2013年1月

文理大学と上勝小学校 (1月31日・木)


株式会社MetaMoJiはジャストシステムの創業者である浮川夫妻が新しく設立したベンチャー企業である。本社は東京にあるが私とは同期入社で早くに独立してソフト開発を行っていたM社長のA社を吸収して開発拠点が徳島にある。徳島にはJ社を辞めた人が働く別のオフィスもある。

元A社のオフィスは徳島市の中心地かちどき橋にある。昨日は午後そこに行ってから文理大学に行った。MetaMoJiが最近提供を始めたiPad用手書きアプリを学校教育に使っているR准教授に会うためだ。なぜ私が行ったかと言えばR氏が教えているのが上勝小学校だからである。

浮川夫妻と昨年会ったときR氏のブログを教えられた。その後ツイッターで何度か絡んだ。でも私は上勝小学校に縁はない。ただ上勝での話でもあるので声を掛けてもらったことでもあり創業者である初子専務に付いて行った。同期だったM氏と元同僚だが初めて話をしたN氏も一緒。

今日は午前に上勝小学校。6年生のクラス。10人のうち地元の友人知人の子どもで直接知っている子が3人。担当が何と同じ住宅にいるI先生。校長先生と話し授業を見学していっきゅう茶屋で昼食を取りR氏とは別れ我がオフィスに寄ってもらい昔話などをし旧知の教育長を4人で表敬訪問。

『関東大震災』 (1月30日・水)


ベッドの中で寝る前の楽しみだったのだが今回の東京出張でKindleを使って一気に読んだ。吉村昭『関東大震災』(文春文庫)。1923(大正12)年9月1日に東京を中心に関東を襲った大地震の記録である。死者・行方不明者10万人以上で全焼家屋20万棟を越える大惨事だ。

家屋の倒壊や火災を恐れて逃げ込んだ広場にも火が襲い4万人が焼け死んだ。これは陸軍被服廠跡で以前テレビでも見た。人々が家財道具を持ち込んだため火が強風で燃え移ったのだ。人に押され赤く焼けたトタン壁に押しつけられた人や強風で飛んできたトタンに首を切られた人とか。

4万人が焼死した広場。生き残った人は折り重なった人の下敷きになっていたらしい。下敷きになっても水たまりに顔が浸かり死んだ人もいた。生き残っても死体から流れた脂で目が開けられなかった人もいるとか。橋も燃え熱から逃げるため飛び込んだ人で川や池は死体で埋まったらしい。

朝鮮人が襲ってくるという噂とそれに伴う虐殺の話も凄い。朝鮮人はもとより日本人さえ何十人も撲殺された。それほどパニックになったのだ。朝鮮人襲来を事実と報道した新聞を含めて当時の記録を丹念に整理して証言の引用も多い。地震学者の動きや復興処理まで網羅的。読んでおくべき。

凍結路面と東京出張 (1月29日・火)


月曜は7時に上勝を出た。9:30発の飛行機に乗るためだが前夜の雪で路面凍結が予想された。駐車場は真っ白だ。10月より21分早く出たが傍示トンネル下は凍結。でも先々週よりマシか。ところが正木トンネル下も新坂本トンネル下も前回より長い距離が凍結している様子。

隣町の勝浦に下りてもローソン付近まで断続的に凍結していた。それでも雪路の運転には少し慣れて前の軽がやたら速度を落として走るのにイライラ。ローソンまで通常20分のところ30分。徳島市内は雪の気配は全くなく空港に8:22頃着き15分ほど余計にかかっただけで済んだ。

羽田空港でマスクを買い電車の中では着ける。さて今回はPASMOを忘れ大失敗。12月の出張で着た上着に入れっぱなしにしていたのだ。いちいち切符を買うはめになり不便この上ない。護国寺に着いてI嬢と3ヶ月間だけいるM氏と旧・えびす三郎で昼食。ミーティング後M氏と一緒に千葉へ。

