2009年8月
同じ地区に住むY氏から誘われて阿波晩茶を干す作業を妻と一緒に手伝ってきた。阿波晩茶は以前書いたように茶摘みから製品まで1ヶ月。発酵させた茶葉を干しながら茶葉と一緒に取り込んだ茎を除く工程が最後にある。今日はその作業。
むしろに広げた茶葉を片っ端から手にとって茎から葉を外していく。乾きやすいように葉を1枚1枚剥がしたり細かな作業。むしろの一角に座って作業を始めて手が届く範囲だけの作業で気づくと何十分も経っていた。3時間少しで私たち2人がやったのは広げたむしろのたった1/6程度。
以前東京から来た学生さんが番茶の生産量を増やすべきだと地元の方を前に発表したとき別の地区の方が反対意見を言われたことがある。どれほど辛い作業か体験してから言うべきだとのことだったが今なら私も分かる。実際には分かったつもり程度の体験しかしていないが。
さて夜は21時頃に地元のN氏が音楽セッションに行くというのに誘われて連れて行ってもらった。町内で音楽活動をやっている人と勝浦から2人。初めて会う人は4人。県道を走る車は1時間に数台。山の中の星空の下で演奏を聴き歌いもした。豊かな時間を過ごさせてもらった。
早く起きて山犬嶽に行こうと思ったのだが昨夜泊まったY家の人々はサンダルだということで断念。飲み過ぎて不調の私たちは結局二度寝。午後になってから衆院選挙の投票に行って秋祭でやる劇の下見で農村舞台の確認に行ったら鍵がなくてこれも断念。
選挙の投票は隣の公民館であったのだが玄関の土間だけが投票場。東京時代の会場は学校の教室ぐらいの広さだったから狭さにびっくり。東京では常に数人が並んでいたが今日は私たちだけ。選管委員や立会人の方々の半分ぐらいは知っている人でもあって何とも家庭的。
夜はテレビをザッピング。選挙結果は事前の予想報道通り民主党の圧勝。私は政権交代すべきだと思いつつ民主党の公約には納得できない点が多いし候補者は頼りないし健全な野党の存在が必要だと思い選挙区は自民党候補に投票した。同じ理由で比例区は共産党。
この投票は支離滅裂だと思わなくもないが健全な野党への期待という点で一貫しているつもり。さて民主党当選者の若さを不安視する向きもあるが私は肯定派。国の有り様を変えようと言うのである。これまでの政治における非常識な行動にこそむしろ民主党の若さには期待する。
妻は早く起きてお弁当を作っていたが私はチャイムで起こされた。今日は今夏2度目の棚田の草刈り。前回はほぼ勢揃いで大人9人が鎌で刈ったが今回は5人。鎌だけでは大変だろうと前夜になって妻がスカイプでY氏に連絡して草刈り機を借りることにした。
昨夜のうちに持ってきてくれたY氏。基本的な使い方を習っていたらT氏が通りかかり2人から草刈り機の原理と危険性を教えてもらった。Y氏にはそのまま上がってもらい小宴会。草刈り機を乗せた軽トラも借してくれた。今日はうちの軽四ムーブ4WDと軽トラに分乗して9時半出発。
鎌に比べれば草刈り機は早くて楽だが斜面の草刈りはきつかった。前夜T氏から腕の筋肉がピクピクすると聞いていたがその通りになった。それでも10時頃から始め12時の時報は休憩小屋で弁当を食べながら聞いた。意外に早く終わった。
休憩小屋にいたら「地域活性型農商工連携プロデューサー」研修の学生20名ほどが棚田見学に来て彼らと少しだけ話をした。知人ばかりの引率スタッフの方々とも雑談少し。さて今日は草刈り参加の友人M嬢/Y氏夫妻が宿泊。夜は宴会。
阿波踊り特集をNHK BSで先日見た。阿波踊り期間中は徳島にも鳴門にも見物に行かずもっぱら有線放送のテレビトクシマで中継を見ただけ。ただし前に書いたように上勝では実際に踊った。同じ阿呆なら踊らにゃソンソン。地元民としてはこれが正しいようにも思う。
