2006年10月

雨漏り (10月31日・火)


私が住んでいるマンションは雨漏りがする。天井からではなく床から。雨が降るとウォークインクローゼットとの間の寝室絨毯の角が半径20cmほど湿ってきて土砂降りだとびしょ濡れる。入居して半年ほどして気がついて管理会社に連絡した。対策を取ったのは半年後だった。

その対策は原因を突き止めて施したものではなく怪しい箇所を修繕しただけだった。気のせいか以後しばらく雨漏りはなかったように思っていたが復活。半年ほど前の雨の日に管理会社に連絡したら別の不動産会社から数日経って「雨が降ったときに言ってくれ」と言われ切れてしまった。

結局そのときは何もせず最近また酷かったので連絡した。施行した建設会社は破綻しており販売した不動産会社も要領が悪い。2週続けて見に来て先日の土曜は屋上にも上がったが原因が分からず。素人では分からないがプロでも分からないものなんだと思う。

絨毯は何度も濡れて角だけ黒くカビが生えている。寝るときに咳が出たのはこのせいじゃないかと疑ったりもする。問題はクローゼットの床やときに壁も濡れて妻の衣類が湿ることである。固定されていた絨毯を先週初めてめくってみると水がたまり木枠も湿ったまま。いずれ腐るだろう。

不動産会社によると私が入居する前の年の8月にも同じ症状を確認しているという。その時点で建築から7年弱。高級分譲マンションのはずだがこんなものか。私は店子だから気楽なもので家なんか買うもんじゃないなと思う。いや私も徳島にマンションを持っているんだけど。

自己満足の学校教師 (10月30日・月)


学校の教師ネタで思い出したが今も軽蔑している学校教師がいる。話をしたのはそのときのただ一度。名前も忘れていたが卒業写真でいま確認した。高校3年のときの教頭。生徒を自己満足のために使う最低の教師だったと思う。

私は大学受験のために大阪のホテルの泊まっていた。いわゆる受験プランみたいなもので夕食付きシングル。それまで一人旅行などしたことがなかった私は慣れないホテルで夕食後は勉強もせず早めに寝ようと思っていた。そして23時頃にはベッドに入っていたと思う。

ウトウトしていたときに部屋の電話が鳴った。フロントを経由して電話をしてきたのが件の教頭である。用件は明日の受験を頑張りなさいというものだった。担任から激励されるなら分かるが相手は初めて話をした教頭である。電話を切ってから猛烈に腹が立ってきた。

受験前夜の生徒に頑張れと電話をする無意味。寝ているかも知れない時間にかけてきた非常識。しかも以前に話をしたことがなく何の関心もなかったはずの生徒に対しての行為であること。彼が生徒を激励したという自己満足以外に理由を思いつかないこと。

大学進学率のために自分ができることを考えたつもりだろうが逆効果。いつか会ったら文句を言ってやろうと思っていたが忘れていた。それでも教師の不祥事が報道される度に自己満足と自己防衛と無責任な教師は多いのだろうと思う。1982年初春に経験したあの電話から。

差別する学校教師 (10月29日・日)


自殺した小学生が苛められるようになった発端が教師の発言だったというニュースがあって思い出したことがある。教師は子供の気持ちなど考えていないという私の実体験だ。と言っても私のことではない。小学校6年のときの担任とクラスメートMの話である。

Mは背が小さく痩せていて制服はあちこちが破れ多分何週間も風呂に入っていないだろう汚い臭いヤツだった。弟か妹がいたはずだが子供から見ても貧乏なんだろうなと思っていた。成績もクラスで一番悪かったし誰もが好きではなかったと思う。といって苛めはなかった。

あるとき歯の検診の結果がクラスで発表されたときだと思う。虫歯がないとかで何人かが賞状を渡された。そのとき最初に呼ばれたのがMだった。多分出席番号順程度の意味しかなかったと思う。しかし担任はMに渡して次の人に賞状を渡したときに拍手をするようクラスに呼びかけた。

Mは拍手を受けていない。拍手をさせるのならMのときに言うべきだ。その後に思いついたならMをもう一度呼び戻して拍手を受けさせるべきだ。数少ない誉められるチャンスなんだから誉めてやるべきだと小学校6年の私は強く思った。これで担任Tバァを決定的に嫌いになった。

教師はあのときMを差別した。今でも私が座っていた座席の位置とともにあの光景を覚えている。たったこれだけのことだが私にはショックだった。差別は教師が生み出すか助長する。このエピソードは私にとって強烈で最近のニュースの裏が分かったような気がしている。

学校の違法行為 (10月28日・土)


必須科目の授業をしていない高校が多数あることが分かり大騒ぎになっている。単に忘れていたのではなく受験科目を優先するためであって履修していない必須科目でも授業を受けたように偽装しているのが問題視されている。それに対して特例を設けるべきだという意見がある。

新聞によると主に宗教党やキングメーカーを気取っているような前々首相が特例を言っているようだ。対して文科省は必須科目はルールであって卒業までに履修するべきだと主張しているらしい。文科省は正論である。私はこの問題に関しては文科省の主張を支持したい。

確かに受験を控えた高校3年生はかわいそうだ。しかし学校が自ら偽装したことであって学校が教育責任を果たすのが筋だろう。国に特例を求めるのは間違っている。特例を認めれば真面目に履修させてきた学校の生徒がバカを見る。それはフェアではない。

ここで特例を認めるのなら学校は何を教育しているのだとも言いたい。特例を受ければ結局のところうまくやって誤魔化せばいいということだ。みんながやっていれば影響の大きさに鑑み誰かが救ってくれるということだ。それが学校という場でとるべき価値観なのか。

