2006年4月

パスポート (4月30日・日)


このゴールデンウィークは多分どこにも行かないと思う。 妻の調子も悪かったからこそ計画を立てるべきだったが何もしないうちに休みになってしまった。

唯一つい最近になってシンガポールに行こうかと思っていた。 直近になってツアーに空きがある海外旅行がシンガポールぐらいしかなかったからだ。 実は従兄弟がシンガポールに赴任していて彼を訪ねるのも一興かとメールも出した。

一部上場の大手企業の現地法人でCFO(最高財務責任者)をやっている。 徳島生まれで私と同い年。 小学校3年生ぐらいまではよく遊んだ。 6年ぐらい前に彼が結婚したとき東京にいる従兄弟は私と彼だけだったから夫婦で何度か会った。 そんな仲だ。

メールの返事が奥さんから来て本人からも届きツアーを調べ始めていた。 その段になって初めてパスポートを見たら期限が5月16日。 期限まで半年などの制限があるからいかんともしがたく。 結局あきらめるに至ったという顛末である。

『ウェブ進化論』 (4月29日・土)


梅田望夫『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)。 話題の書である。 既にベストセラーでもある。 今になって読んだが今年最高の本だと思う。

これまでも新しい概念やコンセプトをかざして話題になる本は多々あった。 それらはしかし誰かが向かわせようとする意図が入っていたようなものが多かったような気がする。 が『ウェブ進化論』は本物だ。 目次から拾うと「グーグル − 知の世界を再編成する」「ロングテールとWeb2.0」「ブログと総表現社会」「オープンソース現象とマス・コラボレーション」など。

「インターネット」「チープ革命」「オープンソース」が次の10年への3大潮流だと著者は言う。 丁寧に業界動向を追っていれば誰でも断片的には知っていることだとも思うが系統立って論理的に書かれているのが最大のウリかも知れない。 構成が素晴らしい。 具体例も豊富でとても分かりやすい。 その説明には飛躍がなく論理にごまかしがない。 一般の人に向けて書かれているのだろうが専門用語もきっちり使われ好感が持てる。

この本は現代における思考のベースだと思う。 この本を共通認識にした上で議論すべきだ。 IT業界はもちろんメディアの人にとっても現代の必読書だと私は思う。

テキストエディタ (4月28日・金)


いわゆるテキストエディタを私は使ったことがない。 Windows附属のノートパッドやメールソフトのエディタを使うだけ。 かつて前職時代は何でもかんでもワープロソフト「一太郎」を使っていたからエディタは必要なかった。

このサイトはHTMLを直接記述しているがエディタとして使っているのはWindows附属のノートパッドだ。 ところがノートパッドは扱える文字数(またはファイル容量)に制限がある。 長めの日記を書き始めたらバックナンバーのページが制限に達してしまったようで開けなくなってしまった。

今までも妻のサイトで月末になると同じ状況になった。 そのときは基本はノートパッドにしながら緊急避難的にワードパッドを使っていた。 しかし今回は自分のサイトで限界が来てしまい仕方なく標準エディタをワードパッドに変えることにした。

ところが文字入力と上書き保存されできればいいだけなのにワードパッドは素直でない。 上書きのたびに「書式が失われるがいいのか」と聞いてくる。 面倒なことこの上なし。

かつて何度もユーザーさんから聞かされたことを思い出す。 もっと軽い一太郎をなぜ出さないのか。 テキストエディタ程度でショートカットを一太郎を基本にしたようなものを。 本格的な原稿執筆には私は今も一太郎を使うが機能が多すぎて逆に面倒。 そう思うと辛うじてまだ残っているファンの要望にどうして応えないのだろうと思う。 かつてユーザーさんに問われたことだが今は私自身がそう思う。

就職活動 (4月27日・木)


せっかく思い出したので忘れないように昨日の日記の続きを記録しておこうと思う。 日経BPの会社見学に行き1週間ほど東京で滞在して京都に戻り4月1日に大学に行ったときのことは忘れられない。 4月1日に成績発表が行われる。 学部事務局に行き渡された成績表には「卒業研究に着手することならず」と書いてあった。 最終学年に至るまで必要な単位100に対して私は97しかなかったのである。

留年が決まった年の夏頃に入社試験の案内が届いた。 電話をして事情を話し試験を辞退したことも覚えている。 会社見学に行っていたのはもう1社あって同じ頃に試験案内があって同じ頃に辞退したと思う。 気の早い就職活動も考えものだ。

次の就職活動は間違いなく最終学年に上がってからの5月頃から始めた。 といってもリクルートブックに載っていた徳島の会社の説明会に行っただけだ。 大阪梅田の丸ビルであった。 数週間すると面接に来ないかと案内があってフェリーに乗って東大工町の三木ビルに行った。 簡単な適性試験と面接を受けたらあっさり合格だと言われた。

