<Diary Index Page> 2023年5月
2日に京都で2軒目の下宿を見に行くため北大路から堀川通を歩いていた。右に大日本スクリーン本社。社名がSCREENに替わっている。ここにはサークルYCZの後輩N村君が就職した。合宿のトラック荷台で寝るとき彼が実は義手なんですと腕を外して荷台に掛けたのを見てびっくりした記憶がある。
穏やかな好人物で彼の年代の中で一番大人だった。1986年度生の彼が障害者枠で大日本スクリーンに就職したと聞いたのは私が卒業した後。以来なぜか彼のことが気になっていた。一方でSCREENと言えばパーティで会ったTMCが4年のとき住んでいたのがこの本社裏。TMCの下宿には何度か行った。
たいてい23時とか24時だがそんな深夜でもビルの一部の明かりが点いている。就職するとこういう生活になるのかと思った。同じしんどい仕事をするなら都会より田舎で勤めた方が楽かも知れない。それがJ社に就職する動機の一つになった。そんな話を3日のパーティのときTMCにしていたのである。
そこに来た初めて会う研究室OBと話をしているとSCREEN社員と言う。N村君の名を出すと知っていると。名刺を渡し連絡を託した。と今日N村君からメールが来た。そう言えば昨日はJ社の元取締役で松浦酒造の社長も務めた沖縄の喜屋武さんから4年ぶりにメッセージ。旧知の人と繋がってうれしい。
先日の京都では昔住んでいた下宿を訪ねた。まず1982年4月から東京に行く前6月中旬までいた左京区下鴨川原町63-4太田富子様方。路地を東に入った突き当たり左にアパートと東に大家さん宅があった。ところがその敷地には割と新しい2F建て民家が2軒あるだけ。しかも表札の名前も変わっていた。
2軒目は上京区堀川寺ノ内上ル西入ル上天神町631中田様方。当時は堀川通沿いの興聖寺を通っていたが下宿への道は封鎖されていた。南の上御霊前通から行くと大家さん宅が改築された様子。北に外階段があり2Fがアパートになっている。私がいたのは大家宅を北から西に回り込んだ先の2Fだ。
行ってみるとある。でも敷地入口の郵便受けは全て透明シートで封鎖されている。もうアパート経営は止めたのかも知れない。一旦上御霊前通に戻って西に回り込むとアパートを南と西から見ることができた。窓が出窓になっているから改装した様子。西から1Fのドアを開けたが人の気配はなかった。
3軒目は上京区六軒町通五辻上ル西入ル溝前町。千本寺ノ内を下がったところだ。第1グリーンハイツ高田205号。当時は2棟ありその南に空になった工場。その奥に大家さんの事務室があり家賃を払いに行っていた。今回その工場はなく計4棟。私が住んでいた最も古い北の1号棟2Fに上がってみた。
両側に部屋が並ぶ廊下が狭い。奥から日本語ではない声が聞こえるし階段には外国語の表記。3号棟まで南向きの窓の手すりには洗濯物が掛けられていて何人かとすれ違ったがベトナムの若者のようだ。これにはびっくり。4棟あるうち南の新しい棟だけ南側に駐車場があり日本人がいるのだと思われる。
東側の倉庫は今日解体の予定だから10時前に妻と歩いて行ってみた。と母屋も壊し始めている。ちょうど休憩中の3人に話し掛けた。東側だけでも先にやって欲しいと私が20日に言ったとき社長は「その方が助かる」と答えたから母屋は後だと思っていたが。いや一気にやってくれるならありがたいが。
続いてY鉄工さんから電話があった。試掘したら町水道の本管から分岐した管が13mmだったと。その先を20mmにすれば問題ないと言うが管理する町は20mmに換えたいらしい。ただ数十万円の費用を誰が負担するのか。Y鉄工さんは私が負担するのは違うと言ってくれるのだが。役場で検討中とか。
午後は妻が解体現場に缶コーヒーとお茶のペットボトルを差し入れして17時を回ってから2人で見に行ってみた。東側倉庫はコンクリートの土台を残すだけ。母屋も手前1/3が壊されていた。障子戸は残っている。前に昔の建具は貴重だとN野氏が言っていたので電話した。再利用できるのであれば。
重機が置かれたままだが更地になれば意外に広いかもと妻が言う。ただこの調子だとまだ4日や5日は掛かりそう。帰りはY鉄工さんが水道管を試掘したと言っていたN尾さん宅前にも行ってみた。小さなユンボが置かれたまま。確かに水道管が細い。とりあえず諸々動き出してくれたことに感謝。
夜の街灯を確認して秀光ビルドとZoom会議 (5月28日・日)
木曜に秀光ビルドで話をしたが帰宅して間取り図を見ると以前の要望が反映されていない点がある。それで他の希望も図面に書き込んでPDFにして金曜にメールしていた。土曜にも玄関の土間と床のラインについてPDFで送付。次の木曜には図面を確定させるため時間がない。
そこで秀光ビルドK氏の提案で今日はZoomで話をした。その前に現地の夜がどんなものなのか昨夜22時頃に妻と車で行ってきた。要は街灯が寝室を明るく照らさないか気になっていたのだ。次第によっては窓を変えるつもりだったが真っ暗だった。その代わり近所の田からカエルの大合唱だ。
