2015年3月

別れと出会い (3月31日・火)


多くの企業や役場などで年度終わりの3月31日。田舎の上勝と言えども例外ではなく町を出たり長く勤めた仕事を辞める人がいる。今日は商工会に勤めていた勝浦町のY嬢が挨拶に来てくれた。上勝TVにも出てもらった元気のある若い子だったが東京に行って勉強をするらしい。

昨日は近所のHさん宅に昼過ぎに行ったらブログの女王R嬢がいて挨拶した。ブログによると長男が徳島市の進学校に入学するようだ。前にも書いたが子供の可能性は追求した方がいいと私は考えているのでいいことだと思う。徳島に通っていたN氏の負担もこれで減るだろう。

以前から話は聞こえて来ていたが地元のNPOのF事務局長が退任したらしい。Facebookで見たケーキの写真で今日だったのかと気がついた。私が引っ越してくる半年ほど前から勤めていたはずだ。防衛大学校出身なので無条件に尊敬している。お疲れさまでした。

今日は夜になって男性が挨拶に来られた。谷さんと名乗りこの住宅に住むらしい。明日から役場に勤務という。いつの間にか住んでいる人が多い中で隣や上下でもないのに挨拶に来られたことに好感を持った。私にも変化があればいいのだが何もなく4月を迎えそうだ。

消防待機 (3月30日・月)


夕食を終え何となくNHK「クローズアップ現代」を見ていたとき防災無線のスイッチが入りノイズが聞こえて来た。ノイズのレベルが大きい。これは通常の告知ではなく火事だ。事務所を飛び出し自宅に行った。そのときサイレン。ジーンズを履き替え法被を着て帽子を被った。

生実の某さん宅で火事という。福原分団に出動指示だ。でも我が分団を含め他については待機とも言わない。とりあえず外に出たが分団詰め所には誰もいない。妻に帽子じゃなくヘルメットじゃないのと言われ再び自宅に戻ったり寒かったのでダウンをジャンパーの下に着込んだり。

3度ほど詰め所を見たが待機する必要はないのかと一旦トイレに行ったら人が来たというので走って行った。やっぱり防災無線の内容によらず詰め所に行っておくべきだった。その後自分の無線機を取りに帰ったり分団の無線機4台を消防車の後部座席に載せたり。

結局1時間ほど経った20時半過ぎに待機解除で解散となった。分団17名と本団所属の妻と合わせ18名が待機していたらしい。それより出動に必要な備品や服は一カ所に置いておかないといけないと反省。無線機やヘッドライトなどをポケットに入れて重かったのか肩が凝った。

S氏宅と合唱練習5時間 (3月29日・日)


昨夜は飲み始めたところでN氏からお誘いを受けてS氏宅に行って来た。1月で3回目だろうか。直前まで某嬢がいたそうでそんな話から始まり町議選ほか諸々の情報交換。夕方にステッパーを1,000回やったのにS氏の美味しそうなスパゲティをペロリと頂き3時頃に撤収したか。

持って行ったビール4本にS氏のウィスキーまで飲んだので酔っぱらった。それで今日は午後に起きて家を出たのは14時前。コンビニでパンを買って食べながら運転して「響」の練習に行った。15時始まりなのである。ところが駐車場には女性たち。時間を間違ったかと焦ったのだが。

実際は5月の定期演奏会の最終ステージで演奏する混声合唱曲の練習のため女性たちとの合同練習だった。ジャズ風のミサ曲。当日はピアノとドラムスとベースが加わるらしい。音は比較的簡単だが優しいので練習が全くできていない。楽譜を見て階名なら歌えるというレベル。

続いて「響」単独の練習。ロックバンド「クイーン」の2曲は音は取れたが英語の歌詞が難しい。他の日本語曲もまだ階名で音取りをしている段階。1ステの組曲は歌詞を付け始めているが間違って覚えた音があることを今日発見してしまった。今までの定演で準備は一番遅れているような。

那賀町ドライブ (3月28日・土)