終えて徒歩で千葉駅。東京に戻り大手町で鮨。ホテルは大塚なのだが丸ノ内線の新大塚で下りれば近いような気がしつつモバイルWi-Fiルーターのバッテリが切れエネループはあるのにケーブルを忘れiPhoneで地図を確認できず。でもエイヤッと下りて迷いながらホテルまで歩いた。寒かった。

獅子舞チームで石本商店とPC検討 (1月27日・日)


土曜は皆で石本商店。地元にある傍示八幡神社の昨年の秋祭りで獅子舞をやった仲間たちと大宴会。山っこ餅を毎日作って販売しているキミちゃんフミちゃんにも参加いただき全員で16人。18:30にタクシーが迎えに来てまず8人が乗って行き先に行っていた2人と合流。

さらに遅れてくる人もいて全員が揃ったのは20:30頃か。お店には別のお客さんが3人来たがうち一人は地元の人で顔なじみが多くて何人かがそちらに行って話をしたり。顔に記憶があったのだが2年ぐらい前一緒にバスケットボールをやった子だった。ストーブにあたりながらそんな話も。

23時閉店の店だけどタクシーが順番に送っていくので私が帰宅したのは24時半を回っていたと思う。しばらくすると飲み足りないご近所さんがやってきて結局朝4時まで飲んでいた。こういう関係が楽しい。いろいろ手配をしてくれたT氏はじめ仲間に感謝。

日曜は午後から新しいPCをどうしようかとDELLでいろいろシミュレーション。Core i5第3世代CPUにメモリ8GBでHDD容量は1TBにしようかと。OSはWindows7 Ultimate。今回壊れたグラフィックスカードはCPU付属のインテルHD2500でいいかなと思っているところ。

グラフィックスカードが壊れた (1月26日・土)


先日PCを買い換えようかと書いたら私のDELLが今日壊れた。昼食前にPCを使っていたら突然シャットダウンして再起動した。緑の格子が覆っているような画面でセーフモードで起動したが文字がほとんど読めない。一旦終了させアナログディスプレイだけに繋いで起動させたが症状は同じ。

グラフィックスカードに問題が起きたのだろう。Facebookで上勝TV技術統括Mくんから同じような指摘がある。ともかく筐体を開けたがマザーボード直結のD-SUBディスプレイ端子はない。テレビでネットを見るために置いていた2年前まで妻が使っていたNEC ValueOneも持ってきて。

DELLの筐体の中は埃だらけ。まずグラフィックスカードを外してファンに掃除機を掛けたりウェットティッシュを突っ込んだりして埃を取って念のためPCを起動したが問題が解決するわけもなく。NEC ValueOneからグラフィックスカードを抜いてDELLに入れて何とか表示できるようになった。

このグラフィックスカードはDVI端子だけしかないので今まで2枚のディスプレイを使っていたのに1つしか表示されず極めて不便。しかも解像度が合っておらず横長になって見にくい。NEC ValueOneは別途D-SUB端子があるので問題はない。新しいPCをDELLで物色し始めたところ。やれやれ。

スーツとネクタイ (1月25日・金)


スーツを買った。徳島に帰ってきた4年前からスーツを着たのは東京出張のときを含めて年に1〜2回だけだと思う。でもその間に体型も変わるのである。夏用スーツはまだ無理矢理にでも穿けないわけではないが冬用はもう無理だと諦めた。来週は少なくとも3日は着なくてはならないので。

礼服は6年前に駒沢大学駅前の洋服の青山で買った記憶がある。「響」のステージ衣装として手持ちの礼服では腹回りが厳しかったのだ。あれは夏用のものだったような気がする。そうだ。当時持っていた夏用の礼服は20歳ぐらいの頃に買ったものだったんだ。

