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2021年1月

写真プリントのデジタル化とバックアップ (1月31日・日)


先日に続いて昔の写真のデジタル化を行った。昔と言っても20年前。でもデジカメがなくてミノルタのコンパクトカメラで撮っていた時代のものだ。妻と結婚前の1999年9月に福岡から黒川温泉に行ったときのものや10月の沖縄旅行など。どこなのか分からない2000年1月22日のホテルの写真も。

デジタル化したデータはNAS(ネットワークドライブ)に日付を付けたフォルダを作って保存している。つまり日付の特定が必要なのだが書棚の引き出しにある数十枚の写真プリントも取り込もうとしたのに撮影日が分からない。写真の記憶を元にこの日記の記述から年月日を探すところから。

そうすると10年前の焼肉「昴」で地元のN野氏からもらったのだろうプリントは既に取り込んでいることを発見。最初にやったらしい。でも私がリンゴを丸かじりしている写真は取り込んだかどうか分からない。N村嬢がリフトに乗っている写真もあってこれをヒントに2008年のものと分かった。

若手広報担当者の会20周年パーティの写真も取り込んだ。「響」の写真は既に取り込んだものとないものと。とりあえず日付の分からないものは「響」関係のルートディレクトリに。最後にNASにある全てのデータ535GB分を外部ハードディスクにバックアップ。これでスッキリだ。

『性からよむ江戸時代――生活の現場から』 (1月30日・土)


日経新聞の書評で知って買った 沢山美果子『 性からよむ江戸時代――生活の現場から』(岩波新書)を読んだ。内容は全くもってタイトル通り。第1章では小林一茶が52歳で結婚したとき28歳だった妻の月経や性交渉した日の記録。当時の文献を参考にこれが子作り計画だったと推測している。

第2章は妻が妊娠したのに夫が自分の子ではないと離縁。妻は夫の子だと主張して米沢藩の裁定を受けるまでになった騒動の記録。村と藩の裁判機構がよく分かる。第3章は堕胎や間引きの話で第4章は売買春。吉原など幕府公認の遊郭とは別に自分稼や隠売女(かくしばいじょ)と呼ばれる私娼がいた。

幕府は取締を強め隠売女は「いんばいおんな」と蔑視されたが生活困窮者や夫公認の私娼は見逃されたらしい。生活のためなら許されたと。一家の女性全てが私娼だった記録もある。摘発された私娼は入札で遊郭に売られる。その落札額は15歳など若すぎるより20歳代の方が高く売れたと生々しい。

遊郭には養父母が売る場合もあるし実親が売る場合もある。3歳で養女に出したが7歳のとき美人だからと戻してもらって売った例もある。養女を売ることは幕府が禁止するほど多かったらしい。家庭内の性生活の記録に始まり性に関する当時の記録を詳細に紹介していてまとめると以下の通り。

<江戸時代の性は「おおらか」という私たちの常識の問い直しを迫る。仲人を立てた婚姻以外は不義・密通とし、婚姻内の夫婦の生殖のための性を特権化する婚姻・性・生殖の一致という性規範。そうした性規範は、家の維持・存続への人々の願いを媒介に民衆のなかにも入り込んでいった。

幕府や藩の政策ともあいまって、人々は、家を価値化する一方で、遊所や遊女を差別化していく。また、家と生殖のための性の価値化のなかで、抑圧され行き場を失った快楽としての性への欲望を吸収する性買売の大衆化が起きていく。>(p.166-167)構成も巧みな良本だった。

みずほ銀行の通帳 (1月29日・金)


Facebookの誰かの投稿で知ったのだがみずほ銀行の通帳は未記帳分が1年以上ある場合は強制的に電子通帳に移行させられるとか。INTERNET Watchの記事になっている。その期限が今月末。毎年1月末時点で判断するとリンク先のみずほ銀行のサイトに明記されている。

みずほ銀行には口座が3つある。1つは5年前に作った徳島支店の法人口座だが2つは東京時代に開設した個人口座。今は同一銀行で2つの口座は作れなくなっているはずだが当時は同じ支店でさえ自由に開設できた。妻と同居するために住んだ烏山支店で2000年に作った

当時は富士銀行だったと思うが家から駅までの間にあったという理由だけで作った口座だが1つは家賃や光熱費の引き落とし用でもう1つは個人の金銭を管理するためだった。その後会社を作って報酬の振り込みは三菱UFJ銀行で作った口座を使っているから今やほとんど放置している。

いっそネットに移行した方が便利だと思うが紙の通帳がなくなるのもどうだろう。そういうわけで今日は夕食を兼ねて記帳のために徳島へ。みずほ銀行の使っていない口座には毎年2回2円ずつ利息が付いて残金が519,518円あった。帰りに八万のチャイニーズダイニング雲丹という店で担々麺など。

Omoidoriで昔の写真デジタル化 (1月28日・木)


実家にある昔の写真アルバムを持ち帰ったのは1年半も前。これをデジタル化しておこうとしているのだが昨年6月に作業をしてまた止まっていた。既に書いているがとにかく面倒なのだ。写真を撮るだけなら簡単だがアルバムのページ毎に母が書いた説明書きでフォルダを作るのが大変。

Omoidoriという器械を使うのだが対応しているiPhoneは多くない。私のiPhone7が壊れたら古いiPhone5Sを復帰させればいいのだがそれも面倒。というわけで意を決して作業を始めた。手元に残っているアルバムは5冊。1冊は父母と行った新婚旅行の香港の写真だから改めて取り込むこともない。