車のガソリンがなくなりかけていたので昼食に出て山を下りた。何となく羽ノ浦にあるモスバーガー。車の中にいると暖かくて天気も良かったのでそのまま一人でドライブに出かけた。南に向かい県南に行こうかと考えたが道が単調なので那賀町に向かった。旧・鷲敷と旧・相生だ。

国道195号を走っていると選挙カーに追いついた。現職知事の飯泉嘉門氏本人が乗っているとアナウンスしていたが何と知事は窓に腰掛け箱乗りしている。パトカーが通りかからないかと思いつつ私は鷲敷の道の駅で休憩。そこから鷲敷温泉に行ってみた。20年ぶりぐらいか。

相生に入り1997年に「響」で演奏した森林美術館を外から見学。もみじ川温泉で休憩したら先ほどの選挙カー。飯泉氏がトイレから出てきたところに出くわした。奥に行くと神山に出るか高知まで行ってしまうから上勝まで美杉峠から帰ろうとしたのだが3.5km先で通行止とのことで断念。

ならば日和佐に抜けようと橋を渡ったが阿南行きに方針転換。かつてタイムを計っていた登り坂入口で4km先通行止の看板。車1台ギリギリの「柳橋」経由で国道。鷲敷から持井に抜けようとしたらそこも通行止。那賀川東岸に渡って持井橋経由。夕方T氏がタイヤとオイルの交換してくれた。

体重とステッパー (3月26日・木)


相変わらず体重を計っている。家にいたときの18時半頃に1日1回だけ。これまで月平均の体重は昨年6月と9月に最低の60.62kgを記録し体脂肪率は10月に15.1%で最低だった。ところが体重も体脂肪率もそこから急増。2週間前の週平均で体重62.8kgで体脂肪率17.8%になってしまった。

冬は脂肪を溜め込む季節だと思っていたのでダイエットは中断していたから仕方がないと言えば仕方がない。でも暖かくなり始めたので今年も懲りずに意識してみることにした。ちなみにジムには冬の間もときどき行っていた。1月ぐらい全く行かなかったりもするのだが。

さてダイエットの第一は食事である。と言っても妻は出張がちだし昼まで寝ていたりするので外食が多くなる。さつまいも1本で1食にしたこともあるが隣町の美渓や呑口といったラーメン屋に行くことも多くカロリーは多めになってしまう。夜は飲みながらピーナッツも食べる。

そこでステッパーだ。ときどき集中的に使ってきた。ひねりが入るので足だけでなくお尻の筋肉にも効く。過去の日記で調べてみるとちょうど10年前に買ったものだ。先週あたりから夕方に少しずつ。この3日は200ステップ(400歩)を15分から30分おきに8セットか9セット。

「響」での演奏曲の多さ (3月25日・水)


昨日書いた「響」Webの1996年から3年分の演奏履歴ページを作り直した。今日は1997年1998年のページ。夜になって作業を始めたが5時間ぐらいかかった。5つの紙袋に無造作に突っ込んだままの楽譜や演奏会のパンフレットをひっくり返して当時の資料を発掘するところから始めて。

第1回定期演奏会のパンフレットにそれまでの演奏がいつ行われたか記録があった。でも何年何月まで。一方1999年までの演奏曲目を演奏会毎にマトリックスで示した表が出てきた。ここには日付まで入っていた。20年の歴史で当初4年だけだが指揮者の律儀さに助けられた。

日付を頼りにサイトで曜日を調べたり。でも指揮者が作った演奏曲マトリックスでも場所までは分からない。演奏曲順も不明。3年間で12回の演奏会について4つが曲順不明。3つが場所が分からなかった。でもデータが全くないよりマシだろう。場所については記憶に頼るしかないか。

それにしても多くの曲を歌ってきた。団の創立から丸3年を経たずに演奏したのが66曲。定期演奏会では20曲以上歌う。私は1999年から8年ほど離れていたが次の定演が第7回ということは200曲から300曲を歌ってきたのではないか。なるほど過去の曲はすぐ忘れ毎回苦労するわけだ。