さて数年前に20年ぶりで見たとき阿波踊りが舞台芸術にまで発展していたことに驚き感動したのだが中継を見ているとやり過ぎではないかと思ってしまう。女踊りがあれだけ手を高く上げ足も大きく蹴り上げていたかどうかは記憶にないが今は女踊りで右を向いたり回転したり。
特に飛んだり走ったりする女踊りには違和感を覚えた。女踊りの静謐さと艶やかさ。それに男踊りの激しさと奔放さの対比こそが阿波踊りを引き立てると思っていたので。でもこれが辻井喬が言うところの「伝統の意義は自己改革である運動の概念を含む文化の形成力」ということか。
そう考えれば飛んだり走ったりすることも「見る阿呆」の新しい文化なのかも知れないと思ったり。自発的に初めて踊った今年になって知ったことは結局のところ「同じ阿呆なら踊らちゃソンソン」。見る阿呆と踊る阿呆でスタイルが違うことも阿波踊りの面白さだと理解しておくことにする。
徳島大学医学部付属病院に夕方行ってきた。母が手術というほどでもない手術を受けるため入院したので医師の説明を聞くために。11年前には私も同じような手術といえない手術を受けていて何をするか知っているので緊張感ゼロ。今日入院して2泊で退院するし。
徳大病院の敷地に入ったのは高校2年のとき以来だと思う。ぐれて学校をサボり始めた私を心配して母が精神科に連れて行ったのだと思う。私としても病気と診断されれば学校を休めると浅はかな考えで受診した記憶がある。今となっては恥ずかしい反抗期。
そう言えば高校2年のとき帰りはバスに乗ったから当時の母は運転免許を持っていなかったということか。ともかく今回車で行ってみたが勝手が分からず難儀した。聞いていた病棟近くの駐車場に停めたが病棟に入口はなく正面玄関まで歩くしかなく。病院とはそんなものか。
義母が手術を受けたり私がヘソの治療を受けた東京医療センターも巨大だったが延べ床面積だけなら徳大病院に負けそうだ。徳大病院の中にはタリーズコーヒーまであった。ただし建物は古い。深刻な雰囲気も希薄だと感じたがそれは私の心の反映かも知れない。
何が何でも日記を更新するという一時あった執念は薄れ書けないときは諦めることにしている最近。昨日は日中から時間がなく夜は地元の秋祭でやる劇の打ち合わせで飲み過ぎた。打ち合わせよりも後半は日本の政治状況に関する激論になっていたのだが。
日中は地元の写真家N氏が出展している近代美術館へ。県立では横浜と大阪に次ぐ規模だという図書館を含む巨大な文化施設なのだが結構な人出で驚いた。もしかしたら夏休みの宿題をやるために親子で来た人が多かったのだろうか。
続いて上勝でいただいたユズを持って鳴門へ。本家と実家に寄り高島。友人のT社長邸での宴会に参加した。近所の住む双子のT君/Cちゃんとも遊んでハモ鍋を食べた。20年前の夏ボストンでMacWorldを見たとき一緒だったT氏とは11年ぶり。
今日夕方は神戸空港から高速バスで帰ってきた妻を徳島空港で迎え荷物を車に載せて妻は一人で食事に行き私は「響」。再び「響」の練習場で合流して2人で上勝に戻ってきた。今回の妻の出張はたった3泊。たった3泊。たった3泊。残念。
しばらく前のことだが徳島新聞が「那賀川と穴吹川が『四国一の清流』 吉野川と旧吉野川4位」と報じた。記事によると四国に20本ある一級河川について調べたもので8水系54地点で「水質汚濁の目安となる生物化学的酸素要求量(BOD)を測定した」とある。
