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2021年9月

登山グッズを物色 (9月30日・木)


先日F田氏と鶴林寺の遍路道を歩いたとき折り畳み式の小さなイスと妻に借りたポールを持って行った。2年前に買ったポールは3つ折れで短くなる杖で持ち手はI型。上るときはいいが下るときはT型がいいとされる。今回の筋肉痛は特に臑回りが酷くて下り道が難点だったと分かる。T型ポールを買おうか。

一方イスはいつも車に積みっぱなしだがF田氏が持っているものより重い。荷物は軽い方がいい。これも新しく買おうか。と考えてポールを買ったモンベルのオンラインショップを見てみた。バックパックも千歳烏山駅前で20年ほど前に1,000円ぐらいで買った安物だからこれも買い直そうか。

これらはオンラインショップで目星を付けたが他の商品を見ているとシャツも重要と分かってきた。先日の登山では普通の綿Tシャツとジーンズだったが汗でぐっしょり。これが冷えて良くないらしい。速乾性の高いものが必要と。むむ。ワークマンで買った薄いTシャツなら持っているが。

それに雨と寒さ対策。雨予報なら出掛けないし本格的な山登りをする気もないが肌寒くなったとき1枚着られる軽いパーカーは欲しい。と今まで考えていなかった物欲。来週は歯医者でゆめタウンに行くのでモンベルに寄って確認してこようと思う。その前にワークマンも要チェック。

iPhone4のWi-Fi設定 (9月29日・水)


11年前に買ったiPhone4は8年前から睡眠アプリSleepCycle専用として枕元に置いている。セットした時刻の30分前から眠りが浅くなったときに起こしてくれるから重宝している。でもSleepCycle専用だから何度かルーターを買い換えているうちにこのiPhone4はWi-Fi接続をしないままにしていた。

私は町営住宅の隣り合った2戸を借りていて普段は事務所にいるのだが外出するとき着替えるために自宅の部屋に行く。着替える段になって今夜は暑いか寒いか上着はいるかなくてもいいか天気予報が気になるがスマホは事務所に置いてある。そんなとき枕元のiPhone4でチェックできればいいのに。

でもこのiPhone4でネット接続はできない。ふと昨夜これをWi-Fiに繋げばいいじゃないかと思いついた。いや今までも思ったことはあったが着替えが終わるとすっかり忘れて放置していたのだった。今は事務所のWi-Fiを自宅側で中継している。そんなわけで中継機の暗号化キーをiPhone4に入力。

ところが違うと言われる。よく見るとSSIDから違う。そうだった。SSIDは中継機のものではなく暗号化キーも本機のものを使う必要があったのだ。忘れないようiPhone SEの付箋アプリにメモをして今日午後に設定。これで着替えるときにも天気予報を確認できる。さっさとやっておけばよかった。

データ通信量を使い切った (9月28日・火)


昨夕iPhoneに今月のデータ量を使い切ったというメールが届いた。4月からドコモ「はじめてスマホプラン」だが1GBを使い切るようなことはなかったのに。使用量は4月が0.25GB。5月0.09GBで6月0.08GBに7月0.13GB。8月0.15GB。つまり毎月1GBのうち0.8GBぐらいは残っていたのに。

日曜の登山でYAMAPアプリを起動していたから気になっていたが残り0.83GBあったはず。iPhoneの設定画面でモバイルデータ通信の項目を確認するとインターネット共有で993MB使ったとある。そう言えばPCと同期しようとiTunesを起動したときインターネット共有をオンにしたんだった。

そもそも元A社の旧姓I関嬢にスダチを送るのにiPhoneの住所を間違って削除してしまいPCのOutlookでデータを作り直し同期しようとiTunesを起動したのだった。とiOS 15.0へのアップデート案内が出たのでダウンロードして更新を実行していた。それがモバイル回線を使ったとしか考えられない。

月の1GBを使い切っても128kbpsでは通信できる。今日スダチの発送で郵便局に行ったときと帰宅してからWi-Fiが入らない環境で試してみるとツイッターの読み込みに時間が掛かったがメールとSwarmの使用は問題ない。いずれにしても既に月末だし今週は外出する予定はないからよかった。

スダチの調達と発送準備と筋肉痛 (9月27日・月)


4年前にコメリで最初は4個買ったらしいオレンジの折り畳みコンテナ6個を車に載せて15時半の約束だと聞いていたが15時から準備をして10分ぐらい早く着いた。上勝の生実地区にあるB東食品さん。2tトラックを奥に入れてもらい坂道から庭に入った。昨年に続いてスダチを買いに来たのである。

昨年からさらに10kg減らして今年は60kg。単価は同じく200円/kg。既に準備してくれていたコンテナから移し替えて車に載せた。帰りに渡されたのがBAKASCO。唐辛子栽培から始め鳴門の川添フルーツさんとコラボして作ったペッパーソース。食塩も鳴門産で全ての材料が県産品らしい。

帰宅後この日のために溜め込んだ段ボール箱を床にぶちまけスダチの梱包。アマゾンの箱は弱いのですぐ解体するがヨドバシの段ボールが何十個もある。でも今日使ったのは5個だけ。この機会にヨドバシ以外の段ボールはほとんど解体。それでも大小20個ぐらいある。今後はこまめに処分しよう。