もう1冊は母が何回か親戚の結婚式に行ったときのものだからこれもデジタル化しておくこともない。残りは3冊。1冊は私の小学6年生の頃のものだが2冊は弟の写真ばかり。これも気が進まない理由だった。だがせっかく作業を始めたのだ。弟の写真も取り込んでおいてやろうじゃないか。

と言いつつ作業を始めたら集中してできた。やれやれ。当面Omoidoriを使うこともないだろうと電池を外し箱に入れて片付けた。と机の上にフィルムカメラ時代に妻と行った旅行の写真をOmoidoriで取り込むために置いてあったことを発見。置いてあることを忘れていたけど今度の作業にしよう。

電話子機のバッテリー (1月27日・水)


2006年11月に会社を作って東京時代は中古のビジネスホンを使っていたが徳島に引っ越す前に解約。上勝では電話回線をISDNにして新規に買った家庭用コードレス電話機を使っている。Panasonic VE-GP32。子機が2台。ところが丸12年が経って私が使う子機のバッテリーがへたってきたようだ。

昨年あたりにA社K氏と電話をしていて通話が1時間近くになると突然切れる。2度あった。今年になってからは受信できないし発信できないこともある。充電器に置いてあって子機の画面に充電中という文字は出るがバッテリーマークは満タンにならない。妻が使っている子機は大丈夫なのだが。

電話機自体を買い換えようかと思いつつ子機だけでいいだろうと調べてみると製造終了。販売中の子機が私の親機に対応しているのか分からない。結局バッテリーを換えれば済むと気づいて調べてみた。型番はKX-FAN51。Panasonicストアで2,420円。ヨドバシでは売ってない。

アマゾンで1,880円であることを見つけて注文して昨日届いたので子機に装着してまずは充電。最初の充電は10時間ぐらい掛かると納品書に書いてある。今日は満充電になったようで普通に使えるようになった。12年経ったのは妻が使っている子機も同じなのでこちらも換えておこうかと思案中。

雨の中の買い物 (1月26日・火)


先日やまなみ珈琲で買って来たコーヒー豆400gが2週間でもうなくなりそう。毎食後に食べているみかんも昨日でなくなった。ちなみに6年前に書いたときみかんは毎食後5個ずつ食べていたようだが今は妻に言われて2個に減らしている。それでも2袋買って来ても10日ぐらいでなくなってしまう。

みかんをいつも買っている勝浦のよってネ市は17時までだしやまなみ珈琲は18時閉店。というわけで本降りの雨の中を昼食がてら妻と買い物に行って来た。ところが昼食も食べようと思っていたやまなみ珈琲に行くと道路沿いにも車がいっぱいで断念。食材の買い物にマルナカまで行った。

カプリチョーザでペペロンチーノを食べて私は三菱UFJ銀行まで記帳に。戻って妻をピックアップして次はリカオーでビールの空き缶や一升瓶を引き取ってもらい土佐鶴の一升瓶を購入。初めて通る裏道からやまなみ珈琲に行って今日はブラジル300gとモカ200gとキリマンジャロ200gを買った。

帰りの勝浦川沿いの県道は35km/hで走る軽四のおじいちゃんの後をトロトロ走り私の前にいたダンプがいなくなりローソン手前でようやく抜けてよってネ市でみかんを買って上勝に戻って郵便局で妻が記帳して15時半頃に帰宅したという一日。夕食前に計った体重は59.9kg。体脂肪率16.3%。

ボウリングとお好み焼き (1月25日・月)


夕食でお好み焼きを食べることが最近よくある。家でホットプレートを使って作る。お好み焼きと言えば子どもの頃も家で食べたことはあったような気はするが思い出深いのは高校時代だ。当時は合唱部のメンバーでよくボウリングに行ってその後はたいてい皆でお好み焼きを食べに行った。

ボウリングは学校から近かったから住吉ボウルが多かったはずだが城山ボウルという名前だったと思うのだが出来島の三ツ合橋近くにもよく行った。投げ放題デーというのがあってOBに誘われて行く。右手で5ゲームもすると疲れてきて次は左手で投げる。10ゲームぐらいしたかも知れない。

その後たいてい徳島駅近くのニュー白馬に行った。OBは8年前に52歳で亡くなった森泰人さんと今は「響」メンバーでもある精神科医E川氏と徳島県合唱連盟理事長のN居氏がいたと思う。中高の同級生が副院長を務める日比野病院の隣にあって2Fに上がる喫茶店にもよく行った。名前は忘れたが。

1982年の京都で会った中高の同級生Y原と一緒に行ったお好み焼き屋で彼がご飯と一緒に食べていて驚いたと書いてあるが高校時代に皆で食べたお好み焼きはおやつ扱いだったように思う。帰宅してから家で夕食も食べたと思う。その後もご飯と一緒には食べない。あの食べ方だけは理解ができない。

古いBluetoothマウスと動画編集 (1月24日・日)


顔ヨガ指導者養成講座3日が終わった昨夜遅くなって妻がPCの具合が悪いと言い出した。左クリックでいちいちメッセージが出るのだとか。PCの画面を覗き込むと左クリックなのに右クリックしたときのメニューが出ている。マウスの不具合だろうか。とりあえずPCを再起動してもらった。

でも直らない。マウスが壊れたのか。予備のマウスがないかと古いPCを置いてあるラックを覗くとキーボードが3つとマウスは1つ。古いPC本体は一昨年に近所のY田君に譲ったのだ。キーボードは不要だから手元にあって一方で今までPCを買い換えるときマウスは買い換えなかったのかも知れない。