現実に適用させるようルールを曲げるのも知恵だと思う。しかしそれによって明らかな不公平が生まれる。ずるをした方が得をする。卒業を遅らせるなり方法はある段階で特例云々言う方がおかしい。過去の卒業資格は特例として認めてもいい。それが最大の妥協だと私は思う。

若手広報担当者の会 (10月27日・金)


私の最初の勤務先J社の広報担当者からメールをもらった。「若手広報担当者の会」が20周年を迎えOBやOGも含めたパーティを行うという案内である。略して「若担会」は経団連の外郭である経済広報センターのセミナー受講者が作った勉強会だ。一種の異業種交流会である。

私が参加していたのは93年だったと思う。当時は約100社から各社1人の広報が分科会ごとに月に1度集まった。活動はアクティブでビール工場見学や帝国ホテルのスイートルーム見学などいつもイベントが行われていた。私も分科会のメンバーを阿波踊りに招待したことがある。

分科会は毎回テーマを決めメンバー会社の会議室に夜集まる。特にゼロから広報部門を立ち上げた私はお手本がなく不安だったときであって彼らの流儀を聞くこと自体が楽しかった。そして私のやり方が間違いではないと確認するのだった。 公私ともども楽しい会だった。

当時の分科会メンバーとは今も付き合いが続いている。今も広報担当なのは京王プラザホテルと松下電器産業の2人だけだと思うが数人が年に1度ぐらい集まっている。広報担当者はとても積極的で誰とでも友だちになる。素晴らしい仲間たちである。

今回のパーティは誰とでも友だちになる社交性豊かな広報担当者ならではの企画だと思う。OBOGも集めたパーティなんてどれほど盛り上がるか想像するだけでワクワクする。人と人との繋がりもまた面白そうだ。素晴らしいパーティを企画した後輩たちに心から感謝する。

OB仲間 (10月26日・木)


OB会と称する宴会に行ってきた。今日の幹事は業界最大手の専務執行役員でメールをもらったときは驚いたが実質的には私の同期のE氏が差配。魚を釣り上げて刺身にしてもらうという趣向の宴会。私は食べる方に専念しつつ結局は飲んでばかり。

シリコンバレーからこのために帰国したと言うK氏と超久しぶりに話をした。前回会ったのは96年にJavaOneで行った米国法人の会議室。偶然お客さんとして来ていた彼と会って以来だから10年ぶり。噂はときどき聞いていたが本格的に米国で9年いると聞いて驚いた。

次の驚きは業界最大手RDBMSから転職していたF氏。在籍したのは91年から93年の2年だけだと言う。その後テレビ会議の会社に行ったことは知っていて一度は会っているが12年ぶりぐらいだと思う。面影は少し。そして同期のU氏やY嬢やE氏ら18名。

御大B氏に挨拶に行ったら専務執行役M氏の前でボロボロに言われた。妻の仕事は高く評価してくれているそうでその相対として私のダメさを指摘されて正座したまま汗がタラタラ。早々に退散したが久々のBさん節は一つ喝を入れられたよう感じ。

解散後エスカレーターでB氏に呼び止められてF氏とY嬢とB氏ホームタウンにタクシーで。このタクシーの中からB氏に少し反撃。反攻を受けつつ攻め入ったような手の上で踊ったような。焼酎を飲んで酔っ払い。この歳になって叱られてバカと言われてありがたい飲み会なのである。

デジカメ (10月25日・水)


6月に買ったデジカメPanasonic Lumix FX01を手放すことにした。購入時さんざん迷ったCanonから広角28mmモデルが出たので欲しくなってしまった。ちょうど妻の友人が安いデジカメを欲しがっていたそうで売ることにした。オークション相場で1GBのSDメモリを付けて。

それで改めて最近のデジカメモデルを調べて富士フィルムFine Pix F30にも興味を持っているところ。最大の特徴は高感度モード。屋内では手ぶれ補正よりも高感度が威力を発揮すると実感していたところなもので。フラッシュオンとオフの2つを同時に撮影する機能も良い。

ところが先日量販店で実機を触ってみたら操作性が今ひとつ。LumixやIXYに比べると分かりにくい。それとLumixより一回り大きいIXYよりさらに一回り大きくデザインに特徴はなく所有する喜びが持てなさそう。しかも焦点距離は36mm〜で広角を前提にしていた主義に反する。

Lumixに比べIXY DIGITAL 900ISの欠点は露出値を変えて3枚撮影するAEBがないこと。もう一つバッテリ残量表示がないこと。そして一回り大きく若干重いこと。AEBはシャッター時の手ぶれ防止に使っていたがIXYはタイマーの秒数と枚数指定ができるので代用できるかも。

それよりCanonからPowerShot G7が出ている。元々G1ユーザーだった私はこちらの方にも惹かれる。でもG1のようにディスプレイは回転しない。広角でもない。何より重い。そんなわけで理想のデジカメ調べでしばらくは楽しむつもり。

仲間 (10月24日・火)


うれしいことが2つあった。一つは朝メールをもらったこと。多分8年ぶりに話をするJ社の同期T氏。2年ダブっている私より大学院を出ているからさらに2つ上。メールもまどろっこしいのでお昼に電話して話をした。

入社当時よく彼の部屋に遊びに行った。同じマンションのI君の部屋と対象的で汚い部屋だった。同期のM君とF嬢が付き合ったのはT氏の部屋にF嬢を呼び出したからではなかったか。無口な人でいつも会話にならないのだけど何か気が合っていた。