私たちが昨年8月に川遊びに行った穴吹川は1995年から14年連続で四国一だとか。昨年は流量が少なかったが確かにきれいだった。那賀川は私が住む勝浦川水系の一本南にあって阿南市に流れ込む。中流の鷲敷は急流を利用したカヌー競技が盛んだ。
でも四国の清流と言えば高知の四万十川ではないのか。四万十川の順位が気になるのに徳島新聞は徳島の河川に限定していて四万十川のことに触れていない。だから徳島新聞はダメなんだと腹を立てて国土交通省四国地方整備局の発表文を読んでみた。
そしたら河川水質ランキングで四万十川は何と12位。「最後の清流」のイメージはどこに行ったのか。これは四国の人にとっては常識なのか。だとしたら徳島新聞がわざわざ報じることでもなさそうだ。それにしても知らなかった四万十川の12位。四国で川遊びはやっぱり穴吹川か。
東京出張のため徳島空港に行く妻を乗せてA社のボスも一緒に7:17出発。徳島市内の渋滞を警戒したのだが通勤ラッシュが始まりかけた時間帯だったのだと思う。大きな渋滞に遭うことなく1時間10分で空港に着いた。荷物を預けて3人で朝食。
今日の観光は鳴門の大麻比古神社。さらに第1次大戦のドイツ人捕虜の収容所を記念したドイツ館。この収容所のことは私も前に見た映画に詳しい。刈谷夫妻など昨日の鳴門教育大グループと偶然会い霊山寺と大谷焼を見学し「鳴ちゅる」を食べ12時前に空港にボスをお送り。
私はホンダ店に寄って一旦帰宅し夜は「響」。さて午後に受けた電話がまたまた中学の同級生。高校も同じだが理数科から慶応の経済を出て阿波銀行に入ったM浦。彼とは中学のバスケ部で一緒だった。J社の同僚だったI氏から連絡先を聞いたという。今はK島支店の支店長だと。
彼は小松島にいるからと我が事務所を訪ねてくれることになった。一方で「響」の練習中やってきたのが別の同級生。彼とは親しくなかったが東京の証券会社にいて上勝の「いろどり」にも行ったとか。組織の中で偉くなった彼らと組織が嫌で逃げた私。その関係も面白そうだが。
13時頃A社のボスと鳴門教育大学に行った。鳴門教育大学には2005年に98歳で亡くなった伝説の国語教師・大村はま先生の長年に渡る教材や授業資料が大村はま文庫として保管公開されている。その縁で「第5回大村はま記念国語教育の会研究大会」があったのだ。
「大村はま記念国語研究の会」事務局長である苅谷夏子氏とA社のボスは中学時代のクラスメートであり共に大村はま先生の教え子である。私は苅谷夏子氏が書いた『優劣のかなたに−大村はま60のことば』を2年前に読んでいる。
今日の研究会の午後の部でこの苅谷夏子氏の講演があり続いて彼女のご主人である苅谷剛彦氏の講演を聴いた。剛彦氏は社会学が専門の学者で東京大学とオックスフォード大学の教授。大村はま先生と夏子氏と剛彦氏の鼎談『教えることの復権』も前に読んでいる。
実は『教えることの復権』はあまり面白くなかったから剛彦氏の講演には期待していなかったのだがこれが面白かった。現代における教育問題と教育改革の背景解説は示唆に富むものだった。そのあと私は一旦実家で休み20時前ボスを迎えに行き鮨を食べて22時前帰宅。
仕事先のボスに町内を案内。まずはゴミステーションと「くるくる工房」へ。34分別のことや洋服のリサイクル・リユースについて現場を見ながら説明。ゼロ・ウェイストアカデミーの方と雑談しばらく。しゃべりだしたら止まらないボス。仕事中に申し訳ない。1時間ぐらい滞在してしまった。
続いて千年の森ふれあい館を見学してHさんと偶然いたS先生と雑談。ここでも仕事中お邪魔しました。ここまで来たのでとドラマにも出たT笑店前を通り最奥の集落「八重地」まで行き棚田見学。帰りには廃校を住宅に転用して注目されている落合住宅にある某社を訪ねて雑談しばし。
