<Diary Index Page> 2021年8月
消防団でマニュアルトランスミッション(MT)のポンプ積載車を運転する機会が増えた。家の車はCVTだから当初は不安もあったがサイドブレーキと車幅感覚を除けば不自由なく運転できている。運転免許を取ってからの19年間がMT車だったから今でも身体が覚えているようだ。
それで次に乗る車はMT車がいいかと思わなくもないがどうだろう。楽しそうだと思う一方で渋滞でMT車は疲れる。鳴門から沖浜に通っていた1990年前後に朝は吉野川大橋前から渋滞していてシルビアのMTが面倒だったことを覚えている。そのうちクラッチを切らずにシフトチェンジするようになった。
I村君に教えられたのかJAFの会報誌で知ったのかクラッチの前後で回転数が合っていればクラッチ操作は必要ないと知ってシフトアップで試すとすんなりできた。シフトダウンのときはアクセルを1回踏んでエンジン回転を上げてタイミングを合わせれば左足のクラッチ操作なしでギアが入る。
渋滞でのシフトチェンジでは常用していた。その癖があって消防車の運転でクラッチは使うがエンジン回転は合わせている。重い車体だが山道でのシフトチェンジは楽しい。でも前車自動追尾機能が標準になりつつある今それがないMT車はやっぱり疲れそう。というわけで振り出しに戻る。
マイクロソフトマウスのスクロールホイールが使えなくなったのは買ってからまだ10ヶ月だった。新しいマウスを買って既に使っているが1年以内なら保証範囲ではないかと気になっていた。改めて保証書になるヨドバシ.comの納品書を確認すると買ったのは2020年9月7日だ。
今なら1年以内だとヨドバシカメラのサポート番号を調べて電話をした。待たされること10分。やっと繋がって製品がマイクソフトマウスだと言うとヨドバシではサポートできないと言う。マイクロソフト自身がサポートを行っているのだとか。仕方ない。架け直そう。
今度はマイクロソフトのサポート番号を調べて電話をするとWebに移行したからとURLを伝える自動応答。そこでURLを入れたがマウスのサポート情報は確かにあるが壊れた場合の対処方法はどこにも書かれていない。文字を入力すると自動で情報が表れるが該当するものがない。
何度も同じWeb表示を繰り返して30分。バカバカしくなって止めた。人手を掛けず省力化するためにWebに移行しているのだろうが本当に困っている人に届く情報がないというのは納得できない。これがマイクロソフトのやり方だ。マウスは諦めるが他の製品の購入時には要検討である。
パラリンピックで車椅子ラグビーの日本チームの試合は前に書いたフランス戦のほか予選リーグのオーストラリア戦と準決勝で負けたイギリス戦と3位決定戦の今日のオーストラリア戦などほとんど観た。基本的なルールのほか試合を通じて反則もだいたい分かった。日本は銅メダル。
一方で車椅子バスケットボールも何試合か観た。YouTubeのルール解説があって参考になった。要は車椅子を漕ぐプッシュ動作3回以内にドリブルをしないとトラベリングの反則になる。一旦手に持ってドリブルをやり直すダブルドリブルの反則はない。これは車椅子だから納得できる。
車椅子ラグビーと同じように障害の重さに応じて個人の点数が決められていて5人のメンバーの合計が14点と。一般的なバスケットボールは動きが速すぎてボールを追っていると他の選手の動きが分からない。それが車椅子は動きが遅いから車椅子ラグビーと同様に全体の状況が分かりやすい。
車椅子によって選手間の距離がある程度あるからシュートしやすいと思うが観ているとそうでもなさそう。全身を使えないから3ポイントなど距離があるシュートは難しいのかも知れないし障害によるのかも知れない。何にせよ車椅子ラグビーも車椅子バスケも面白かった。一度は生で見てみたい。
ブラインドタッチは大学6回生で覚えたが初めてPCを使ったのは大学2回生。1983年。同じサークルのK西が買ったNEC PC-9801Fだった。アマチュア無線同好会JA3YCZで学園祭の出し物としてコンピュータ占いなる一種の詐欺ビジネスをするのにPCで文言を打ち込むのに使った。
プログラムは前年までに先輩の誰かが組んでいたのだろう。我々はデータを打ち込む。そのために同級生のNDTが確か初代PC-9801を私の下宿に持ち込んで預かっていたこともある。占いは名前と生年月日を紙に書いてもらい部員がPCに入力すると文言がドットプリンタで印刷されるというもの。
入力データと出力に関連はない。ただランダムに出力するプログラムがあるだけだ。三重出身で後に部長になるN野氏が 「その手は桑名の焼きはまぐり」という文言を入れていて皆でふざけすぎじゃないかと文句を言った。でも占いをした客の中には「当たってる」と騒ぐ女子高生もいた。
学園祭は創立記念日の前にあるからEVE祭と呼ばれ我々はGと略される神学館の4階あたりの狭い教室で営業をしていた。1回100円ぐらいだったと思う。常に数人の客がいる程度には繁盛してそれなりに稼いでいたはずだ。PCは珍しくコンピュータでやれば信じてもらえる時代だったということか。