鳴門に係留しているボートを見るのに途中休憩したかったと真冬の寒い日にバイクで実家に来たことがあった。2人でサッカーボールを買って鳴門教育大学のグラウンドで夜中に遊んだこともあった。実はずっと気になっていたのである。近いうちに会いましょうね。

もう一つのうれしかったことは最近東京に転勤してきた後輩のT氏と今日隣町で飲んだこと。話をするにつれ私と同じタイプだと思う。彼に対して言っていることが自分へのメッセージのような気さえする。誰かが何かを気づかせてくれようとしているのだろうか。

このT君と最近会ったのは2年前の徳島。93年には北海道でニアミスもあった。J社を辞めて飲んだのは3回目。今日は奥さんも遅くなってから合流。いろんな話をして奥さんには分からない昔話もしてしまった。で気持ちよく酔っぱらった。こういう人の関係が人生の楽しさなのだと思う。

会計 (10月23日・月)


山田真哉「<女子大生会計士の事件簿>世界一やさしい会計の本です」(日本実業出版社)なる本を買って勉強を始めた。経理の勉強しようと思ったことはこれまで2度あってその度に挫折していた。そういうわけで超入門書ぽい本書を買ってきた次第。

最初に勉強しようと思ったのは1986年か87年。大学5〜6回生の頃で中小企業診断士の勉強をしていたときだ。結局このときは試験を受けるほど勉強もせず挫折した。2度目は会社に入った後の90年代前半。広報をやるにも会計の知識は必要だと思い立った。

思い立ったのは良かったが既に挫折経験があった私は経理部にいた同期のM君に相談した。そしたら彼が入社後に勉強した通販のテキストを貸してくれた。薄い冊子が10冊以上あったかも。1度は読み始めたものの結局は机の中にしまい込んだだけで開くことはなかったのである。

そもそも資産と資本が違うということが理解できない。負債ならマイナスだろう。なのに資本と合わせて資産と同額だという概念が理解できない。たいていの入門書は貸借対照表の見方の説明から入るから言葉の意味に引っかかったらその時点で挫折するのがこれまでのパターン。

今回の本は貸借対照表の説明が最初にないのが良い。会計の考え方を絵を使って何度も繰り返しているのが良い。一通り読んで用語のことは分かったつもり。これまでの挫折ポイントは乗り越えられたかも。でもまだ先は長そうな気はするが。

監視社会 (10月22日・日)


WPC Expoの向かいであった展示会Security Solutionの会場を回って思ったことは監視社会のことである。日本版SOX法対応と称するシステムを紹介するブースが多かった。社員の違法行為を抑制し監視し追跡することを売り物にするシステムの話をあちこちで聞いた。

会社の中の全てのPCで個々人のソフトの使用を記録して不正行為の予兆を管理者に警告するというシステム。不正行為があったら後から誰がいつ行ったか証拠にできるシステム。そういうシステムがあることで期待される不正行為の抑止効果。

こんなシステムが運用されている会社では個人メールはおろかニュースサイトを見ることも憚られるような気がする。個人メールを見るにもデータ持ち出しやウィルス対策から個人PCの持ち込みは厳禁だし接続さえできないだろう。Webメールの利用も監視されているわけで。

結局のところ個人メールはケータイを使うしかなくなるのだろう。そうやって個人のPC離れが進む。企業はデータの持ち出しを恐れる余りシンクライアントに移行する。個々のPCにセットアップされる旧来のパッケージソフトは不要になってASPかWebサービスが中心になる。

そう考えるとWeb2.0は技術がリードするとともに社会からの要請であるのかも知れない。そして監視システムはやりすぎだと思うが導入は進んでしまうのだろうとも思う。少なくとも私はそんな窮屈な会社に勤めていなくてラッキーだと考えることにしておこう。

ATOK (10月21日・土)


先日書いた通り公文書における私の名前はJIS漢字表にはない私のオリジナル漢字である。今後もWORDで作った文書に正式な名前を印刷することがないとは言えない。そんなわけで外字を作っておこうと思い立った。昔は36ドットとかで文字を作ったものだ。

ところがATOK16のメニューの隅々まで探しても外字メニューがない。そうか。あれは一太郎のメニューなのだと探してみたが一太郎にもない。外字コンバーターは見つけたが作成機能はない。今はフォント生成の仕組みが変わったから外字という概念がなくなったのだろうか。

それなら仕方がないのだが気になったのがATOKメニューの分かりにくさ。漢字を探すために今までもメニューを開けるが試行錯誤で目的の機能を探していた。今回じっくり見てみると「文字パレット」「ATOKパレット」「クリックパレット」って名前だけではサッパリ分からん。

「AMET」は私と当時販推にいたN君とで考え出した機能名であって私が最初に機能説明を書いたはず。その私でさえ何の略だか覚えていない。「ATOKナビ」はヘルプかと思ったら見にくい変なUIが現れた。主力製品がこんなに分かりにくくていいのか?