月ヶ谷温泉まで一旦戻って昼食をとって午後は役場に町長を表敬訪問。打ち合わせに来られた県の方の会合にまで同席して彼らが出た後もそのまま意見交換をしていたら2時間も経っていた。後は妻を自宅で下ろして灌頂の滝や射手座造船所を見学。
17時前に事務所に戻り妻が夕食の準備中に私たちは仕事の打ち合わせ2件。文章を作り今後の連載原稿の内容についてあれやこれや。夜は宴会。明日は午後からボスと2人で鳴門教育大学に行き日本語教育に関するシンポジウムを聴講予定。
日曜日朝に母から電話があって従兄弟夫婦と伯父伯母が上勝に行くと言っていると聞いた。何時に来るのか分からなかったが15時前にやってきた。亡父の実家の長男夫婦(つまり私の伯父伯母)とその次男(私の従兄弟)と奥さんと10歳の娘。
私と同い年の従兄弟は創業400年の巨大財閥の中核企業で働いていて東京に住んでいる。数年前はシンガポール現地法人にCFOとして赴任していたエリートだ。彼が結婚してから夫婦で何度か会ったが最近会ったのは5年前ぐらいだろうか。40分ほど四方山話。
彼らが帰ってすぐ私は徳島に行き「響」の練習。傍示の祭に来ていたニシノとその後に再び会って雑談2時間。徳島大学の前にある昔は「現代」という名のファミレスだったガスト。帰省してきたニシノとここで話をするとは25年前の学生時代に戻ったようだ。
そして今日は15:15に徳島空港に迎えに行って私の仕事先のボスの来訪。今日は仕事で市内某社。私も同行。鳴門の実家に寄り「あらし」に行ったら行列で「びんび家」に足を延ばしたらやっぱり行列。新しくなり狭くなっていたことには驚いた。20時半頃上勝に戻りあれやこれや。
13日の傍示の祭が始まったまだ明るい時間に周りを見ると子どもたちを除けば半分以上が知っている方だった。健全なコミュニティの中にいる安心感を思う。知らない人の中には町内の人もいるし町外の人もいる。実はその町外の人の中で思わぬ再会をした人がいた。
祭で私はイベントの一つ尻相撲大会に出場した。対戦相手はくじ引きで決まったのだが私の相手は同年代の男性。対戦結果は司会者から「自爆気味」と言われるほど私はあっさり負けたのだが後で妻が相手と話をしたと聞いた。
それで私も彼に話しかけた。聞けば上勝の歌姫Aちゃんの歌仲間の友人ということだったが何と彼と私は1997年に同じミュージカルの舞台に立っていたことが分かったのだ。何度か書いた神戸-鳴門ルート全通記念ミュージカル「駆けろ!架けろ!YATTOSEI!」である。
彼はダンスチームで私は合唱チームだったから交流は少なかったが5曲ぐらいは一緒に踊ったはず。あれから12年経ったがが言われてみれば見覚えがある。こうしたことも上勝の魅力の表れなのか。健全なコミュニティがあるから知らないはずの彼と話をしてみたわけであって。
今日で徳島市の阿波踊りは終わったが今年は徳島にも鳴門にも踊りを見に行かなかった。もっぱら有線のテレビトクシマで中継を見ていたが上勝では阿波踊りを見た。7月の夏祭でも見たし先週の「傍示お盆のつどい」では地元の胡蝶連さんの踊りを生で見れた。
傍示のつどいでは神奈川から来たニシノも一緒にいた。徳島市出身の彼は進学した早稲田大学で休眠状態だった県人会の踊り連を復活させ著名漫画家と交渉してキャラクターを入れた提灯を新たに作ったほど阿波踊りへの思いは強い(と私は勝手に思っている)。
だからか胡蝶連さんが「見る阿呆」を招き入れたとき彼は一番に踊り込んだ。妻も続き私はだいぶ遅れて「踊る阿呆」。終わった後にニシノは「阿波踊りを踊らずにただ見ているのは拷問みたいなもんやもんな」と言った。やっぱり筋金入りの「踊る阿呆」だ。