その後1月半に渡り悩みに悩むのだが結局のところ入社を決めた。 そんなわけで私の就職活動は2年に渡って3社のみ。 試験を受けたのは1社だけ。 それで入った会社は少なくとも最初の5年は面白かったから良しとしている。 当時はバブル景気の初期の頃で電気系工学部生は引っ張りだこだった。 だからと言って別の会社も見ていれば良かったなどとは考えない。 結局のところ私は今も当時も面倒なことが嫌いなのである。 むしろ私の身の丈にあったところで良かったと思う。

日経BP社 2 (4月26日・水)


日経BPの新しいオフィスに行ったことを昨日書いた。 今までいくつかのビルに通った。 半蔵門の前はYMCAビルだったか。

日経BPに最初に行ったのは大学4年の終わりだった。 誤解なきよう補足すると私は大学6年まで行っているので正確に言うと卒業2年前の春休みだ。 まだ1年後に卒業すると思っていた3月である。 京都からの往復交通費を負担してくれると言うので入社希望の学生として会社見学に行った。 当時は日経マグロウヒルと呼ばれていた。

東京では当時西武新宿線の井荻駅にあったニシノ説論者の下宿に泊めてもらった。 当時の日経マグロウヒルは小川町だったはずだ。隣の地下に喫茶ルノアールがあった。 会社見学のオフィスでM氏を発見してお互い声を上げて指を差し合ったことも覚えている。 M氏は私が高校時代に徳島大学の学生だったアマチュア無線仲間。 このときは連絡を取り1晩だけ泊めてもらった記憶もある。 すっかり私は忘れていたが渋谷でお好み焼きを食べたと後にM氏から聞いた。 M氏の部屋には分解途中の電話機が何台か転がっていた。 「洗濯屋けんちゃん」という裏ビデオを初めて見たのはこの夜のことだ。

会社見学では総務の高橋さんという方が案内してくれた。 住居手当がないから実家から通う人が金銭的には有利だという話をなぜか覚えている。 10人ぐらいの学生が自己紹介したが学部生は私を含め2〜3人だけだった。 あとは早稲田慶應東京工大などの大学院生。 旅費まで出してもらって地方から来た学部生は私だけ。 場違いなところに来てしまったと思ったものだ。 後に日経BP社の人たちを仕事をするようになって時々思い出す私の青春の一つである。

日経BP社 (4月25日・火)


仕事で日経BP社に行ってきた。 昨年移転してから初めて行くビル。 駅に直結しているが改札からは歩く。 それよりエレベータが遅い。ほとんど各階停車で時間がかかる。 用があった階まで一度上がったけど4Fでの受付が必要と再度エレベーター。 これがまた来ない。乗ると遅い。

今までは勝手に編集部フロアに行って相手を見つけて声をかけて話をするようなスタイルだった。 下手をすると勝手に机の横まで入って行っていた。 少し遠慮したときは入口近くの人に取次を頼む。 たいてい入口付近で見ていると誰かが気づいて向こうから話しかけてくれていた。 話をするのも新聞や雑誌が山をなした4人がけテーブルを囲む。 いかにも編集部らしい雑然としたスペースを使っていた。

ところが今回は案内されたのが20人弱が入れるような会議室。 その手前に4人用テーブルが2〜3。 普通の会社の会議室である。 オフィス内は広いフロアで隣の編集部との境目もなさそう。 隙間から覗いたら通路はだいぶ広くなった様子。 つまり普通の会社風。

エレベーターホールで旧知の記者さん2人には会ったが敷居が高くなって行きにくい。 受付の人も丁寧に仕事をしようとしているのか効率が悪いように見えた。 勤務先その1とは地下鉄乗車10分。 前後を含めても20分強で行けるから時間距離は変わらないのに隔たりを感じる。 それでも慣れるのだろうか。 行く用もこれまでほど多くなさそうだし結局のところ慣れないような気もする。

同期 (4月24日・月)


徳島から出張に来た友人K氏が私のところに寄ってくれた。 前職時代の同期である。 目的があったようでもなかったし特に何を話したわけでもなかったが妻のことを心配してくれたのだと思う。 申し訳ない。簡単に現状の報告だけをした。

近くで昼食。その後コーヒーショップに入り雑談。 通路から離れたところに座ったつもりがエスカレーターから丸見えの場所。 そうこうしていると近所に勤める別の同期E氏が通りかかった。 近所にいるだけに彼とはよく会う。という話をしたばかりでやっぱり会った。 入社1つ下のF氏も一緒。