残っていたマウスはスクロールホイールがベタベタ。と古いPCから取り出したハードディスクの上にマウスがある。東京オフィスのノートPCで使っていたマウスか。中を見ると電池はあるしBluetooth送信機もある。マウスの予備は私の古いPC用とサブノート用のものがあるがとりあえずよかった。

今日は妻がオンラインの指導者養成講座の最終日。その前にインストラクター派遣要請があったそうでまたお仕事をいただいた。ありがたい。私は妻が以前撮影していた顔ヨガのワンポイントレッスンを3つのファイルに分け編集をしてサムネイルを作成。やれやれ今日も仕事をした実感。

『木頭村 その山河が問いかけるもの』 (1月23日・土)


藤田恵『 木頭村 その山河が問いかけるもの』(東京シューレ出版)を読んだ。著者は現在の徳島県那賀町に合併する前の木頭村の元村長。那賀川上流に計画されていた細川内(ほそごうち)ダムの建設を中止に追い込んだ人物だ。1993年に当選して2000年に建設中止が決まったらしい。

当時は連日この問題が報道されていたから買ってみた。月刊誌「むすぶ」での昨年までの連載をまとめたものだが全体の2/3が子ども時代の思い出話。田植えや魚捕りやハチのこととか山中の自然を懐かしむ内容だ。1939年生まれだから戦中戦後の田舎暮らしの話でそれはそれで面白いのだが。

杉を大規模に植林した拡大造林政策がいかに日本の国土を荒廃させたか。全くその通りで元村長ならではの視点も期待していたのだがこうした内容は冒頭の30ページだけ。しかも途中で自慢話と左翼の主張が混じってきてあれれ。元は牟岐町の郵便局員でNTTに転じて労働組合の書記長だったらしい。

当時の木頭村はダム建設に住民の75%が反対していて村議員10人の構成は半々。反対派の議会議長だった実兄に担がれて村長になったと。当時の圓藤寿穂知事が裏切ったため県を飛ばしてターゲットを国会議員に定めたという政治闘争の話は面白かったが。左翼活動家の自慢話として読んだ。

運 (1月22日・金)


学生時代だったか大昔に読んだ本にPanasonic創業者の松下幸之助氏は部下2人の実力が拮抗しているときは運のいい方を昇進させたと書いてあって何故か記憶に残っている。当時はピンと来なかったと思うのだが歳を取ってくると松下幸之助氏の考え方が分かるようになってきた。運は大事だなと。

ビートたけしはお金が落ちていても拾わないらしい。運を使ってしまいたくないのだとか。運について考えるのはコロナ禍にあって経済が落ち込んでいるからだ。一昨年とか昨年とかに起業した人は運がない。それまで順調なビジネスですら苦境に陥るのに新規の起業では太刀打ちできないだろう。

身近な例で東京単身赴任だったY内氏が一昨年末に会社を辞めて徳島に戻り失業保険を受け取る期間がコロナ禍にあった。あのまま勤めていたら徳島に帰省もできなかっただろう。運がいいと思う。一方で知人の身内が徳島でジム経営を始めたのが一昨年だったか。起業していきなりの苦境である。

何が悪かったわけではない。運がなかったと言うほかない。前に書いた裏切り者も運はない。逆に裏切られた私たちは売上が下がるところをコロナ禍で持続化補助金や家賃補助金をもらえたから運が良かったと自分に都合よく考えたりもする。ビートたけしではないが大事にしたいと思うのである。

プレオの任意保険契約 (1月21日・木)


昨夜24時半頃FBメッセージが来た。昨日会って来たT保険事務所のT君だ。母の車プレオを私や妻が運転した場合の事故は私たちの保険でカバーできることを確認した上でプレオの保険は母の本人限定にしたのにプレオの所有者が私であるから私たちの保険でカバーできないと今になって言う。

私たちの保険でカバーするにはプレオの所有者を母に換える必要がある。埒があかずT君が電話をして来たから話をしたがこういう場合はカバーできないことは分かっていたらしい。それなのに母の車検証をよく確認していなかったのだろう。いや昨日会ったとき私が所有者だと確認したはずだが。

彼は自分のミスだと認め本人限定を外して高くなる6,300円の差額は彼が持つと言い出す。3年間で約1.8万円。しかしそれは筋が違う。ともかく酔っているから明日話そうと電話を切った。妻に伝えると代理店を変えた方がいいと主張。友だち関係だから甘くなっているのだという理屈には一理ある。

次に同じようなミスがあれば変えることにする。ただ事故前あるいは発効前に気づいたのだからよかったとも言える。プレオの保険をT君に代えたから問題が発覚したとも言える。とりあえずプレオを運転しなければ問題はない。本人限定を外すのは後日でいいし差額の返金も不要と伝えた。

母の自動車保険と税務署 (1月20日・水)


母に買った車は一昨年9月から乗っているが任意保険は継続していた。その3年契約が1月26日で終わる。次は私の車の保険でお世話になっている元同僚T氏にお願いすることにしていて車検証や母の免許証は写真に撮って既に送っていた。支払は私が行うので今日は銀行印を持って事務所に行って来た。

北島の大通り沿い。ここは2度目だ。2Fのオフィスに入ると4年前に来てくれたM田君と女性。前は元J社の後輩で旧姓K人嬢だったのに違う。一瞬S田嬢だと思ったが23年も会っていないから自信がない。結局名前を聞いて確認。T君とM田君と同期のS田嬢だ。唯一の高卒入社だから私とは7歳違いか。