「響」Webの文字化け (3月24日・火)


我が徳島男声合唱団「響」は5月3日に定期演奏会を開催する。第7回だ。そして今年は結団から20年目に当たる。そんなわけで我が指揮者が演奏会プログラムに過去を振り返った原稿を書こうとしたらしい。そしたら「響」のWebページのうち昔の演奏履歴が文字化けしていると連絡してきた。

実は私も気づいていた。文字化けしているのは1996年から1998年の3年間の演奏履歴を掲載した3ファイル。でもWebだけでなくローカルファイルのHTMLテキスト自体が文字化けしているのである。当初は団員T氏が管理していて1998年頃に私が引き継いだのだが。

福岡にいた1999年頃に文字化けがあって全てのファイルを見直して修正した記憶がある。そのときローカルのHTMLは正常だったから修正できたのだが文字コードの設定を適当にやったのかも知れない。あるいはPCを買い換えたとき文字化けページをダウンロードして継承してしまったか。

ローカルテキストまで文字化けしているので直しようがない。T氏は当初のファイルを持っているかも知れないが17年以上前のものだ。期待はできない。仕方がないのであらゆる印刷物から情報を集め書き直しているところ。1996年の分だけは復活させたが先の作業を考えてうんざりしている。

渋谷東急プラザと小山助学館 (3月23日・月)


渋谷駅前の東急プラザが昨日で閉館したらしい。報道によると1965年6月にオープンしたというから50年弱。東京時代の世田谷区上馬に住んだ2000年代の後半にはよく行った。ここの5階に紀伊國屋書店があって仕事帰りに本を探しに行っていたのだった。

自宅から都心には東急田園都市線と地下鉄半蔵門線で通っていたから渋谷で乗り換えることなく直通電車に乗るのだが帰りは渋谷からバスに乗ることが多かった。上馬方面行きのバスターミナルが東急プラザの目の前だったのだ。バスに乗る前に本屋を覗くというパターンだ。

一方で徳島駅前にある老舗書店である小山助学館は4月13日に万代町の倉庫街に移転するらしい。これまでは徳島駅前バスターミナルの目の前にあり中学や高校時代にはよく行った。駅の東側に森住書店ができてからはそちらを利用することが多かったが。

「響」練習のとき何十年ぶりかで寄るようになってあまりの狭さに驚いたほどで駅ビルなどにも書店ができて小山はあまり流行らなかったのだろう。それでも路面店であって立地が良く雑誌類は小山で買うことが多かったのに。東急プラザに感慨はないが小山の移転は少々残念。

聞き書き発表会 (3月21日・土)


昨年夏から取り組んで来た聞き書きの発表会があった。14時からの予定だが30分近く早く行った。私が話を聞いた古家さんは既に到着しており並んで着席。受け取った本は10冊。話し手は2冊ということだったので私の手持ち分から3冊を古家さんに渡した。

テーブルが円形に置かれており中央から司会者が周りの人たちに話を振るという斬新な形式。5組のうち1組だけ話し手が欠席していたがほぼ揃い昨年の聞き手ほか15人ぐらいが集まったと思う。本を見ると最初が私が書いたパートで今日も最初に振られてしまった。

司会の人がうまく話を回していき2巡目には桶の思い出話が皆さんから出たり。90歳の女性が76歳の男性に向かって「まだ赤ん坊だったんよ」と言っていたり。学校の先生はしょっちゅう怒って殴られたとかバケツを持って廊下に立たされたとか昔話に花が咲く。

我が地元からN嬢とKちゃんが聴きに来ていた。1時間50分ぐらいでお開き。終えて古家さんからカステラをいただいたり町議のAさんに引退の噂を確かめたり。ただ本を見ると差し替えたはずの図が2点古いままだったのが残念。大きな問題ではないのだがなぜ間違ったのだろうかと。

地下鉄サリン事件 (3月20日・金)