カエルの鳴き声にはすぐに慣れるだろう。ともかく今日は妻の顔ヨガ指導者養成講座が終わってからZoom打ち合わせ。K氏が忘れていたらしく予定より15分遅れの17:45から。こちらからの提案は6カ所だったがそれに伴い窓などを見直してあれやこれや。予定外だが義母の北向きの窓はなしにした。
そのほか玄関の靴箱を土間に下りずに開けられるように案を考えたが意外に難しく結局玄関を広げることになった。収納は無料でハンガーポールなどを選べる権利があるのだが全てを使わないまま。最後に2F廊下の窓をいろいろ変えたが元に戻る。結局19:40まで2時間も話をしてぐったり。
1月以来やりとりしてきた工務店2社に妻が昨日電話を架けて断った。はなおかはあっさり了解。既に諦めていたのだろうか。徳島設計工房は見積の提示から1週間だったこともあり粘られた。ただ工期が秀光ビルドの3ヶ月に対して6ヶ月は長すぎる。妻は母と早く一緒に暮らしたいからと説明していた。
今朝は地元のY鉄工から電話があり水道引込の見積額を教えられた。断った工務店の水道引込の見積を改めて見直すとはなおかは徳島市内の業者のもので400万円。町道を通すフルスペックの工事費だろう。これは高すぎるから地元の業者を奨めるとコメント付だった。徳島設計工房は174万円の見積。
一方Y鉄工は20mm管で側溝を跨ぎ橋も渡すから確定ではないが最大でも徳島設計工房の1/10ちょっと。工務店2社とは引込ルートが違うことも大きいのだろう。月曜に話をしたときは管の太さを試掘して確認したいと言っていたが当たりを付けたようだ。即お願いしますと発注した。
さて今日はコメリで消防のヘルメットに着けている電灯用乾電池24本を買って割り箸100本も購入。美馬商事で店頭の電動チェーンソーの説明を受けた。マキタMUC254DRGX。64,900円。消防の草刈り後の懇親会用皿鉢料理について中岡商店に挨拶に行ったら6月の日曜は分からないと。むむ。
今回のパーティで渡辺好章名誉教授の後を継いだのは土屋隆生教授ではなく松川真美教授だと知った。私と同級生。私は人より2年遅れて研究室に入ったから彼女は既に修士課程2年生。同級生のよしみで「まみちゃん」と呼んでいた。私が元部下の松川美鈴さんを「まみ」と呼んだ元がこの人だ。
当時の修士2年は他にもいたが覚えていない。一方で気楽な修士1年生とはよく話をした。一人が浅田隆昭氏。当時「あさだあさだーよ」と歌う学部生がいたからよく覚えている。それは何だと浅田氏が訊くとラジオ体操の歌だと答えたのは井町君だ。今回村田製作所勤務の当の浅田氏に教えてもらった。
パーティの後2次会があった「酔心」という京都駅前地下の居酒屋で隣に座ったのが木村桂吾氏。話をしているうちに当時の修士1年だと分かった。そして私は彼の下宿に行ったことがある。多分街で飲んだ帰りだろう。彼の下宿は知らなかったから土屋さんが連れて行ったのだと思う。
そのとき彼は勉強中で突然の酔っぱらいに迷惑顔だった。その話をすると下宿は二条河原町にあったらしい。急な階段を上がった2Fに二間。ワンゲル部の仲間も飲んだ帰りに来ては男女で雑魚寝をしていたとか。今はオムロン勤務。風貌がすっかり変わっていたが36年ぶりに話をして楽しかった。
契約書が売主さんから今朝到着。午後は1月ぶりに秀光ビルドで打ち合わせを行った。今日は藍住店で15時前から17時半まで。まずは敷地調査の分厚い資料を受け取り建屋の位置を確認。北と西の段差を避けた安息ラインの内側。他社は説明してくれなかったがこの配置にした理由を聞いて納得できた。
ただ北側は車の回転に使うから30cm南に寄せた。さらに設計士が赤入れした間取り図を元に細かな相談。ドアの種類を議論して玄関ホールを開き戸に直したり妻の仕事部屋の壁は北か南かといった話。気になっていた太陽光発電のカバー率を訊くと雨続きでなければ全電力を賄う設計だと言う。
省かれたオプションも説明してもらった。そして担当K氏は早く入居できるようにと超特急でスケジュールを組んでいく。契約は移転登記後にするつもりだったが資材や住宅設備の価格を確定させスケジュールを前倒しするために早めることにした。違約金も実費のみと言うので万々一でも納得できる。
来週には図面を確定させて週1回以上のペースで打ち合わせ。3週間後には契約という段取りだ。今までのペースを大逆転して早ければ8月着工で11月完成かという勢い。解体や水道の引き込みを急いでもらわないと。帰りはコーヒー豆を買い義母とマルナカ東の店でビール2杯とオムライスを食べた。
西隣の空き家の方が畑仕事に帰っていないか昨日3度見に行った。電話もしたが留守の様子。2回目で妻と行くと車が駐まっていたがT田さん宅だった。それならばと玄関を開けて姉妹にご挨拶。義母が3年前に来ていたときに懇意にしてくれていた方々だ。早く建ててと歓迎されて恐縮。粗品をお渡し。