PCを使うとき私は最初からローマ字入力でキーを覚えた。大学6回生のときJ社への就職が決まったことで研究室の渡辺好章助教授から一太郎の操作に慣れておいた方がいいという理屈を付けられ先生が関わっていた「日本音響学会関西支部50年のあゆみ」の編集作業をアルバイトとして担当した。
せっかくの理屈付けだし私もその気になって入力はブラインドタッチを意識した。画面だけを見て手元のキーボードは見ない。当時は一太郎Ver.3だから日本語変換はATOK6だったと思う。この冊子の編集を終えた冬にはブランドタッチはできるようになっていたと思う。
1988年4月にJ社に入社すると研修ではゲームのようなソフトを使ってブラインドタッチの練習をさせられた。数字キーだけはこのときの練習で打てるようになった。キー入力の練習をしながらこのぐらいの努力をすればピアノだって弾けるようになるのではないかと考えたことを覚えている。
でもPCのキーは打つ指が決まっているし少し動かすだけで済むがピアノはホームポジションがない。右手の人差し指で叩く可能性のあるキーは何十個もある。ということに気づいて同じようにはいかないと覚った。でも慣れが重要なことに変わりはない。というわけで1週間ピアノの練習は続けている。
先日のがん検診の問診票にタバコの1日の本数と吸った年数を掛けた数字を記入する欄があった。ブリンクマン指数というらしい。私は1日20本を1983年から2002年までの20年として400と書いて提出した。このページによると700以上で咽頭がんや肺がんのリスクは数十倍だという。
そんな話を神社の夏祭りでやっていたら長老M本氏が役場勤務のときは1日に3箱だか4箱を吸っていたと言っていた。火を付けてはすぐ消すから吸い殻を住民が灰皿ごと持ち帰ることもあったとか。そのM本氏も後年スパッと止めたと。そう言えば私の父も医者に脅されて止めたと言っていたか。
私がタバコを吸い始めたときのことは前に書いた。学生時代に吸っていたのはセブンスター。大学6回生のとき当時の大学院博士課程1年で今は教授になっている土屋隆生さんにねだられて1日2~3本を提供していた。11年前には3日に2箱ぐらいと書いているが記憶は曖昧。
J社に入って多分新橋で一緒に飲んだときだったか中高の友人K元から軽い方がいいぞと奨められ彼も吸っていたキャスターに転向。短期間マイルドセブンを吸っていたこともあったと思う。2002年にタバコを止める頃はフィリップモリスだったような気がする。キャスターより軽かったのかも知れない。
昨日から東京パラリンピックが始まった。昨夜は消防分団の役員会があったので開会式は途中から。選手入場の後に見始めた。翼が半分しかない飛行機という役の車椅子に乗った女の子。映像やプロジェクションマッピングや布袋寅泰が乗った電飾トラックとオリンピック開会式より見応えがあった。
録画していた車椅子ラグビーを取り上げたNHK「逆転人生」も観た。バスケットボールのようなコートで1チーム4人の車椅子で相手とぶつかり合う。40秒以内にゴールしないと相手にボールが渡るから進路を妨害するのが作戦になると。今日は夜フランス戦をやっていたので途中から観た。
障害の重さに応じて選手には点数が決められていて同時に出場できる選手の合計が8点で女性が入ると8.5点になるとか。これまで健常者が車椅子でプレイすれば最強だろうと思っていたがそれはできないとよく分かった。それぞれの障害の中で最大の運動能力を発揮できるよう努力しているのだろう。
40秒ルールのほか自陣を12秒で抜けないといけないとかコートの広さもあってバスケに近い。あるいは相手の進路を妨害するとか前方へのロングパスとかこれはアメフトだ。車椅子だからバスケより動きが遅くて状況も把握しやすい。今日の試合はフランスに53対51。めちゃくちゃ面白かった。
8月11日に2回目のワクチン接種に出掛けたときは曇り空だった。その日の夜に降ったかどうか覚えていないが12日からはずっと雨。15日夕方は止んでいると思ったのに消防点検に行くと霧雨だ。徳島市陸上競技場では阿波踊りをやっていたようなので徳島市は降ってなかったのかも知れないが。
ちなみに15日の消防点検はお盆の日曜日だったからか分団長と私だけ。分団長を乗せて鹿子山と日浦の点検に行った。その後も先週土曜あたりは日光が出ていたと思ったら夕方から雨。今週は天気予報では晴れだと思ったのに今日も午後降ったようだ。少なくとも13日連続で雨が降った。
一昨日の日曜はT中氏からお呼びが掛かり夕食後S田氏宅に行った。同じ住宅の2F。と役場のT君がいて彼はほどなく帰り3人で諸々。いろんな人の噂話を聞く。持参した500mLのビール2本と鳴門鯛の古酒を飲んで酔っぱらい。金曜から始めたピアノの練習は今日も続いている。