そう思ってATOK 2006を入れて気づいたのだが「目的から機能を探す」というメニューを見つけた。これなら分かりやすい。今まで全く知らなかった。これで少しは機能を探すのが楽になりそうだ。

Windows VistaとOffice 2007 (10月20日・金)


午後から再びWPC Expoに行ってきた。今日は個人的な勉強のため。 Security Solutionを中心に割と丁寧にブースを回った。合間に会ったのはI編集長と10月からWinPCに異動したと言うI記者。再びF編集長とメインステージを統括していたKさん。今日も元同僚のU氏と雑談。

マイクロソフトのステージを真面目に見た。Windows Vistaのエアロの説明を誰もが知っているものと流していた。これだけで十分練られたデモだと分かる。そのほかのVistaの説明は印象に残らないのだがOffice 2007には感動した。ユーザーの不満を突いたデモは秀逸だった。

特にPowerPoint。これで文字だけのシートはなくなるだろう。本気でプレゼンをするなら新しいPowerPointは必須になるのではないのか。今日デモで見ただけでも早くOffice 2007を使いたいと思った。それだけでもVistaに買い換える価値があると思う人は大勢いると思う。

とは言ってもPCがますますブラックボックス化していって面白くはない。設定が本当に楽になって悩むことがなくなればいいのだが実際はどうだろう。相変わらず試行錯誤を余儀なくされる気もする。でもそれも含めて業界にとってはビジネスチャンスなのだろう。

Expo初日の主催社ブースで日経ベストPC編集長のセミナーを聞いた。編集部がベンチマークテストをしたVistaマシンの最低スペック。思わず手帳を出してメモしてしまった。業界にとっては5年ぶりのビッグイベントであって参加しないと負けなのである。

公証人役場と名前の字 (10月19日・木)


生まれて初めて公証人役場というところに行ってきた。都会にあるが田舎の小さな村役場のような雰囲気。男性3名女性2名は全員50歳代と見え想像通り。待ち時間に覗いているとのんびりした仕事ぶりに見える。ハンコを確認して書類を綴じて。お役所仕事そのものの光景である。

ここで先日変更したばかりの印鑑証明書と一緒に書類を出した。そしたら書類に印刷した私の名前が違うと言う。

そうだった。私の名前は違うのだ。実は最初の結婚前後に印鑑を作ったときハンコ屋から画数を良くするために名前の横に点を打つか棒を一本入れるといいと言われてその通りに戸籍を作ってしまっていたのだ。戸籍がそうなってしまったので公文書は全て横棒入り。

そんなことすっかり忘れて普段の署名でも横棒なんか入れていない。だから運転免許証の更新などで書類を出すと名前が違うと言われる。免許証なら大きく書いた手書き文字を修正すれば受け付けてくれるが10.5ポイントでプリントした字にボールペンで修正はできない。

今日の公証人はボールペン修正ができないと見るや何と「まぁいいか」と通してしまった。「何かあったらそのとき修正してもらおう」と。作成し直した書類を持って出直しかと危惧したところにこの言葉。前言撤回。お役所仕事ではなく実に融通の利く公証人役場だったのである。

WPC Expo / Security Solution (10月18日・水)


ビッグサイトで開催中のSecurity Solutionに行ってきた。同じフロアに3つの展示会が共催。境目がなく広さと見やすさを両立して成功している。向かいの会場ではWPC Expo。何と言ってもマイクロソフト社の巨大な巨大なブースが目立つ。

印象として過去のどんな展示会のどんなブースよりも巨大だと思った。CEATECのドコモよりもソニーより松下よりも巨大。Vista中心の展示で過去のどんな展示会のどんなブースよりも人を集めていたと思う。主催の日経BPはマイクロソフト様々である。とN編集長が言っていた。

WPC Expoは昨年に比べスペースが1/2か1/3。だがSecurity Solutionもあって狭くなったとは思えず密度が上がり人が多いという印象。別のF編集長によると誌面で集客に力を入れた成果も大きいのだそうだ。久々に活気が戻ったと思う。今年で最後という話も某氏から聞いたが。

10時過ぎに行ってクライアントのブースを中心に行ったり来たり。午後は主催者ブースでM編集委員を見つけ一緒に昼食。弁当を買って日経BP本部控え室に入れてもらってお茶をタダでもらってコーヒーもご馳走になった。部外者を入れたと後で問題にならなければいいのだけど。

控え室ではD社時代に米国でのリリース配信でお世話になった別会社のY取締役と偶然会ってご挨拶。トイレ前で元日経クリックのK氏とバッタリ。あとブース付近でN副編集長とも。J社の同期だったU君とも会った。人が多くて会った知人は意外に少なかったかも。

アマゾンと書店 (10月17日・火)


amazon.co.jpを利用し始めてから書籍の購入が確実に増えた。それまでなら買わないような本も買うようになった。この商品を買った人はこんな商品も買っています。そうアマゾンが推薦してくるわけで見ていたら欲しくなってしまうのである。

今さらながらこれは凄いシステムだと思う。ロングテールの尻尾の先っぽではないにしても私は根本付近の本をよく買っているような気がする。そしてカスタマーレビューの評価を参考にして購買を決める。低いと買うのを止めることもある。

しかも1ヶ月の購入額が5,000円を超えると500円の割引クーポンが届く。1万円を超えると1,000円のクーポンだ。うまく使えば実質的な1割引。勢い5,000円分買うために合計額が3,400円だと1,600円以上の本を探してくる。その本探しの過程がまた楽しい。

それでもリアル書店はときどき覗く。アマゾンでは私の今までの興味以上の推薦はあまりないから。やはりリアルな書棚でアナログなタイトルを眺める効果は大きいと思う。アマゾンで検索するほどは意識していない興味がタイトルを見て引っかかることがあるわけで。

そして引っかかったタイトルを覚えておいて帰宅してアマゾンで検索して買ったりもする。今日も書店で見つけた本1,365円をアマゾンで注文して5,000円にするため別の1,365円を買った。アマゾンの狙い通りの行動だと思いつつ実は私自身が満足していたりもする。

入社案内と仕事の方法 (10月16日・月)