午後も見に行くとH木氏が田植え準備で休憩中だったから雑談少し。帰りに苗を軽トラに載せるのを手伝った。帰ってから町営住宅の駐車場出口から見通しが悪かったので4月末に続いて植え込みの草を刈り取って。18時を回ってから解体の騒音が聞こえるだろう近所の挨拶に妻と行ってきた。
まず一番遠いN谷氏宅。結構な坂で歩いてきたのを後悔しつつ状況を説明して雑談。次にH木氏宅。既に諸々ご協力いただいているがS美さんと雑談。たまねぎといちごをもらった。息子のH木氏とも挨拶。最後にA堵氏宅。奥様に粗品を渡してA堵氏に現況を説明した。残るは空き家のお宅だけだ。
今朝も行くつもりだったがH木氏から「もんとうでよ」と電話をもらい妻と出掛けた。畑仕事中にご挨拶。既に聞いておられたようで歓迎してくれた。水道引込のことも現地で説明して心よく許可していただいた。T中氏に電話をし役場S藤氏にも報告。皆さんのご協力に感謝。ありがとうございます。
先日の京都でのパーティで会うのを楽しみにしていたのが土屋隆生教授だ。私の指導教官は渡辺先生だったが研究テーマの選定から実験方法まで当時博士課程1年の土屋氏が助言してくれた。今回その話をすると土屋氏も指導教官は大谷教授だったが渡辺先生から指導されていたと言っていた。
なるほどそれが伝統か。渡辺先生は講演の中で学生を指導するのではなく自主性に任せてきたと言う。若い頃紆余曲折を経て研究者になったが博士課程は3年の表裏つまり6年で学位を得られるという慣習を間違っていると考え土屋氏には3年で学位を与えるようにしたとも話をしていた。
旧弊を打破し自由を重んじる。いかにも同志社らしい思想である。そして我が研究室もそうした気風があったのかも知れない。私の生き方も知らず知らず同志社や渡辺先生の考え方から影響を受けていたのではないかと思った。だとすればありがたいことだ。今になって恩師の恩を知る。
土屋教授と会ったのは卒業研究の相棒大道正徳の葬儀以来。当時は私からのもらいタバコで1日5~6本を吸っていたが既に止めたらしい。年齢は1歳違い。実家にも行ったし後に岡山で新婚のご自宅にも上がった。気安く話をしていたから私の卒業研究も土屋さんにうまく乗せられたのかも知れない。
石積と水道引き込みと電柱移設の打ち合わせ (5月22日・月)
契約書が土曜に届き収入印紙と返信封筒用切手を購入。割印をして昼前に郵便局へ。母屋への電灯引込み線は既に撤去されたと売主さんから電話があり14時には先日の役場建設課の2人が来て石積下の用水を使っているH木氏と。用水は役場管理だが崩れた場合は当事者で対処して欲しいという話。
要は役場は責任取らんという念押しやなと私から一言。これは5分で終わり続いて水道引き込みの話。流量を計算した結果で第3ルートが出てきた。橋横の本管から分岐し川沿いを這わせH木氏の畑を通して引き込むもの。ただし保温材が必要で距離も長くなる。私がウルトラCやなと言うと皆も同意する。
水道工事は地元の業者がいいだろうとT中氏も言い役場H澤氏が電話してY鉄工さんに来てもらい。15時には四電工が来て電柱移設の打ち合わせ。移設場所はT中氏の説明で5分で終了したが支線の移設承諾書を書いてもらうため四電工さんと畑の持ち主H木氏に繋いだり売主さんにも私が電話したり。
水道と電柱の話が入り乱れつつ水道は西ルートで水道管の太さを確認するのが先決となった。夕方ビールを買いに行くという妻に同行して消防用のビールと焼酎を購入。今日は水道引込ルートにある土地の持ち主さんで畑仕事にときどき帰って来られる方の電話をS美さんに教えてもらったところまで。
勝浦のS本氏と4月に会ったとき彼がよく清掃している遍路道を通して歩いてみようという話になった。鶴林寺の奥の院慈眼寺に至る歩き道だ。 GW後半の予定を雨で2度延期して今日。同じく坂本出身でテレビトクシマ勤務のN山氏とは初めて会うが一緒に歩いた。2人とも小学校の遠足以来とか。
ふれあいの里さかもとに車を駐め8:04出発。テレトク勤務の「響」の仲間の話もしたしJ社2代目社長福良さんの話も。N山氏と福良氏の父上同士が友人でよく飲みに行き来していたとか。さらにN山氏の父上は田舎寿司の大将で病気のため店を人に譲ったが母上もN山氏も手伝いに行っていると言う。
S本氏がコロナ禍の間に木を伐採して開けた場所で休憩15分。慈眼寺まで2時間10分ほど。ベンチでS本氏が用意してくれた桜餅とコーヒーを飲んだ。帰りは10:46出発。車道で若いお遍路とすれ違い立ち話。道を1カ所間違ったとか。続いて軽ワゴン車に乗った郵便配達のY田氏と会ってまた立ち話。
お地蔵さん前で休憩10分。90分で帰った。最後にS本氏がキャンプ場にできないかと丘に上がってふれあいの里さかもとで昼食。団体客を引率したN山氏と会って挨拶。K美さんとは13年ぶりに話した。すれ違った若者は道の駅で野宿し今晩ここに泊まるとか。13時半に帰宅。疲れたが楽しかった。
解体の依頼と売主さんと元同僚S野さん母娘 (5月20日・土)
昨夕電話をした解体業者さんと今日10時に待ち合わせ。15分前に行くと既に軽トラが駐まっていて改めてご挨拶。最初に裏の石積と根株も作業が必要かと訊かれ見に行くと処分する必要がないところ。擁壁の必要性を訊いていた頃に「はなおか」が気を利かせて追加見積を依頼していたらしい。