話題は自然に昔の仲間のことへ。 あの人と会ったこの人はこうしている。 そんな類の話。登場人物は15人ぐらいになったかも。 今日は熱っぽく朝も午後も怠かったがこのときだけは元気だった。 気を遣わなくていい仲間と話することは楽しいもの。

『日本を滅ぼす教育論議』 2 (4月23日・日)


『日本を滅ぼす教育論議』で納得した例を紹介する。 学校教師とは子供に教育を行う専門職と言える。 教師はさまざまな知識や手法を通して子供に学ばせることが仕事の目的である。 その教師を育てる大学教員はどうか。 同じく専門職だと言える医師と対比するとよく分かる。 医師はさまざまな知識や手法を通して患者の病気を治すことが仕事の目的である。 その医師を育てる大学教員も医師であり患者を治す仕事をしている。 ところが教師を教える教育学部の大学教員は子供を教えたことがない。 これで子供に学ばせる知識や手法を教育学部の学生に教えることができるのだろうか。

もう一つ。 大学の入学試験問題を大学教員が作成しているという矛盾について。 高校で学ぶ内容は決められており教科書もある。 本来は高校での学習到達度によって大学入学資格が与えられるべきだろう。 そのためには高校教員または第三者が到達度試験を作成するのが正しいはずだ。 が大学入試問題は高校教育の素人である大学教員が大学個々に作成している状況にある。 これでは高校で学ぶべき学習よりも大学受験に特化した勉強をするのは当たり前である。

教育論議というよりは常識を疑ってみる意味を教えられる本である。 極端な事例もあって反発もありそうだが極論は理解の助けになる。 退職したから言えることでもあるのだろう。 皮肉な見方をすればこれほどの意見を持つ課長がいても行政システムは変わらないという証明とも言える。

送別会 (4月22日・土)


金曜日は今年2つ目の送別会だった。 勤務先その2の法律専門家K氏が主役。 お父上の体調が悪いとかで生まれ育った名古屋に帰るというのが理由。 放送局に勤務することが決まっているそうだ。 ボスが夜のうちに成田に向かうとかで早めの18時から神楽坂。

9年以上いたらしい。 私の前職時代とは重なっているがその頃の記憶はない。 それにしても彼が辞めた穴は大きいと思う。 だから送別会は涙になるかと思ったら全く気配がなかった。 そういえば仕事では厳しかった。 部下への容赦ない叱責が数十分も続くことを聞くこともしばしば。 最後の挨拶も自信と皮肉が混じっていたように思う。

警察と日々仕事をしているM氏が彼に絡んだのが印象に残る。 よく喧嘩もしていた2人。 それでも絡み酒もM氏の惜別の情と私には見えた。 愛すべき素晴らしいキャラクターだと私は思う。 M氏の気持ちを酌んで私は笑って聞いていたが脱線もしていたようだ。

名古屋に帰る理由をボスが説明しているところで私がニヤニヤしていたと1次会の直後にK氏から笑いながら咎められた。 でもそれは建前だとは多くの人が知っているって。 それが正しい選択だともみんなは知っているはず。

2次会はカラオケ。仕事の仲間とカラオケに行ったのは数年ぶり。 帰りは最後まで付き合っていただいた顧問弁護士さんと同じ路線で話しながら。 主役のK氏は赤坂に向かった。 多分そう遠くない将来にどこかで会うと思う。 そのとき彼は「放送と通信の融合」のキーマンとして登場するだろう。

『日本を滅ぼす教育論議』 (4月21日・金)


岡本薫『日本を滅ぼす教育論議』(講談社現代新書)を読んだ。 著者は元・文部科学省で課長職にあった人物。 文化庁著作権課長としてパーティでのスピーチを聴いたことがあるとは前にも書いた。 『著作権の考え方』も面白かったがこの本も読む価値が高い。

教育にはマーケットや需給の発想がないとか世界の国の中でいかに特殊かが具体例とともに記されている。 教育システムの特殊性はしかし悪い面ばかりでもない。 例えば結果の平等は悪ではないと著者は説く。 義務教育とはある一定の教育成果として結果の平等が求められるもののはずでそれが教育を受ける権利の保障であると言う。 全ての子供たちに必要な結果の平等とそれ以外すなわち機会均等でいい部分を区別していないことが問題の本質であるという論である。

あるいは欧州は階級社会であって子供が大学に行けるはずがないと親が最初から考えるために受験戦争がないという事実。 米国は何歳からでもやり直しが効く社会であって大学に入る機会は均等だが成績が悪ければ卒業できないだけで受験戦争がないという事実。 欧州の大学は心を磨く場であって工学部など実務は軽んじられるが日本は小学校で心の教育が言われ大学が実業教育になっている違い。 といった国や歴史や宗教による差が紹介されている。