さて昨日の登山の影響で今日は筋肉痛。別途1月ほど前から腰痛もあってゆっくりしか歩けない。でも昨日夕食前に計ったときの体重は58.3kgで体脂肪率13.6%。ただ禁酒は継続中ながら筋肉痛のためだろう安静時心拍数は58から60に上がった。今日の体重は58.8kgで体脂肪率14.9%。

鶴林寺遍路道登山 (9月26日・日)


昨年11月以来の山登り。近所の同級生F田氏が栗を持って来てくれてお礼に松浦酒造の古酒を渡して車に乗った。マスクを忘れて取りに帰りトンネルを越えてからメガネがPC用だったとUターンしてもらい11:09出発。勝浦の道の駅に車を駐めほぼ満席のみやこやで会員カードを新調してとり天うどん。

今日のルートは昨年の中津峰の正面になる鶴林寺の遍路道。YAMAPアプリの操作に手間取り道の駅を12時に出て案内に従って山に入った。石やコンクリートで整備されているがコロナ禍で家に籠もってすっかり痩せた脚にはきつい。妻から借りた杖を突きながらベンチがある度に休みながら。

交差する車道に出たのが14時前。ベンチがあったので持参したバーナーを出してF田氏の水で湯を沸かしていつもの手動ミルで豆を挽いて蜂の羽音を気にしながらコーヒーを飲んだ。今日は15時に0.1mmの雨予報。16時には0.5mm。頑張れば鶴林寺まで行くことはできるが止めることにした。

下りは遠回りではあるが車道を選択。次は那賀町に下る三叉路に駐車して今日の撤退地点から最後まで行ってみようかと話し合う。下りも脚を痛くしながら意外に時間が掛かり道の駅に帰ったのが15:40頃。YAMAPによると6.6kmを3時間37分掛け352mの標高差を上ったらしい。16時過ぎ無事帰宅。

「大五郎さんボカーン」 (9月25日・土)


ツイッターで「どんぐりころころ/どんぐりちゃーん/おいけにはまって/さいかいてん」と自分の子が歌っていると書いてあるツイートが回ってきた。こういう子どもの間違いを見るたびに思い出すのが「大五郎さんボカーン」。弟が小さい頃に近所の子と2人で繰り返し言っていて今も耳に残る。

当時は隣にアパートが3棟あって一番奥の2番目の部屋に3人家族が住んでいた。男の子が弟の1つか2つ下で2歳か3歳だったと思う。そのお母さんは自分の子に座薬を入れることができないと言って私の母に頼みに来ていたこともある。親同士は家の前の狭い私道で井戸端会議をするような関係だった。

その子と弟は年齢が近いからよく遊んでいて三輪車に乗って駐車場のスペースになっていたところに車がないときぐるぐる回りながら「大五郎さんボカーン」を繰り返すのである。 大五郎は「子連れ狼」で乳母車に乗っていた子の役名だろう。ボカーンは爆発音だろうか。

私は弟の6歳上だから小学3年か4年だったが何が面白いのか全く理解できなかった。とにかく直径3mぐらいの範囲で三輪車でぐるぐる周りながら「だーいごろさん ボカーン」。笑いながら2人が延々と繰り返す光景をときどき思い出す。10年ぐらい前に弟に言うと本人は全く覚えていなかったが。

舌の傷と禁酒 (9月24日・金)


舌を噛んだ傷はだいぶ治ってきた。切ったのが月曜夕食のときで翌日コスモデンタルクリニックで診てもらった。白神歯科で出してもらっていたらしい3gの小さいチューブに入ったアズタゾロンという口内炎の薬を月曜夜から毎食後と寝る前に塗っていたがこれが結構効いていたのかも知れない。

薬を塗るときに確認する。治ってくる過程で気づいたが傷はCの字に切っていたらしい。舌の左側面。鏡で見るとまさにCの字。Cの中身が飛び出して白く丸く見えていたようだ。2日目の水曜にはCの左がくっついた。木曜には下側も付いて今日は上も。でも傷跡はまだはっきり分かるしCの中が膨れている。

さて先週木曜からの禁酒は何となく週末も継続した。月曜に舌を切って普段ならアルコール消毒だと禁酒は解禁するところだがそんな気にもなれなかった。夕食後に塗った薬が流れてしまうことも避けたかった。ただこの薬の粘性は結構あって指に付けた薬は手を洗ってもなかなか落ちない。

禁酒にも関わらず安静時心拍数は61から下がらなかったが木曜に60になり今日は59まで下がった。昨年11月以来10ヶ月ぶり。就寝中の最低心拍数は木曜が48で金曜は50。安静時心拍数が下がらなかった原因が舌の傷かどうかは分からないが治ってきてようやく禁酒の効果がでてきたと解釈している。

信号回避の回り道 (9月23日・木・祝)


消防点検の後にT中氏とY田君と飲んでいるとき信号を回避する裏道の話になった。Y田君が横瀬の信号手前から裏に入って後続車を置いていくという話だったと思う。それで思い出したが私も過去に何度も同じようなことをやった。1つは鳴門の実家から沖浜に通勤しているときの裁判所前の信号。