それで最新の見積額より22万円下がって元に戻る。これで他社の見積より25~40万円安くなった。この業者さんはWebを見ると隣町の町境坂本集落の出身。J社の福良元社長の出身地だし明日は坂本の方と遊ぶ予定で縁がある。安いし話も早いので即決で依頼した。産廃処理の申告書にもその場で記入。
東の倉庫を早くしたいと言うと工事日もその場で決定。と売主さんが片付けに来られ3人で四方山話。売主さんも知っている業者らしく安心できると言う。良かった。業者さんが帰ると今度はJ社の同僚だったS野嬢が母上と一緒にやってきた。昨年3月の火事のとき以来だ。売主さんとは従兄弟に当たる。
私とも同僚だったご主人のY口氏と福岡から大阪までフェリーで来て別れ徳島駅からレンタカーで昨夜帰省したと言う。今度はここから4人で先日の敬老会のことなど四方山話。記念に4人で写真も撮って11:20頃まで話をした。午後には昨日見積をいただいたT村氏と紹介してくれたY中氏にお断りの電話。
今朝は一昨日に解体の見積を依頼したT村氏から電話があった。まだ寝ていたから名前を見て誰だっけと2秒考えて出た。母屋と裏の倉庫2棟合わせた見積額ははなおかと同行してきた業者さんのものより高い。最大のネックは今は忙しいらしく作業が7月にならないとできないと言われていること。
次に架かってきた電話は0120で一瞬躊躇したが四電工の担当者だった。昨日会った四国電力送配電の方が伝達してくれていて月曜に電柱移設場所について現地で打ち合わせることになった。このことをT中氏に伝えると手前倉庫の解体費用の見積を持って夕方に来てくれた。
詳しい説明をしてくれたが高い。全体を一気に解体できれば重機を一度に使用できるが個別に作業をすると効率が悪いということらしい。申し訳ないがはなおかに同行してくれた業者さんに問い合わせてみることにした。T中氏からは真っ当な大手だと教えてもらった。
この時点で18時を回っていたが名刺の携帯番号に電話をしたら明日来てくれることになった。さて昨夜メールしておいたT石からは契約書を製本して2通私宛に送ったと連絡があった。夜は売主さんに電灯線の撤去を四国電力に申し込んで欲しいと連絡したら今日既に行ってくれていた。毎日ドタバタだ。
契約書を送っておいた売主さんから昨夜メールがあり土地が1筆足りないと言う。調べたら平成27年に合筆されている。T石にも確認し朝電話で伝達。一方T中氏に電柱移設の連絡先を訊いていたら早速今朝10時に四国電力送配電の方が来てくれた。担当は別だから改めて連絡をしてくれることに。
消防詰め所の片付けに行くとルーターは付いたままだし洗い残しのコップと皿。それらを片付けゴミステーションへ。Y田Kちゃんと会ったから解体業者の件で立ち話。帰宅後に倉庫を先行して解体する件をT石が契約書に追記してくれ売主さんにメール。22時を回ってOKの電話をいただきT石にメール。
午後は役場建設課に電話。先週話をしたS藤氏によると水道は業者が昨日現地を見て水量などを計算すると。石積みは役場は問題ないが水路を利用するH木さんと今後のことを協議しておいて欲しいと。役場S藤氏が立ち会い報告書を作っておきたいとのことで午後H木氏宅に行って日程を調整して連絡。
16時には徳島設計工房の見積を聞くため川内のショールームに行って来た。見積を依頼してから1ヶ月。説明は過不足なく最も分かりやすかったかも知れない。170万円弱が値引きされ総額2,700万円。はなおかと秀光ビルドのちょうど中間。比較はできないが外構を含めた総額は多めの3,900万円。
A4で100枚を超える見積書とA3で40枚の設備ファイルを受け取った。降り出した雨の中を義母宅に行き3人で雑賀町で焼肉。3人で焼肉は6年ぶりのはず。生ビール3杯とカルビクッパで苦しくなった。帰りは妻の運転。勝浦の旧JA前で消防車が出てきて驚いていたら追い抜かれた。坂本で火事の模様。
不動産屋T石が3月に作成してくれていた契約書に目を通し質問と要望を昨夜メールで送って今日午後そのやり取り。送られてきた改訂版を18時頃に売主さんから聞いたアドレスにメールした。午後は住民票謄本を取りに役場支所へ。2人分が必要かと思ったら謄本なら1枚だと言われ発行してもらった。
妻は向かいでゆうちょ銀行口座の残高証明書を申請。残高証明書の発行に1,100円。帰り道に近所で農業委員長N岡氏の軽トラとすれ違った。と駐車場まで来てくれて昨日電話した件を立ち話で質問。行政書士さんから聞いたとおり。ただし農地の倉庫の扱いは改めて役場に問い合わせてくれた。
一方で先月の敬老会の後に公民館で飲んでいるときY中氏が家屋の解体を請け負うと言ってくれていたが見積が来ない。N野氏に番号を訊いて電話した。とペアを組む解体業T村氏が即来るというので現地に同行。とりあえず見積を依頼した。妻は妻で以前紹介された業者を調べたが本当にここなのか?
