受けている。表でN嬢と雑談して拝殿に上がったのが10時頃。多分10:20前には演奏を始めたと思う。私はN嬢と向かい合って大鼓。カンニングペーパーを見ながら何とか。
変拍子の1回目は叩き忘れが1カ所。回を重ねると緊張が増し失敗カ所も。でも破綻はなく終えた。その時点で10:38。その後は例大祭の祭事ということで神社総代の3人とお当夜の3人にだんじり組が9人だったか。玉串の扱いについて神官から事前に説明を受けたが自分もやるとは知らなかった。
こうした神事を見るのも開いている本殿の中を見るのも初めて。玉串拝礼は最後に。終えて携帯電話を見ると11:38。1時間弱の祭事だった。皆は拝殿で食事をするようだが私は妻の迎えがあったので退出。5ヶ月ぶり2度目のだんじりも例大祭への参加も貴重な経験だった。ありがたいことだ。
土曜の消防分団総会後に飲みに行くのを控えたのは日曜午後の予定で居眠りをしたくなかったからだ。尺八奏者の人間国宝・故山本邦山の息子が二代目を襲名した徳島公演。ここに中学合唱部の2つ後輩の吉田房代さんも出演すると「響」団長から誘われ行ってきた。3,000円は高いなと思いながら。
吉田房代さんはリクルートから東大に転じ9年前に社団法人を作っていた。その頃メールでやり取りした記憶がある。ちなみに彼女は私の同級生で訪問診療医で成功している吉田大介の妹。12:15に団長と待ち合わせていたが開演は14時ということでS神歯科に車を置きcha-chaハウスでパンとコーヒー。
あわぎんホール入口で吉田大介の奥さんから受け取ったチケットは無料になり12列という最高の座席。元同僚K川嬢が着物を着て来ている。第一部の邦楽はともかく第二部の東京芸大の学長先生のバイオリンと尺八の演奏は素晴らしかった。国内有数のバイオリン奏者の演奏を聴けただけで十分。
次はギターと浴衣を着た女性ピアニストが登場。ピアニストが浴衣をまくり上げ驚いていたらカホーン。これが良かった。プログレッシブロックじゃないか。尺八とギターとピアノと女性ボーカルには感動して涙が出た。何でも行ってみるものだ。意外と言っては失礼だが素晴らしい演奏会だった。
3日(土)は地元消防団の我が分団の総会があって徳島市に行って来た。今までは歩いて行ける地元で行われていたのだが今年はバスの送迎でホテル千秋閣。徳島市役所の南にある古いホテル。というより宴会場として知られていると思う。役場の職員組合などが多く利用しているらしい。
バスのところに17:15頃に行ったら既に数人がいて合計20人が乗って17時半出発。現地集合した人も含めて28人。宴会は2時間だがその前に活動報告と会計を承認する必要がある。時計を確認していたのだが18:38に始まり18:50終了。12分。新規に2人が班長になり私は機械班長を仰せつかった。
宴会にはコンパニオンのお姉さんが4人。そのうちの1人と私の隣にいたY氏が仲良くなって盛り上がって下ネタ言い合って楽しそうなの。料理も美味しくビールが進む。2時間制ということで21時終了。皆でバスに乗り何人かが秋田町で下りた。私は飲みに行こうか帰ろうか。
結局左隣に座っていたT君を誘って2人で分派行動。カラオケで2時間歌いまくり。前には歌えなかった米津玄師もあった。back numberは最近よく聴いている曲を歌ってみたが酔っていたからか高音も出ないし音程は安定しないし。23時半前に店を出て金比羅タクシーで帰宅。6,920円。
back numberのベストアルバムを買って全曲を何度か聴いてカラオケで歌いたいと思うものは既にピックアップした。CDからiTunesに取り込んでファイルをコピーしてPCの前でいるときはAmazon Musicで聴いているし車に乗ったときもCDからSDカードに取り込んだデータで聴いている。
カラオケでよく歌われるランキングは参考にしたが結局いい曲だと思うものはランキングの上位曲と重なる。このベスト盤で一番いい曲だと思うのが「幸せ」という女性の失恋を描いた歌詞。そもそもback numberにはまったきっかけが「ハッピーエンド」でこれも女性の失恋の歌。
back numberは歌詞が女々しいと評されるように女性を追いかける男の情けない気持ちを歌った曲が特徴だと思うのだが女性の失恋歌もあるし別れた男の気持ちを歌った曲もある。でも男の失恋歌には感情が入らない。私とは違うパターンだとか私ならこうは思わないとか違いにばかり目が向く。
平井堅の恋の歌を面白くないと思ってしまうのも同じ理由かも知れない。一方で女性の失恋歌は難なく感情移入できる。自分のことと捉えることはできずただ歌にある彼女の気持ちを慮ることができるのだろう。もしかすると逆に女性が聴いて泣けるのは男の失恋歌の方だったりするのだろうか。
J社で広報担当だったときインタビューの上手かった記者さんも記録しておく。1人は私が師匠だと勝手に思っている日経の渡辺洋之さん。2人目は当時は日経コンピュータ編集にいた平田さん。渡辺さんは早稲田の数学科だが平田さんは京都大学の数学科出身。数学科の人の頭の良さは際立っている。
平田さんは大型コンピュータが得意だったからあまり接点がなく2回ぐらいしか会っていないのだがテンポ良く短い質問を繰り出してリズムに乗せられるといった趣きだった。小さなメモ用紙を次々めくっていた印象もある。もちろん当時はICレコーダーやカセットテープを使うような人はいなかった。
3人目はソフトバンクPC-WEEKの武本氏。大阪の旅館の息子で香川大時代に徳島にはよくナンパに来ていたらしい。後にネットランナー編集長になり独立するが少しオドオドしながら興味の塊のような態度での質問には皆がつい乗せられてしゃべってしまっていた。無知なフリが本当に上手かった。
4人目は日経パソコン当時の佐藤新さん。私の10歳下。新卒1年目ながら慶應大学湘南藤沢出身でコミュニケーション能力の高さは群を抜いていた。日経BPで女性社長になるとしたら彼女だと思っていたが今は上海でITベンチャーに関わっている。彼らとの付き合いで私もずいぶん刺激を受けた。
スバル阿南店の担当営業から半年点検の時期だと連絡をもらったのは山火事の現場でホースを運んで山から一旦下りたところだった。今週になって架け直し今日タイヤ交換も含めて行ってきた。山に住んでいるのでタイヤ交換にはまだ少し早いかも知れないと思いつつ。でもさすがに春の陽気で。
昨夜は春の嵐だったが今朝未明に強い風で目が覚めた。鉄筋コンクリート3F建てのマンションの部屋の戸がガタガタ音がするのは台風のときも含めて初めてだと思う。といっても被害はなく12時頃に出かけるときは素晴らしくいい天気だった。杉花粉が飛んでいるのはよく分かったが。
いつものこはくの天使で昼食をとりスバル阿南店に着いたのが13時半過ぎで洗車を含めて終わったのが15時過ぎ。18時からは毎月1日恒例の消防点検。春の防災週間とかで中学の同級生F氏運転の消防車助手席でアナウンスしながら地区を回った。終えて6人で飲み始め最後は4人だったか。
町内を回っているときに菖蒲忠男さんが亡くなっていたことを聞いた。何週間か前のことで既に家族だけで葬儀を済ませたと。90歳前だったが私が移住してすぐ知り合った人であって何度か野菜をもらったりした。最後に会ったのは高鉾郵便局での昨年だった。高齢だったがしっかりしていたのに。
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© 2018 Takashi INAGAKI