徳島で最も渋滞する交差点だ。南進の右折用は当時1車線だけだったが比較的空いていた。それで市民病院を過ぎて渋滞すると右車線を走り交差点手前で中央車線に割り込んで信号を直進するのが常だった。ちなみに今はこういう割り込みはしないし逆にブロックして入らさないようにしている。

あるとき中央車線に戻れずそのまま右折せざるを得なくなった。素直に右折し文化センター前ですぐ左折。さらにすぐ左折して11号線に戻った。この間の信号は全て青。たまたま状況を見ていたK野が奥さんを乗せた車で次の信号待ちで並んで「どこから出て来たんな」と言っていたのを覚えている。

次は元旦の初日の出のため多分大原のI村氏を迎えに55号を南進していたとき。暴走族3台が横に並んで30km/hで走っている。青山がある沖浜の交差点が黄色になったのを見て手前の阿波銀行から左折し右折を2回して暴走族が止まっている信号から55号に復帰。してやったり。89年か90年だと思う。

元弁護士の井上智治氏 (9月22日・水)


1988年に入社して7月初旬から業界団体の会合に行くようになった。今はソフトウェア協会と名乗っている当時の日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会。通称パソ協。社長に付いて行く場合が多かったが会議に代理出席することも多々あった。そこには井上智治という顧問弁護士がいた。

弁が立つから少し胡散臭く思っていたが1990年のコンピュータソフトウェア著作権協会の独立を機に私はパソ協の担当を外れて井上氏と会うこともなくなった。後に詐欺だったか経済事件を起こして弁護士資格を剥奪されたと聞いて驚いたのだがその後もソフトウェア業界の周辺にいたらしい。

次に名前を聞いたとき彼は楽天球団の役員だった。先日2004年のプロ野球ストを扱ったNHK「アナザーストーリーズ」再放送を観ていたら井上氏が登場していてびっくり。彼はコンサルタントとして当時人気がなかったパ・リーグのチームでもビジネスになると楽天にプロ野球参入を説得したらしい。

その後楽天球団オーナー代行やパ・リーグ理事長も務めている。おそらく71歳の現在の姿に当時の面影はなく私には真面目な企業人に写った。これが本当にあの井上智治さんなのか。胡散臭い野心家の弁護士は事件を起こして改心したのか当時の私の偏見だったのか。少し懐かしくもあり驚いた。

ゆめタウンの歯科 (9月21日・火)


昨日噛んだ舌が気になるのでコスモスデンタルクリニックのU宮氏にFBメッセンジャーで連絡して藍住まで行ってきた。予定の15時の10分前に到着。一昨年8月に初めて行って昨年2月以来3度目だ。受付で保険証を出したつもりがマイナンバーカード。衛生士さんに指摘されて保険証を出し直し。

診察室で持参した塗り薬を見せると彼の医院で出しているのは同じ商品だが容量が違うと。白神歯科でもらってきた薬だったらしい。もう5年ぐらい前のものかも知れない。さて腫瘍のように見えた白いものは舌を斜めに抉ったから切れた毛細血管の先にある組織が白く見えていたのだろうと彼が言う。

舌の左が腫れていたのは左下の奥歯2本がないためとも。通常は歯の上に食物を乗せるため頬と舌で挟んでいるが歯がないので舌が広がろうとしていたという説明。普通は噛む瞬間に舌は引っ込むけど疲れていたのではと。自覚はないがそう言えば禁酒しても安静時心拍数が61から下がらないんだった。

彼の説明には納得。一方5年前に白神歯科で作ったマウスピースが何か所か破れてきている。持参したそれも見せて新しく作ってもらうことにした。今度はハードタイプ。型を取るとき上側だけやり直して今度はなかなか外れず衛生士さんに謝られた。帰りに予備の口内炎薬を買って17:30頃に帰宅。

舌から出血 (9月20日・月・祝)


9月20日の夕食で妻がスーパーで買って来た刺身を載せた海鮮丼を食べ終わる頃に舌を噛んだ。ほとんど食べ終えて片付けをしようと立ち上がる状況だった。お茶を飲んでから鏡で見ると下の左横が裂けて舌の皮のようなものが垂れ下がり中から白い球のようなものが飛び出している。もちろん出血。

検索すると噛んでも放置していて治るとある。口内炎の薬を塗ると良いとも。口内炎の薬は探すとあったが使用期限が2004年。これはダメだ。白神歯科だかゆめタウンのコスモデンタルクリニックでもらった小さい薬があったはずと探すと机の中にあった。いつのものか分からないが未使用だ。

血は30分ほどで止まっていたから塗ってみた。とまた出血。さらに落ち着いて塗ったり。舌の左横は以前から腫れていて2年半ほど前「響」の練習前に白神に見せると癌ではないだろうと。コスモでも歯に当たると腫れる場合があり様子を見ようと一昨年言われた。先日の検診でも同じことを言われた。

ただし今回の場所は少し奥。1月ほど前に気づいた。以前から腫れていた手前のものよりも大きく膨れていた。でも直近でチェックしたのはいつだったか。ただ噛んだだけならいいのだが剥き出しになった白い腫瘍のようなものが気になる。明日は藍住のゆめタウンまで行ってみようかと考え中。