18時前にN岡氏から電話があり何と農地登記の倉庫を申請前に解体しておいて欲しいと。農地なのに建造物があるのが困るというのが農業委員会の上部団体の見解だとか。農地は現状からいじるなという今までの考えから180度転換。T中氏に電柱移設の連絡先を再確認したついでに解体の相談も。
昨夜は消防点検。12人が参加して私は消防車でK山氏とK本君とS牧氏を乗せて日浦へ。セルが回らず。車載の点検簿を書いていて自分の名前を忘れて人数が合わないと言っていたり左のミラーを倒したままだったり。宴席でこの話をして結局Y田君にまたネタにされて皆で大笑い。S田氏と23時前に撤退。
今日は不動産屋T石に紹介された行政書士さんを妻と訪ねた。車を法務局に駐めて行くとTシャツ姿のT岡先生。既に役場でヒアリングもしてくれていたらしい。申請書の書類もお持ちだった。質問いろいろ。まず計画の平面図は多少の変更があっても構わないと。それなら4月中に用意できたのに。
さらに邪魔な電柱の移動や水道の引込工事に石積みの修復なら申請中に行っても問題ないと言う。古家も宅地に立っているものだから転用地とは関係なく解体していいと。ただし造成や農地にある倉庫の解体は許可が下りてからと。それなら平行していろいろ準備を進めることができる。
以上の見解でいいのか農業委員N岡氏に確認しようと電話したが忙しいようなので改めて。T岡氏にははなおか案を送り秀光ビルドK氏には電柱移動場所の確認メール。T中氏にも報告して四国電力の窓口を教えてもらった。土地主さんにも電話し確認した上で契約書作成をT石に依頼。一気に進んだ気分。
今回のパーティの主役だった渡辺好章名誉教授のことは以前も書いた。配布された先生のプロフィールを見て知ったのだが私が卒業研究をしていた1987年度は助教授になられた1年目だったらしい。そういう若さだったから気軽に話ができたのだろう。何と言っても学会史編集で関わりが強かった。
今回パーティの前に控え室で話をさせてもらい思い出として学会史編集が終わって先生と私と京都大学の先生と学生の4人でロシア料理店だかバーに行った話をした。京大医学部の近くだったと思う。そのとき京大の先生が早々に泥酔したという話をしたらそれは平松先生だと教えられた。
渡辺先生の講演の中で知ったのだが1987年度に研究室のトップだった卜部泰正学部長は当時59歳。講演が終わってEIKとTMCに我々の今の年齢より若かったんだと話をした。卜部先生は既におじいさんという印象を持っていたのに。でも渡辺先生の講演にあった若い頃の卜部先生は美男子だった。
研究室で次席だった大谷隆彦教授は当時50歳代前半。今回のパーティに出席されていたが話はしなかった。当時でも話をした記憶が残っておらず先生も私のことは知らないと思い。大谷先生も当時の印象はおじいさんに近かったが36年経って80歳代後半になってもあまり変わってない感じだった。
地下鉄やバスとコインロッカーでPASMO (5月14日・日)
京都地下鉄の路線は私が学生時代には京都駅から北大路までだった。それが北山まで北進したのは知っていたが今は国際会館まで。南は京都駅を越えて竹田。しかも近鉄京都線に乗り入れている。当時この路線があったらカノジョの部屋を出て西大寺から1本で大学まで行けたと思うと感慨深い。
さて今回の京都ではPASMOも使えた。最初に地下鉄の窓口を探してロックを解除して欲しいと申告するとそのまま使えると言われた。以降ポケットにPASMOカードを入れて躊躇なく使った。バスでも使えるが2日に烏丸今出川で下りるとき混雑して中扉の入口から下りて前に回って出口の外からタッチ。
4日はホテルをチェックアウトして京都駅のコインロッカーに荷物を預けた。3日の12時前に下見したときコインロッカーは何か所か見つけたが全て使用中。と若い女性グループに駅の人が荷物預かり所があると教えているのを聞いて確認に行った。なるほど荷物を預けるのに問題はなさそうだ。
10時半に行った4日の京都駅ではコインロッカーはまだ1割ほど空きがあった。1Fフロアで預けたがここでもPASMO。ロッカーに荷物を入れ扉のロックを下げ別にある液晶パネルから操作しPASMOでタッチすると施錠完了。取り出すには同じPASMOカードが必要ですぐに解錠。意外に簡単だった。
自宅で風呂を使うと数時間後に玄関あたりが臭くなる。2~3年おきに発生してパイプ詰まり用の薬剤を入れると直る。今回2週間ほど前から臭い始め薬剤2本を5回ほどに分けて入れたがまだ臭いが取れない。臭いは徐々に弱くなっている気はするので今日も注入。いろいろ不具合が起こる住宅だ。
さて石油ファンヒーターを今日ようやく片付けた。今季は11月から3月まで264Lの灯油を購入。ただし妻が寝室で使っていたファンヒーターをタンクを満タンにして義母の部屋に持ち込んだから実質の使用量は259Lだった。今春は暖かく事務所のファンヒーターも4月中旬から全く使っていなかった。
一方エラーが頻発して私の寝室で短時間だけ使うようになったファンヒーターは今年1時間ぐらい付けていたときがあったのに一度もエラーが出なかった。事務所と妻のファンヒーターの底に溜まった灯油を私のものにスポイトで入れて事務所で4月中旬まで使っていた。
その底に残った灯油も石油ストーブに入れてベランダで5時間掛けて燃焼。窓際の冷気防止シートは今週初めに片付けていたし今日はファンヒーター全てを箱に入れてトランクルームへ。来冬は新居で迎えられるかと思っていたが間に合いそうもなく再度11月に今の住宅で準備することになりそうだ。