今日は地下鉄サリン事件から20年だったらしい。オウム真理教が猛毒サリンを地下鉄列車内に撒いて13人が死亡し6,000人以上が負傷したと報道にある。サリンの液体が入ったビニール袋を新聞紙に包み床に置き傘で突いて液体を漏れさせたのだった。

あの日は平日だった。お昼頃に総務課長の山原さんが私のデスク周辺にやってきて「東京に出張してたら今日は大変だったみたい」と言った。いま確認してみるとあれは月曜日。火曜は春分の日。毎週2〜3日は東京にいた私だが飛び石連休の中日だから本社にいたのかも知れない。

仮に東京出張に行っていたとしても霞ヶ関あたりを通る路線にはあまり乗っていなかったから被害に遭う確率は低かったとは思う。東京オフィスでも特に被害に遭った人はいなかったと思う。私の友人など周囲に被害に遭ったという話は聞かない。

オウム真理教の山梨県上九一色村にあったサティアンが強制捜査されたのは事件の2日後だったらしい。今日見たNHKの番組では以前からその日に一斉捜査の計画があったという。あのシーンの記憶が強いのは会社のテレビでライブで見たからだろうか。繰り返し見たからだろうか。

徳バス自動車学校での教習 (3月18日・水)


徳島バス自動車学校は松茂町広島の国道南側にあった。今のヤマダ電機があるあたりだ。私は1983年の8月ここに通った。実家から2km程度のところに鳴門自動車学校もあったのだが徳バスの方は通学のバス運賃がタダになった上にバス停の目の前にあったから便利だったのだ。

教習所のシーンはあまり覚えていない。合宿もやっていて大阪など遠方から来た人もいた。記憶にあるのは「アクセルを踏む」と言うべきところを「エンジンを踏む」と言ったら教官に「足が火傷するぞ」と言われたこと。意味は分かるだろうに嫌みな教官だと憤慨した。

路上検定で私が後部座席に乗っていたとき運転していた小学校の先生だという中年女性が最後の右折で4速のまま発進しようとしたときはエンストしてしまうと気を揉んだ。ところが女性教師は絶妙のクラッチワークで難なく発進できた。彼女はそのまま卒業できたはずだ。

教習所で知り合って今も覚えているのは1歳下のはずの山口君。翌年3月に鳴門球場であったプロ野球オープン戦のもぎりのバイトをしているとき場内で売る弁当を彼が運んできて再会。「うなぎの山口屋」の跡取りらしい。ちなみに私は卒業検定に一発で合格したはずだが記憶は曖昧。

松茂・広島ランプ付近の変貌 (3月17日・火)


月曜の夜は先日に続き野仕舞いに誘われた。21時半頃S氏宅に行き料理をいただき22時頃から3人で車のことや年末にあるらしい町議会選挙のことや。この日に経験した初心者マークを付けた危ない車のことから教習所の話題になり私は徳バス自動車学校に通っていたという話をした。

するとS氏が徳バス自動車学校は今はないと言う。そうだっけ?言われてみれば今はヤマダ電機とニトリが建っている。架け替えられた加賀須野橋から国道28号に出る道も教習所だったところだとS氏。徳島バスの車庫と教習所はもうなくなっていたのだった。

そんなわけで今日松茂に行ったついでに改めて確かめてきた。行きは今の11号を通って広島ランプを下りて28号を東進。15時前から2時間近くいて一旦実家まで行き母と夕食を取り帰りは旧11号である国道28号を走って広島から新しい道を左折。新しい加賀須野橋を通った。

高校時代に自転車で通っていたとき加賀須野橋は毎日通った。でも先日何かの調子で徳島側から通ろうとしたら気づかないうちに新しい橋の上を走っていた。浦田病院は昔から変わらないが向かいにあった病院はいつの間にかなくなっていた。改めて見ると松茂も変わっていたのである。

小学校時代の友だち (3月16日・月)


