2015年2月
坂井と再会した夏期講習は8月の後半で7月後半は自分でもともと申し込んでいた講座を受講していた。真夏の暑い朝のラッシュアワーにJR中央線で西荻からお茶の水まで通った。予備校の教室は狭くて前後左右に身動きが取れないほど詰め込まれていた。
3人掛けか4人掛けの狭いテーブルで私の隣は女性だったが毎日遅刻してくる。いつもノートを見せて欲しいと言うから貸していたが毎日続くもので彼女も言いにくくなったようだし私も積極的には貸さなかった。かわいい子なら対応は全く違ったと思うが。
夏期講習が終わり後期から駿台予備校に通った。主要な校舎があるお茶の水ではなく四谷校だ。JR四谷駅で降りると上智大学と反対側に歩いて左の路地に入る。駅前で高校時代のクラスメートで東京工大に行っていた小西にばったり会ったことがあるが予備校に友人はいなかった。
2ヶ月に1度ぐらい模試があった。会場はお茶の水だったか普段の校舎と違っていた。模試番号は決められていていつも同じ並びで右隣は必ず山田雅美さんというきれいな女性がいた。毎度会うので挨拶ぐらいはした。台東区だか墨田区だか下町から通っていると言っていた記憶があるだけ。
高校を卒業して入学した大学を放置して東京で仮面浪人していた時代のこと。中高が同じだったT取と下宿の前で偶然会って毎日のように一緒にいたが彼は夏に帰省したいからと駿台予備校の夏期講習の受講票を譲ってくれた。それでT取の代わりに2週間ほどだったかお茶の水に毎日通った。
その講座の休憩時間に前方右の入口から入ってきた受講生と目が合った瞬間お互いの声が出た。中学1年のときのクラスメート坂井だ。1年で転校したから5年半ぶり。そのとき彼が助任小出身と知ったのだろう。同じ小学校出身で私の高校時代の親友Nの下宿に一緒に行ったことがある。
助任の前は鹿児島に住んでいて男ばかりのクラスだった我が中学1年4組で彼はよく皆の前に出て鹿児島おはら節を歌っていた。その後中学2年で転校して神戸に住んでいたらしい。マンションの部屋に彼女を招き入れて初体験をしたと言っていたのは彼が中学のときの話ではなかったか。
都会は進んでいると私とNは興奮した。高校は東京新宿の海城高校だと言っていた。海城とは軍艦のことだそうだ。この2つの話しか覚えていないしNの下宿で話して以降会ってもいない。携帯電話もメールもなかった時代。でも元気だった彼のことはどこかで名前を発見するような気がしている。
1月下旬から地元の産直市「いっきゅう茶屋」で買って毎日ミカンを食べている。先日まで1袋100円で最近は150円。そこに25個ぐらい入っていて昼食後と夕食後に5個ずつぐらい食べる。ときどき品切れだったり定休日前の月曜に買った最後の1袋は1/5ぐらいは傷んでいたりしたが。
大人になってミカンは頻繁に食べなくなったが小学校のときの冬は毎日食べていた。小学校の4年から6年ぐらいだったと思うが毎夕食後に食べたミカンをこたつの上に並べるのが楽しかったときがある。1度に15個から20個ぐらいを食べていてその個数を毎日数えて積算していた。
ある年は12月31日までに365個を食べたことを覚えている。私が食べるものだから当時は段ボールのミカン箱を年に2つか3つ買っていたと思う。階段下のスペースに置いていて私はそこから取り出して食べる。私が今住んでいる隣町の勝浦産だった。だから私にとってミカンと言えば勝浦だ。
私が大量に食べるといっても1箱もあると最後の方はカビが生えているものが出てくる。1箱で10個ぐらいは捨てていたかも知れない。そんなこともあってか母はミカン箱を買ってくると上下を逆にして底のふたを開けていたように思う。最近またよく食べて私は昔から好きだったと思い出した。
1月初旬から夜あまり寝られなくなった。きっかけは思い当たる。一つは1月の10日からの3連休に何もしなかったこと。4日の消防出初め式が終わって緊張感がなかったのかも知れない。本当はスバルに行ってWRX S4やレヴォーグの試乗をしたいと思っていたのだが。