S田嬢とひとしきり昔話をして肝心の保険のこと。車両保険分が減るから3年契約では毎年安くなっていくと知る。母にはすぐにでも運転を止めて欲しいがいろいろ話して単年度ではなく3年契約にした。保険の話はすぐ終わって結局またT君と人々の噂話。16時になって退出。最後にS田嬢とまた諸々。

次は鯛の浜から旧国道を経て三菱UFJ銀行で記帳をして徳島税務署。1台分だけ空いていた表に駐められた。先日作成した支払調書8枚と法定調書合計表を提出。報酬の所得税徴収納付書15枚も印刷してもらった。帰りにリカオーで日本酒2本を買いコンビニと徳島銀行とスーパー経由で18時帰宅。

テレビや政治家のマスク (1月19日・火)


昨夜のテレビ東京「ワールドビジネスサテライト」を観ていたら大江麻理子さんら出演者がマスクを付けていた。今までは出演者の間にアクリル板を置いてあるだけだったから驚いた。マスクを通しても音声は問題ない。右へ倣えではなく必要な対策を率先して行ったテレビ東京は偉いと思う。

ニュース番組だけでなくお笑い芸人が出るような番組でもたいていアクリル板でロケの場合はマウスシールドかフェイスシールドの場合がほとんどだ。一般の人はマスクを付けているのにテレビ出演者だけがマウスシールドでいいのだろうかと以前から違和感を持っていた。

飛沫の飛散量は不織布マスクで20%まで減り布マスクの場合は18~34%でウレタンだと50%というツイートも先日あった。フェイスシールドは80%でマウスシールドは90%。つまりマスク以外は役に立たないということだ。こういう情報があってなおマウスシールドを使うのは罪ではないのか。

さらに政治家がマイクの前に立つとマスクを外すのも罪だと思っている。街で携帯電話で話すときにわざわざ付けていたマスクを外す人がいるらしい。これも政治家の習慣が伝染しているのではないのか。飛沫を飛ばさないようにマスクをする。政治家やテレビこそお手本を示せと言いたい。

がん保険 (1月18日・月)


J社勤務時代にAFLACのスーパーがん保険を契約した。私の記憶では前の奥さんの母上が亡くなったのが私たちが結婚した1992年の年末のはずだから翌春あたりに元奥さんが契約を進めたと思っていた。ところが保険証券を見ると1992年2月1日。結婚式は2月中旬だからそれより前だった。

しかも当初は2口で契約している。元奥さんは私より口数を多くしていた記憶があるのだがそれが1993年の話だったのだろうか。ファイルしていた書類を見るとJ社を辞めた1998年4月1日付で1口に変更していて2001年に保険料の受け取り人を父から今の妻に変えている。

その後は年に1回ぐらいの頻度で厚いパンフレットが届いて契約を見直さないかという電話がある。昨春もあって仕方なく電話で話を聞いていたが2つのプランのうち現行契約を生かす方がいいと答えたら相手が契約の意思なしと勘違いして逆ギレされた。そんなにノルマが厳しいのだろうか。

9月中旬にまた電話があり資料が届いた。一応パンフレットを見ると今までのものよりは分かりやすくて言いたいことは分かった。でも政府の高額療養費制度で賄えない医療費のためには別の保障が必須で年2.3万円も増える。やはり断ったのだが先週また電話があってDMが届いた。ご苦労なことだ。

消防詰め所 (1月17日・日)


水道管が凍結破裂し消防詰め所の2Fが浸水した件で今日は役員が13時に集合。3枚だけ上げていた畳だが12枚全てを運び出し向かいの体育館で乾かそうという算段。最初は私とM下氏が階段から運び出していたがY山機械部長とM引班長が庇から地上に降ろし始めた。そんなことができるのか。

私とM下氏で体育館に運び入れたが今度は2Fに上げようと言う。それは無理だろうと思ったら2Fから下ろしたロープの輪に畳を入れて再びM引氏が引き上げる。私には思いつかない発想と行動に驚くばかり。次に2F床板を剥がしにかかったM引氏。1間分を剥がすと北東に水が溜まっている。

その付近の床板も剥がし水はバケツに汲む一方でT中副分団長がコンクリートに穴を開け始めた。床下のサイドに風の通り道として2カ所と床に水抜き用の2カ所。2F床下の水はなくなったので無線機も所定の位置に戻し預かっていたエンジンカッター充電器やACバッテリーも元の位置に設置した。

この時点で15時過ぎ。休憩からそのまま慰労会になって一升瓶のケースに腰掛けストーブを囲んだ。I本会計部長とM下班長とM引班長が帰りH木分団長とT中副分団長とY山機械部長とN野総務部長とN岡君と私と通りかかった本団T口副団長が合流して7人で大いに飲んで19時前まで。ビール1.85L。

弥生会計21のサポートプラン (1月16日・土)


一昨年12月に買った弥生会計20は特に意識しないままダウンロードしたのだろう昨年バージョンアップしていて弥生会計21になっている。20を買った段階であんしん保守サポートが無償で付いていて21へのバージョンアップは無料だった。でも今年2月が期限で継続の場合は年額37,950円が掛かる。

今日届いたDMによると保守サポートの解約は1月25日が期限だと。もともと06年版を買って20まで14年間もバージョンアップをせず使い続けていたので毎年の新バージョンを使うことに意味を見い出せない。DMには法改正にも毎年対応すると書いてあるが税理士さんがうまくやってくれるはず。