さて前回スーツを買ったのがいつだったか。覚えているのは1999年に福岡・天神にある紳士服店フタタだ。一度に20万円分ぐらい買ったような記憶がある。覚えていないのだが2004年にも買ったらしい。これが5月だから今ある夏用スーツはこのとき買ったものなのかも。9年ぶりか。

今日はYシャツ3枚にネクタイ2本も。手持ちのYシャツで首回りのボタンが留まるものは既になく。ネクタイの中にはラーメンのスープを飛ばしてそのまま放置してかびたものもあり。年に1〜2回だと着ようとするときに「あれ?」となるわけで。やれやれ。体型が変わると出費がかかる。

PC (1月23日・水)


私が使っているPCは2008年6月に買ったDELLのミニタワー。CPUはIntel Core2 Duo E8400(3GHz)。Windows Vista Ultimate。2GBだったメインメモリは2011年4月に4GBに増設している。増設前はメモリ使用率が最高92%程度だったと書いているが現在70%を越えることもしばしば。

75%が3GBと解釈すれば32ビット版Windowsで扱えるメモリのこれが実質100%なのだろう。70%を越えると格段に動作速度が落ちる。通常使っているのはメールソフトShurikenとメインブラウザがOpera。ツイッターとFacebookはGoogle Chromeで見ている。

これにエクスプローラやOutlookさらに弥生会計とかEXCELなどを起動する。花子フォトレタッチにWORDや一太郎も使う。このうち5〜7種類のソフトを同時に起動しているように思う。そしてメモリ使用率が上がり効率が落ちソフトウェアをシャットダウンするという繰り返し。

買って4年7ヶ月。毎日使う仕事用PCとして長く使った方かも知れない。妻のPCは2007年3月に買って4年3ヶ月で買い換えた。そろそろ新しいPCを物色しようか。でもWindows8とかイヤだなぁ。その辺のリサーチから始めないといけない。ちょっと面倒な気分。

東ひとみさん (1月22日・火)


東ひとみさんは上勝町役場の職員だった。昨年4月に産業課から独立して新設された企画環境課の課長を務めていた。葉っぱビジネスと並ぶ上勝町の二枚看板ごみゼロ政策を10年以上前に企画し奔走し実現させた張本人だと聞いていた。今も上勝の看板政策の中心人物だった。

救急車で運ばれる途中引き返し診療所前からドクターヘリに乗ったと土曜にあった地元の会合で聞き驚いていた。訃報はお嬢さんのTちゃんがFacebookに昨日朝書いていて知った。53歳。小松島であった今日の告別式の参列者は200人を越えていた。町長の弔辞に泣けた。

最後に会ったのはゴミステーションに妻と行ったときだった。関学AIESEC出身のTちゃんの仲間が全国から集まった会に呼ばれたときは話をしたが実はそれ以外では数度しかなかったように思う。でもTちゃんを育てた教育について感動したと書いたようにもっと話を聞きたいと思う人だった。

そのカフェの計画は上勝TVでも紹介した。カフェは母上の夢でもあると言っていた。告別式の挨拶の中でもお母さんと一緒に上勝で仕事がしたかったと言っていた。これから娘と一緒にやりたかっただろうに。お母さんと一緒にやりたかっただろうに。それを思うと泣けて泣けて仕方ない。

武雄市・樋渡市長講演 (1月21日・月)


佐賀県武雄市は「佐賀のがばいばあちゃん」の映画のロケ地だったらしい。でも私が知ったのは樋渡氏という市長が日本ツイッター学会なるものを3年ほど前に立ち上げたと聞いたときだと思う。そして市の公式Facebookページを開設して大きな話題になったのが昨年か。

その佐賀県武雄市の樋渡市長の講演が上勝であると言う。最近では市営図書館の運営をTSUTAYAに委託するということで全国的な議論が巻き起こった。お騒がせ市長として有名なので正直言うと気にはなるがわざわざ聞きたいと思うわけでもなかった。