3連休を無為に過ごして何となく気分が落ち込んだ。淡々と日は過ぎていくが寝られなくなった直接のきっかけは妻と生活パターンがずれたことだ。昨年までならだいたい同じ時間に自宅に行っていた。同時ではなくどちらかが遅いとしても30分以内ぐらいの差しかなかったと思う。
それが今年になって妻は私より2時間以上遅く寝るようになった。自宅は入口ドアや部屋の戸を開け閉めすると結構大きな音がするから寝ていても起きる。だから音をやり過ごしてから寝入る習慣が定着していたのに自宅に来ないものだから私が寝られない。うまく寝られても音で起こされる。
それで妻とは話をしないようになった。最近は寝られるが2日に1度は音で起こされる。そうすると2時間ぐらい寝られなくなる。昨夜もそうだった。それで事務所と自宅で別居しようかと思い始めて1月半。このままでは生活がめちゃくちゃだ。週末から妻が出張だから帰ったら考えるつもり。
土曜日に徳島新聞社であったNIEセミナーにボスをアテンドして行って鳴門の中学教師と知り合ったことは既に書いた。勤務先が大麻中学なのに出身も大麻ですかと私が尋ねたら鳴門一中と答えるから実は私も校区なのだと言って。鳴門一小出身だと言うので同い年の従兄弟の話もした。
我が「響」の団長とは高校で同級生だと言うので練習に行って話をしたら彼女の妹は県議会議員なんだそうだ。その話を隣で聞いていた小学校教師S氏がその県議とは小中で同級生だったとか言っている。徳島は本当に狭い。すぐに人脈が繋がってしまう。
その女性の徳島県議について改めてネットで調べてみた。そしたら私の中学の同級生にして小松島勝浦選出の県議会議員N氏と同じ会派ではないか。鳴門の女性県議と共通の友人は「響」人脈を含め5人はいることが分かった。土曜に会った中学教師とは共通の友人が軽く100人はいる。
以前も書いたが東京で学校時代の友人と仕事で関わることはまずないが徳島では人脈のレイヤー(階層)が1つしかないことを実感した。学校時代の同級生も趣味の仲間も仕事の関係先も全て共通。ウソはすぐバレるし不義理もできず悪い噂はすぐにレイヤーを駆け巡る世界なのである。
昨日講演に来たK氏の恩師で伝説の国語教師と言われる故・大村はま先生が新聞を教育に活用していたのは以前本で読んだしK氏からも聞いている。昨日話をした鳴門教育大学の元教授は大村先生の膨大な授業記録を整理したそうでNIE推進の権威になっているようだ。
でもNIEは新聞の拡販策だろう。だから徳島県NIE推進協議会の事務局は徳島新聞社が担っている。担当部長が20年前にJ社によく取材に来ていたM氏である。読者が減り続けている中で子どもをダシに購読家庭を増やそうという試みであり将来の読者を育てようというものだと思う。
だとしても国語教育の教材として新聞を使う意味はある。故・大村はま先生が取り組んだのは純粋に子どもの教育を考えたからであって新聞の読者を増やそうと思っていたわけではない。だから新聞社は拡販目的である本音はあっても志を支援する立場を貫かねばならないと思う。
ところが昨日のセミナーで最後に挨拶に立った徳島新聞社の偉い人はNIEを新聞拡販のためとはっきり言った。裏事情をバラしたといったニュアンスでなく用意した文章を読み上げる中で何のてらいもなく言った。何だかなぁ。非常に興ざめ。正直に言ってこの態度に呆れてしまったのである。
教育に新聞を活用しようというNIEのセミナーに行って来た。A社のボスK氏を昨年10月に徳島新聞のM氏に紹介したらセミナーでの講演を依頼さたのだ。私はアテンド。上勝を9:44出発。徳島空港10:50着。まずは川内の西食で徳島ラーメン。まだ時間は早いので小松海岸に行って海を見て。