目的と手段が混在しているとの批判は的を射ている。 やってはいけない行動の決まりであるルールを教えずモラルの問題だと心の教育を言う不合理。 目から鱗が落ちる。 やや単調で構成がいいとは思えないが親を含め教育に関係する人は必読だと思う。

『理科系の作文技術』 (4月20日・木)


木下是男『理科系の作文技術』(中公新書)。 大学に入学したとき必読書に指定されていたのだと思う。 もちろん大学時代に読んだ。 なるほど文章とはそう書くものかと勉強になった記憶がある。 ふと思い出して飛ばし読んでみた。

「理科系の」だから想定している文章は主に技術系の論文である。 とは言っても論理構成の進め方や意味をはっきり伝える表現といった内容は何にでも通用する。 読み返してみるといいことが書かれている。 これを読んで勉強したのだから当たり前なのだけど。

ニシノ説論者の段落一字空け論には反対したが彼のブログを見ていて気になる表現があった。 書名を引用するときの『』である。 今までは「理科系の作文技術」と書いていたが今日からは二重括弧を使うことにする。 二重括弧は書名の引用に使うと『理科系の作文技術』にも書いてあった。

主語は述語の直前に書くと意味がはっきりすると書かれていたと思い込んでいたが違った。 何かで読んで勉強になったのだが。 その本を次は読み返そうと思っている。 が書名が分からず本棚にもない。 うーん何だっけか。

ストレス (4月19日・水)


勤務先その2のボスと昨日お昼を食べながら話をした。 彼も4月は精神状態が悪いそうだ。 年度末までに給料を払い終え安堵したらすぐに次の収入を考えなくてはならない新年度の始まり。 その不安に襲われると。 妻もそうだが経営責任者の重圧に対して私は言葉がない。

2月に父の一周忌で住職に聞いたことは前にも書いたような気がする。 葬式は季節の変わり目に多いと。 寒さに耐えたストレスが季節の変わり目に表面化するのだと妻は言う。 『パリに行った妻と娘』で近藤紘一氏も書いていた。 戦争地帯の取材に行くと2ヶ月後ぐらいに体調が悪くなると。 ストレスが体に表れるには時差があるらしい。

私も仕事のストレスから体調を悪くしたことが何度もある。 排便のあと気を失うように寝たこともある。 その話を会社でしたら排尿中に意識をなくし倒れた経験を持つ人もいた。 排便神経症とか言うのだそうだ。 いずれにしても私はストレス耐性が弱いと思う。

まだ20歳代の若いころ帯状疱疹と結膜炎を同時に発症したことがある。 おそらくストレスが原因だったのだろうが全く自覚がなかった。 むしろ元気に仕事をしていたときだったから今もなぜ発症したのかが分からない。

ストレスの表面化は筋肉痛のように歳とともに時間差が拡大するのだろうか。 逆に若いときの方が表面化まで時間がかかるのかも知れない。 そんな気もする。

南国 (4月18日・火)


詳しくは妻の日記に譲るが彼女の精神状態が芳しくない。 もともと波のある人ではある。 知り合って8年半。これまでの波はしかし比較的周期が短かった。

彼女は先週来すっかり昼夜が逆転している。 朝になってようやく眠りにつく。 明け方5時半頃に寝室に来るからそこで話をする。 ここ2日はだいたい1時間弱。

日曜日はちょっとした買い物で駅前に行き大きな公園まで足を延ばした。 歩きながら並んで話をする。 そのとき思ったこと。 人にとって幸せとは何なのか。 それは妻や子供や家族そして仲間と楽しく笑顔でいられることではないかということ。

そう思うと妻が苦しんでいる今の状況が正しい道ではないと思う。 ここ2日の早朝に話をする中で私には元気な妻さえいればいいとも思う。 勤務先その2のボスと昼食を食べながら今日そんな話をした。 この点で彼は全く同じ考えを持つ。

妻が会社を辞めたら。 東京での今の生活は維持できない。 であれば夢の南国生活も悪くない。 沖縄とか小笠原とか。 そんなに甘くないことは親友・ニシノ説論者からも聞かされているのだが。

南国がダメなら疑似南国で徳島に戻るか。 妻は海が好きなのでそのときは実家がある北ではなく南がいい。 そんなことを考え話し合っているところ。 妻が昔読んだ占いによると私は百姓仕事が合うのだそうだ。

本 (4月17日・月)


このWeb日記を書き始めた1999年以降に読んだ本を過去の記述を元にまとめた。 1999年は本を読むどころではなかったようだ。この日記に記録がない。 2000年以降も書名を日記のタイトルにしていなかったりして手間がかかった。 時系列を基本にして著者でまとめた。ある程度の私の読書傾向が分かる。