20の購入時点で無償期間が過ぎたら解約するつもりだったから弥生のWEBに行ったのだが解約もコース変更もできない。改めてDMを見ると電話でしか受け付けないらしい。酷い仕様だ。ひとしきりツイッターでも毒を吐いたが弥生も楽天と同じ穴の狢だったか。月曜に電話をするしかない。

ただ私が契約していたベーシックプランのメニューのうち操作サポートは使わないがクラウドバックアップには惹かれる。年27,200円のセルフプランにすればいいのだが余計なメニューもある。バックアップ機能だけで1.5万円なら納得できるが月換算2,266円は高いと思う。さてどうしよう。

※18日(月)にプラン変更のつもりで電話したものの待ち時間の間に考え直しNASにバックアップすることにして解約した。

『菜の花の沖』 (1月15日・金)


第1巻の若衆組について前に書いた司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫)全6巻をようやく読み終えた。日経新聞日曜版で誰だったか通信系の経営者が司馬作品ではベストだと書いていたから読んだのだが15年前に読んだ『坂の上の雲』に通じる説教臭さがあって面白さも半分だった。

主人公は蝦夷貿易を進めたが国後島でロシア軍艦に拉致され捕虜となる。そこから相手方司令官リコルドと友情を結び一商人ながら幕府とロシアの間に入って交渉に当たろうとする。ビジネスであっても国を代表し威厳を持ち卑怯なことをせず誠心誠意に行動するところが経営者に受けるのだろう。

物語そのものは素晴らしいのだがクライマックスに向けた背景説明が細かすぎて挫折しそうになった。蝦夷地経営を任されていた松前藩が実はアイヌを奴隷として扱い幕府がこれを改めようと直轄領として経営しようとするところだとか幕府の権力構造だとかロシア国内の政治情勢だとか。

幕府の記録や当事者たちの回想録が残っていて第6巻は原文のまま紹介されていたりする。第1巻は創作に寄りすぎ最後になると史実に寄りすぎ全体を読んで小説としては今ひとつ。若衆組のいじめに遭い淡路島を出た高田屋嘉兵衛が同郷の妻おふさと故郷に帰った晩年のことも知りたい。

支払調書の印刷と封入 (1月14日・木)


顔ヨガについてAbemaTVから問い合わせがあったのが一昨日。出演依頼が昨日来たがさすがに前日では講師の調整は難しい。しかも出演料が安い。時間もないから自由になる妻が自ら出演すると今夜Zoomで接続していた。出演は15分だけだったが当初は待機が2時間という話だった。

それで2時間の間に私がやれる仕事を考えて今日は支払調書の作成に取り掛かった。ネットで中継している間に宛名書きをしようという算段だ。まずは15時頃から年末調整や支払調書を作成するためのソフト魔法陣で印刷の設定。昨年末にバージョンアップ版DVDと一緒に用紙も送られてきていた。

法定調書合計表も自動で作ってくれるのだがExcelで管理している数字と合わず試行錯誤。年末調整をしていない設定にするのが正解だった。提出が必要な支払調書についてはこの日記の記述が役立った。役員報酬の源泉徴収票は昨年提出していないのだが国税庁のページを見て不要と判断。

役員報酬の源泉徴収票を国税庁のWebから入力すると文字化けするからPDFを印刷して手入力した。一方インストラクターへの支払調書は19枚。コロナ禍にあっても仕事をしていただいたわけだ。支払調書を印刷して名前と住所を確認しつつ宛名書きした封筒に入れて。面倒な仕事が終わった。

やまなみ珈琲のコーヒー豆 (1月13日・水)


東京時代から家でコーヒーは飲んでいたが上勝に来てから毎昼食後にマグカップに入れて飲む習慣ができた。2015年からは豆を買ってきて自分で挽いて淹れる。豆は既に常連だった小松島のこはくの天使で買って来た。でも今年から別の店の豆を使おうと思っている。理由はマスターの態度である。

10年も通い最盛期は週に3回ぐらい食べに行っていたからマスターとは友人のような関係だ。でも彼はコロナ禍にあってマスクをしない。マスクぐらいしたらどうかと昨年5回も6回も言ってきた。12月12日に行ったときも客が2組いたのにマスクなし。さすがに感じが悪いぞと忠告したのだが。

このご時世でマスクをしないまま常連たちとしゃべりながら料理をしたり接客をしている店は淘汰されてしかるべきではないか。甘やかしたくはないので今年はこはくの天使には行かないことにした。問題はコーヒー豆をどこで買うか。値段はどこもこはくの天使より概ね2割以上高いのだが。

こはくの天使の豆はブラジルとグァテマラとコロンビアが好みだったが味はだいたい分かったので新しい豆も試してみたい。ネットで調べると一番近いのはやまなみ珈琲の三軒屋店か。豆のテイクアウトもできると調べて今日買って来た。とりあえずブラジルサントスとモカを200gずつ。

消防無線機と停電対策 (1月12日・火)


消防詰め所1F車庫の天井から噴出した水を浴びた無線機を事務所に持って来てファンヒーターの前で乾かしていたのだが2日経った。邪魔でもあるしもういいだろう。無線機は7台。1台ずつ電源を入れるとどれも問題ない。そのまま送受信を交互にやってみて問題がないことを確認した。

ACアダプタを延長コードに繋いで7台全てを充電。新しい小電力無線機はオレンジのインジケーターが一瞬付くがすぐ消える。バッテリーは満充電らしい。古い分団の無線機4台は赤のインジケーターが付きっぱなし。でも既に充電は十分なはず。数十分でアダプタを外した。