今日の夜は消防分団役員会。上勝でも2人目の陽性者が出て9月5日の防災訓練は中止になった。秋に消防学校での研修に行く予定だった2組4人は宿泊ができなくなって1組はキャンセル。部長3人を1人にして班長を2人増やすというので新しい班名に通信班を提案したら採用された。
昨日は向田邦子の40回目の命日だったそうだ。台湾の飛行機事故で亡くなったときニュースになったことは覚えている。当時は単に昔よく観ていたテレビドラマ「寺内貫太郎一家」の原作者という認識だったと思う。ドラマ「阿修羅のごとく」は母が観ていて事故のニュースに驚いていた。
私は高校3年生。翌1982年は東京の仮面浪人で沢木耕太郎にはまって当時の文庫本を読み尽くすと大学に入ってから柳田国男や立花隆のノンフィクションを読むようになった。早稲田の学生だった西野に奨められて本多勝一も10冊近く読んだ。そのうち小説に向かい城山三郎をずいぶんと読んだ。
向田邦子を読み始めた理由は覚えていないが当時は学生会館1Fの食堂で昼食をとると2Fの生協書店に寄る習慣があったから多分そこで見つけて手に取ったのだと思う。「寺内貫太郎一家」と事故のニュースの記憶からだろう。記録によるとエッセイを中心に10冊。本棚の奥に今もある。
でも最初に読んだ本は「寺内貫太郎一家」ではなかった。エッセイはどれもよかったが例えば信号の交差点を歩いて渡るとき点滅する前に渡り終えないと死ぬという小さな賭けをしてしまうという話には私と同じだと大いに頷いた記憶がある。最初に読んで35年。読み直すのも一興かも知れない。
日経新聞の土曜版別刷り21日付のNIKKEIプラス1の「何でもランキング」でスポーツを扱った書籍10冊が紹介されていた。1位は沢木耕太郎の『敗れざる者たち』で3位が山際淳司『江夏の21球』だった。この2冊は読んだことがある。まず『敗れざる者たち』は仮面浪人をしていた1982年の秋だ。
現実逃避でゲームセンターに通っていた頃。その秋に沢木耕太郎『テロルの決算』を読むに至った経緯は既に書いている。これでノンフィクションというか沢木耕太郎にはまって『敗れざる者たち』(文春文庫)も読んだ。ゲームセンター通いとともに受験勉強から逃避していたわけだ。
この中で榎本喜八という元プロ野球選手の物語がある。引退したが50歳になってもまだ現役復帰するために激しいトレーニングをしているという話。一種の狂気で細かな点は忘れても名前だけは記憶にある。亡くなったときはニュースになった。Wikipedaによると2012年3月14日だったらしい。
『江夏の21球 』は1979年の日本シリーズ第7戦で近鉄が1点差に詰め寄った9回の広島カープ江夏豊投手が投げた21球の解説だ。凄い心理戦。後にNHKが映像化した名作である。『スローカーブを、もう一球 』に収録されていて大学のときに読んだ。後に弟に貸してやったことがあったような。
電子ピアノが動くことは確認したが付属のイスにカビが生えていた。全面に埃が被って白くなっているだけだが数年前に一部に白カビが発生しているのを見て気になっていた。そこで車用の空調服に使ったカビ取り剤を持ち出しベランダで吹き付け雑巾で水拭きもしてしばらく放置して乾かして。
教本は11年前に2冊買っていた。まずはそのうちの1冊『はじめから1人で学べる大人のためのピアノレッスン上巻(DVD付) 』を見ながら昨日から練習を始めた。私は「響」で慣れているので楽譜の見方は分かるが基礎的な音符の説明から入っていて超初心者向けだと分かる。
でも演奏となると難しい。ピアノは指の動きが基本だと思うのでハ長のドからソまでを使った4分音符4/4の単純な4小節のいくつかのパターンをただ繰り返す。「響」の音取りでミニ鍵盤を使って来た成果かも知れないが右手はきちんと動く。でも1オクータブ下で同時に鳴らす左手は難しい。
それでも左右同時に何度も繰り返し弾いているとできるようになる。金曜の夕方1.5時間と夜1時間練習して何とかなった。今日も2時間弱。右手は8分音符までの単音と左は2分音符までの単音の短い課題曲3つまで弾けるようになった。でも左腕が筋肉痛になりそうだし両親指の外側が痛い。
ホームステイにも飽きたし雨ばかりでやることがない。デジタルサックスに興味を持ったが納品は先だし値段が高い。アマチュア無線の勉強も考えたが得になるわけでもない。レーシングゲームに興味はあるが時間を消費するだけでなく少しはクリエイティブな方がいい。いっそピアノでも習おうか。
そう考えて普段いる事務所のデスクで使える練習用ピアノを物色した。数千円からあるが11年も前にもらった電子ピアノをスタンドから外して使えないだろうか。と思ったが大きすぎた。スタンド付で自宅に置いてあるが練習するならいっそ普段の環境ではなく自宅で集中した方がいいかも知れない。
でも10年ぐらい放置していたのだが使えるだろうか。恐る恐る電源を入れると全ての鍵盤の音が鳴る。すっかり忘れていたが鍵盤の裏面左にヘッドホン端子もあった。オーディオ関係の箱の中に多分「響」の練習用で持ち歩くために買っていたイヤホンを見つけ試してみた。