クラウドファンディング返礼品のどぶろくは1月に受け取ったがさらに2回配布があるはずだった。それを昨日ふと思い出し確認すると3月と5月だ。でも3月も受け取っていない。昨夜N木氏にメッセージを送ると今日午後やってきて2回分とお詫びのミニボトルをもらった。忘れていたらしい。
さて先日来プリンタが使えなくなっていた。3月にメンテナンスをしてからだ。でも印刷機能そのものに関わるような作業はしていない。私のデスクサイドにハブがあってプリンタにはLANケーブルで繋いでいる。そのハブのインジケータがプリンタだけオレンジになっている。ネットワークの問題か。
そこでプリンタのLANケーブルを差し替えてみた。ケーブルの差し込み口が見えないから手探りで抜いてみたらFAX用のモジュラーケーブルだったり。ともかく狭い場所に押し込んでいるプリンタのLANケーブルを苦労して差し替えたのに印刷できないまま。ハブのインジケーターもオレンジのまま。
試しに妻のPCから印刷して見ると実行できる。何だ私のPCの問題か。いろいろ調べるとプリンタとPCで管理しているIPアドレスが一致していない。一旦PCからプリンタを削除して再度設定し直して復活。苦労してケーブルを取り換える必要はなかったという顛末。
10時半からT中氏と役場建設課の2人と現地で打ち合わせを行った。内容は2点。1つは北側の石積みを修復するに当たりここが境界を示す杭の外側で国有の溝の一部になっており工事の可否を確認するため。T中氏が図面を示して久しぶりに会った担当のS藤氏に説明。これは課内で相談するという話。
もう1つは水道の引き込み手段について。水道担当は防災パレードの後で一緒に飲んだ若いH澤氏。自宅前でも話をしたが住宅担当にもなったとか。現地ではS藤氏も含めT中氏ら3人が相談している。敷地までの工事は施主負担だがT中氏が補助金がないのは間違っていると他市町の例を出して一席。
ともかく昭和40年代に敷設された水道管を掘り返して橋を越える手段や水路の下を通すと1.6mも掘らなければならないとか。工事費が上がっていくのが分かる。ここまでは北の道から最短で通す算段だったが西から引いてはどうかという案が出て見に行くと今は空き家の手前まで水道管が通っている。
空き家とはいえ許可が必要だがここから分岐できれば途中は土だから工事は簡単。町道を通行止めにすることもない。この案を中心に役場で検討してもらうことになった。ここまで2時間。仕事を終えた妻も最後に合流。T中氏はもちろん建設課の2人も一生懸命考えてくれてありがたいことこの上なし。
会社の銀行口座はコロナ禍ですっかり住信SBIネット銀行がメインになった。大口のクライアントからの入金もあり残高が増えている。一方以前メインで使っていた三菱UFJ銀行の口座残高は減っている。それなのに7月には企業保険の保険料120万円が引き落とされる。残高を積み増しておきたい。
一方で個人のゆうちょ銀行の口座からは自宅の家賃や電気代が引き落とされる。この残高があと1月分あるかどうか。ここにも入金が必要だから三菱UFJ銀行から現金を移そうと思った。でも多額の現金は持ち歩きたくない。それなら三菱UFJ銀行の法人口座と個人口座をうまく使えばいいではないか。
まずゆうちょ銀行のATMを使って住信SBIネット銀行の法人口座から100万円を引き出しそのままゆうちょ銀行の個人口座に入金する。三菱UFJ銀行では個人口座から100万円を引き出しそのまま法人口座に入金する。そうすると法人口座間と個人口座間で現金を移動させたことと同じ意味になる。
今日それを実行したのだが三菱UFJ銀行で個人口座から100万円を引き出そうとすると限度額が超えていると。結局50万円しか移動できなかった。経理上は手元に現金50万円が残っていることになってしまった。日を改めて個人口座から50万円を引き出し法人口座に移動させないと。ああややこしい。
先月からA社の月例会議に参加している。Microsoft Teamsを使ったオンライン。昨日も参加したのだが私の映像が向こうに行かない。WebカメラはロジクールC910。上勝TVのために2010年11月に買ったもの。13年も前の製品だ。さすがに古いのか。でもZoomでは問題なく使えている。
会議中Windows10のカメラアプリを起動すると別のカメラが有効になっていた。これをC910に変えてみたが変わらない。以前USBの接続先をPCの背面から前面に変えたら直ったことがあるから試してみたがダメ。最近の製品をヨドバシで物色してC920nがアマゾンで安かったからカートに入れた。
でも念のためWebで検索するとマイクロソフトのコミュニティに似た投稿と回答があった。英語だがUSB3.0ではダメだが2.0端子で直ったという報告のようだ。会議中USBを繋ぎ直した前面端子はUSB2.0だが念のためA社Y崎嬢に協力してもらって背面の2.0端子に接続して試してみた。
なかなか映像は行かないが時間が経つと届いた。USBの問題か。手順としてはカメラアプリでカメラをC910に設定した上でTeamsの会議通知を開く。Teamsアプリでカメラがオフになっているからオンに変更。これで大丈夫なはず。とりあえず新しく買わなくてよさそうだ。
※Microsoft Teamsのカメラをオンにするためにはさらにカメラアプリを終了させる(2023年6月5日追記)。
コロナ禍で推奨されていたマスクは3月から個人の判断に委ねられた。今日からは感染症法上インフルエンザと同じ5類に変わった。このGWも行動制限はなく皆が開放的になると予想。ウィルスの性質は変わらないのだから感染のリスクは今までで最も高い。後遺症に苦しむ人も多く感染は避けたい。