私は小学校の体育の時間だったか阿波踊りの練習はした。J社時代は企業連で踊ったが半強制だったと思う。妻と義母が「にわか連」で踊ったときも私はカメラマンに徹した。だから今回私は生まれて初めて自発的に踊った。それほど楽しかった。酔っぱらってたのも理由なのだけど。
13日(木)はビールと発泡酒を何リットル飲んだか分からない。今朝4時半頃に寝たときは妻と何人かがまだ飲みながら激論中だった。13日は私が住む地区の祭があって祭が始まった18時に飲み始め22時前に皆で片付けた後も飲み続けた。
今朝は9時集合で片付けをするというので少しふらつきながら手伝いに行った。祭で出たゴミの処理や干していた天幕の撤収や借りていたジャンボカボチャ(重さ72kg)の運搬など。実行委員の人たちと一緒に軽トラに乗って。ときに雑談をしながらだが午前中に片付いた。
さて13日の祭は私の住宅のすぐ目の前が会場だ。お昼過ぎから始まった準備に参加しテントを設営したり提灯を飾るのを手伝ったり。妻は隣の公民館で食事の用意など。心配していた天気は15時前に降ったもののすぐ上がり18時前にも降ったが祭の間は全く大丈夫だった。
この日は神奈川の平塚から徳島に帰省していた友人ニシノが17時頃やってきて慌ただしく町内を案内して祭の始まりから一緒にいた。146世帯360人の地区の祭だから顔が見える。これは司馬遼太郎/山崎正和が言うところのサロン文化なのか私的領域なのかを考える。
思い出しシリーズ。鳴門で経験した台風のことは何度か書いてきた。実家の前のどぶ川が氾濫するかがいつも最大の焦点で床下浸水なら何度か経験している。窓は雨戸を打ち付けていたぐらいだから風も強かったのだろうが北も南も西も民家があって風の被害はなかったと思う。
風の怖さを感じたのはJ社に勤めて2〜3年目のこと。帰宅途中の同僚が飛んできた看板に当たって怪我をしたと聞いたときだ。1997年前後の台風も記憶に残る。徳島市川内町のマンションに住んでいたときで仕事から戻った19時頃のことだと思う。
マンション1Fの正面玄関を開けると風がロビーに吹き込んで他の扉が煽られ危険な状況になっていた。そこで正面玄関を使えないようにして裏口から入るようにしようと何人かの住人男性が作業をしていたのだった。私は一旦帰宅し着替えた上で作業に参加。
ところが風が強くてマンション裏から5m先の正面まで行けない。顔を出しただけでメガネが飛ばされそうになり息ができず。ビル風の影響もあったのだろうが風に恐怖を感じたことを覚えている。とても立てずメガネを外し下を向いて呼吸を確保し両手をついて這って行ったような。
郵便局に行こうと午後に軽のエンジンを掛けようとしたらイグニッションキーに合わせて変な音はするがエンジンが掛からない。あれれれ。豪雨で何かがおかしくなった。そうこうしていると同じ住宅の同い年S氏がいたので相談したら原因はバッテリーではないかと言う。
ちょうどそこに家族で通りかかった中学時代の同級生F氏が車から下りてきてブースターケーブルを貸してくれた。フィットのバッテリーと繋いでみたらセル音がするにはするがエンジンが掛かる気配はない。仕方なく諦め潔く地元のT氏に連絡することにした。
修理工場を営むT氏に電話で相談したら瞬時にバッテリーを疑い帰宅途中に寄ってくれた。私は留守だったのだが新品のバッテリーを持ってきてくれてあっさり直してくれたらしい。妻に説明してくれた内容によるとバッテリー上がりには違いなかったそうなのだが。