ミニジャックから標準ジャックへの変換アダプタを使って試したが接続が甘いようで右から音が出ない。上勝TVの機材の中に別の変換アダプタを見つけて流用。すっかり存在を忘れてたが初心者用の楽譜もあった。分かっている。問題は続けられるかどうかだ。10年前も早々に挫折しているのだから。
ゲームセンターとDIGDUG(ディグダグ) (8月19日・木)
最近NHKの「ドキュメント72時間」という番組をよく観る。お店など1つの場所に丸3日間張り付いてやって来る人々に話を聞くというだけなのだが市井の人たちの人生を垣間見ることになって意外に感動することが多い。先日は過去の番組を一気に放送していたので予約して観た。
その中に早稲田のゲームセンターの話があった。サラリーマンたちが仕事帰りに来るのだとか。それで思い出したのだが私にもゲームセンターに通っていた時期があった。1982年の秋から冬。仮面浪人で東京に住んでいたとき。JR中央線西荻窪駅前の細いアーケード街の東側にあったゲームセンター。
要は受験勉強に嫌気が差して逃げていたのだ。そこは学校の教室ぐらいの小さなスペースだったと思う。ゲームはよく分からないので誰かに教えられていた「DIGDUG」ばかり。たいてい22時とか23時とか人通りがない時間帯に行って300円とか500円分ぐらいしか遊ばなかったとは思う。
池田高校の試合を観たのはゲームセンターの南にあった喫茶店の2Fだ。相手は東京の高校だったから調べたら日大二高で1982年8月15日と。ゲームセンターも喫茶店ももうないだろうがGoogle Mapで見ると細いアーケード街はまだあった。毎夜のように通った私にとっては現実逃避の象徴だ。
フォレスターの車検証が届いた。なぜかスバルは後から送ってくる。車だけ早く返して代車の回転をよくしたいからか。ともかく手元に置いていたフォルダーに車検証を入れて車のダッシュボードへ。もう一つは車検標章。ルームミラーの下のフロントガラスに貼り付けられている小さなシールだ。
2年前の車検のときも自分で貼ったことを思い出し当時の日記を読んで参考にしてから雨が上がっていた間隙に貼り付けてきた。フィットでも以前に乗っていた車でも自分で貼り付けるようなことはなかったと思うし2年も経てば前回のことをほとんど忘れていて神経を使う。
2年前もそうだったが問題はドライブレコーダーがルームミラーの真下に取り付けられていること。これが邪魔で中央に貼るのが難しい。ガラス上部はスモークが入っているから上に寄せすぎることはできないし下げすぎるとドラレコのレンズの前になってしまいそう。
シールを剥がす前に位置を合わせてドラレコのレンズに干渉はしないだろうと当たりをつけて平行だけは気を付けて貼り付けた。少し右に寄っているが前回よりはマシ。普段意識していないのにこんなに目立つものだったのかと表から見て思ったり。一応きれいに貼れたと思うのでホッとした。
先日フォレスターの車検でスバル論田店に行ったとき乗換提案書を前にして応対した新人君に次はWRXかレヴォーグにするつもりだと言った。話の流れで昔インプレッサWRXに乗っていたからと伝えるとすかさずGC8ですかと言う。1995年だと言うとGC8ですねと。スバル車のことは好きらしい。
そのGC8スバルインプレッサWRXを買ったときの担当は岡本さんという50歳ぐらいのおっちゃんだった。上勝に移住して現在のフィットを買う前にフォレスターも検討して試乗したときの担当が今の論田店の店長。そのときだったか岡本さんの消息を聞いた。
そのときは病気で休職していて次に阿南店で今のフォレスターを買うとき再び訊いたらがんで亡くなったと聞いた。その岡本さんには厳しい値引き交渉をしたから随分ストレスをかけたかも知れない。シルビアの車検は迫るが早くから交渉を始めたから急がず時間をかけて話をしたように思う。
あるとき店長から言われたのだろういい加減決めてくれと泣きを入れられた。それで私もその気になった。でも最初に支払おうと思ったら現金が足りず50万円ぐらいを納車時にしてもらったような気がする。当時何度も行った論田店にまた年に年度も通っていて岡本さんのことを思い出すのである。
今年も昨年に続き東京の甥2人は徳島に来なかったので実感がないのだが今児童生徒は夏休みなのである。夏休みと言えば宿題。一昨年までだと甥たちが鳴門の実家に来て彼らの父親つまり私の弟に促されて宿題をしているのを見る機会があった。漢字の書き取りや算数の足し算引き算程度ではあるが。
様子を見ていると今年小学5年の甥2は宿題をやるとなると露骨につまらなさそうな顔をする。仕方なく鉛筆を持ってノートを広げても全身から嫌々やっているという空気が出ている。でも思い出してみれば私だって小学校のときは甥2と同じような態度だったかも知れない。