もし今夜にも火事があったら困るので無線機は消防車の後部座席に載せておくことにした。そのままでは散乱して人が座れないので小さな箱に入れた。天井からの水は止まっている。ACアダプタやエンジンカッターの充電器などは詰め所が濡れているので箱に入れたまましばらく預かるつもり。

さて全国的に電力が逼迫しているらしい。燃料が足りないのだとか。原子力が稼働していない中で太陽光や風力による発電が当てにならず四国電力でも供給能力の98%を使っていると。停電に備えてサブノートPCの充電を始めた。電気が要らないストーブはあるので灯油も明日買い足して来よう。

分団詰め所の漏水 (1月11日・月・祝)


消防団分団詰め所の漏水について今日13時に集合がかかり役員を中心に7人ほどが集まった。1F車庫の天井コンクリートにある電気配線の穴から吹き出す水は丸1日経っても昨日と全く変わらない勢い。水道の元栓を止めたのにどこかから水が供給されているのだろうか。そんな疑問を皆が持つほど。

屋根の上の状況を見ようと裏山に登ったが特に不審なところはない。枯れた草がまとわりついてひっつき虫が身体中に付いてしまった。ともかく2F座敷の畳を上げる作業に加わり3枚だけ。下の板敷きは畳と畳の間で濡れている。冷蔵庫も畳を剥がした板敷きに下ろし。

分団長が元栓を1度開けて確認したところ漏水場所は蛇口直下の様子。ここから水が壁の中を伝って1F屋根裏に溜まったのだろう。畳まで濡れているから笑い事ではないが2Fなのに床上浸水だと。水道工事のため流し台も引き出して板敷の上へ。何十年も動かしていなかったからゴミがいっぱい。

1Fに下りて車庫天井の水の噴出口を見上げるのだが勢いは全く衰えない。30m2の1F屋根裏に厚さがどれほどなのだろう。いったい何tの水が溜まったいたのだろう。皆で水を見上げていても仕方がないので解散。車の雪は今日やっと溶けたと思ったら今夜遅くから雪らしい。

水道管の破裂 (1月10日・日)


金曜から町内あちこちで水道が凍って水が出ないとか寒すぎて給湯器が稼働しないとかFacebookの投稿を見ていた。集合住宅の我が家は大丈夫だがWeather Newsによると上勝町傍示の土曜の最低気温は-9度で今朝は-7度。木曜に車の上に積もった雪は今日になってもまだ溶けない。

と今日昼食後に消防団のH木分団長が来た。詰め所の水道管が破裂して無線機がびしょ濡れだから見て欲しいと。8時から乾かしていると言う。防水仕様だから大丈夫だと思うがヘタに電源は入れない方がいい。分団長は屋外でそのまま見張っておくと言うから無線機は私が事務所に持ち帰った。

水道管は2F屋内で裂け電気配線を伝って1F車庫に噴出したらしい。そう言えば昨夜24時半過ぎ駐車場に出たとき水音がしていた。隣の公民館の水道を凍結防止で出しっぱなしにしているのだろうと思った。それにしては音が大きかったが消防詰め所だったのか。シャッターの中で噴出していたようだ。

15時頃にはH木分団長と本団T口副団長とA総代と元役場課長のY山氏がいたから再び詰め所に行ったが1F天井からまだ水が落ち続けている。詰め所脇は漏れた水が凍って氷が張っていてA氏が朝滑って頭を打ったとか。さて夕方は近所の若者N蔭君が3歳と1歳の子を連れて遊びに来て雑談。

発熱のイベント司会 (1月9日・土)


久しぶりに発熱して過去の同じような経験を思い出した。この日記を書き始めて以降なら先日もリンクした2007年と世田谷区烏山に住んでいた2004年の印象が強い。2004年のとき行った病院は地図を見ると世田谷下田総合病院だ。インフルエンザではないと言われた診察室の光景を覚えている。

J社時代で覚えているのは1995年前後の東京出張のとき。昼過ぎから熱っぽくなったものの夜はイベントの司会をすることになっていて支社を部下のN嬢と出た。途中の薬局でユンケルか何かを買って飲んで同期で専務秘書だったT田嬢とも会って一緒に会場の帝国ホテルに向かった。

イベントは出版記念のパネルティスカッションだった。開発企画部K林氏と作家の紀田順一郎氏だったか荒俣宏氏がいて出版部長N尾氏がコーディネーター。私は全体の進行。熱でしんどくて朦朧とするところ集中していた記憶がある。パーティでは熱があるのにビールに口を付けたような気もする。

でも終了後は打ち上げなどに行かず多分五反田センターホテルに帰って寝たと思う。どうしてそこまでして仕事をするんですかとN嬢から訊かれて何と答えたか覚えていないが当日できませんと言うわけにはいかなかっただけだろう。さて今日は夜36.7度。安静時心拍数も63に低下。ビール解禁。

スコップまたはシャベル (1月8日・金)


スコップは柄も含めて20cm程度の小さいものを指し1mと大きいのがシャベルと私は呼んでいた。ところが「秘密のケンミンSHOW」で知ったのだが関東では呼び方が真逆になるらしい。Wikipediaによると足を掛ける部分のあるのがシャベルで逆にないのがスコップとJISで規定されているとか。