実務の本は日記に書いていないことが多くリストに入ってこない。 例えば手元にある「プロバイダ責任制限法解説」をいつ読んだか分からない。 本棚にはあるが日記に書かなかった本は漏れている。 もちろん買ったものの読んでいない本も同様だ。

改めてリストを見て感じるのは私の興味が企業のあり方や日本文化に向いていることだ。 気になるのは小説が意外に少ないこと。もっと良質の小説を読みたいと改めて思う。 小説でなくても近藤紘一氏の「妻と娘」シリーズのようなノンフィクションでも構わない。 これは小説以上に人生を考えさせられる物語だった。

学生時代にも良質な小説を紹介して欲しいと言ったことがある。 同志社と早稲田の文学部学生から同時に推薦されたのが村上春樹と宮本輝だった。 村上春樹は青春3部作をはじめ当時の文庫は全て読んだ。 宮本輝は「優駿」を買ったが20ページで挫折した。

人によって好みはあると思う。 昔読んだ本をもう一度読み直すのが確実という気もする。 とは思いつつ今になって近藤紘一氏の著書に感動したように新しい世界も知りたい。 これはお奨めという良質の本があればぜひ教えてください。

国家犯罪 (4月16日・日)


妻が土曜日のTBSブロードキャスターに出演していたビル・トッテン氏に怒っている。 テレビはつけていたが私は聞いていなかった。 すごい剣幕でこいつ何言ってんだと怒り始めた妻に驚いた。 話を聞けばその怒りも納得できる。

ビル・トッテン氏と言えばアシストの社長である。 この会社はアルファベット表記をAshisutoと書く。 郷にいれば郷に従えなのか英文ではなくローマ字表記である。 日本のビジネス文化に馴染もうとした表れなのだろう。

1990年代初頭には低価格パソコンソフトで話題をさらった会社だ。 一太郎が58,000円でLotus1-2-3が98,000円の時代にアシストワードやアシストカルクという製品を9,800円で発売し低価格ソフトという一種のブームを作り出した。 ジャストシステムは一太郎dashという低価格版を出さざるを得なかったほどだ。 余談だが一太郎dashの定価は35,000円ではなかったか。随分と高い低価格である。

当時よくビル・トッテン氏の名前は聞いた。好きでもなく嫌いでもなかった。 日本のビジネスに溶け込もうとした努力話を読んだ気もする。 会社表記まで工夫を凝らしたようだが心情までは日本化しなかったようだ。

国際政治の流儀について私は知らない。 それでも国家の条件は国土・国民・主権だとは知っている。 国民の生命と財産を守るのが国家の役目だと理解している。 この件については妻を同じ考えだ。

日本語の乱れ (4月15日・土)


日本語が乱れているとは最近よく聞く論である。 コンビニやファミレスなどでの接客や若者の言葉には確かに不快になることが多い。 しかし言葉は時代とともに変わっていくものではないか。 平安時代の日本人とは言葉はすっかり変わっているはずだ。

日本語の乱れが言われるとき多くの場合は話し言葉についてだろう。 一方の書き言葉はどうか。これもまた大いに乱れていると思うのは私だけか。 先日書いた表記ルールとは別の問題として。

一般紙や大手の週刊誌はしっかりしているがスポーツ紙や夕刊紙の誤字の多さはどうだ。 あるいは企業のWebページの記述でも誤字脱字意味不明な記述を目にする機会が増えた。 友人の記者さんによれば企業から送られてきたニュースリリースの訂正が頻発しているそうだ。

話し言葉は人と人とのコミュニケーションができればいいとも思う。 ある程度の乱れであれば時と場所によっては個性の範疇にもなろう。 書き言葉でもブログやメールなら仲間内のコミュニケーションだから厳格に求めようとは思わない。 しかしいい加減なブログ語に慣れて全体の品が落ちているとしたら憂慮すべきはこちらだろう。

書き言葉はある種の品位が求められるものが多いと思う。 企業のWebページやニュースリリースなどはもちろん履歴書やら目上の人に対するメール然り。 さすがに書き手も注意するから誤りは話し言葉ほどは目立たない。 それでも実際に書いてみたら誤字だらけ論理不明瞭支離滅裂という人は多いと思う。 日本語の乱れを憂慮するならむしろ書き言葉についてもっと論じるべきではないかと思う。

オフ書き (4月14日・金)


NIFTYのパソコン通信サービスが閉鎖されパーティが行われたと先日のニュースにあった。 パーティはユーザー主導だったが過去の社長たちも顔を出したと報じられていた。 パソコン通信は顔が見えないメディアだからユーザーとのつながりは大事にするとNIFTY-Serve初期の重役が言っているのを昔読んだことがある。 入会者一人ひとりにメールを出していたらしい。 その姿勢は素晴らしいのだと取材に来ていた週刊プレイボーイの編集者から何度も聞かされたこともある。