台風一過と消防車の給油 (9月19日・日)


土曜の未明に台風が過ぎた。西から福岡に上陸して愛媛に再上陸して神山町あたりから阿南を抜けて和歌山に再々上陸。愛媛あたりで994hPaだったから大したことがないと思っていたが実際にそうだった。台風が過ぎて日中は晴れて気持ちのいい季節になった。

午後すぐぐらいに表をバイクが何台も通っていった。同じような中型バイクが10台以上奥に行ったが射手座造船所にでも行こうとしたのだろうか。今日は湿度も低い。でも妻がオンライン講座中なので部屋は閉め切りエアコンを掛けている。私は今日もピアノの練習。

その前に地元の消防団のポンプ積載車に軽油を入れに行ってきた。昨日は営業しているかとフィットで地元のJA給油所に行くと定休日。今日改めて事前に見に行ってから消防車を出した。昨年4月からだったか営業日と時間が変わっている。現在は火曜と土曜が休みで時間は8:30~17:00。

ここで入れると消防団に請求されるので現場で支払う必要がない。片道2kmだけだがマニュアル車の運転は楽しい。半分にまで減っていた燃料が満タンになって一安心。さて木曜からの禁酒は3日続いて安静時心拍数が66から61になった。1年前は53まで行ったからもう少し禁酒を続けてみようかと。

ピアノの練習 (9月18日・土)


8月20日から始めたピアノの練習はまだ続いている。最初の教本(上巻) は2週間前に終わって今は復習モード。1曲をだいたい1回から3回で弾けるようになった。でも一発で弾けていい気になっていたら翌日は5回ぐらい掛かることもある。油断して集中していないと簡単に間違える。

練習ではこの復習に続いてハノン を弾く。全部で20曲というか20パターンあるうち今は5番までを繰り返している。同じ指使いで音階を上がり次に下がる繰り返しだが小指と薬指が弱いことがよく分かる。腕の筋肉がピクピクするし特に左手はリズムが崩れてくる。まるで指の筋トレだ。

続いて2週間前に買った教本(下巻 )。上巻は2日に1曲のペースだったが下巻は1曲あたり5日ぐらい掛かる。右手だけや左手だけなら簡単だが同時に弾くのはどの曲も最初は絶対に無理だと思うほど難しい。でも練習しているとできるようになる。この教本は難しさのステップが絶妙だと感心する。

アマゾンで上巻のレビューにボケ防止でピアノを始めたと書いている人がいたが確かに脳トレになっていると思う。別々に動かなかった左右の指が練習して動くようになる。今まで使っていなかった脳のシナプスが繋がっているはずだ。私にとっても老化防止がモチベーションになっている。

ヘ音記号の楽譜 (9月17日・金)


ピアノの練習は続いているがへ音記号で詰まる。ピアノであれば右手の音域を記したト音記号の楽譜は一瞬で理解できる。小学校で習うし「響」でも2ndテナーの私が担当するパートはト音記号の楽譜だから慣れている。ところが左手の音域を記したへ音記号は頭の中で数えないと理解できない。

ハ調で言えば五線譜の上にあるドと1オクターブ下のドと上のラは知っている。シはドとラの間だから一拍遅れて分かる。でも例えば五線譜の中にあるファやミさえラを基準に数えないと分からない。合唱でも混声合唱における男声パートはへ音記号だったと思うのだが私は全く理解できていない。

大人になって歌った混声合唱曲にハ調の曲はほとんどなくてシャープやフラットがいくつも付いていたと思う。最初に音取りするとき「響」では調に合わせて読み替えるため音符にいちいち階名を書き込むのが流儀だった。絶対音感はないけど相対音感を持つ人が指揮者を含めて多かったのだろう。

だから音符から直接読むのではなく自分で書き込んだドやレの文字を読む。それでへ音記号には馴染まなかったのだろうと推測。でもピアノで音が分からずいちいち左手が止まっては困る。合唱と違ってピアノの鍵盤に階名は関係ないから今からでも覚えようと思っている。何とも情けないのだが。

消防点検後の飲み会 (9月16日・木)


昨日は15日付の消防点検。先日放水ポンプなどを下ろして車検に出したままで消防車がないのではないかと思いつつ行ってみると翌日には返ってきていたらしい。荷物も下ろした日に飲んでいた人たちが翌日に積み直したらしい。返ってきたら燃料を入れておこうと思ったのに今日は雨だ。

ともかく昨日は点検でM下氏が中央に行き直帰し分団長は一人で日浦。私はY田君と役場K本君を乗せて消防車で鹿子山。なぜか1日組の副分団長T中氏もいて買い出しに行ってくれてK本君を除く4人でビール。T中氏調理の焼肉と豆腐豚鍋と王将の餃子。分団長は20時前に帰っていき残ったのは3人。

Y田君が自分でフレームを設計して加工会社にカーボンで作ってもらったドローンを使って田んぼの鹿を追っているとかいう話。ゴーグルを着け画質は悪いがダイレクトに映像を見ているとか。信号を回避する裏道のこととか寝ている人にチェーンソーで脚を切ったと思わさたいたずらのこととか。