会場の新聞放送会館に着いたのが12:25頃。応接室で弁当を食べながら先生たちと懇談である。元鳴門教育大学の教授やら合計8人。大麻中学の女性教師に演奏に行ったと言ったら何と団長と高校の同級と。しかも実家は鳴門。私の従兄弟も知っているし母上と私の伯母とは仲がいいらしい。
14時からのセミナーは会議室で数えてみたら30人超。K氏の著作権や情報の話が1時間。NIEの事例発表が小学校の2人の先生から。K氏が質問を受け付けたが著作権についてあまりに初歩的過ぎて学校教師の知識レベルを知る。逆に言うと我々の仕事はまだまだ多いということだ。
セミナーは17時に終わりK氏をホテルに送り高島珈琲に行きK氏が懇親会に行った間に私は「響」。終えてタリーズで会っていたNPOの人たちのところに21:35頃に合流したものの私は挨拶しただけで22時に散会してからK氏とホテルのロビーで23:45まで話して24時半帰宅。
昼食後に地元の産直市「いっきゅう茶屋」にみかんを買いに行ったらレジで先客のT氏から声を掛けられた。山と谷の地形を利用してヤッホーを検定化している地域のカリスマである。最近T氏はスカイプでN氏と話しながら家飲みをしているのだという話から始まったのだと思う。
Google+などを使えば興味のあるキーワードで集まれる仮想国が作れるのではないかというので既に2チャンネルなどネットの世界ではできていると返した。そしたら阿波晩茶の試飲スペースに行って話は続くよどこまでも。回り道をしながらも面白い話を聞いてきた。
T氏曰く上勝にはIターンやUターンは多いがOターンもいると言う。Oターンとはインターンなどで上勝に来て一旦都会に戻るが何度も上勝に来る人のことを指している。あるいはお遍路の88カ所は葉っぱと読め上勝を表現しているとも。中国では8は喜ばれると私が返し。
四国の地図を90度回せば8になるとか0はテニスでラブだからIターンUターンを合わせてI Love Uだとか。葉の字は木が世界を支えているとか。こじつけを含めキーワードが続々出てきた。私からはGoogle+ハングアウトの可能性を説明したが面白いヒントが多々あったのでメモとして書き残す。
妻が買っていて面白かったと言っていたので読んでみた。高峰秀子『わたしの渡世日記 』(文春文庫)。高峰秀子と言えば上原謙と温泉に浸かっていた国鉄フルムーンキャンペーンCMが印象深いと思って調べてみたらそれは高峰三枝子だった。高峰秀子の女優としての印象は全くない。
Wikipediaによると1970年代までで女優は引退していたようだ。大正13年生まれ。北海道で祖父の旅館が全焼するなどして父の妹の養女となり東京に出て見学に行った映画撮影所で子役オーディションに合格し年に6本もの映画に出演した売れっ子になった。そんな女優だったらしい。
この本は50歳だった昭和50年に週刊朝日で連載されていた回顧エッセイだ。高峰秀子について予備知識が何もないのに面白い。撮影のため学校に通えず映画会社を移籍する条件で入学した女学校も退学となった無学だと本人は書いているが文章は抜群に上手い。
週刊誌の連載エッセイだから1回分あたり10分ぐらいで読める。寝る前に2〜3本を読んで寝るのが最近の習慣になった。子役から少女時代の映画を経て戦争中の慰問や兵士からの手紙の話など20歳になる終戦までが上巻。今日から下巻を読み始めるところ。これはお奨め。
VAIOと言えば1990年代後半に参入したソニーのパソコンブランドだ。それが赤字が続きVAIOという社名を持ってソニーから分離独立した。昨日はVAIO製パソコンの製品が発売されIT Proなどで報じられている。どうりでツイッターなどでVAIOの文字を多く見かけたわけだ。
私が個人で最初に買ったのもVAIOだ。1998年1月だったか。VAIOノートPCG-505EX。徳島の沖浜にあるCALL徳島で買った。メインメモリ32MBを64MBに増設したがHDDは2.1GB。J社を辞めることが決まっていて会社のパソコンを使えなくなるので当時流行のVAIOにしたのだった。