原因は先日の豪雨が原因に違いなく雨水がどこかに入り込んでショートしたのだと素人の私は決めつけていた。ところがT氏が発見したところによると何とトランクが半ドアだったらしい。豪雨とは関係なく。話を聞いてずっこけた私。あやや情けない。ともかくT氏に感謝なのである。
熱帯低気圧から台風に転じた9号が紀伊半島南方にある。その影響か昨日の日曜は凄い雨だった。1時間雨量の多さだけなら徳島や北島町など市部の方が凄かったらしいが上勝では強い雨が長時間続き8日15時の降り始めからの総雨量は旭で600mmを超えたらしい。
私が生まれ育った鳴門市は太平洋型季候と瀬戸内型季候の中間にあるため県内でも雨量は少ないはずだ。一方の上勝町は山の中にあり雨が多いことを知識として知っている。この大雨は鳴門と比較すると凄いと思ったが上勝ではよくあることなのかも知れない。
それでも知らない土地だけに昨日のような大雨が続くと不安になる。これまでなら土砂崩れのニュースは他人事だったが今は捉え方が全く違い。私の住宅は大丈夫だと思うがお向かいさんの裏山は崩れないだろうかとか同じ地区のさらに上にある家々は大丈夫だろうかとか。
妻にはたびたび言っているのだが四国で経験する台風は東京とは全く違う。それにここは山間部。鳴門や徳島でなら台風で何が起こるか経験があるから平気だが今後この地で経験するだろう台風直撃を想像すると少し怖い。平野部では風も危ないがここでは大雨が心配。
話題の本である。あちこちで取り上げられて意外に評判がいいので読んでみた。中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの〜現場からのネット敗北宣言』(光文社新書)。著者は博報堂PR局からフリーになり今はネットニュースの編集者らしい。文章は平易ですぐ読める。
内容はタイトル通りでその具体例が山と書かれている。小見出しから拾うと例えば「『怒りの代理人』がウヨウヨ、要はいじめたいだけ」「読解力がなく、ジョークも通じない人々」「クレームという名の粗探し」といった具合だ。梅田望夫『ウェブ進化論』へのアンチテーゼとも言える。
が『ウェブ進化論』が「頭の良い人」がネットを使うときの可能性を書いているのに対し本書はネットでよく見られる現実であって補完しあうものとも言える。「暇人にとって最高の遊び場がインターネット」でありネットは「集合知」はなく「集合愚」なのだと著者の体験として解説されている。
後半はネットを使ったマーケティング論。「企業の人はネットに過度の期待を持っているようで(略)商品がバカ売れすると思っている」ことの間違いを繰り返し指摘している。ネットの住人には当たり前のことで面白くないと思うがネットに不慣れな特に企業人には一読の価値があると思う。
高校野球が開幕した。今年の徳島代表は徳島北高校。私の高校時代にはなかった学校で長く徳島を離れていた私は何のイメージもない。「響」の若いメンバーの中には卒業生がいるし音楽担任は今の先生も前の先生も私の高校合唱部の先輩だがその程度の縁しかない。
一方で激戦の神奈川県代表となった横浜隼人高校野球部を率いる監督は徳島出身らしい。「響」指揮者のブログで知った。しかも中学の後輩だと書いている。ということは私の後輩でもあるはずなのだが徳島新聞を購読していないものでよく分からない。
そこで検索してみた。その中に中学時代のソフトボール部でバッテリーを組んだことがあると書いているブログを見つけた。読んでみたらブログの主は何と私の中学の同級生にして昨年佐那河内見学で世話になった不動産屋の社長T石ではないか。