だとすれば私を含む関西の呼び方が正しい。ともかくシャベルつまり大きい方を正月に買った。前に買っていたシャベルは2年前半前に寄付して手元になかったのだ。と過去の日記を見ると私はスコップと表記している。しかも8年前は980円で買ったのか。今回は1,865円。アルミ製で軽いのだが。

昨年までの2年間シャベルがなくて困らなかったが雪が積もらなかったのだ。今年は雪が多そうだと買い直したのだが昨日塩を撒くために使っただけで除雪には未使用。使わなくて済むならそれでいいが。おっと塩を載せたがアルミだから錆びないよね。念のため今日になって水で流しておいたが。

雪が多そうだと思ったのは年末に関越道で車が3日間も立ち往生したニュースを見たからだが丹後半島に行く前だったから車にも必要かと組立式のシャベルも12月に買った。アマゾンで2,430円。車に付いた雪を下ろす樹脂製のスクレーパー付き。赤。これも使わなくて済むならそれでいいのだが。

原稿仕事と招待状と塩の散布 (1月7日・木)


昨年4月以来の緊急事態宣言が首都圏の1都3県に出された今日は私も大荒れの1日だった。昼食後の体温は36.3度でゆったりした気分でいたらA社K氏から電話があって12月に作業をした文字起こしの文章を編集して欲しいと言う。12月は文字起こしだけでいいと言っていたのに。

あのとき編集作業も指示されていたら2度手間にならず済んだのにと大声を出して一しきり文句を言ってしまった。相手はクライアントなのに。17,000字にPowerPointの絵の挿入や小見出しを付けて本文にも赤入れ。でも中途半端だ。締切が明日でなければもっと時間を掛けて編集できただろうに。

そんな怒りの作業中に表では雪。駐車場のアスファルトにも2~3cm積もり車2台のワイパーを立てて来たら手がかじかんでしまった。と今度はイマジンから電話。2月の件について。合わせて驚愕の依頼を受けてしまい胸がドキドキ。夕方には旧姓H本嬢が来てその場で妻が返事を書いて。

駐車場の雪は溶けてきたが通る車がバキバキ音を立てていて一部が凍り始めているらしい。住宅にずっと置かれていた塩化ナトリウムの袋を夕食後に開けてスコップですくって坂道に散布。妻もチリトリで手伝ってくれて。夜は塩江温泉で入った風呂以来のシャワー。21時にも体温は36.3度だった。

睡眠時間 (1月6日・水)


昨夜も22時過ぎベッドに行き多分15分ぐらいまどろんだ。その後は身体が落ち着いた。トイレでパジャマをまくっても悪寒がない。布団の中で暑すぎない。熱は下がったと見た。今日昼食前に計ると36.4度。17時に36.3度。21時前36.6度。風邪は脱したと思う。でも怠さはあるから今日もまだ禁酒。

今回まで1年以上風邪を引かなかったのはよく寝ていたからだと思っている。20代から30代のサラリーマン時代は年に2度3度と風邪を引いていたような気がする。夜遅くまで働いてビールで元気になって朝は定時に起きる。出張に行くと朝1番の飛行機に乗るため睡眠4時間ぐらいのときもあった。

一昨年秋から使っているFitbitでは睡眠時間とスコアが表示される。寝ていると思っていても無意識に起きている時間があるらしくぐっすり寝たとしても「目覚めた状態」が数十分ある。だから8時間寝たとしても正味の睡眠時間は7時間半ほど。さらに浅い睡眠と深い睡眠とレム睡眠に分類される。

昨年は経験的に睡眠7時間28分以上を目標にしてきた。それが旅行に行くと崩れる。今日は6時間52分。睡眠の質が総合判定されるスコアも80以上なら「良い」だが今日は「やや低い」の79。熱が下がり安静時心拍数も70から68に下がったがまだ68もある。ということでまだ安静にしておくつもり。

発熱 2 (1月5日・火)


昨夜は22時に寝に行ったが眠れるわけもない。Fitbitの充電で23時頃事務所に行ったが記録によると1時前から2時過ぎまでうたた寝した様子。白湯ばかり飲んでいたからおしっこのため1時間に1度はトイレに行く。次は3時過ぎに寝て5時まで。5時から8時まで。さらに10時頃から11時半まで寝た。

布団の中は暑くなるがウィルスに私が立ち向かっているのだから暑くなるままに任せておいた。3時まで寝たときは汗をかいていたような気がする。これで熱が下がればいいのだが。安静時心拍数はさらに上がって70。一時は71になっていた。熱があるので眠りが浅いのだろう。

9時過ぎに4月に町長選挙立候補者の挨拶を受けたが風邪だとすぐ引っ込んだ。9時過ぎにパジャマで出てきた私に驚いただろう。こんなしんどかったことは前にいつあっただろう。東京から来て穴吹で泊まったものの翌日母の車で実家に帰ったときもしんどかった。あのときも水だけは飲んだ。

今日は昨日より下がって起きたときはずいぶんと楽だった。それでも14時頃37.4度。17時頃37.6度。夕食はおでん。さつまいもが甘くて美味しかった。体温は夜に高くなるらしいが夕食で汗をかいたから下がると期待していたが20時半で37.9度。咳はないし味覚も嗅覚もある。

発熱 (1月4日・月)


昨日帰宅して部屋が暖まるまで時間が掛かった。杉の無垢材は空気を含んでいて柔らかいと夜の「ポツンと一軒家」で言っていて私の部屋の内装は杉が温まるまでに時間が掛かるのかと納得した。としても寒い。と言いながら冷えたビール1本と日本酒を飲んだ昨夜。0時には寝に行った。