徳島時代の1年と福岡の1年は使ってこの日記を始めたのもVAIOノートでHTMLを書いたのだった。でも東京に持って行った途端に不調。閉じ括弧が勝手に入る」」」」」」」」ようになった。この年の4月にもイライラしていて6月には別の症状で壊れたと書いている。
そして2013年に処分した。発売当初は格好良く斬新だった。でも2年で壊れたのでVAIOへの信頼感はない。以来しばらくソニー製品は買わないようにしたほどだ。だからVAIOの新機種に少しの興味はあるが買わない。丈夫で長持ちしないとパソコンとしては認めない。
大学時代の恩師のことを思い出して当時の卒業論文をデジタル化しておきたいと考えている。「非線形LCはしご形回路におけるソリトンの伝搬」。ソリトンと津波の関係は既に書いた。この理論の概要についても書いたし卒業論文のことも書いた。不明だと思っていた論文は5年前に発見している。
卒業から10年後に脳腫瘍で亡くなった大道正徳君との合作だ。今の私にとっては津波の伝搬を理解する助けにしかなっていないが手元には印刷した論文ファイルがある。日本語より三角関数に微分積分記号が目立ち執筆した私でさえ理解不能なものなのだが。
それでもデジタル化しておきたい。本文は20ページ。それにグラフパートが20ページ超ある。スキャナを使ってPDFファイルにするには量が多い。J社時代の仕事のファイルをまとめたMOに大学時代のファイルも入れたような気がするからそこからPDF化した方が簡単かと考えたり。
でもMOドライブがない。どこかで借りたとしても今のPCに接続できるものなのか。さらに当時のファイルを今のWindowsで読めるかどうかも分からない。できればCDかDVD化しておきたいのだが。J社を辞めて17年間必要としなかったファイルはどうでもいいが卒業論文だけは救出したい。
※デジタル化は2022年2月に実行して公開した。(2023年2月23日追記)
我が同志社大学アマチュア無線同好会JA3YCZのメンバーで入学が私の多分3つ下だったS井君からFacebookで友達リクエストをもらった。彼も私と同じ音響・計測研究室に属したのだろう。指導教官だった渡辺好章教授と友達になっていたのを見つけて私も早速先生にリクエストした。
渡辺先生とは私はゼミ生として1年しか付き合いはなかったが当時の学部生としては最も付き合いが濃かったと自負している。前に書いたが『日本音響学会開催支部50年の歩み』の編集をアルバイトとして手伝わされて頻繁に話をしていたからだ。
工学部の巣窟だった博遠館1Fと3Fにあった実験室ではなく3Fにあった渡辺先生の研究室に入り浸って大学院生を押しのけ入口にあったパソコンPC-9801VM2を独占して使わせてもらっていた。そんな関係で20時か21時頃になると何度か近くの居酒屋に飲みに行ったこともある。
たいてい卒業研究の相棒だった故・大道正徳君と博士課程の大学院生で現在は母校の教授の土屋さんと一緒だった。修士課程の院生も何人かいた。先生のポケットマネーを当てにしてのことだが断るときは子どもを風呂にいれないといけないと言っていた。先生も若かった。
リンク集として「やるでないで上勝」というサイトを作ったのは移住して間もない頃だった。町内のWebサイトとブログのリンク集だがトップページには上勝が紹介された新聞記事などにもリンクするようにした。検索で記事を見つけてはタイトルとともにリンクさせてきた。
リンクするのはもちろんWebにある記事だけだ。徳島新聞などは全ての記事はWebでは読めない。それでも月に数本はリンクできる記事があった。ところが朝日や日経などは記事の全てを読めなくなった。読者登録をする必要がある。ある本数以上は有料ということもある。