そのパーティのニュースの中に面白い発言を見つけた。 オン書きとオフ書きの比較である。 パソコン通信の会議室の発言は電話代を節約するため一旦全てダウンロードしてじっくり読んで返信を書いていた。 今のネットの掲示板では見た端から返事を書いている。 これでは相手の意図や文脈を読むこともできず喧嘩になるのは道理だろう。 オフ書きはパソコン通信のいい文化だった。 大方こんな内容の発言だったと記憶している。

なるほど。 確かに私もオフラインで書いた文章を何度も読み返してからアップしていた。 それが正しい方法だとも言われていた。 言葉尻の問題で諍いになることを恐れてもいた。 実のところ今も私は恐れている。

ブログを書いている人たちはどういうスタイルなのだろう。 入力欄にいきなり書いて送信しているのだろうか。 それともエディタで推敲してからコピー&ペーストをしているのだろうか。 あるいはコメント欄をどう位置づけているのだろうか。 結局のところ私の場合はオフラインでじっくり書いて時には何日も寝かせてからアップする今のスタイルから離れられないのである。

1字空け (4月13日・木)


横書きのブログであろうと段落の冒頭は1字空けるのが日本語の決まりだと元新聞記者で私の親友が彼のブログ「ニシノ説」2006年1月19日付で論じている。 それに対して私と妻が反論のコメントを書いた。私の主張はこうである。 1字空けるのは段落を視覚的に把握しやすくするための工夫でありブログなどで行間を空ければ効果は同じであって1字空けにこだわる必要はない。

今この日記で読点がないことも表記ルールに反するだろうか。 実は読点をなくした形式にはお手本がある。 コラムニスト勝谷勝彦氏「さるさる日記」である。 この日記では読点はおろか段落さえない。 「さるさる日記」は1つの記事の文字数が決まっているらしく勝谷氏は常に文字数制限いっぱいまで書いている。 文章を修行するなら何らかの制限が必要だと以前に書いたのは勝谷氏の姿勢を意識してのことだ。

ブログやWebと紙とは違う。 サイトによっては文字数の制限がある。Webで1字空けても正確に1字分は空かない。 逆に文章の長さや文字サイズなど紙にはある物理的な制限がWebにはない場合もある。 リンクなど紙にはあり得ない概念も使える。 それほどに特性が異なるメディアに同じルールを持ち込むことが私には間違いとさえ思える。 実際に紙メディアでは1字空ける段落の間にWebではさらに1行空けているではないか。 それは日本語表記のルールには反しないのか。

紙なりWebなりメディアの特性に合わせた表記があっていいと思う。 仲間内のブログなら顔文字や暗号を使っても構わないとも思う。 Webは個人一人ひとりが手に入れた新しいメディアなのである。 特性と目的に合わせた自由な表現をむしろ試すべきだと私は思う。

新たな道 (4月12日・水)


前の職場に18年前ともに入社した元同僚の一人が40歳を超えて新たな道を歩み出した。 国家資格に今日合格したそうだ。 学校に数年通い勉強し得た資格らしい。全く職種が違う仕事である。 勉強しようとした決意に対してと結果を出した努力に敬意を表する。 心からおめでとうと言いたい。

沢木耕太郎を知っている数少ない同僚だった。 そんなこともあってか私が会社を辞めてから一度メールをもらったことがある。 私の文章を褒めてくれていた。 それで調子に乗って書いたのが今もリンクを辿れば残っているエッセイの真似事である。 今見直したらあれから6年も経っている。

今回日記を長めに書き始めたのはあのときのメールの影響が少しある。 まともな文章を書きたいとそのときから気になっていた。 文章の拙さはともかくそんな経緯もあってこの日記ではお祝いを言いたいと思った。

人生について考える40歳代。いろんな思いが交錯する。 それはともかく勉強にはいろんな苦労があったことも想像できる。 それを克服したことはそのこと自体が素晴らしいことだと思う。 その努力に対して心から言いたい。本当におめでとうございます。

「パリへ行った妻と娘」 (4月11日・火)


近藤紘一「パリへ行った妻と娘」(文春文庫)を読んだ。 ベトナムの人や文化を紹介したフリで書かれた第1作「サイゴンのいちばん長い日」のテーマは「家族と国家」だったと今にして思う。 その例で言うと第2作「サイゴンから来た妻と娘」は「夫婦と人生」で第3作「バンコクの妻と娘」は「文化と教育」だ。 シリーズ最後であるこの第4作は「家族と人生」あるいは「家族と鎮魂」だろうか。