結局500mLのクリアアサヒを5本空けて気づけば25時。いったい6時間も他に何の話をしていたのか。寝たのは午前2時前だったと思うが明け方に気分が悪く事務所の冷蔵庫からポカリスウェットを持ち出して何度か飲んで何とか日常生活。そんなわけで今日は3月以来半年ぶりの禁酒。

鶴屋百貨店屋上の学習塾 (9月15日・水)


聖母幼稚園の英語教室は4年生のときだけだったかも知れないが5年か6年から小学生の間は新しくできた学習塾に通った。新聞の折り込み広告で知って母が父と相談して申し込んだのだと思う。場所は鳴門郵便局がある交差点の南東角にあった鶴屋百貨店の屋上。そこに設置されたプレハブだった。

小さな教室が2つか3つあって1クラス10人ぐらいだったと思う。教科は算数と英語だけだったはずで塾長を兼任する算数の先生は鳴門工業高校を退職したと言っていた。小太りの色白だが窓際のクーラーだかテーブルに座って足をブラブラするような教師らしくない老人らしくない人だった。

英語の先生は発音にやたら厳しい70歳ぐらいの人だった。文法とかリスニングとかを教えられた記憶はないがとにかく発音だけには厳しくてFとかLとかRとかVとかZの発音を徹底させられた。ときどき一人ずつ耳元でしゃべらせる。ところが先生の耳の中から毛がはみ出ていて気になって仕方ない。

あるとき友人が「あそこ」は何というのか別の友人が訊きたがっていると言った。ただ「there」とか答えたのだろう。先生は厳しかったが他の小学校からも来ていて面白がっていたような気がする。帰りは鶴屋百貨店の営業が終わった20時とかで暗い1Fフロアを抜けていった記憶が残っている。

英語のポルノ小説 (9月14日・火)


鳴門駅の裏に今もビルは残っていると思うが昔ジャスコがあり上階フロアに本屋が入っていた。その本屋に小学校6年のときなぜか母といて本を買った。徳大附属中を受験しようかと言っていた頃なのだろう。参考書だか問題集だかと少しくだけた感じの英語の本を買った。

その英語の本は映画の台詞とか音楽の歌詞などが紹介されていたのだと思うが解説の語り口がとにかくくだけていて取っ付きやすそうだと思って買ったのだと思う。そういう調子の本なので帰宅してペラペラめくっていると後半にはポルノ小説が掲載されている。日本語との対訳付きだ。

どんな内容のものだったか覚えてはいないが結局この数ページばかり読むことになる。もちろん英語ではなくもっぱら対訳の方。この翌年に中学に入学して多分この本の話をクラスメートにしたのだろう。頼まれて誰かに貸した。その話を聞いた別の誰かからも頼まれて。

結局10人ぐらいの手を渡ったのではないか。行方不明になることなく戻ってきたとは思うのだがさすがにもう捨てたのだろう手元にない。いずれにしても英語を勉強すると言って買ったものも目的外に使って来た私。英語の勉強は一過性の気持ちというのは昔も今も変わらないように思う。

聖母幼稚園 (9月13日・月)


私が初めて英語に触れたのは小学4年で塾として通った聖母幼稚園だ。調べると今は桑島にあるらしいが当時は鳴門市役所の北200mのところにあった。キリスト教の幼稚園だが土曜の午後だかに外国人たちが英語を教えていた。私が通っていた撫養小学校の児童のうち10人ぐらいが行っていたと思う。

教材は英単語が書かれた絵本のようなものでシマウマZebraだとか象Elephantとか動物の呼び方が1ページ目。覚えているのはそれだけ。クリスマスにはミサがあって友人に誘われて行ったら賛美歌のハレルヤを歌うとき当時の菓子店のCMだった「レッツゴーハレルーヤー」と幼児が大声を出した。

幼稚園の園庭ではよくハンドベースをやった。野球のルールでバッドを使わず手で打つ遊びだ。サードを守っていて牽制球をランナーのO上君にタッチすると彼が何でいちいち足に触るんだと怒った記憶がある。牽制球だから一応タッチしたのだがアイツは野球のルールを知らなかったのか。

当時仲良かった1つか2つ下のヤツがいた。当時の聖母幼稚園の東にある病院の息子という記憶から地図で調べたら日下歯科というのがあるからここだろう。日下君か。私は小学4年で辞めたのか6年まで通ったのかZebraの1ページ目以外は何も覚えていないから英語は楽しくなかったのだと思う。

だんじり保存会の会合と消防車 (9月12日・日)


土曜は地元の祭りで太鼓を叩くだんじり保存会の会合。コロナ禍の徳島アラートとかで公民館を使うことができず中央地区の会堂で18時。一昨年の選挙事務所があったところでここに入るのは2回目。大太鼓担当で連絡をくれたY山氏が遅れてきたが9人いたと思う。私が最年少。

会計F田氏が欠席で会計報告だけ義母さんが届けてくれたが令和元年度とある。令和2年度の報告が必要なのだが皆で推測した結果として昨年の報告がなかった分だと。昨年度は秋祭りでのだんじり中止で支出も収入もなかったと理解したしたが利子1円だけの分として昨年度の報告が必要だろうと。