でも各方面から案内が来て地元の人も行くと言うのでHさんに乗せていってもらった。徳島市から中学の同級生T嬢も来ている。彼女は朝の徳島大学の講演にも行っていたらしいが。見知った人が多いがインターンや徳島から来た若い人たちの姿も目に付く。

講演の内容は冗談ばかりで面白かったと言えば面白かった。でも95%はSNSを使いこなしていれば理解している誰かの受け売り。または報道の繰り返し。もちろん市長独自の視点として参考になった部分もあるにはあった。この講演がタダで聴けたのだから行ってよかったと書いておく。

路面凍結 (1月18日・金)


木曜は「響」の練習なのだが出発する頃には雪が本降りで諦めた。それでも徳島に行く用はあったから今日出かけた。駐車場は雪が踏み固められて凍結しているが日が当たっている町道は乾いている。最も暖かくなるはずの14:20頃に出発。4駆の軽ではなくFFのフィットで。

県道に出るまで200mで凍結は数カ所。気にせず県道に出るとすぐトンネル。10cm近く積もっていたフロントガラスの雪は払ったがヘッドライトの雪はどうだったかなと考えながらいつもの調子でトンネルを抜けた。そこは下りの右カーブと続いて下りながら左ヘアピン。凍結していた。

どうも私は慌てたらしい。アンチロック・ブレーキ(ABS)が作動してガガガとブレーキペダルが振動を受ける。ローギアにしようとATレバーを操作したが急なシフトチェンジはまずいと思い直し元に戻そうとしたらニュートラルへ。どうにか1速にシフトしゆっくり下りた。ABSの恩恵に与ったのは初めてだ。

正木トンネルの先も新坂本トンネルの下も凍結。特に新坂本トンネルの先はスピードが乗る下り。しかもカーブの連続。このあたりでは速度を落とし敢えてABSを効かせてみたり余裕で下りられたが。徳島市内は快晴で戻りの傍示トンネルの下だけは緊張したが無事帰宅。やれやれ。

ドコモ携帯「圏外」 (1月16日・水)


気づいたのは火曜22時頃だったか。メールのやり取りをしていた方から後で電話しますという返信があったので携帯電話を見た。知らない間に着信があったかと思ったのだ。ところが携帯電話の表示は「圏外」。あれ?しばらく様子を見たが変わらないので電源を切ったり表に出てみたり。

近所のY氏にFacebookのメッセージで聞いてみたらアンテナマークが1本か2本だと言う。風呂から上がった妻に訊いたら彼女のスマホも電波なし。23時頃になって消防点検後のT氏がやって来て質問され状況を伝えた。その後ツイッターで調べてくれた人がドコモサイトを教えてくれた。

停電で基地局の電源が切れたらしい。上勝町は山の中なのでドコモユーザーが多い。ソフトバンクユーザーはIターンだったり外から働きに来ている方ごく少数しかいないがauは若い人を中心に感覚的には2割ぐらいいる。今回の停電での被害はドコモだけでauは生きている。

携帯電話は普段あまり使わないし架かってくることも少ない。私は仕事先に同報メールで知らせたが妻の仕事は大丈夫だろうか。初めての人は固定の代表に架けてくるし知り合いはFacebookなど別の連絡手段はあるのだが。16:50には復旧していることを確認したがやれやれ。

石本商店で宴会 (1月15日・火)


成人の日だった月曜は上勝にできたレトロな居酒屋「石本商店」。既に何度も行っているが今年になって初。17:35に町内限定のタクシーが迎えに来てくれ順々に人を乗せながら着いたのが17:50頃。1人が来る前に乾杯してビールを飲み始め1人は19時頃到着。合計7人で飲んだ。

どうも勝浦のT氏が上勝のY氏と会いたかったらしい。2人が会ったことがないとは思っていなかったので私はびっくり。このT氏とはツイッターで知り合い初めて会ったのが2年半前勝浦での上勝TVの前後にも何度か会い宴会も。石井にあるリーベフラウの個室で焼肉を食べたこともあった