昨日のバレエ公演は徳島新聞に写真入りで掲載されていた。東京から招いた数名の男性ダンサーを含め大がかりな舞台装置を使った第5ステージ「鳥獣戯画」ではなく我が「響」が歌った写真が使われていたのは曲が反戦をテーマにしたもので徳島出身の人の作詩だったからだろう。

この公演を主催した檜(唐崎)千尋さんのことを昨日書いたが小学校の卒業アルバムで確認したところ6年生のクラスメートではなかった。3〜4年生か1〜2年生で一緒だったのだろうか。4クラスだった小学校で全く名前に記憶がない人も大勢いるのに彼女の名前は覚えていた。

ついでに全員の名前を目で追ってみたが記憶にあるのは一部だった。5〜6年のクラスメートでさえ覚束ない。ただ顔写真と照らし合わせると記憶が蘇る。といっても写真は小学校6年のときのものだ。今もし町で会っても気づくことはないように思う。

卒業と同時に転居した菅野君のことは前から気になっていて名簿でフルネームが分かったので検索してみた。この人に違いないというGoogle+のページを見つけたが今の写真に当時の面影は薄い。一応Google+のサークルには入れておいた。Facebookではリクエストを遠慮している。

バレエ発表会への出演と小学校の同級生 (3月15日・日)


4月に解体される徳島市文化センターで「第66回あすなろ会」というバレエ発表会に「響」メンバーとして出演してきた。5ステージある中の第3ステージで徳島出身の野上彰作詩による「阿波祈祷文」と信長貴富作曲「とむらいのあとは」を演奏。バレエが踊られる中12人で歌った。

2月から2度バレエと合わせる練習をして14日(土)夜には舞台でリハーサル。茶色のポンチョのような衣装を着て裸足。照明も凝ったもので歌っている私たちは客席が暗くて全く見えない。最初は舞台も暗く指揮者の人影を頼りに歌い出したほど。いずれにしても無事に終わった。

この発表会の主催は「あすなろバレエスタジオ〜檜瑛司創作舞踏研究会」とある。檜瑛司氏は既に亡く子である檜千尋という女性が主宰している。私と同い年だと練習のとき団長から教わり小学校の同級生ではないかと思ったが姓が違う。私の同級生の家は日本舞踊の先生だったはず。

昨日そのことを団長に言ったら姉上が日本舞踊をやっているとか。さらに今日もらったパンフレットに父上の名前が「からさき」とあるのも見つけ本人に訊いて同級生だと確認した。唐崎千尋さんだ。これほど大規模な発表会を仕切っているし徳島の芸術分野では知られた存在だとか。凄い。

上勝TVのUstリンクを削除 (3月13日・金)


上勝TVのWebサイトをようやく整理した。運営会社であるUstream Asia社はアーカイブ動画を1ヶ月で削除するという方針を打ち出したのが昨年の秋。サーバーを増強し続けなければならない事情は分かるがケチなことだ。CM動画の挿入を含めUstreamへの信頼は地に落ちたと言ってもいい。

11月1日から順次削除するとアナウンスされていたが当面は見られていた。でも気づけば削除されていた。上勝TVのWebサイトからリンク先に言って「コンテンツはありません」と青い画面で表示されるのも格好悪い。そんなわけで今日リンクを全て削除した。

上勝TVのWebサイト制作を依頼したM氏が使っていたソフトで5年前に購入した「BiND for WebLiFE 4」を5ヶ月ぶりに起動して全43回の配信全てのリンクを削除。上勝TV枠ではない配信もあったし1回あたり複数ファイルにリンクしていたものもあったので50ど同じ作業の繰り返し。

ついでにトップページも少しだけ整理した。最後の1年ほどパーソナリティを務めてもらったS嬢をスタッフ欄に今頃になって追加。さてアーカイブ動画はローカルに保存しているのでYouTubeにアップして再リンクできなくもないがその作業も面倒だ。しばらく放置しておくつもり。

風呂とシャンプー (3月12日・木)