私が制作した入社案内冊子を見直してみた。今から読むとアンケート項目が幼い。「社内恋愛が多いことをどう思うか」とか「仕事で夜遅くになることをどう思うか」といった内容が目立つ。

それが入社2年目の私が感じた会社の特徴だったんだろう。そして学生たちの噂の元でもあったはずだ。幼い質問はある意味で学生に向けた入社案内には正解だったんだろうと思う。

この冊子の制作は翌年から総務部採用担当に引き継いだ。この年は冒頭の社長インタビューに代えて中堅社員4人による対談で私が司会をした。業界における会社のポジションの話だが今読むと独りよがり。

それより私から引き継いだ採用担当者は私が知っている限り5年以上同じパターンで作り続けた。会社の規模も立場も応募学生の地域分布も社員の意識も変わったにも関わらず。そのことが私は不満だった。

前例を踏襲して微調整するだけで新しい変化も知恵も冒険もなかったとしたらそれは怠慢ではないか。後輩には仕事の形式を踏襲するのではなく考え方を取り入れて新しいものを作って欲しかった。

さすがに今は全く違うのだろう。でも他にも私が始めた仕事の方法は多かったと思う。もし今も「前からそうやっている」という理由だけで同じ仕事があったら情けないだろうなと思う。

入社案内冊子 (10月15日・日)


90年に制作した入社案内冊子は最初からアンケート形式にしようと決めていた。会社のことを知ってもらうには会社側と社員双方の意見が必要だと思ったし一人の意見だけでもダメである。多様な意見が欲しかったし正直な否定的な意見も欲しかった。そうでないと嘘になるから。

この方式にはお手本がある。札幌のBUGという会社の入社案内。少人数だったがインタビュー形式でデザインも格好良かった。もう一つは性に対する女性の意見を何十人分も収録していた『モア・リポート』(集英社文庫)。性への意見から見える女性1人1人の人生に感動していた。

入社案内で行ったアンケート項目はすぐにできた。私は入社2年目で就職活動中の学生の気持ちをまだ持っていたから。採用したのは分量の多い順。採用した人たちの回答は項目によって濃淡がバラバラで就職に際し悩んだポイントや内容も千差万別。狙い以上の結果になった。

人は同じものを見ても思うことは違う。1人に会社の全てを代弁させるなど無理だ。だから多様な意見を紹介すれば自分と似た境遇を見つけ親近感が持てる。それが会社への親近感になる。会社とは個性を持った多様な価値観の集合体でだから面白いということも表現したつもり。

私の会社員人生の中で最高の仕事だったと今も思う。そこには写真の野澤さんやデザインの板東さんの力があったからなのだが。特に編集業務が初体験の私に考え方や細かな点まで教えてくれた板東さんには多大な影響を受けた。人は1人では何もできないと思う理由の1つである。

カメラマンの野澤さん (10月14日・土)


NHKの番組「仕事の流儀」をハードディスクレコーダに録画してときどき見る。今日見たのは写真家だった。広告写真を撮影するときでも被写体の表情を待って待って1枚だけ撮るといったスタイルだと紹介されていた。それで思い出したのが日本写真工房の野澤さんのこと。

1990年。入社2年目の私が企画して会社案内と入社案内を制作した。このとき人物写真を撮ったのが野澤さんだった。特に入社案内では10人ほどの社員をそれぞれ数枚の写真とともに紹介した。当初24ページの予定を急遽48ページに倍増したのは野澤さんの写真を見たからだった。

それほど写真に力があった。野澤さんは会社の中で被写体となる人物の本質を見抜いて最も絵になるロケーションで写真を撮っていた。野澤さんはポーズを付けるより自分の存在を消して遠くからファインダーを覗きながら被写体の一瞬の表情を撮るようなスタイルだった。

タバコを吸いながら休憩しているときに言った言葉を覚えている。「写真とは被写体を撮すというより自分のそのときの気持ちを写しているんです」と。写真を撮っていないときはいつも酔っぱらっているような人だったが格好いいなぁと思ったものだ。

その言葉を聞いたのと同じときだったかも知れない。沖浜第2ビル通用口を出たところで夕方タクシーでも待っていたときか。野澤さんは私のことを特に脈絡なく「変態だからなぁ」と言った。その意味することが未だに分からない。思い当たる節がないわけでもないけれど。おいおい。

印鑑 (10月13日・金)


私は実印と銀行印を逆にして使っていた。今週突然気がついた。正確に言うと印鑑登録したものが実印だから本来銀行印として作られたものを印鑑登録していたというわけ。今のハンコで登録したのは遅くとも95年だから11年以上全く気づかなかったということになる。

この実印と銀行印を作ったのは前の結婚をした前後である。ハンコ屋が注文と納品で2度家にやってきて押し方の指導を受けた記憶がある。当時はハンコに何の関心もなかった。というより銀行員だった父を含めた権威の象徴のように感じていて敢えて無視していたような気もする。

だから投げやりな私はハンコ屋の言われるまま。今になってインターネットで調べてみると材質によって値段はピンキリ。そして私のハンコは見た目から判断すると実は結構高価な材質のものであると推測される。おいおい。私は一番安いもので十分だと思うのだが。今さら遅い。

これまで銀行の書類に押すとき印面が大きいと思ったことは何度もあったが改めて調べると実印の方が銀行印より小さい。小さい方は姓だけだが大きい方は名前もある。やっぱり逆だ。ハンコは自分の分身云々という俗説は信じないが間違いに気づいてしまうと気になって仕方がない。