娘ユンは勉強を続けるためパリの学校に編入する。 タイの保養地で知り合ったフランス人家族の家で生活を始めたユン。 ベトナムからフランスに脱出していた元夫や元彼や息子を動かす妻。 複雑な関係の中での生活だが物語はシリーズの中で最も淡々と進む。

印象的なのは下宿先のマダムをユンがママンと呼んだことに妻が動揺し著者も同じ気持ちになるところ。 そして物語の通奏低音として流れる元妻の死。 多くの読者が第1作で気づいていただろうことが著者自身の言葉で語られる。 第1作で書かれた「外界で生じるすべてを許容する」ことにした結果としての。

自分が死んだらどうなるだろうと繰り返される点も印象に残った。 著者が早くに亡くなったことを私が知っていたからだろうか。 物語が淡々と進んだように読めたのは著者は自分の死を覚悟していたからかも知れない。

通奏低音と先に書いたが実はシリーズ4作全てのテーマそのものが元妻の死への悔恨ではないかとも思う。 著者の行動の全てがそうだった。 年表を調べると著者はこの第4作を発表した翌1986年に45歳で亡くなった。

ポルノグラフィティ (4月10日・月)


少し前だが4月2日(日)夜NHKで放送された「ポルノグラフィティ in 因島」を見た。 ほかに見る番組がなかっただけだしこの若者グループもよく知らなかった。 ところが途中から涙が止まらなくなった。 番組は因島市が尾道市に併合されることを契機に因島出身のグループが地元で開いたコンサート前後のドキュメンタリーである。

ちょうど前日あたりに「バンコクの妻と娘」を読み終えていた。 「人間は一国の文化を理解したときに、はじめて他国の文化を理解し、 同時にこの世の中を理解できるようになる」という一節に感動していたことは以前の日記にも書いた。 この本の中でなぜ著者が娘ユンの教育に心を砕いたのかがこの一節とともに説明されている。 その理由をここでは触れない。ただ私は心が震えた。

ユンが南ベトナムを脱出するのがもっと遅ければベトナム文化を身につけたベトナム人として育っただろう。 ユンがもっと早く日本に来れば日本文化を理解する日本人として育ったかも知れない。そう著者は考える。 私は子供のときに体験した正月や墓参りの行事または祖国の自然や人情は思いのほか人間の心の基礎になるのではないかとこの本を読んで感じた。

そんなときにポルノグラフィティである。ハイライトは因島の小学生を招待したコンサート。 因島は素晴らしい。本当にいいところだ。そんな因島に育ったことに自信を持って欲しい。 まだ20歳代だろう若者がステージから小学生たちに向かってそう語りかける。 私はなぜ泣けてしまったのか。自分たちが得意な音楽を通じ子供たちに思いを伝える若者に感動したのかも知れない。 「サイゴンの妻と娘」を読んで心が震えた事実とコンサートのことが共鳴したような気もする。

ドラマ「寺内貫太郎一家」 (4月9日・日)


録画していた久世光彦氏追悼番組を見た。「寺内貫太郎一家」。昭和49年放送だという。 再放送があったのはその初回と最終回。 よく見ていたから断片的には覚えているが最終回のストーリーなどすっかり忘れていた。

再放送を見て印象的なのは小林亜星ほか役者の演技の下手さと浅田美代子のかわいらしさ。 ドラマの中の喜劇要素には今や笑えないのは時代が変わったからか歳をとったからか。

そういえば先週デモをしたIDF Japanでインテルが用意していたお笑いビデオを見たときも笑えなかった。 インパルスらが出演するヨシモト配信のビデオ「代打ONO」。 昔「オレたちひょうきん族」には笑い転げたが当時からこれを笑えなくなったら歳なんだろうと思っていたと同僚が言う。

笑いの感性にはついていけなくなっているのかも知れない。 ところが涙の感性は広く深くなったような気もする。 歳とともに経験を積みさまざまな世界があることを知ったからか。 感動できるかどうかは演技の質よりストーリーなのかも知れない。 「寺内貫太郎一家」には笑えなかったが最終回には十分泣かせてもらったのである。

偶然 (4月8日・土)


4月7日(金)に東京プリンスホテルであったインテル・デベロッパー・フォーラム(IDF)で10時からの基調講演に参加した。 前日には併設されたデモ会場で古くから知っている電波新聞のO記者と雑談していた。 電波新聞から我が勤務先その1に転職しさらに2年ほど前に離職していたS氏の話題になった。

その元同僚であるS氏とは3年前の阿波踊りで偶然会ったことがある。 当時は同僚だったが彼が徳島旅行に行くことなど聞いていなかった。 私は妻と義母と見物に行き新町橋北詰で輪になった踊りを見ていたのである。 そのとき輪の正面に一眼レフで写真を撮っているS氏を見つけた。