そこで今回の京都ではN95マスクを買って着けていった。最初の懸案は高速バスだった。空気清浄機付という便を予約したが意外に空いていて杞憂だったかも知れない。それでも私はN95。京都地下鉄は換気扇を最大出力で運用していて車内の空気は2分で入れ替わると書いていたが人は多い。
地下鉄も4日の朝は95%がマスクだったが午後は5割ほど。2日に乗った混雑したバスの中でも9割ほどマスクを着けていたし4日の三十三間堂に向かう路上でも8割はマスク。ただ3日夜の河原町は人が多く若者はほぼマスクなし。だから人が多いところでは屋内外を問わずN95マスクで通した。
耳が痛くなりがちだったが口の前のスペースが大きく意外にも呼吸は楽だった。今回の最大のリスクは地下の座敷に20人超が飲食した2次会だった。その夜の10人ほどの小さな店も閉鎖空間だった。でも徳島に帰って今日で4日目だが発症はしていない。感染はしなかった様子で少しホッとしている。
先月秀光ビルドに現在の月別電力使用量を送った上で太陽光発電の見積を依頼していた。と2日に専門業者による機材リストと月別の予想発電量グラフが届いた。パネルは17枚で発電量は7.055kW。標準的な4.5kWよりだいぶ多いのは事務所兼自宅で日中も家にいるしオール電化だからだろう。
見積もられた蓄電池容量は11.5kWh。必要な容量が提案されたのだと思うが月別発電量と現在の消費量が一致せずよく分からない。一方で太陽光発電に480万円を投資しても電気代の節約で10年で元が取れると3月に書いたが四国電力に支払う基本料金があると秀光ビルドK氏から指摘されていた。
それで改めて試算。提案されたシステムの総額は350万円。基本料金1,650円を2軒分引いて3年間の平均月別電気代を算出し消費電力をどれだけ太陽光でカバーできるか比率を掛けた。20年で元を取るにはカバー率80%が必要。3月に書いた電気使用量2割増だとカバー率は65%。なるほど。
さて今日は北側石積みについて先日お願いしていたT中氏が見積とともに現地で小雨の中を工事の説明をしてくれた。妻によると3日は息子T中氏と近所のK井氏も測量を手伝ってくれていたらしい。今日は町水道引き込み工事についても相談。もう本当に地元の人たちに助けられている。ありがたい。
からすま京都ホテルとホテルグランヴィア京都 (5月6日・土)
京都で今回泊まったのは1月にアゴラで予約した「からすま京都ホテル」。2泊で17,738円。後から京都の観光税400円を別途支払い。全く理解していなかったが京都ホテル系列だ。客層はフロント前で見掛ける限り外国人が半数。規定時間の1時間も早くチェックインさせてくれたからありがたかった。
泊まった部屋は11階の3701号室。狭いが十分。ただし廊下での話し声が聞こえるし上階のトイレを流す音もする。隣の部屋からガタッと物音も何度か聞こえた。エレベータは3基あってすぐ来る。隣にスターバックスがあると書いたがホテルの1Fだった。部屋からすぐ買いに行けたのは便利。
50m北にはセブンイレブン。3日夜にも寄ったが外国人を含め客が多い。店員はアジア系。そもそも地下鉄の四条駅6番出口からすぐで便利だった。もちろんWi-Fiもある。ノートPCは有線LANで接続した。ちなみに高速バスにもWi-Fiがあり3日間で使ったドコモの通信量は0.25GBだけだった。
一方で渡辺名誉教授退官懇親会があったのはホテルグランヴィア京都。建て替わった京都駅ビルにある。京都タワー方向から見れば分かったのだが当初七条口から右にエスカレーターを上ったから辿り着くまで時間が掛かった。でも新しいし全国から集まるイベントで利便性が高く良かったと思う。
今回の京都では3日とも快晴だった。予報で分かっていたので折りたたみ傘は持参せず。天候のせいもあったのだろう人出は多く3日夜の四条大橋付近の鴨川はカップルだけでなく観光客が1m間隔で座っているほど。木屋町の人出も学生時代の新歓コンパで歩いていた頃に近かったのではないか。
そんな中を下手に土地勘があるものだから歩きに歩いた。2日は計2.2万歩。3日は1.5万歩。4日は2万歩。普段は1日数千歩も歩かないのに初日から臑の筋肉が痛くなった。今も痛い。当時は千本通より西の下宿から烏丸通まで25分歩いて通学していたのに昨今いかに歩いていないかを思い知らされた。
快晴の中を歩くのだから暑い。行きはTシャツの上に長袖シャツと黒のジャケット。水のボトルを持ち歩くため肩掛けバッグに財布なども入れた。ただホテルに着いて午後はシャツを半袖に着替えバッグもホテルに置き財布とスマホはジャケットのポケットに。水はペットボトルを買った。それで正解。
3日はスーツの後ホテルに戻って2日の行きと同じ長袖シャツにジャケット。夜はちょうど良かった。4日は別の半袖シャツにした。でもジャケットも余計だった。肩掛けバッグも持ち歩く一方スーツケースはコインロッカーに預けたのだからジャケットも預ければ良かった。ともかく日中は暑かった。
7時半に目が覚め9時起床。荷物をまとめ昨夜EIKに京都駅に11時前後に行くと言っていたのに10時半に到着。彼に連絡が付かないから七条通の1本北を東に歩き塾の講師をしていた民家を探した。でも周辺は大規模な駐車場になり分からなかった。近所の耳塚と豊国神社に行ったのは38年ぶりぐらい。
それにしても片道20分。七条大橋からは結構な坂でバスを使う日もあったが毎週2回もよく通っていたものだと感心。再び京都駅に戻り南口マクドナルド前でEIKと待ち合わせTMCも合流したのが12時過ぎ。3人で八条通西の天下一品まで10分掛けて歩いたらまさかの休業でUターンまた徒歩10分。