特に苦手だったのが読書感想文。最近出版された『先生、感想文、書けません!』(童心社)という本が話題のようだが私も大嫌いだった。本を読む習慣もなかったから読み始めるところから大変。課題図書はどれも面白くなさそうなものばかりだったと思うのは偏見か。
小学3年か4年の頃だと思うが母が使う鏡台で本を読んで感想文を書いた記憶がある。居間ではテレビを観てしまうし自分の部屋では集中しないと母に言われたのだろう。外が暗くなりかけ焦りながら嫌々書いたと思う。あのときの私は今の甥2と同じ顔をしていたに違いない。
小学6年のとき走り幅跳びで鳴門市の陸上競技会に出たのだが実は幅跳びの方が得意だったと思う。走り幅跳びも上位だったが当時は体力測定の項目にあった立ち幅跳び。小学6年のときの私の記録は2mで確かクラスで1番だったと思う。垂直跳びも60cmだか70cmでクラスの1番か2番。脚力はあった。
一方で腕力はなかった。特に懸垂は1回か2回がせいぜいで小学6年のときは0回。当時の担任に火事になったら一番に死ぬぞと言われ悲しかった。体力測定は出席番号順で行うが私はたいてい2番目。懸垂は腕を伸ばしたところからやって顎を鉄棒より上げたら一旦腕を伸ばすべきだと思っていた。
でも皆はジャンプした勢いで1回クリアすると鉄棒に対して鼻あたりまで下げたらすぐ顎を上げて2回目。10cmぐらいの範囲で上下するだけだったと思う。それでも5回ぐらいがせいぜいだったと思うが特に器械体操をやっていた岡田君はそのパターンで20回ぐらい続けていた。それはそれで凄い。
10年ほど前ふと思い立って実家階段の裏に付けた棒で懸垂をやってみたら10回近くできてびっくり。数年前に小学生だった甥にやらせると彼は0回。学校で懸垂はしないと聞いてうらやましくもあり少年野球で剛速球投手の彼でも0回なら45年前の私は悲しむことはなかったと思ったのだった。
先日のフォレスターの車検でスバル論田店はタイヤ交換はまだ不要という判断だった。でも寿命は今年いっぱいかも知れないと気にしていたら価格.comのフォレスターのクチコミに先月タイヤについて相談している人がいた。ナイスタイミング。この質問への回答を参考にしよう。
そう言えば昨年12月の冬タイヤ交換時にスバルで見積を取ると15万円。タイヤは分からないからお任せしていたが今になって見積書を見るとブリヂストンALENZA001と書いてある。1本34,980円。今まで点検パックがあったからディーラー頼みだったけどよく考えると別の店で買えばいいのだ。
価格.comの情報を元にするとブリヂストンALENZA LX100は静粛性を重視したSUV用と。ヨコハマBluEarth-XT AE61も同様。今や動力性能より乗り心地の方が大事だと思う私。通販で買ってフィットのタイヤ交換をお願いしているT中氏にやってもらうと安いのだろうが18インチタイヤは重い。
ミシュランPrimacy 4 102V XとダンロップVEURO VE304も含めて店頭価格を調べたいのだがイエローハットに行ってもこれらのタイヤが置かれているわけではない。それより157万円の下取り額なら来年あたり車ごと買い換える選択もあって俄然今のタイヤをもたせようという気になっている。
新型コロナウイルスの影響で昨年は全日程が中止になった徳島市の阿波踊り。運営を委託していた民間企業との契約を徳島市が破棄して今も対立している中で今年は市が主催して12日の前夜祭と今日明日に阿波銀ホールだけで日中無料で選抜阿波踊りを行うとか。15日は田宮陸上競技場で行うという。
しかも徳島県内在住者だけに限って定員を半分にして。そこまでしてやらなくてもという意見もあるし踊れる場があるのはいいことだという意見もある。しかし今日は雨。12日から15日まで雨予報で例年通り街中で開催できたとしても3日または4日間全て雨で中止になったかも知れない。
今日は例年なら地元の「お盆の集い」で朝からテント設営など準備をしているところ昨年に続き今年も中止らしい。中止とは誰からも聞かなかったし町の広報誌にも載ってなかったが開催告知が載ってなかったのだから中止なのだろうと解釈していた。感染症対策で中止だが今日は上勝も雨。
調べてみると鳴門市でも阿波踊りと花火大会が中止。Webサイトを見ると開催したのかと錯覚したが。オリンピックに反対していた朝日新聞社は高校野球を開催したのに雨で順延続き。ステイホームで高校野球でも見るとかと思っていたのに当てが外れて暇を持て余している日々なのである。
昨夜までは何ともなかったが明け方寝返りを打つたびに左腕が痛む。腕を上げると明らかに右とは違っていて触れるとワクチン打った周辺直径10cm弱に痛みがある。15時前に計ってみると36.9度だった。やや高めだがバファリンを飲むほどではない。今日もポカリ500mLと水を意識して飲んだ。
一方で先日受診したがん検診の結果が届いた。5年ぶりだ。胃がんと胸部と大腸がんと前立腺がんの4種類については異常なし。腹部超音波検査は肝嚢胞(小)と胆嚢壁内結石疑いと前立腺石灰化と3つについて「日常生活に注意を要し、経過の観察を必要とします」だそうだ。