幹事役で手配をしてくれたのがT氏と最初に会ったとき一緒に飲んだ上勝のB氏。それ以降何度か会っているが一緒に飲んだのはあれ以来。そしてB氏のところで働いているというKさん。上勝の仲間T氏の奥さまだ。遅れてきたのが上勝のお酒のアイドルM嬢。

話題はT氏が連射するカメラだったりY氏のYouTubeの話だったり。料理はY氏が持ち込んだイノシシを使った豆乳鍋。これが美味しかった。皆が冗談を言いながら大笑いしながらT氏は途中でダウンし車で寝てしまい。私は生ビールを5杯は飲んだと思う。22時にタクシーのお迎えで散会。

吉祥寺の村さ来 (1月14日・月)


高校を卒業して入学した同志社を放置したまま東京に行き駿台予備校に通って仮面浪人をしていた1982年。当時のことは既に何度か書いているがJR中央線西荻駅近くに住んでいて中高が同じで浪人だったT取と出会い以来よく一緒に行動した。夕食や風呂屋にもよく一緒に行った。

あるとき飲みに行こうと言われなぜか彼の言うまま隣の吉祥寺に行った。入ったのが「村さ来」。居酒屋チェーンの走りだったと思う。飲み屋に行ったのは2回目だが何を注文していいか分からない。T取が「これ前に飲んで美味しかった」と言うのでチューハイなるものを注文した。

そのうち隣にいた大学生カップルが話しかけてきて一緒に飲んだ。私たち浪人生相手に説教したり。店では有線放送がかかっていてジャーニーの「翼を広げて」をリクエストするように言われ10円を渡されて店の公衆電話から電話して伝えた。有線リクエストしたのはこれが最初で最後。

店の奥には10人ぐらいのグループが飲んでいた。そのうち一番奥にいた若い女性が立ち上がって私たちを指差し「あー大阪の人だー」と叫んだ。彼女が大阪出身だったんだろう。「すみません徳島なんです」と言った。なぜか今でも覚えている吉祥寺の村さ来。ふと思い出したもので。

上勝TV第26回 (1月12日・土)


上勝TV第26回の配信が終わった。今回は旭地区の神田(じでん)にできた足湯場を紹介した。12月にできたばかり。私たち夫婦もできた1週間後に行ってみた。隣接した軽食が取れる建物を含めて地域の人たちがほとんど自分たちだけで作り上げたものだ。ただただ感心。

ゲストは地区のまとめ役と言っていいと思うTさんとKさん。Tさんは昨年の選挙で当選した町議会議員。以前から何度かお話をしているが私にも真摯に接してくださる優しい方。Kさんは若手のリーダーの一人だと思う。地区の祭りを見学に行ったとき飲みに誘ってくれたりした。

今回は17:30頃から準備を始めた。機材を出し配置し延長ケーブルをガムテープで固定して。自分たちだけで配信を始めて6回目だから慣れたものだ。ノウハウも溜まってきた。18:30頃T氏が来てカメラや音声のセッティングを進めてくれてゲストが到着したのは20:30頃。順調だった。

ただミスをした。画像だけを表示したとき音声が切れた。私が気づいたのはタイムラインを見てからだ。前回までと同じ設定をしたはずなのに。原因は分からないが修正する方法は思いついたので直したが修正し忘れた画像で再び音なしになったり。油断大敵。1時間集中してぐったり疲れた。

『チェ・ゲバラ伝』 (1月9日・水)


チェ・ゲバラはキューバ革命の立役者である。地元で飲んでいるとN氏がよくゲバラの名前を出す。でも私が持っていた知識はキューバの革命家というだけ。それできちんと勉強しようと思って読んでみた。三好徹『チェ・ゲバラ伝』(文藝春秋社)。寝る前に少しずつKindle Paperwhiteで読んだ。