続いて今年の秋祭りでのだんじりについて議論したいと私の次に若い総代A堵氏の話。昨年は酔って反論したが今年は致し方なしと納得した。ビールや酒を飲んで最後にM本会長がやりたいと言い出したがどうなったのだろう。80歳前後の人たちが次々帰り最後にN岡氏とA堵総代とM本氏と21時解散。

今日は車検に出す消防車から荷物を下ろした。T中副分団長から18時半と連絡を受けていたが18時過ぎに2人いたので合流して消防車を表に出して作業開始。ポンプやホースや室内の工具箱など全てを下ろして18時半には10人近く集まったがほとんど終わっていた。一部は飲みに居残ったが私は撤収。

英語での会話 (9月11日・土)


英会話はできないが仕事で仕方なく話さざるを得なくなったことがある。1996年6月に米国サンフランシスコで開かれた見本市JavaOneの会場。英語のできる人が近くにおらず仕方がないから米国人のコンサルタントに書類の件で身振り手振りを交えて何とか伝えた。気持ちがあれば伝わるものだ。

その会場モスコーンセンターの屋外にあった喫煙所でタバコを吸って一服していたらイスラエルのソフト会社の社員だという人が話し掛けてきた。私が日本のワープロソフト会社に勤めていると言うと日本語は左から書くのか右から書くのかと訊いてきた。アラビア語は右から左だったっけ。

日本語は左から右に書くが上から下に書くこともあると答えたつもりだが彼は左から右に行って下に行けば渦巻きにぐるぐる回ってしまうじゃないかと笑う。うまく伝えられない間に彼なりのジョークだったのか笑いながら行ってしまった。正しく伝えるのは難しい。

1988年だったと思うがニューヨークの地下に小さなTシャツ店があった。写真をプリントできるそうだが私が何か質問をするが伝わらない。私が諦めかけると一生懸命に話そうとしてくれた。小さな子もいる中国人家族だったと思うが彼らの情熱とバイタリティに感動したことも覚えている。

英語の勉強 (9月10日・金)


昔から英語は苦手だった。いや中学や高校の試験ではそれなりの点を取っていたが会話はできない。J社に入社した1年目の夏に米国に連れて行ってもらったが皆に付いていくだけ。1996年には米国で開かれるJavaOneへの出展などの準備で英語が必要になったし現地でも仕方なく話すことはあった。

でも単語を知らないし聞き取りもできない。それで少しは勉強しようと1996年に川内に買ったマンションでテレビのNHKニュースを観るとき副音声の英語にしていた。毎日聞いていたら慣れるだろうと思ったら確かに少し聞き取れるようになった。遊びに来たK野にそう説明した記憶がある。

1990年発行の『英語ミニフレーズ』(アルク)という本も持っているのは当時も勉強しようという気になったのだろう。1992年に最初の結婚をしたとき何かの広告で見てスピードラーニングの試用版カセットテープも取り寄せた。何度もDMが来ていたような気がするが試用版さえ聞かなかった。

つまり1992年頃と1996年頃に勉強しようと気分が盛り上がり中途半端なまま次は2005年だったということでやる気はまさかの10年に1回だ。上勝に来てから英語を勉強しようなどと考えたことはなかったはずなので今回は16年ぶり。購入したアプリ代金2,080円の元ぐらいは取りたいものだがさて。

日本酒 (9月9日・木)


コーヒー豆を買うときはやまなみ珈琲では700gでいかりや珈琲では600g。計算すると600gが約16~18日でなくなる。1日2人分を淹れているから1回あたり33~35gを要しているようだ。いちいち買いに行くのは面倒だが今日はコーヒー豆と日本酒がなくなりそうだったので三軒屋まで買いに行った。

日本酒は最近はもっぱら一升瓶をリカオーで4本買うことが多い。多分1週間で2本を消費している。私がキリングリーンラベル500mLを1本飲んで妻は2本。日本酒を私が2合から3合飲んで妻が1合ぐらいだろう。3日で1本ペースか。一升瓶4本が2週間もたない。これも買いに行くのが面倒ではある。

昨年6月から日本酒を飲み始めリカオーの銘柄をいろいろと試してきた。と言っても一升瓶で1,500~1,800円程度のものばかり。1月ごとにランキングにしてきたのだが気に入っているのは松浦酒造の鳴門鯛と高知の土佐鶴。高知だと酔鯨は美味しかったが司牡丹や美丈夫それに亀泉はいまいち。

徳島の芳水と香川の金陵はダメ。有名な劍菱も合わなかった。大手では日本盛はいまいちで月桂冠は意外に美味しい。というわけで鳴門鯛と土佐鶴に偏りがちな最近。次は評価が定まらない高知の梅錦と桂月に徳島の瓢太閤と大手の白鶴を試してみよう。とりあえず今日は鳴門鯛。

「英しゃべ」アプリ (9月8日・水)


日中は自宅で行ってピアノの練習をすることが増えた。一方で昼食後や夕食の前後は事務所でPCの前に座っているのだがWebニュースやツイッターばかり見るのも飽きる。何かやれることはないかと考えて英語の勉強を思い付いた。何年かに1回やる気になってすぐ飽きて止めるのだが。