こうしたビジネスの方法を私はケチ臭いと思っているし彼らを利するようなリンクはしたくない。そんなわけで朝日と日経にはリンクしないことにしている。最近は毎日新聞も加わった。さらにリンクポリシーを読んでいると朝日や読売は記事への個別リンクを禁じていることも分かった。
徳島新聞も同様。個別リンクを禁じるとはますますケチ臭いと軽蔑するが著作権の仕事に携わるものとして規約に反するのもどうかと思う。そんなわけで徳島新聞へのリンクも止めた。問題なさそうなのは大手紙では産経ぐらい。いちいちポリシーを確認するのも面倒だが仕方ない。
神山バレーサテライトオフィスコンプレックスを出て向かいに建設中の宿泊施設を少し見てバスで帰路についた。3度目の道の駅。高鉾建設さん差し入れの日本酒2本のうち1本は車内で飲まれ1本はK美さん旧知で宿泊棟を建設している方にプレゼントしてもらうことになった。
缶ビールを皆で空けたのは道の駅に寄る前だったか後だったか。あとは帰るだけで私もホッとしたので覚えていない。佐那河内から勝浦に抜ける道は工事中で1時間に10分しか通れず徳島の八万経由。さらにT氏を送るため小松島を経て行きと同様に立江を経由した。
車内で私は350mLを4本飲んだ。勝浦道の駅でもトイレ休憩。車内の一部で盛り上がり何人かを上勝に入って三好屋で下ろした。宴会をするらしい。やっぱりそうなった。私は一旦事務所に戻り後を片付けビールコンテナを下ろしH氏の車で再び三好屋へ。16:40頃だったと思う。
車で帰るH氏は飲まないのに付き合ってくれ合計8人ぐらいいただろうか。解散して事務所でS氏Y氏と4人で飲んだが三好屋の後半から記憶がない。代表H氏から1万円を預かっていたのに支払もしていなかったらしい。正体不明のまま22時過ぎに寝て翌日は昼まで爆睡。
火曜は神山町に視察に行った。お茶漬けを食べていた9:15頃に講師をお願いした元同僚H氏が到着。講演料をまず支払い9:40頃に出てバスへ。参加費を徴収し運ばれてきたビールをクーラーボックスに入れたりして10時過ぎに出発。参加者は15人。講師H氏を入れて16人。
昨年10月にA社のボスK氏が来たときH氏と一緒に神山を案内してもらった。それまでサテライトオフィスのことはバカにしていたのだが全く認識が改まり地元の人にも見てもらいたいと思ったのである。集落再生支援員として11月から企画して10日前に打ち合わせをしてこの日を迎えた。
一旦道の駅でトイレ休憩。訪問したのはまずサテライトオフィスのパイオニアSansan。民家を借りていて裏には牛小屋を仕事場に改装中。案内してくれた社員のT濱氏は重なっていないがJ社の後輩に当たる。ピザ屋さんを見学だけしてドローイングマニュアル社などを外から。
キネトスコープ社に行ってアップル出身という女性オーナーのカフェオニヴァで13時に昼食。午後はプラットイーズ社えんがわオフィス。ここで説明してくれたのはJ社後輩のT脇君。最後にサテライトオフィスコンプレックスを見学したらお昼に偶然会ったN氏がいた。
「くちびるに歌を」という小説があることは知っていた。大阪出身で上勝から勝浦の婿に行ったY君が以前ツイッターで書いていて私は合唱を扱ったものという程度の知識しかなかった。2010年のコンクールで歌った信長貴富作曲の男性合唱曲「くちびるに歌を」と関係があると思っていた。
その小説が映画になったらしい。勝浦のY君が試写会に当選したとツイッターに書いていて会話をすると監督は徳島出身と言う。それでネットで検索してみたら監督は三木孝浩というらしい。阿波高校出身。OBであるA社のK氏にメールしたら彼は既に知っていて上板の人だと聞いた。
小説も知らなかったのだが2008年のNHK合唱音楽コンクールの課題曲になったアンジェラ・アキの「手紙 拝啓15の君へ」がモチーフなのだ。アンジェラ・アキが五島列島の中学を訪れたNHKの番組は見たが小説はそれに触発されて書かれたものらしい。映画も五島列島が舞台とか。