結局地下鉄で学生時代よく通った天下一品今出川店。ビルは建て替わっているが場所は同じ。煮玉子チャーシュー入り並に餃子。さらに3人で新町別館へ。一昨日に私が行った室町通りは間違っていた。行くと大きくきれいな学生寮が建っていて皆で驚愕。さらに新町校地に行き守衛に断って敷地内。
烏丸校地や北門なる私たちの知らない表記があるので行ってみたら閉門。でも我が電気系学部の研究棟である博遠館が間近に見えた。ここで愛知に帰るTMCと別れEIKが相国寺に行くと言うので付き合った。同志社のすぐ北から東に広がる広大な境内。すぐ隣なのに奥まで入ったことがなかったのだ。
EIKが御朱印をもらいに寺内へ。私は表で待機。同志社正門前を経由し神奈川に帰るEIKと別れた。歩き疲れて烏丸今出川のモスバーガーでコーヒー。さらに御所に行ってベンチでまったり。京都駅に16時頃行き大混雑の土産物屋で八つ橋を買って16:40発のバス。隣に人は来ず夕食後21時前に帰宅。
渡辺好章名誉教授の最終講義と記念パーティ (5月3日・水・祝)
昨夜は夜中に何度も目が覚め10時起床。隣のスターバックスでBLTサンドとラテを買って朝食。シャワー後11時半にホテルを出た。京都駅で高速バス乗り場とコインロッカーの場所を確認して駅ビルのグランヴィア京都。受付より早い12時に会場に行くと同級生の現教授松川真美さんがいてご挨拶。
今日の主役の同志社大学の元副学長渡辺好章名誉教授の控え室に案内してくれ実質的に私の指導者だった当時は博士課程1年だった土屋隆生現教授と25年ぶりに会って松川真美教授含め雑談。3人を40分も独占できてラッキー。挨拶に来た人が分からなかったが後にサークルの大先輩M部氏と知る。
サークルの仲間で同級生EIKとTMCと会い最前列で予定を20分オーバーした最終講義を聴いた。場所を変え集合写真は偉そうにEIKが最前列に座り私とTMCはすぐ後ろ。パーティでは当時修士1年だった浅田氏とも話し偶然テーブルにいた人が大日本スクリーンだと聞きサークルの後輩への伝言を依頼。
さらに2次会に行くと言うので付いて行き駅前地下の居酒屋。隣に座った方と話をしていると当時修士1年だった木村氏だと分かり当時の話など。土屋教授とも渡辺好章名誉教授とも話をして解散したのが19時頃か。一旦ホテルに帰り頂いた記念品を置き着替えて改めてEIKと待ち合わせ。
四条烏丸から河原町まで歩いたが当時よく行った「静」は休業。EIKお奨めの店は一杯でさらに三条に歩き「あおい」というおばんざいの小さい店。10分ほど待ち日本酒を飲んで隣の若者とも話しながら21時半。鴨川沿いを四条まで歩き四条通の1本南を烏丸まで徒歩。EIKは京都駅まで歩いて帰った。
京都にいる。朝8時に出て松茂の駐車場に9:05。ローソンでパンを買って車で食べて予約しておいた10:03発のバスに乗った。意外に空いていて皆1人ずつ座っていたと思う。時刻表より10分早い12:45に京都駅。昼食に地下に下りたが行列の店もあって諦めて地下鉄で四条烏丸のホテルに向かった。
13:05とチェックインには早く荷物を預けようとしたら部屋の用意ができていると言われ早々に入室。シャツを半袖に着替え交差点近く地下の焼き鳥屋で親子丼。再び地下鉄で今出川。大学構内を歩いてみた。さらに新町校地へ。途中の家はほぼ建て変わっている。室町別館は高級マンションだ。
今出川通りをバスで河原町。鴨川右岸を葵橋まで歩いて最初の下宿を見に行った。下鴨神社に寄ってバスで堀川北大路。歩いて2番目の下宿へ。さらに歩いて3番目の下宿も。ここで疲れ切って夕食はよく通った大坂屋にしようとしたらなかった。斜め前の喫茶店で休憩して訊いたら移転したと言う。
バスで移転先の千本北大路。でも今夜は休業。諦めて59系統のバスに乗ったら満員で烏丸今出川で下車し地下鉄で四条烏丸に戻った。ここまで2万歩。出歩く気力はなくホテル内の中華レストラン。ビールを瓶で1L。あれこれ注文して9,000円も使って食べ過ぎてしまった。部屋でもビール500mL。
家を建てるとして許容できる金額はいくらか。一つの考え方は現在の家賃をベースにする計算だ。今住んでいる町営住宅は事務所と自宅の2軒分を借りて月に家賃が7.2万円。仕事を辞めれば事務所は要らないはずだが寝るときと風呂以外は事務所でいるので5年後に解約することはないと思う。
事務所は10年使うとする。義母のマンションも賃貸であって家賃は4.5万円。義母が一人暮らしできるのは5年と仮定してみる。7.2万円/月×10年で864万円。4.5万円/月×5年で270万円。この合計が1,134万円。私たち夫婦のどちらかが今から25年生きると自宅の家賃3.55万円×15年で639万円。
85歳まで生きれば合計1,773万円は家賃に必要。もし90歳までと考えれば1,986万円だ。以上は70歳で事務所を引き払うことを前提にしたが75歳まで使い続けるとすると85歳まで生きて1,992万円。90歳まで生きれば2,205万円。それだけの家賃負担を考えておく必要があるということだ。
そう考えると2,000万円程度で家が建てられれば今後に支払う家賃分と見合う。だが実際は500万円以上オーバーする。超過分は生活が便利になるとか充実するとかプラス面を考慮して納得するほかない。10年早ければ金銭面だけでも納得できたと思うがこればかりはタイミングというほかなく。
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© 2023 Takashi INAGAKI