まずゲバラはキューバ人ではなくアルゼンチン人だということに驚き。しかも医者である。アルゼンチンで医学を学ぶ学生時代に南米を貧乏旅行して回り労働者の開放に目が向いたらしい。キューバの主要産業であるさとうきびは米国資本で牛耳られていて自然と反米になったようだ。

ラテン国に珍しく約束の時間は守る几帳面な面もあったらしい。それにしてもゲリラ戦を挑むのに数十人しか同志がいなかったというのは驚き。革命成功後は工業大臣となり日本にも来たらしい。でも大臣は間もなく辞めてボリビアでゲリラ活動に参加して戦死する。それが人気の秘密なのか。

作品としての本書は特に後半は公式記録や手紙などの引用が多く細かな記述で読みにくい。南米の政治情勢を俯瞰するような解説もなく純粋にゲバラの伝記として読んだ方がよい。Kindle本としてはページを戻ろうして送られて読んでいた場所が分からなくなったり未完の印象も持った。

同志社教育 (1月7日・月)


今週からNHK大河ドラマ「八重の桜」が始まった。幕末の会津藩士の娘で後に新島襄の妻となる山本八重という女性を綾瀬はるかが演じる。福島生まれで綾瀬はるかのファンである妻はそれだけで楽しみにしているが私は我が母校の創設者である新島襄に注目している。

同志社では新島襄について学ぶ科目があった。1年ではなく半期だけだったか1時間半とか2回で3時間とかだったかも知れない。1単位程度で試験もなかったような気がする。唯一覚えているのは弘風館(K)2Fの北向きの教室であった授業である。なぜか場所をよく覚えている。

講義を行ったのは神学部だか文学部だかの80歳を越えたような名誉教授だったと思う。新島襄の足跡を説明するのだが覚えているのは当時の学生が問題を起こした際のエピソード。新島は教師である自分に責任があり罰を受けるのは自分だと棒で自らの手を何度も打ったという話。

あとは国家体制の常に権力の外にあったという話。総理大臣を一人も出していないと肯定的に言っていて「おいおい」と思った。社会党の元委員長土井たか子や外務省元職員佐藤優らが卒業生だから分からなくもないが。私も体制の外にいる方が落ち着くが教育とは関係ないと思っている。

消防出初め式 (1月5日・土)


4日は朝8時集合。車に分乗して上勝小学校。4回目の消防出初め式。9時頃から整列と行進の練習があって10時まで雑談。太陽も9時頃からグランドに当たったし対策もできたので寒さはあまり感じない。でも中敷きを入れた靴と厚い靴下と足裏に貼ったカイロの厚みで足の甲が痛い。

11時を回って式の最後に冷たい風が強く吹いて寒かったが今までで一番早く感じた。何人かが同じ感想を言っていたと思う。そこから近くの河原に移動しポンプを降ろし各消防分団が一斉放水。私はポンプに水を吸い上げる吸管を運んで繋いで外して運んで。

続いて地元の神社に参詣。公民館に戻って地元消防団の出初め式。T分団長や来賓の町議会F議長の話と表彰状の伝達。地元の仲間たちなので笑いが起こる和気藹々とした雰囲気。朝から準備してくれたミセスの会の方も一緒で乾杯に続き食事とビール。

寒さに続き暖かい部屋でビールを飲むから例年私は記憶をなくす。なので今年はご飯を食べビールをセーブ。おかげで意識が飛ぶことなく1人16時頃撤収。今回から参加している妻や何人もが残って場所を移して飲んでいたらしい。一旦寝た私が起きた21時頃に妻はソファに倒れ込んでいた。

防寒グッズと写真整理 (1月3日・木)


明日は消防団出初め式。朝8時集合で式典は10時から1時間半ほど。4時間近く寒風の中ほとんどの時間をただ立っているのである。立ち続けた後に解散すると脚が痺れて動かないほど寒い。県や近隣町村からの来賓はただ座っていてそれも気の毒だと思うが。