母は胆嚢結石で手術をしたような気がするし甥は胆管が生まれつきなくて弟から生体肝移植を受けて再生手術をしているから胆嚢が弱いのは母の遺伝なのだろう。こういう注意の項目があると来年も受けておこうという動機付けにはなる。本当は大腸がん検診も毎年必要なのだろうけど。
さて副反応は夕方から熱が出始めたときのような感覚が出てきて少し怠い。でも計ると平熱だから今夜もビールと日本酒を飲んだ。ワクチンの感染防御力はデルタ株に対して4割だとか半年で効果が切れるという話もあるので結局は当面の重症化防止効果だけのようだ。それでも気分は少し楽。
13:15に出て上勝町診療所。F井嬢とS木嬢の後ろからしばらく待って受付。F井嬢は前回いたご主人がいないと思ったら別途先に来られていた様子。S木嬢やM下嬢ら前回いなかった人がいたのだが彼女らは今回が1回目かも知れない。私も当初は1回目が8月17日の予定だったわけで。
今回は電話をくれた保健師のN嬢もいた。他にも見知った人がいるが会話はなく目礼だけで。今回もK保氏に案内され診察室で接種を受けて控え室に戻ったのが13:47だった。ここから30分待機なのだが周りを見ると9割の人がスマホを見ている。今回はボトルも持参したからときどき水を飲みながら。
帰宅して15時からはA社K氏の日経さんの取材に同席。といってもMicrosoft Teamsで。PCで調べものもできて便利。今後も取材や会議はこの方がいいと思う。さてお盆に帰省する予定だった弟と甥2人はやっぱり止めたと昨日連絡があった。東京の感染者は先週5,000人を超えていたから賢明だと思う。
夕方から怠いし目が疲れた感じがするのだがワクチンの影響か会議で1.5時間集中して聞きしゃべったからか。余り物のポカリと意識して水を飲んで21時でも平熱だ。それならと今日もいつも通りビールと日本酒を飲んだ。副反応の本番は2日目と聞くのでバファリンだけ用意しておいた。
先日フォレスターの車検が終わって峠道ドライブをしているとき車内で電話音が鳴った。iPhone SEに換えたときフォレスターとBluetooth接続をしていたのだ。それで電話が架かってくると音楽の音量が落ちナビには「電話に出る」「切る」という表示が出た。初めてなのでびっくり。
鵜野田尾峠から土成に下りたあたりで着信があって何をどうしたらいいか分からず出なかった。次に電話では川島と言ったが鴨島あたりで架かってきたときに出た。こちらの声はハンドルの向こうにある小さなマイクで拾っている。相手の音量が小さかったが次はボリュームで調整してみよう。
iPhone SEとフォレスターのナビをBluetooth接続させたからだろう信号待ちなどでスマホを見ようとしても「運転中でありません」をクリックししないと使えない。便利なのか不便なのか。ただいつも腕に付けている活動量計FitbitとiPhone SEとがBluetoothでリンクしているのは便利だ。
FitbitのデータをiPhoneアプリで確認できるだけでなく電話が架かってくるとFitbitが震えて知らせてくれる。相手の名前も画面に出る。これで着信音が鳴らない設定にしていても電話に気づく。事務所内ならデスクにスマホを置いていてテレビを観ていても手首が電話を教えてくれる。これは便利。
今回のオリンピック陸上の走り幅跳びを見ていると踏み切り板を超えてしまったり足が合わず手前から踏み切ったり。これだけ鍛錬してきた人たちでも長い助走の末の踏み切りは難しいらしい。それで思い出したのが私が走り高跳びに出た鳴門市陸上競技大会で走り幅跳びの選手に対する担任の言葉。
走り幅跳びに出たのは梅木君だったか私のクラスではない子だった。その彼の踏み切りが50cmも手前だったと翌月曜に担任がクラスの皆に言った。あんな手前から踏み切って勝てるわけがないと。そうだったとしても終わった競技について皆の前で悪口のように言わなくてもいいのに思った記憶。
それとこの陸上競技大会は父が来たことからも日曜だったと思う。競技が終わってから川真田君だったか誰か選手の親に連絡が付かないと教師が困っていた記憶がある。あれは現地解散なのに親が迎えに来なかったからか川真田君がケガをして連絡を取りたがっていたのか。
鳴門総合運動公園は普段の遊び場でもあったから迎えが来なくても1人で帰れるが教師は困った末に川真田君を送って行った。撫養駅前の家に行ったら誰もいなかった記憶があるのだが家も近いから私も一緒に送って行ったのか一旦帰宅して自転車で様子を見に行ったのか。
7月に開会した東京オリンピックは今日が最終日だった。新種目バスケット3×3のことや柔道のことも書いた。男子ゴルフに続いて稲見萌寧が銀メダルになった女子ゴルフも最終組17番ホールから見た。そして今日が閉会式。20時から22時過ぎまでライブで観ていた。