この週末には映画に出演した生徒役や監督らが徳島に来ていたそうだ。中学時代にNHK合唱コンクールに出るための要員として夏休みだけの部員として合唱を始めた私。今さら当時の気分を味わいたくないと思いつつ映画は見てみたい気もする。映画館には恥ずかしくて行かないが。
月曜から喉が痛かった。日曜夜の「響」の練習で声が出ないと言っていたS先生に風邪を移されたかと警戒していた。でも風邪の痛さではないから放っておけば治ると思っていたが金曜になってますます痛く視察用の買い出しに行った阿南のセブンにある薬局でトローチを買ってきた。
3月にあるバレエ公演に「響」がゲスト出演するのだが今日は初めての合同練習があって喉の痛みを取っておきたかった。昨日の買い出しの帰りに1つ舐め夕食までに計3つ。夕食後に2つ舐めてからビールや焼酎を飲んでいたら夜中に喉の痛みが減っているのに気がついた。寝る前にも1つ。
今日はほどんど痛みが消えていた。木曜の夜は喉の痛みで何度も目が覚めたのがウソのよう。それで19時前に住吉城東コミセン。「響」が演奏する2曲の振りを見学したあと実際に歌ってみた。演じるのは中学生から高校生ぐらいの女の子ばかり。台詞を小学校高学年の子たちがやっている。
バレエを間近で見たのは初めてだと思う。子どもたちだから本格的なものではないだろうが身体表現には少しばかり感動。一方の私たちの歌は配置がバラバラで音に苦戦。結局どんな演出かを確認し1回歌い本番用の衣装を身につけてみて解散。本番は3月15日。徳島市文化センター。
多分3年ぐらい前に買って置いたままになっていた。正月に実家で少し読んでいたのだがやっと読了した。コンタロウ/三星雅人『田舎の家のたたみ方 』(メディアファクトリー)。マンガと解説が交互に書かれていて普通に読めば2時間ぐらいで読み切れるほどの分量だ。
マンガパートは東京で暮らすサラリーマンの主人公が田舎に住む母親が入院したことを契機に実家に帰ることを考え始めるものの奥さんが反対し地元に残った高校時代の友だちなどと情報交換しながら田舎の家の処分について勉強をしていくといった内容。
マンガだから分かりやすいし文章による解説パートも内容は割とあっさりしていて田舎の空き家問題をオーバービューするにはちょうどいい。山の空き家だと不動産屋にとって効率が悪いため扱われにくく貸すにしてもニーズとマッチするのは難しいといった実情がきちんと説明されている。
不動産屋に依頼して1,000万円で売ろうとした家と土地が1年経っても売れず不動産屋に300万円で売却とか。畑や山の売買についても解説がある。山は現在ほとんど価値がないとも。Uターンした生活は気にすることはないと思うが家の処分についての現実は非常に厳しい。
私の時代の附属中学は自由な雰囲気があったと思う。中学2年のとき担任が結婚してハワイに新婚旅行に行った。国語の細川先生。あだ名はタイマン。まだ30歳にならない年齢なのにとても太っていて怠慢そうに見えたからだろうが今から思うとずいぶんと失礼な呼び方をしていた。
その細川タイマンが新婚旅行から帰った最初の国語の授業だったかホームルームだったかが先生への質問時間になった。何せ中学2年生である。ファーストキスはいつどこでしたのかといった質問が飛ぶ。それには香川にいた彼女の部屋だとタイマンが答えたのを覚えている。
ハワイで見聞きしたことの質問に対してトイレの横に同じようなものがあったのは驚いたと答えた。みんなは理解できなかったようだが「現代用語の基礎知識」1970年版の性の項目を精読していた私はビデのことだと分かった。そんなこんなで47人ぐらいいた教室は大騒ぎだ。
途中で1Fから3年生が静かにして下さいと言いに来たほどだ。社会の授業中だった福井先生が怒ったらしい。隣の2年1組ではタイマン帰国後最初の授業のとき後ろの黒板に奥さんの名前を書いて「○○トンネル貫通」とやっていたとI氏から聞いた。無邪気に騒いだ中学2年の私たち。