大学時代に風呂は銭湯に行っていたから必ず湯船に浸かっていたが就職してからは実家の風呂は時間が合わず一人暮らしのマンションでは面倒でたいていシャワーで済ませていた。結婚してからもシャワーが多い。ところがこの冬は高い頻度で風呂に入っている。

寒さが原因だろうか1月頃に激しい肩こりがあったのだが風呂に入ったら痛みが1割ぐらいに減ったことを経験して積極的に入るようになった。どこかで読んだ健康法で湯船と冷水シャワーを交互に3回ぐらい繰り返したりもする。風呂から出てもTシャツ1枚で1時間ぐらいいられるほど暖かい。

健康法と言えば福山雅治が実践していると聞いたのだが乾燥する冬に皮膚の油分を温存するため石けんは使わない方がいいという説があるらしい。それを真に受け1月ほど前から石けんも使わないようにしている。耳と首回りと毛があるところと足の指の間だけは石けんを使うが。

シャンプーも以前は妻のものを使っていたが頭の臭いが気になって散髪屋に相談したら男性用のを使った方がいいと言われ昨年の夏頃から換えた。効果はあって散髪屋お奨めのブラシも使う。身体と違って余分な油分を取るためだ。これも散髪屋の指導に従い禿げないようにね。

今までとこれからの時間 (3月11日・水)


今の妻と共同生活を始めて15年だと昨日書いたが今から15年先は私がやっと年金生活を始めた頃だと考えてゾッとしている。もしまかり間違って私たちが80歳まで生きてしまったら今までの倍の年数がこれから待っていることになるのである。

働く日数を計算して嫌になったことが過去にあった。私は25歳頃に就職したから65歳まで40年もある。J社を辞めた頃に日経BP社のW氏と1/4しか経っていないとお互い嘆いた。それから5年経っても3/8で半分にも達していないのかと落胆したものだ。

その段でいうと今は26年経ってようやく5/8を超えたところ。こんなことを考えてしまうのは生活が単調になっているのが悪いのか。ありがたくも頂いている仕事は社会的に意義があるし生活基盤である今の住処は気に入っているし仲間に支えられているのでこの環境を変える気はなく。

この範囲で生活を変える工夫が何か必要なのかとに戻る。少なくとも今後15年近く楽しく生活できる何かが必要なのかも知れない。ということで少し新しい勉強をしようかと思っているところ。テーマは内緒。この地に住んでいる縁と私の人脈と多少の知識を生かせるもの。

15年とWRX (3月10日・火)


9日は今の妻と同居を始めて15周年だった。11ヶ月住んだ福岡市早良区西新からSUBARUインプレッサWRXで鳴門の実家を経由して2日掛けて東京に着いたのが2000年3月9日。携帯電話はあったがカーナビなどなかった当時どうやって東京の自宅に辿り着いたか全く覚えていない。

7日に福岡でタイヤを換えたらしいがそれも記憶にない。でも8日に百道浜のインターから福岡都市高速に乗った瞬間のことは覚えている。福岡を離れる多少の感傷があった。よく晴れていた。9日に彦根で除雪車に先導されてノロノロ運転だったことも覚えている。

あのWRXでは東京と徳島を何度か往復した。260馬力の4WDで5速マニュアルミッションで高速道路の運転が楽しかった。中央高速を徳島に向けて走行中に岐阜県警の覆面パトカーに停車させられたのは雨が降っていたから2002年5月だったか。日記に記述がないのが残念だ。

WRXを売ったのが2002年6月。これも記述はないが80万円ぐらいで売ったような気がする。昨今夢をなくしかけたが後8年で60歳ということを意識して再びWRXに乗れるように努力をしたい。一方で15年も経てば夫婦の関係性が変わってしまうのは仕方がないと諦めよう。

※WRXの売却額は50万円だった(2021年2月20日追記)。

町内一斉清掃 (3月8日・日)


昨日寝れたのは2時を回っていたのにビールをセーブしたおかげで5時間ほどですっきり目が覚めた。この季節は着るものに迷うのだが今日はタイツの上に作業用ジーンズ。上は作業用長袖シャツにダウンベストとジャンパー。ダウンは途中で脱げるように収納ケースも持参。もちろん長靴。