『DUO3.0』という英語の本を持っていて付属のCDの音声はPCに取り込んでいる。発行は2005年。上勝に引っ越してくる1年ほど前に聞いていたらしい。改めて聞いてみると記憶はあるが聞き取れない。それよりPCではいちいち操作しないと繰り返し再生ができない。iPhoneで聞ければ便利なのに。

iPhoneでの再生には標準アプリの「ミュージック」を使うのだろうがPCの音声はどうやってコピーすればいいのだろう。写真のコピーはできるのだが。iTunesの設定画面などを見てみたがよく分からない。と「ミュージック」の隣に「英しゃべ」というアイコンのアプリがある。何だこれは。

日本人全員2020英語しゃべれる化計画」といい10年ぐらい前のものかと思ったらVer.1.1リリースが2018年3月。でも記憶がない。とりあえずBluetoothイヤホンで聞き始めたが試用版で10分で切れてしまいつい2,080円で正規版を購入してしまった。これこそ元を取るぐらいには続けないと。

シルビアのダンパーと補助灯 (9月7日・火)


LSD(リミテッド・スリップ・デフ)と同時にショックアブソーバー(ダンパー)も鯛浜コックピットで交換した。当時HKS社のシルビア用ではレース用とかジムカーナ用とかもあったと思うが私が付けたのはストリート仕様のものだった。多分I瀬君のアドバイスに従ったのだろう。

サスペンションの伸縮を収めるための部品だから乗り心地に直結するはずだが交換前後の違いを覚えていない。さほど変わらなかったのかも知れない。でも6年目だか7年目に部下のZ嬢を乗せようとしたらN嬢の方に行ってしまい後から乗り心地が悪いからと聞かされた。さすがにへたっていたらしい。

シルビアにはヘッドライトとフォグランプもあったと思うがさらに補助灯も付けた。これはI村君のアドバイスによる。バンパーの下の中央寄りに2つ。ハンドルの下あたりにスイッチが取り付けられたと思う。これもコックピットに頼んだと思うのだが覚えてない。

常にハイビーム状態だから対向車がいるようなところでは使えないがとにかく明るくて深夜のドライブでは必須だった。先日フォレスターで川島から美郷の山道を走ったとき少し怖かったのは車高が高かったこととCVTに加えヘッドライトの明るさが当時に比べて足りなかったのかも知れない。

シルビアのLSD (9月6日・月)


1988年秋に買った日産シルビアQ'sはショックアブソーバー(ダンパー)を交換してLSD(リミテッド・スリップ・デフ)も装着していた。社外のチームでジムカーナを始めた同期のI瀬君に奨められ北島町鯛浜のコックピットに依頼。クスコ製だったか。徳大の院生I村君にも相談したと思う。

LSDは後輪の左右の回転差を一定に収める機能がある。コーナーで通常なら外周側のタイヤが長い距離を走れるように左右の回転差が生じてもいいようになっている。これを制限するLSDを付けるとコーナーで内輪を空転させることになる。後輪を空転させてスピンターンができるという案配。

速度を出してのスピンターンは怖くてできなかったが低速でハンドルを切って乱暴にクラッチを繋ぐと簡単に後輪が空転してスピンできた。国道55号でUターンするときなどによくやった。脱輪したときに役に立ったこともある。覚えているのは鷲敷の国道から太龍寺の方に入ったあたりの深夜。

Uターンしようとして用水路に後輪の片方を落とした。前の奥さんが一緒だったときで地上にあるタイヤに加重を掛けてもらうと脱輪したタイヤが空転せず脱出できた。ジムカーナでもスピンターンを試みるがうまくできなかったような。それでも楽しめたし実用にもなった。これも青春の思い出。

東京パラリンピック閉幕 (9月5日・日)


パラリンピックが閉幕した。車椅子ラグビーのことは何度も書いたが車椅子バスケットボールのイギリスに勝った準決勝と今日は銀メダルになった決勝の米国戦も観た。イギリス戦の直後に嵐の櫻井翔が涙目になっていたし今日は武井壮までNHKのスタジオで泣いていた。いや私も感動したのだが。

昨日は車椅子テニスの女子ダブルスで銅メダルになる試合も観たし国枝慎吾が金メダルを取る試合も観た。相手がサーブを打つ前から車椅子を前に進めながらレシーブするプレイに驚くし下半身を使わず打ち返すのは凄い技術だと思う。意外に面白かったのが陸上競技。

特にトラックでの長距離走は自転車競技に通じる駆け引きがあって面白かった。それにしても選手は先天性の病気もあるがスポーツ中の事故や交通事故に遭って競技を始めたという人も多いのが印象に残る。車椅子バドミントンで金メダルの女性も高校3年のとき友人が運転する車で事故に遭ったとか。

今夜は20時からの閉会式も観た。ダンスばかりなのは好きではないが開会式と同様オリンピックより良かったと思う。初めて競技をテレビで観たのは烏山時代の20年ほど前。あのときは義足の走りに驚いたが東京大会だったし今回ほどパラリンピックの競技を観たときもなかった。面白かった。

ピアノの練習 (9月4日・土)


8月20日から始めたピアノ練習。11年前に買っていた『はじめから1人で学べる大人のためのピアノレッスン上巻(DVD付) 』を使って散髪に行った日以外の毎日1日1~3時間行っていた。9つあるレッスンの前半は1日1つこなせたが最後の3つは2日で1つ。ここまでに10日かかった。