そんなわけで思い切って印鑑登録を変更した。これまで散々押してきたハンコを実印にするのは良くないとも言われるがどうでもいい。間違っていたことの方がショックでそれを正したかったのだ。それにしても常識のないヤツだと11年以上前の私のことを思う。

『戦争の常識』 2 (10月12日・木)


『戦争の常識』を読んだのは軍隊用語を知っておこうというのが動機だった。軍の仕組みが分からないため日露戦争を描いた司馬遼太郎『坂の上の雲』を読んでいても今ひとつピンと来なかった。多くの日本人がそうであるとは思うのだが私には基礎的な知識が決定的に欠けている。

軍の階級をご存じか。自衛隊とは呼称は違うが応用は利く。大将が一番偉いのは分かるが大佐と大尉はどっちが偉いのだろう。答えは下から二等兵一等兵でここまでが兵卒。その上が伍長・軍曹・曹長でまとめて下士官と呼ばれ永続勤務の職業軍人となる。

この上が将校あるいは士官と呼ばれ下から少尉・中尉・大尉。さらに少佐・中佐・大佐。そして少将・中将・大将。大尉より少佐の方が偉いのだ。では陸軍における組織編成はどうか。旅団と師団はどっちが大きいのだろう。

まず小さい方から下士官がリーダーの10人程度の分隊。分隊が2〜4集まり少尉が指揮する小隊。小隊が2〜5集まって100〜200人規模の中尉か大尉が掌握する中隊。さらに400〜1000人が大隊で長は少佐か中佐。通常は大隊レベルで参謀つまり幕僚が常駐するそうだ。

その上は連隊・旅団・師団。1個師団は7000〜2万人でさらに上は軍団とか方面軍と呼ばれる。一方で海軍の空母・潜水艦・戦艦・巡洋艦・駆逐艦。イージス艦の意味は初めて知った。さて半島付近で戦争の臭い。これからのニュースには必須の知識になるかも知れない。

『戦争の常識』 (10月11日・水)


北朝鮮が核実験を行ったと発表したのは日本が休日だった9日の月曜日。解説をじっくり読みたかった翌日の朝刊が休刊という情けない新聞界だが私は実にタイムリーな本を読んでいた。これも多分妻が買っていたのだと思う。鍛冶俊樹『戦争の常識』(文春新書)。

弾道ミサイルの命中精度は100発打って目標近くに着弾した50発の最大半径CEPで表記するらしい。日本を射程に入れている北朝鮮の中距離弾道ミサイル(IRBM)ノドンはCEP3000mだそうだ。中国のIRBMは500m。米国の大陸間弾道ミサイルは120mとか。ノドンの精度は悪い。

精度が高ければピンポイントで攻撃できるから爆発する弾頭は小さくて済む。精度が悪ければ着弾がずれても目標を破壊できるように威力の大きな弾頭が必要になる。「CEP3000mのノドンが日本の首相執務室を破壊しようとするためには、核弾頭を装着する他ない」と書いてある。

この本の発行は昨年2月。今になって報道にもあるがつまりミサイル発射実験と核実験はセットだったわけだ。この本は続けてこう書いている。「技術水準が低ければ、それだけ戦争が野蛮化するのである」と。おいおい日本は野蛮な戦争に巻き込まれるということか。

ライブ (10月10日・火)


A社の元同僚にして現同僚S氏の奥様でもあるドドミさんのライブがあるとのことで高田馬場。S氏と同僚K氏も一緒。ここ数年来何度も誘われつつ行ったのは今日が初めて。結婚パーティでもらった彼女のCDは聴いていたので曲は知っているはずだった。

ライブの前に寄った定食屋で飲んだ生ビールが酸っぱかった。ライブ会場では気を取り直して再び生ビール。ドドミ嬢が登場して1曲目は知っている。失恋の歌と聞いていたが明るい調子。後で本人に聞いたら本人の意識は暗い感じではないんだと。

5曲中知っていたのはこの曲だけ。後で本人にも言ったけど暗いトーンの曲の方が私は好き。歌の表情にあざとさがないストレート感。前後の人の演奏も聴いたが楽曲は断然ドドミさんのが良い。暗い曲の方がいいと思うのはその方が表情というか魂が入るからだろうか。

ところどころロックバンドYesを想起してしまう。生ギターだからかも知れない。帰りはYesのアルバム「こわれもの」にあるアコースティックギターの曲(曲名忘れた)が頭の中で繰り返すのである。そう言えばドドミ嬢のCD買ってくるの忘れた。それはまた今度にしよう。

実名 (10月9日・月)


ブログに2本目のエントリーをアップした。一部の検索サイトにも引っかかり始めた様子。これで知らない人も見に来てしまうんだなぁと覚悟を新たにしているところだが今回のブログを始めるに当たり最も悩んだのは実名にすることだった。

ブログの名義が匿名でも実名でも恐れているのは匿名による中傷コメントである。知人であることが分かるものなら匿名コメントは歓迎だが知らない人から匿名の中傷を受けたくはない。だから匿名に逃げ込みたいと思ったのだが。

でも匿名で書いていたのでは匿名コメントを批判できる立場ではなくなるような気がする。匿名コメントを無視する根拠として立ち位置を変えてここは自ら名前を晒した方が理にかなっていそうだ。そんなわけでビビりながら開設したわけだ。

そう言えば2ch管理人がインタビューに答えて言っていた。「匿名コメントが気になる人はブログに向かない。気にしなければいいのだ」と。友人のニシノは彼のブログで「匿名の世界で卑怯な書き込みを平気でしている一部の人たちには学問がないということになる。」と書いている。