何度かトイレに起きたものの正味9時間も寝た。でもFitbitは睡眠スコアが低いと言う。安静時心拍数は昨日66で自宅で寝れば65か64に下がると予想していたのに逆に68と上がっている。これは身体が変調を来している。塩江温泉のホテルが寒かったからだろうか。熱っぽい。風邪を引いたらしい。

風邪の原因もコロナウィルスと言うが新型ではないと思う。新型なら28日に一緒に飲んだ人も妻も一蓮托生だろう。熱と倦怠感だけ。そんな中の今日は夕方にK浦氏が彼の補助金申請のExcel表の計算を依頼してやってきた。お互いマスク。T中氏からは飲み会に誘われたが遠慮しておいた。

昨年は注意していたこともあって風邪は引かなかった。調べると風邪は14ヶ月前以来らしいが熱があったのはもっと前だと思う。夕食はニンニクとショウガたっぷりの豚と鶏のキムチ鍋。熱は21時に38.3度。しんどくて白湯ばかり飲んでいる。夜にどら焼きと芋けんぴ。今夜は早々に寝に行った。

塩江温泉から帰宅 (1月3日・日)


0時過ぎに寝て何度か目覚めたのは慣れないベッドだからだが枕が高く硬かった。5時に目覚めたときに空調を入れて30分で切った。部屋は暑くなりすぎるのにレストランが寒いのは構造上の問題なのかも知れない。7時半の目覚ましで起床して4度目の風呂。1人いたが湯船は私だけだった。

着替えた上で8時半に朝食へ。チェックアウトは妻に任せて私は宿泊棟から荷物を直接外に出して車へ載せた。入口で合流して記念撮影。新樺川観光ホテルを出て塩江温泉の道の駅に寄って川向かいにある行基の湯は外から見ただけ。記憶にはないのだが18年前には湯に入っているらしい。

ここから塩江温泉の他のホテルを見て回った。どこも外見しか見ていないが情緒がない。廃業したホテルの看板も何軒か見たし衰退ぎみか。それにしても今は塩江が高松市とは知らなかった。美馬市あるいは徳島県は高松市と接しているということでびっくり。最後に源泉を見て帰路に。

帰りは素直に穴吹まで出て国道192号を通って三菱UFJ銀行で記帳をして昼食は31日に諦めたモスバーガー沖浜店。4日間で241.4km。待機が多かったので13.4km/L。帰りに山火事で全分団出動のアナウンスを勝浦で聞いたが大丈夫かな。13時過ぎに帰って室内を暖めるためにストーブを本格稼働。

藍住コーナンから塩江温泉 (1月2日・土)


2時頃に寝て7時にトイレに起きると犬は部屋から出ていた。それなのに7時半頃から吠えだした。後で母に訊くとドッグフードの後にいつも食べるものがなかったから催促だったらしい。結局私たちが起きだしたのは12時。母が準備して妻が作った焼きそばを3人で食べて実家を出たのは13:40頃。

新しい長靴を買おうと藍住のコーナン。ここも隣のゆめタウンも車がいっぱい。当然人も大勢。窓用の断熱シートを買い足そうと思っていたが適当なものがなくて諦めた。妻は既に30年も使っているカセットコンロの代替品が欲しいと2,000円弱のものを購入。ここから県道を西へ。

今日は塩江温泉に泊まっている。北に向かい山に入ると弱い雨が降り出した。ホテルに16時頃着。塩江温泉は小学校の頃に父とジャングル風呂というのに入った記憶がある。穴吹小学校での「響」演奏前夜に脇町で泊まって風呂だけ入りに来たことがあるような気もするが宿泊は初めてかも知れない。

まずは風呂。子ども2人が騒がしい。18時から夕食。お互いの親戚の話などをしつつ樽酒を木の升で飲んだがレストランは寒くて生ビールは1杯だけ。温まろうと行った風呂2回目は湯船を30分独泉できた。部屋で缶ビールと実家に置いていた黒霧島を湯割りで。22時半に行った風呂も独泉。気温2度。

妙見神社から本家に挨拶 (1月1日・金)


6:40頃に真下の部屋で犬が鳴き始めた。我慢できず7時前に母を起こして対処を依頼。母は電気ストーブを点けっぱなしで寝ていて止めろと言うが聞かない。起床後2Fにあるオイルヒーターを使うように言うと母の寝室にも別のものがあると言う。妻と2人がかりで話して電気ストーブは別室へ。

お節は妻と母が昨日スーパーで買ってきていたもの。それでも食べきれず。妻の雑煮は福島風で別仕立て。13時を回って大麻比古神社は避けて妙見神社へ3人で行った。6組ぐらいいただろうか。3世代の家族もいたが祖父母世代はマスクをせずにしゃべっているのが気になったり。

そのまま本家へ新年のごあいさつ。イモをもらったお礼ではないが先日の旅館で買ったへしこをお土産に。伯母は納屋で頭を怪我したとかだがすっかり直っている様子。伯父は血色がよく元気そう。ほどなく従兄弟が帰宅して上勝出身Y嬢やN嬢のバーのことやコロナ感染を疑って病院に行った話など。

ビールを飲んでいたら母がハンガーラックを組み立てて欲しいと言う。妻と2人で組み立てたが母はモノを買いすぎなのだと一通り文句を言った。夜はスーパーで買ったにぎり寿司など。食後ソファでうたた寝。仲間たちのおかげで私たちは幸せだと夜に妻と話。今年もよろしくお願いします。

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© 2021 Takashi INAGAKI