彼のブログで監督が私の1つ下だと分かった。しかも私と中学と高校が一緒。とは言え1つ違いで部活も違えば知っているはずはない。でも上勝のご近所F田氏は私と同じ中学のソフトボール部だったはず。彼は知っているかも。今年は徳島北とともに横浜隼人も応援しようと思う。
花火で鳴門。多分17:50頃に出たのだが国道は大渋滞のようだったので勝浦川北岸を旧55号まで行って末広大橋に乗るルートを走ってみたら論田合流で大渋滞。お盆の始まりなのか吉野川大橋を渡った川内も大渋滞。こんな経験は初めてで2時間近くかかって鳴門着。
ちょうど母が外出していたので車を実家の車庫に入れて母が用意していた巻き寿司を食べて徒歩で花火へ。出店を突き切り打ち上げポイントに最も近いところまで行き出店裏に駐車していた車の間で見物した。帰りは南回りで青果市場の横を通って帰ってきた。
ここからが今日の事件の始まり。私が車庫に車を入れたもので母が帰宅して車を向かいの道に停めたらしい。そしたらいつも奥に停める車がバックで進入して無人の母の車にドン。母の車の右前が完全に潰れた。直後に私たちが帰宅して途中から保険屋への電話連絡を担当し。
状況だけから見れば相手が悪いが気の毒だ。相手は真摯で穏やかに話した。ところがレッカー車が来たら今度は近所の建売住宅の奥さんから「やかましい」と文句を言われてこのことの方に驚いた。我が鳴門は中途半端に都市化し人心の荒廃は東京以上なのではないのかと。
妻の顎や腕に発疹ができていて何度か上勝の診療所に行ったものの良くならず紹介してもらって小松島の皮膚科に行くことになった。診療所から紹介は受けたが一方で妻が私に「皮膚科の知り合いはいないの?」と訊いてきた。
そう言えば中学時代の同級生に皮膚科の開業医の息子がいたはずだと思いつつ誰だったか思い出せない。妻が紹介された皮膚科は小松島市の福原皮膚科。もしやと思い中学時代のアルバムを引っ張り出し福原君の住所を調べるとまさに福原皮膚科と同じ場所ではないか。
ただし私の同級生が医院を継いでいるかは不明。年齢的にお父さんは引退していても変ではないが。ともかく冷やかし半分で私も行ってみることにした。ついでに左手甲の中指の根本だけに10年近く前から発疹が出ることも診療してもらおうと思い。
病院はすぐ見つかり診察室に入ったらピンポン。まさに同級生の福原君。松山日赤などで勤務した後の平成14年に跡を継いだそうだ。父上は引き継いだらスパッと引退したらしい。彼は中学時代同様穏やかでいいヤツだった。皮膚科のことは南小松島駅すぐ近くの福原皮膚科へ。
古事記にある「因幡の白兎」の物語はよく知られている。島に渡りたかったウサギがワニに向かって数が多いのはどちらか数えようとウソの提案をして海上にワニを並ばせその背を伝って島に渡ろうとする物語だ。最後にウソをばらしたらワニが怒ってウサギの皮を剥いでしまった。
一方で国津神の大国主命は兄たちの荷物を持たされて兄より遅れて歩いていたら皮を剥がれたウサギに出会った。ウサギは大国主命の兄たちにウソをつかれて間違った治療法を教えられていたが大国主命が真水で洗ってガマの穂をまぶし乾かせと正しく教えた。
古事記研究会の冊子によると蒲生田岬にある神社にはウサギの絵が描かれているらしい。伊島との間に立つ波はウサギに見えるとも。さらにガマは蒲。蒲が生える田という地名とも符合すると。私は海上から蒲生田岬がワニの頭に見え海上にある岩礁はワニの背に見えた。
昨年読んだ『古事記』の解説によると同じ物語が南太平洋に広く分布しているらしい。しかもワニ。『古事記』の解説にはサメとされているが日本近海にワニやサメがいるのか。南洋から来た海洋民が蒲生田岬に「因幡の白兎」を見たのではないかと私は推理を楽しみ始めているところ。