「一部の人はここまですさんでいるという実態とそういう人には手の施しようがないことを知っておけば、相手にしないに限ると分かる。」ということなのだろう。まだ起こってもいないことを心配しても仕方がないのだが。このことをは肝に銘じておこうと思う。

富士山とトイレ掃除 (10月8日・日)


3連休の中日。風があったものの湿度が下がり空気が澄んだ一日。今シーズン初めて自宅から富士山が見えた。昨日夕方も夕日の中にシルエットだけが見えていたが今日は一日中くっきりとした輪郭が望めた。そんな一日だったが外出をせずに掃除をした。

午後テレビを見ていたらトイレには神様がいて掃除をするといいことがあるという伝説があるという話をしていた。トイレの換気扇に溜まったホコリを掃除しないといけないと話をしていたところで妻がさっそく掃除機をかける。妻と義母が買い物に行った後で私の方がその気になった。

まずは私の部屋掃除から。本や名刺の束やソフトの箱などが置かれPC周辺はケーブルがあって義母が掃除ができないと言っていたとか。私の方は空気が乾燥する季節になるとホコリが原因と思われる咳と熱に苦しむことが多かったから隅から隅まで掃除機をかけた。

そしてトイレ掃除。と言っても濡らしたトイレットペーパーで便器を拭くだけなのだがやり始めるといつも徹底的にやる。裏の裏まで。ほぼ30分。今日見たテレビでは電灯も明るいものの方がいいと言っていた。近く電球を替えるとするか。

今週 (10月7日・土)


三宅島ツアーがなくなって温帯低気圧が去り晴天になった。とは言え海は荒れているらしい。それで子どもの頃を思い出したのだが台風が過ぎ暑い日が戻って海に行っても波が高くて波打ち際で遊ぶこともできなかった。波は残るのである。

さて今週もそこそこ忙しかった。月曜日はA社にて新しい企画の相談。火曜日は秋葉原で某社のイベントに参加し夜は赤坂見附。水曜日はA社のボスと原稿の打ち合わせ。来週金曜日に締切のコラム原稿が2本あるのだ。そして来客。新しいWebの企画を聞くがそれはどうなのかなぁ。

木曜日は午前中にコラム原稿1本を書き午後から台風の雨の中を六本木。小さなレンタルオフィスの会議室。旧知のK氏と会うのは7年ぶりぐらいだろうか。当時と変わらない彼から面白いWebサービスの話を聞く。夜は池袋でA社K氏S氏。現状と課題とそれぞれの考えと。

金曜日はコラム原稿の残り1本。午後は内緒の企画で書類と格闘。ほとんど問題はないのだが細かなことで妻とメールで頻繁にやりとり。ぐったり疲れた。夜になってWebページを作り始めたら行き詰まってしまい今日土曜日も午後から続き。結局休日も仕事をするの巻。

アマゾンや書店で買った積ん読が6冊ほどある。三宅島ツアーがなくなったので明日はそれらの本を読もうと思う。

NHK時計と三宅島ドルフィンスイム (10月6日・金)


※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません
左の時計はBroadband Watchのこの記事を見て取り込んでみた。NHKニュース直前の時報として1968年ごろから1991年ごろに使われていた時計を模したものだとか。物心ついてから父が必ずチャンネルを合わせる午後7時のNHKニュースは毎日見ていたから懐かしい。

さて台風や低気圧が来なければ私は今頃東京湾を出航した海の上のはずだった。A社の仲間らと三宅島に行く予定だった。妻が日記で書いていたがイルカと一緒に泳げるポイントに行くはずだったのである。それが波が高そうで私たち夫婦はキャンセルした。

シュノーケリングでドルフィンスイムをして午後はダイビングをする予定だった。A社の仲間は前にも行ったと8月7日の日記に書いている。盛り上がって妻は寒さ対策のフード付きインナーウェアを先週買ったりしていたが。晴れたとしても波があっては初心者の私には辛そうだとも思い。

今朝のうちに私たちはキャンセルを表明したが皆はとにかく行ってみると言っていた。船会社のWebを見ると欠航になった様子なのだがどうなのだろう。今回の予約など諸々の手配は同僚に任せっきりだったものの楽しみにしていたのだが。

来年は行くことができるかな。結局のところ今年のダイビングは講習を含めても9本だけだった。

音楽アルバムリスト (10月5日・木)


新しいサーバーに切り替えてこのサイトのコンテンツを整理し過去の絵日記も削除した。コンテンツの中でこれまでに読んだ本は数ヶ月前に整理していたのだが音楽アルバムだけは放置していた。ようやく週末になって一気にリスト化することができた。

アマゾンのアフィリエイトにリンクしている。曲名などはそちらを見てもらいたいという趣旨だ。洋楽は英文表記も考えたが面倒なので邦題のまま。アルバムタイトルはアマゾンに依存しているのでその表記を優先した。

古いLPやCDなので既に売られていないものもある。あるいはタイトルが変えられ再発売されたものも。だからリンク先は購入時のものではない場合が多い。LPであってもCDにリンクしている。どうしても同じ曲構成のアルバムがないときはリンクしていない。

LPは徳島の実家に置いたままで手元にないので全て網羅できていない。50枚ぐらい持っていたと思うが忘れてしまった。学生時代はレンタルしたLPをカセットにダビングしていたので当時よく聴いたアルバムと一致するわけでもない。そういう意味で中途半端ではある。

見直してみると持っていたLPやレンタルで聴いたアルバムをCDで買い直した例が多い。買った記憶も聴いた記憶もないCDも。車の中に放置していたものは痛みが激しい。中途半端なリストだが一応これでスッキリした。やはり私はリストマニアの気があるようだ。