これまでは会場を小学校と中学校で交互に開催されていたが中学の校庭は日が当たる時間が遅く寒いため今後は小学校だけで行うようになった。それはそれで助かるのだがそれでも寒い。今までも着込んで参加していたが明日は大寒波で9時の予報が-2度。12時で2度。これはまずい。

そんなわけで妻と2人で防寒グッズの買い物に行った。まずは地面からの冷たさを少しでも和らげられるように靴屋で中敷きを買った。続いて靴下。そして肌着の上下。綿だったりカシミヤ入りだったり暖かそうなものを選んで。帰宅して中敷きを靴に合わせてカットして。

夜は年末年始の甥たちの写真を整理した。明かな失敗写真を削除して。それでも157枚。CDに焼いて送るだけでは面白くないので16枚だけ選んでカメラのキタムラにプリント注文した。これが届いたら昨年GWのときの写真も合わせてCDにしたので弟に送ろうと思う。

初詣と甥たち (1月2日・水)


朝は遅く起きて11時前に出発。母の車は弟が運転して2台に分乗。大麻比古神社へ。この神社の名前は「おおあさひこ」と読む。西暦800年代には存在していたとされる。徳島で初詣と言えばここか南の薬王寺が有名。私ら夫婦が初詣で大麻比古神社に来たのは2002年以来。

実家からは車で15分ほど。参詣客が多いのだろう。今日は参道より手前で右折させられた。渋滞していたがまずまず流れ渋滞の中にいたのは20分程か。2歳児はバギーに乗せて6人で。弟は初詣での慣習や行動を5歳児に教えながら私は皆の写真を撮りながら。

神社には30分強いて実家へ。昼食はホットプレートで焼きそば。私は昼寝をして16時頃起き出して5歳児と今日もまたUNO。最後に弟と妻と4人でやって17時半頃に実家を出た。上勝まで1時間2分。夕食はお節料理の残りを妻と2人で。怒濤の丸2日が終わりホッとしている。

5歳児は3年前に会ったとき聞き分けのできない子だったが今回は多少落ち着き礼節も少しは分かってきたようだ。亡父に似た2歳児はニコニコしていて彼らに関われたのは楽しかった。ステップファーザーそして難病の子の父として努力している弟を誉めてやりたいと思った3日間でもあった。

実家で元旦 (1月1日・火)


寝たのは2時近くだったのに寝慣れない実家の布団で6時頃に目が覚め8時過ぎ起床。9時前から母と妻と弟と甥2人とお節やお雑煮を食べた。お屠蘇は少し。2歳の甥は生後10ヶ月から何度もの大手術を経て今も腹からチューブを出し小さな袋を引きずっている。でも歩き回ってよく笑う。

私ら夫婦は一旦寝て昼食はソバ。年越しに食べられず今日に回したのだ。14時頃になって鳴門ウチノ海総合公園へ。ここは塩田跡だろう海沿いの埋め立て地に芝生が広がる。2歳児は車の中で寝てしまって母が車中に残って妻と弟と5歳児とミニチュアダックスフントのケースケと。

4人でドッヂボールをやったりケースケを散歩させたり弟が途中で買ってきた凧揚げをやったりサッカーをしたり。とにかく広いので何組もが凧揚げをやっているが風が弱くみんな走っていた。弟の方が夢中になっていたような。私はバドミントンをやっていて腰を痛め。

2歳児は車に乗ると寝るらしい。一旦戻っていた母が2歳児と16時半頃戻ってきて帰宅。夕食はブリの塩焼きとお節の残り。前後に5歳児とUNO。3人でやったり4人でやったり。弟は20時頃に徳島に飲みに行き。新しくなった風呂に初めて入った。慣れない子の相手で今日もクタクタ。

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© 2013 Takashi INAGAKI