観光客を含め数十万人が街に繰り出す阿波踊り。街で知人に会う確率はそう高くない。 それなのに数人しかいない東京の同僚と会ったことに驚いた。

そんな伏線があったS氏が1,000人はいただろう基調講演で私のすぐ左前に座っていたのである。 たまたま前日O記者と話題にしていたこともあって驚いた。 あとでブースに寄ってもらい話をした。 阿波踊り以来の偶然に少し私は困惑している。 特に仲がいいわけでもない11歳も下の彼との関わりに。彼と何の因縁があるのだろうと。

文章の形式 (4月7日・金)


私がWeb上に日記を書き始めたのはそもそも遠く離れた友人たちに近況を知ってもらうことが目的だった。 続けることを意識して3行で始めた。後に4行まで許容することにしたが何より継続がテーマだった。 やがて形式にこだわり始め4行の長さをぴったり合わせることがルールになった。

ブログなどで日記を書く人の中にはその目的を文章修業だと言う人がいる。 しかし決め事のない文章を書いていたのでは修行にはならない。 なぜなら世の中の文章には多くの場合制限があるからだ。 新聞や雑誌の記事には長さの制限があり論文や業務報告書には形式の決まりがある。

私の以前の日記は4行ルールによって意図せず簡潔に書く修行にはなったと思う。 ぴったり合わせるために表現を変えていたことも常に文章を考える癖に結びついたと思う。 しかし逆に伝わらないことが増えたような気がしていた。 実際に意味が分からないとの指摘を受けることもしばしばあった。 最大の読者は将来の私自身だと今も思っているが独りよがりの文章は避けるのが本筋だろう。

そんなわけで新しい形式である。 文章修業のつもりはない。 ただ読みやすさを考慮し私の1024×768のディスプレイで縦いっぱいを最大目安にする。 一つだけ制限として読点を使わないでみる。 読点は元来読みやすくするためのものだが最近いい加減な語順を読点で誤魔化す文章があまりにも多い。 その風潮への反抗を込める。

内容によっては長さが変わるだろう。 形式に固執して継続が損なわれては本末転倒だ。 しばらくは試行錯誤が続くと思う。


IDF Japan (4月6日・木)
朝から東京プリンスホテルタワー。去年できたばかりの新しい宴会場。
勤務先その1の仕事でイベントのデモ。10時から今日は18時過ぎまで。
メーカーの担当者らに適当な説明をいろいろ。メディアの人も何人か。
夜は誘われて赤坂見附。思い出話と今のこと。これも人生の分岐点か。

「バンコクの妻と娘」 (4月5日・水)
近藤紘一氏の続編、タイに転勤してからの「バンコクの妻と娘」(文春文庫)。
一人残って東京のフランス学校に通った娘。教育について考えさせられる。
フランス学校長の手紙が印象深い。「人間は一国の文化を理解したときに、
はじめて他国の文化を理解し、同時にこの世の中を理解できるようになる。」

宴会 (4月4日・火)
勤務先その1の東京組での宴会。出張の社長を含め総勢12人だか。
話題はやっぱり怪しいH氏。本人を前に異口同音に指摘するのだが。
話はあっちに飛びこっちに飛び飲み放題2時間ですっかり酔っぱらい。

「ヤクザ・リセッション」 (4月3日・月)
ベンジャミン・フルフォード「ヤクザ・リセッション」(光文社)を読んだ。
政・官・業・ヤクザの癒着が日本経済を悪くするという前著と同じ内容。
現役・引退含め国会議員や銀行屋の実名があって、なるほどと思う。
日本の報道では見方を知らないと気づかない。メディアも癒着の中か。

送別会 (4月2日・日)
木曜、勤務先その2の送別会。某役所から3ヶ月間研修で来ていたI氏の年季明け。
この日は最初、勤務先その1にいて夕方、その2へ。ところが宴会はその1の近所。
そうだった。徒歩10分で行けるな、と思っていたことを忘れていた。とんだ回り道。
それはそうと、3つ年上のI氏と帰りは同じ電車。機会があればまた話をしたい人。

葬儀 (4月1日・土)
先週、妻が見舞った伯父さんが木曜夜に亡くなった。電車乗り継ぎ3時間の地方。
東京の電車に一人で乗れない義母を見かねてか、妻も土曜朝から葬儀に同行。
故人は義母の姉の夫。義母は私にも行って欲しそうだったけど、一人で留守番。
そんなわけで、かつてドライブのお供だったCDを大きめの音量で聴き、読書三昧。


<Top Page>

© 2006 Takashi INAGAKI