開会式を巡っては直前のドタバタで電通のプロデュースに批判が集まったが閉会式も近年になくショボい内容だった。コロナ禍であって皆マスクをしているし自分の競技が終わると選手村を2日で退所する必要があったそうで参加者も少ない。ただ競技を通して選手たちには楽しませてもらった。
女子ソフトボールも野球も金メダルだったし女子バスケットが準決勝でフランスに勝つとは思わなかった。銀メダルとは凄い。が面白かったのはスケートボード。女子の競技では10歳代の子がチャレンジして失敗して。だけど選手たちがかけよって慰める場面は何度もテレビで流れて私も感動。
スポーツクライミングも女子の試合は最初から観た。ルールも分かっていなかったが面白かったし日本選手が銀と銅を獲ったのもよかった。自転車も面白かった。それにしてもコロナ禍にあって無事に終わって本当によかった。私にとってもワクチン接種までの間ステイホームできて助かった。
車検に出したフォレスターの引き取りでスバル論田店に17時。一昨日の新人N村氏に名前を訊かれたから「一昨日話したやろ」と。税金分は現金だと聞いていなかったが何とか53,810円を出せた。勘違いもあり計122,560円。乗換提案書を受け取ったが5年前の車の下取りが157万円で心が揺れる。
今日は妻が1Qの会合なので夕食も食べて帰る予定でまずは仲之町のシェル。待っている車もいたから助任まで回って給油し何となく鳴門に向かって走り始めた。あらしに1人でいくのは迷惑かとびんび家まで行ってみると表に20人以上が待っている。結局北灘漁協の食堂でスダチブリ刺身定食。
家族連れが4~5組いたが車は大阪や神戸ナンバー。帰省だろう。そう言えば東京の弟が甥2人と1年半ぶりに来週帰省すると連絡があった。弟も母もワクチン接種済みだが私はまだなので今回は会わないことにしている。母も慎重姿勢だが元は弟の飼い犬が高齢で弟が会うのは今回が最後かも知れない。
さて北灘を出て香川の三本松から山に入りI瀬君が事故をした鵜野田尾トンネル経由で石井。素直に帰らずさらに西に行き川島から昔よく走った山道に入った。こんな急でヘアピンばかりだったとは。恵美子からの山道は勇気がなくて行かず。22時前に帰宅。給油してから151.2km。14.9km/L。
オリンピックの男子走り高跳びで3人が同じ記録でうち2人が成功率で並んで優勝決定戦をせず共に金メダルを獲得したというニュースがあった。私は中学3年のとき徳島市陸上競技大会の選手に選ばれ100m走と4×200mリレーに出場したことは前に書いたが小学6年のときには走り高跳びの選手だった。
体力測定などの記録から選抜されたのだと思う。1975年。走り高跳びの技術的な指導など何もなかったと思うが放課後に何度か練習をした記憶はある。そして鳴門市の小学生の大会に出さされた。今の鳴門・大塚スポーツパークにあるポカリスウェットスタジアム。できてまだ5年目の競技場だ。
記録は覚えていないが当時は1.2mとか1.25mぐらいだったように思う。同じ競技の選手が集まって座っていたとき別の学校の子が自分は20がせいぜいだとか話していたから「1.2mじゃなくて20cmなら楽々だろう」と突っ込んだら黙り込まれてしまった。冗談のつもりだったが大いに滑った。
競技で何度目かの助走に入る前に後方から女性の声で私の名前を呼ぶ声援が飛んだ。びっくりしたが誰か分からず気になったまま。スタンドの切れ目のゲートから覗いていた人だと思うが同じところには父も来ていたように思う。競技の結果の記憶は全くないから大したことはなかったのだろう。
1月前に事前診断を受けていたフォレスターの5年の車検でスバル論田店へ。10分ほど前に着いてしばらくして出てきた担当は新人君と見えて質問に答えられない。あるいは適当なウソを答える。途中店長から挨拶を受けつつ仕方がないと諦めて預けて来た。オイル交換はなし。多分11万円弱だろう。
代車は赤いレヴォーグ。さすがに昨年発売の新型は試乗車だけだということで2014年発売の初代である。車検証を見ると登録は2015年9月。1.6Lターボ。スバルからマルナカ前を通ってリカオーで日本酒4本を買って帰った。昨年4月に乗ったインプレッサSportと同じようにいろいろ試してみた。
まずフォレスターなら低回転で加速していくがレヴォーグは早く回転が上がりターボが効き始める。多分燃費は悪いだろう。踏み込んだときの加速性能は十分だがフォレスターとは比べるべくもない。フォレスターだと3秒でアクセルオフしないと危険だがいつまでも踏み込んでいられる感覚。
足回りはWRX S4で感じたような硬さがない。細かな段差は吸収してくれるし背が低いから揺れも少ない。ハンドルは少し重い感覚だがコーナリングは断然いい。ただ後部座席に乗るとき膝をぶつけるし降りるとき足を置く位置が遠く感じる。エンジン性能にはもう少し余裕が欲しいところ。
徳島大学の2022年4月から5年間の学長に河村保彦氏が決まったというニュース。河村先生は徳島男声合唱団「響」の元団員だ。しかも私と同じ2ndテナーでいつも隣で歌っていた。現在は徳島大学の理事で副学長だったらしい。理工学部長になったときも驚いたが今度は学長だ。