『富の未来』 (10月4日・水)


私は『第3の波』を読んでいない。当時はまだ高校生だった。いつかは読まないといけないと思いつつ梅棹忠夫氏の著書を読んでいた先日新著が出たと聞きこの本を買った。上下2巻の本文だけで約700ページ。アルビン・トフラーとハイジ・トフラー『富の未来』(講談社)。

社会動向を分析するためのいわゆるファンダメンタルズ要因のさらに根元的な変化を論じた大著である。時間の進みに格差が生まれ空間が拡張していると論じる。例えば米国のビジネス社会は時速100kmなのに教育は10kmで法律は1kmというように。

もう一つは知識の価値が極めて大きくなっていること。さらに知識の専門化と体系の再編が起こるだろうとしていること。あるいは根元的な変化として経済統計に表れないボランティアや家事は無視できない経済規模だとも。そしてこれからの世界がどうなるのかが論じられる。

「第二の波から、経済中心の考え方が生まれた。」「だが、第三の波の革命的な富では、知識の重要性が高まっていく。その結果、経済は大きなシステムの一部という地位に戻り、良かれ悪しかれ、文化、宗教、倫理などが舞台の中央に戻ってくる。」

700ページの厖大な字数を費やしてマクロな事実を積み上げた結果として著者が言いたいのはこの最後の数行である。ステップを踏む論理展開ではなく700ページの事実の結果いきなり結論が来た印象。最後から遡って読み進めば理解しやすいかも知れない。

秋葉原から赤坂見附 (10月3日・火)


秋葉原に行ったら駅前が様変わりしていてビックリした。何年も来ていなかったんだと思い出してみるとヨドバシがオープンして間もないころ以来だった。そのときは小雨が降っていたから直行して直帰した。駅前を見る余裕はなかったのだった。

それ以前は便利だから末広町から行っていてJR駅前に行かなかったのだ。今日はザコンに行ったら狭く感じた。オープン当初は大きな店だと思っていたのに。ヨドバシにも寄って末広町から赤坂見附。D社の前のオフィスの前にある巨大なビルの裏にある高級日本料理店。

当時はタバコを吸っていてオフィスのベランダから工事中のこのビルを毎日見ていた。1982年に炎上したホテルニュージャパンの跡地。エントランスの小さな池は死者の慰霊なのだろうと同僚と話をした。高層階は住居だそうだが外国人しか住めないだろうとも。

ここで前の日記に書いた食事。内容は書けないが久々に興奮するような大がかりな構想を聞いた。世界と日本。戦争と平和。経済と文化。私にできること。後半は業界の昔話であれやこれや。古い人たちの名前をいろいろ聞いた。プレイボーイ誌T氏のこととかも。

『著作権とは何か』 (10月2日・月)


仕事で関わるので一応これも勉強である。書店でタイトルを見つけて買っていた。福井健策『著作権とは何か―文化と創造のゆくえ』(集英社新書)。説明の仕方がとても丁寧。法律や著作権に馴染みがない人でもすんなり入っていける。これはお奨め。

目次を見ると「法律の条文を読んでみる」「創作性その他の条件」「権利保護の条件」と堅い内容が並んでいるが読んでみると論理が素直で分かりやすい。法律屋の説明のように分かりにくいものではなく堅くもなく。それでいて押さえるべきところはきっちり押さえている印象。

例も「どこまでも行こう」対「記念樹」など具体的で豊富。具体例を知ることで複製の概念と問題点が理解できていく。制限規定も私的使用目的でファイル交換ソフトを例にしたり引用ではパロディを引いたりしてどんどん読める。そして考えさせられる。

バランスは欠いているかも知れない。例えば学校教育での制限に関する記述は表中だけ。だが思い切った重点配分で著作権法の概念がすんなり頭に入る。これは入門書として一押しである。私もこれを読んでいたら18年前に苦労しなかったかも。それほど良くできた本だと思う。

ブログ開設 (10月1日・日)


さまざまな検討を行い覚悟を決めてJUGEMにブログを開設した。タイトルは変更するかも知れないがとりあえず思いついたもので運営する。題して「私的・広報の流儀」。私の17年の広報業務のノウハウや基礎的な考え方を文字にしようとする試みである。

1989年。6月10日だったか日経新聞によるバグ報道でJ社は危機に陥った。入社2年目の私は夏から秋にかけてユーザーに製品を送り直す作業に没頭した。秋になり日経パソコン記者だったW氏に呼び出され話をして広報の必要性に目覚めたのが私のキャリアの発端だ。

それで広報の必要性を認識し12月ぐらいに社長にペラ1枚の企画書を出した。そしたら「自分でやれ」と言われ私は広報担当になったのである。数年後に当時の企画書が出てきて見直したらいいことを書いてあった。入社2年目の私は優秀だったと数年後の私は思った。本当に。

以来約8年J社で広報を担当した。私のチームは女性ばかりで最大で8人になった。最後の3年間の仕事は辛かったが8年間本当に勉強させてもらった。専門誌や新聞の記者さんにいちいち相談して経験していった。当時の8年間は最後まで教えられる日々だった。

J社を辞めて8年半経つが今も勉強は続いている。時代に合わせながら思想をどう盛り込むかが仕事の醍醐味だと思うのだが今回のブログはそんな経験と思想をまとめるようにした。キリがいいので10月1日付。週1回ぐらいの頻度で更新したいと思っている。でも本当に続くかなぁ。

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© 2006 Takashi INAGAKI