私が中学受験をしたとき教室の世話係だった女の先輩のことを書いたが中学2年の3学期。今度は私がその役をやることになった。どういう経緯だったか全く覚えていない。私は委員長と呼ばれていた級長ではなくナンバー2の総務という役だったから自動的に決まったわけでもないと思う。
その役割は試験官補佐といったものだ。覚えているのは試験中にトイレに行きたいと言った受験生に付き添ったこと。案内して入口で待っていたが受験生は個室の中でウンウン言っていた。寒い季節だ。彼は辛かったのだろうが私は他人のうんこを寒い廊下でただ待つことに閉口していた。
トイレに付き添うのも仕事だったということは私と一緒に担当したのは女だったということだろうか。受験生は男女別だったんだろうか。書いていて何となくK木理絵だったような気がしてきた。大人しいタイプの人ではなかった。彼女は何か受験生にぶちかましていたような気もする。
もしかするとK木が立候補して私を指名したかクラスの皆に祭り上げられたか。それにしても自由な学校だった。中学2年生が教師がいないとき受験生相手に好き勝手なことを言っていたのだから。トイレの付き添い以外覚えていないが面白い経験をさせてもらったのだろう。
附属中学では1学年180人のうち100人超が附属小学校からの内部進学だった。以前書いたようにK嬢など学年トップは内部進学者だが成績の下位層も附属出身者だったようだ。私のように外部から進学した連中はトップにはなれないが上位から中間層を形成するといった趣だった。
高校へは確か附小出身の3人が灘高に進学した。後に阪大を出て医者になったS尾君とはFacebookで繋がったが他の2人はどうしているのだろう。牛乳が飲めず昼休み教室にずっといたT。冬でも制服の下はTシャツ1枚だった鉄道オタクのN。2人とも東大に行ったはずではなかったか。
あの年に鹿児島ラサールを受験した友人がいたかどうかは忘れた。長男が中学に合格した元同僚のK嬢は全寮制だからいいと思ったと書いていた。やる気を出した長男が校風に惹かれて受けたらしいが中高時代に親元を離れて寮で暮らすのは男の子にとってはいいことだと思う。
灘高以外だと今や訪問医として大成功しているY田が愛媛の愛光を受けたが城南に行ったような。進学校に行ったら人生安泰というわけではないが優秀で個性的な仲間と出会う価値は非常に大きいと思う。少なくとも私の場合は中学で得た同級生たちの存在が大きな財産になっている。
J社の同僚K氏の長男が鹿児島ラサール中学に合格したことをFacebookで知った。この日記を米国で読んでいるU氏がよく知る阿南出身のK氏である。時節でもあるので私の中学入試の話を記録しておく。高校はクジで決められた私も中学は徳島では珍しく受験して入学したのだ。
鳴門市撫養小学校から徳島大学教育学部附属中学校を受験したのは5人ぐらいいたと思う。合格したのは私と真田君。真田君は後に市高理数科から東大に行った。入学が決まってから6年4組の担任だった男の先生が先輩を紹介してくれるということで里浦の自宅に2人で行ったこともある。
一度行ったら日を間違っていたとかで真田君と出直したのだった。その先生は創立1期目か2期目の徳島文理中学の説明会にも行った感想としていつか東大合格者を出す学校になると言っていた。最近は小学校を含めて評価も高いようだ。私の年には確か笹橋君が進学したと思う。
さて私の受験会場では当時の中学2年生2人が各教室に付いて説明をしていた。そのうちの女の先輩がやたら面白く受験教室に一体感が生まれていたように思う。その先輩は私が入学したときは3年生。パワフルでノリのいい人だったが6年4組の担任とともに名前が出てこない。
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© 2015 Takashi INAGAKI