先生がいつまで歌っていたか覚えていないが2010年頃まではいたような気がする。その前の東京時代に帰省したとき練習に行き写真を撮って団員がダウンロードできるようにアップしたら河村先生から練習風景の写真は貴重なのでとお礼のメールをいただいた。柔和で穏やかな人物である。
その後に空港で偶然会ったのはもう5年も前。演奏会場で会ったのが4年前。確か奥様がどこかの女声合唱団にいて見に来られたのだと思う。選考委員会で選任されたそうだが事前の学内意向調査では2位だったと。それで学内に反発する声もあるという。
医学部や歯学部や薬学部がある蔵本キャンパスと工学部や総合科学部のある常三島キャンパスで対立関係があるのだろうか。私の知る限り河村先生は敵を作らない穏やかな方なので選ばれたのではないかと推察。次にどこかで会ったら忘れないように「学長」と呼ぶことにする。
母が乗っている車の12ヶ月点検の件があり鳴門の実家。その前に郵便局で外注先の源泉所得税の納税をしてからコーヒー豆を買いに。最近は三軒屋のやまなみ珈琲で買っていたが飽きてきたので通町のいかりや珈琲店。キリマンジャロとコロンビアとクラシックブレンド各200g計600gを買った。
鳴門ではイエローハットに寄ってから実家に車を置いてサカイでひげ剃りクリームを購入。大将と少し雑談。最近事故で死んだ2人を知っているとかいう話。一旦実家に戻り次は鳴門市営バス駐車場前にある中外自動車。私が子どもの頃からあるがサカイによると娘婿が継いでいるという話。
母と歩いて行って届いてたチラシを見せて相談。2時間ほどで終わるから母が適当に持ち込むことになった。代金は振込でもいいと言うので私に請求書を送ってもらうことに。終えて少し雑談。実家に戻り用も済んで帰ろうと車のエンジンをかけたところで母が出てきて書類を渡された。
1つは母方の家系図。叔父がまとめて前に見たことがあるもののコピーか。それと実家の権利書の類。母も終活を始めたらしい。帰宅後に見ると土地家屋の権利書のほか父が死んだときの相続書類など諸々があった。 旧国道からハローズに寄って広島からバイパスに乗りかつやで夕食。18時半頃帰宅。
ゴルフコースに行ったことはないが打ちっ放し練習場なら何度か経験がある。父に連れられた小学校のときではなくて自分が打つために行った最初は大学2年のときだった。必須科目の体育にゴルフがあって楽そうだったから選択したのだ。大学にバスが迎えに来て高野にある打ちっ放し練習場に行く。
好きに打って特に指導があった記憶はない。この授業で知り合った岐阜出身だったかの小曽根さんに誘われてグリークラブに入ったのは前に書いた。次の記憶は1992年に結婚して住んだ昭和町8丁目の社宅マンションの駐車場を挟んだ向かいに打ちっ放し練習場があって何度か行ったこと。
J社に入って何年かして社長から「頼むから助けると思ってゴルフをやってくれ」と言われたことがある。それで練習ぐらいしようと思ったのだろうか。受付にいるとき練習場の人が電話に向かって「もう来なくていい」と言っていたのを覚えている。バイト君が今日は休むと連絡してきたらしい。
このときもクラブは持っていなかったから誰かと待ち合わせしていたのか。そう言えば同期の数人で松茂にあったミニコースに行ったことがあった。バンカーからうまくグリーンに乗せられたときK保君に褒められたから覚えている。我ながらあれはナイスショットだった。
午後からオリンピックのゴルフの試合をテレビで観た。松山英樹が3位ぐらいに付けていて12番ホールぐらいから観ていたのだが最後は銅メダルを懸けた7人のプレーオフで最初にボギーで脱落。残念。それにしてもテレビでゴルフをこれほどじっくり観たのは45年ぶりぐらいだと思う。
私が小学3年の頃に父がゴルフクラブセットを買って来た。28万円とか高額だったと思う。それから打ちっ放し練習場に私を連れて行くことがよくあった。自動的にボールが出てきてティーアップするのが面白くて遊んだ記憶がある。でも父が高額なクラブを私に振らすことはなかったとは思う。
日曜午後は父がたいていテレビをゴルフ番組にするから私も結構観た。あれで1ヤードが約91cmだということやゴルフのルールを覚えた。庭でゴルフごっこをしたのも小学4~5年の頃だと思う。父は打ちっ放しやコースに行かないときは玄関前に人工芝の小さな シートを置いてよく素振りもしていた。
ある日曜日の朝に2Fの自室ベッドの上で多分リコーダーを吹いていたとき北隣にある家の屋根の上をクラブが飛んでいくのが見えた。父の手から抜けたらしい。30年ぐらい経って父も私も覚えていた。人がいたら大事故だった。父も肝を冷やしただろう。ゴルフというとつい亡父のことを思い出す。
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© 2021 Takashi INAGAKI