さらに6つある練習曲は知らない1つを除く5曲を昨日までにクリア。約2週間。アマゾンのレビューには1ヶ月とか3ヶ月かかったとか書いてあるから私の場合は上出来だと思おう。と言っても翌日に復習すると弾けるまで10回ぐらいかかる。それが5回で弾けるようになり3回になり。上達はしている。

同時に『無理のない指のトレーニングのために大人からはじめるハノンピアノ教本 』(ヤマハミュージックエンタテインメント )を使って指の練習。1音や2音飛ばしのパターンを繰り返しながら音階を上げていきまた下げてくる。この繰り返し。20曲あるがまだ2曲目で引っ掛かっている。

そして鉄は熱いうちに打てとばかりに次の教本を買った。『はじめから1人で学べる 大人のためのピアノレッスン 下巻 (DVD付)』(ヤマハミュージックエンタテインメント)。上巻の続きで今日届いたのだが冒頭の運指の練習から。私には難しいと思うのでぼちぼちゆっくりやっていこう。

EVE祭でミニFM局 (9月3日・金)


EVE祭ではミニFM局の運用も行った。ミニFM局とはFMラジオの周波数帯を使って個人などが開設した放送局だ。免許が不要な程度だから出力は小さく周辺数百メートルしか届かないレベルのもの。都会の学生街で毎夜放送する番組が人気だとかいうニュースをときどき見かけた。

Wikipediaによると1982~1984年頃がブームだったとある。EVE祭でやったのは先輩も後輩もいたような気がするから1983年か1984年だと思う。アマチュア無線同好会だから自作できる人がいたのかも知れない。私に技術はなかったが電気電子系の部員は15人以上いたはずで。

何となく2つ先輩のH尻氏が中心になっていたような気がする。音楽を掛けたかったのだろう。もしかしたら送信機のキットを使ったのかも知れない。出力は0.01Wつまり10mWか1mWぐらいだろう。アンテナはダイポールか何かを自作して教室の窓から突き出しただけだったのだろう。

技術的な内容は何も覚えていないが誰かが持って来ていたラジカセを持たされてどこまで電波が入るかEVE祭の中を歩いた記憶だけがある。Gこと神学館はキャンパスの東端にあるが西口までは届かなかった。せいぜい明徳館前だから100mぐらいだったような。試験的な運用で1年だけだったはず。

EVE祭とFORMATとパトカー潰し (9月2日・木)


同志社に寄付した謝礼で校舎のレンガと校章をあしらったハンカチが届いた。さてその同志社の学園祭は創立記念日11月29日の前3日間で行われるためEVE祭と呼ばれる。大学サークルで出店を出していたとき教室に鍵がなかったのだろうPCを教室に数台置いておくため交代で泊まり込んだと思う。

3年前に遊びに来たEUXことD口氏がEVE祭で教室に泊まっているときMS-DOSのコマンドを実行したらしい。当時フロッピーディスクは最初にフォーマットするのが流儀だったからFORMATコマンドは初心者でも知っていてつい実行したのだろう。当然データもプログラムも消える。

翌日だったかPC-9801Fを提供していたK西がそれを知ってYES/NOとメッセージが出たはずなのにYESを選択したのは自分はバカですと宣言したようなものだとD口氏を盛んにバカにする。D口氏も反論できず言われるばかり。実のところ私はあれでFORMATコマンドを知ったのだと思うが。

出店の教室は交代制で非番のときは外に出た。キャンパス中央の明徳館前にはプロレスのリングが作られ学生が試合をしていた。その北側には自動車部。廃車をパトカーのカラーに塗っていてハンマーで叩かせる。パトカー潰しと言っていたか。これがEVEの名物だったように思う。

散髪屋での噂話 (9月1日・水)


偶数月の月末に通っている散髪だが月末の入金確認を兼ねて三菱UFJ銀行経由で今日になって行ってきた。前回が6月末で今回もコロナ禍の話から。中学生の娘がワクチン接種する希望なのだが奥さんの感染疑いがあったとき儲け主義が透けて見えたかかりつけ医の対応に腹が立つといった。

医者によって言うことがバラバラだという憤りみたいな話もしたし徳島の某政治家が大阪のSM系風俗に通っていて嬢がプレイの内容をバラしてしまったとかその風俗グループが別の罪で捕まって某政治家も今は様子見をしているとか。前回聞いた中古車販売の詐欺は総被害額が13億円だとかいう話も。

16時に行く前は実家に車を置こうとしたら奥に1台駐まっている。母に訊くと角の中古住宅に引っ越して来た人のところの叔母だか誰だかが癌の手術をしたのに退院させられて引き取っていてと話をするのだが要領を得ないのでよく分からなかった。大きなアウディは日中たまに来るとか何とか。

車は実家前に置くことを諦めて散髪屋に運びそのまま再び歩いて実家。応接間の電灯が点滅しているからネジを回してカバーを外して蛍光灯を取り出して。犬のケースケも高齢ながら特に変わりなく。10分ほどで退散。帰りは広島のラーメンひろっちゃんで坦々ネギチャーシュー。

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© 2021 Takashi INAGAKI