徳島の神山町あたりに行くと「徳島古事記研究会」の看板をよく見かける。古事記の舞台は徳島だという視点から神社や名勝を解説しているものだ。昨年見つけて以来興味を持っていたら研究会の人が別件で偶然事務所に寄ってくれて話をするようになった。
そして徳島市にあるその人のお店で上勝の人が個展をやっていると聞いたもので先日お店を訪ねてみた。そしたら古事記研究会が発行した小冊子が何冊も置かれている。会員と思われる何人もの方がさまざまな寄稿をされているのだが妻と2人で貪り読んだ。面白いのだ。
昨年読んだ『記・紀の説話は阿波に実在した』にはイザナキ神が禊ぎをして天照大神らの祖神が生まれたのは阿南市にある那賀川河口付近であると書いている。今回読んだ冊子には「因幡の白兎」の舞台は紀伊水道の伊島に向けて突起している蒲生田岬だと書いている。
伊島に向けた船の上で私はデッキから阿南の橘湾から蒲生田岬を見渡した。そして古代に南洋から船で来た人のことを考えた。橘湾は火力発電所しか知らなかったが海上から見たら島々が美しい。そして蒲生田岬がワニの顔に見えた。伊島に向けてワニが背を並べている様も。
伊島には車がないらしい。港に着いたとき1台の軽トラを見かけたが車が走れるのは港だけ。町に車が走れる道はない。船内で見たパンフレットによると人口は3年前に約200人。人は港近くに住んでいるそうで散歩してみたら町は10分で歩いて回れる印象だった。
本殿がある立派な神社が1社。小さな社はほかにもある様子。寺と郵便局が1つずつ。旅館が2軒。民宿もあるらしい。釣りのために私が住んでいる上勝町から行っている人を何人も知っているぐらいだから徳島県下から大勢の人が釣りを目的に伊島に渡っているのだと思う。
人口200人の小さな島だが港は大きかった。それも漁業はもちろん釣り客が多いからかも知れない。私たちは釣りでもなくただ遊びに行っただけだが船で無人のビーチに送迎してもらい思う存分シュノーケリングで遊んで何と贅沢な夏休みだろうと思う。
妻は海中の何かに噛まれたか肌を腫らしているが透明度は一昨年に行った三宅島にも負けていない。ビーチでは私たちのほかには近くの海上に漁船を泊めて素潜りで漁をしている人が1人いるだけ。海底ではウニも見つけた。改めて徳島の自然の豊かさを思う。
土曜から伊島に行ってきた。伊島は徳島市から30kmほど南にある阿南市から船に乗って行く紀伊水道に浮かぶ島。友人K氏の実家があり前から一度行ってみたかったのだ。このたびK氏が子どもたちと帰省するというので便乗して妻と一緒に行ってきた。
土曜16時過ぎに勝浦のローソンで待ち合わせ阿南まで行き港に車を置いて17:15発の小さな客船。私たち5人を含め15人ぐらいが乗っていた。到着まで30分。着いてすぐ港で釣り。小魚が2尾ぐらい。夕食後もう一度港に行ったが雷雨に遭い早々に退散。
その雷で伊島の共同アンテナが壊れたらしくテレビが見れなくなった。翌朝はK氏が買って持ち込んだBS対応パラボラアンテナの設置。意外に手こずり11時まで。午後は船で島の中にあるビーチに行った。ビーチと言っても砂浜ではなく岩浜だがプライベートビーチ状態。
この夏に買ったフィンを付けてシュノーケリング。透明度は15mほど。海底まで垂直に潜るジャックナイフもやったが最初はすぐに息が上がる。1時間以上遊んで2年ぶりの海に少しだけ慣れた。帰りの船は60人ぐらいいたか大混雑。17:30過ぎ帰宅。そのまま夜は「響」の練習。
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© 2009 Takashi INAGAKI