一旦タオルを取りに帰って首に巻いた。マフラー代わりだ。8時集合時点では寒かったが作業をするとうっすら汗をかくほど暑くなる。結局ダウンは脱いでタオルもポケットに押し込んだ。配給のお茶を受け取りポケットに入れ予備の軍手も2着持ち今年も県道沿いの清掃に向かった。

雨は昨夜遅く止んだが地面は濡れていて滑る。最大60度ぐらいある斜面を木につかまりながら下りたり登ったり。ゴミで多いのはコーヒーやビールの缶と飲料のガラス瓶。片手に持ったビニール袋にゴミを入れていくのだが雨もあって空き缶の中には水が溜まりそれらを捨てながら。

中にはミカンのようなものが中で腐ったビニールも。それでもゴミは昨年より少なかった。毎年拾い続けてきた成果かマナーも向上してきたのか。一度だけ尻餅をつき背中から滑ったが特に事故もなく終えることができた。10時半頃解散。11時過ぎにS氏と美渓のラーメン。結局疲れて昼寝。

宴席2件 (3月7日・土)


金曜は夜になって電話があり野仕舞いをすることになった。日中の仕事の後の飲み会という意味だ。妻が出張中で一人でもあるし待っていたのだが結局S氏宅へ。何と料理を作って待ってくれていた。自分が飲むビール500mLを4本持って行ったのがを22時頃からだったか。

ほどなくT氏が来て3人で小さな宴会。1時には帰ろうと思っていたのに結局4時前。今朝は7時頃に一旦目覚めたが早すぎると思って二度寝して次は10時半頃。防災無線の電源が切れていなくてザーザーガーガー言うのを聞きながらうつらうつらしていて本当に起きたのは13時半だった。

昼は今週火曜に続いて喫茶いくみ。昨年8月に店を閉めた石本商店の店舗のままオーナーの息子が開いた飲食店だ。アナログレコードを聴きながら今日は生姜焼き。夕方18時半には近所のみつさんで消防分団の総会。いつもの道は橋が掛け替え工事中で別ルートから雨の中を徒歩で。

19時頃から宴会となり隣に座ったY氏らとあれやこれや。最近は消防団で飲むと正体をなくすので今日は気を付けたし明日は朝8時集合で町内一斉清掃なのだ。奨められるビールをセーブして23時前にY氏と一緒に帰った。昨日も今日も記憶をなくすほどにはならなくてホッとしている。

山と木の値段 (3月6日・金)


地元のHさんと一緒に役場に行った。私が住む住宅前の杉の木を切ることができないかと以前から相談していて今の山主さんから購入する検討を町にしてもらっていた。それで1月に森林組合の方と役場の方らで山に登って現地調査もやったのだがその見積が届いたというのである。

詳細は書かないが土地代金の単価は1平方メートルあたり10円だそうだ。県道などに面して何か利用価値があれば別だろうが道路もない単なる山の値段はそれが相場だと。土地代はともかく問題は杉の木の値段である。昔は数本切れば嫁入り道具一切を賄う値段だったというのだが。

木の単価は1本あたりで計算するのではなく1立方メートルで計算する。その単位あたりの現在の相場は9,000円だそうだ。一方で伐採の費用がかかり作業道の建設費がかかり搬出にもコストが発生する。そんなわけで計算すると儲かるどころか大赤字だということが分かった。

昨今の情勢から分かっていたことだが具体的な数字を聞くとがっくりする。これでは山主さんは木を切れるはずがない。ではどうするか。今日は町の意向や間伐した場合の試算などを聞いただけ。山主さんにも相談に行こうということにはなったのだが。どう解決できることやら。

講演料の源泉税納付の手続き (3月5日・木)


昨日は税務署に行って来た。確定申告書を提出するだけなら混雑が予想される日中ではなく「響」の練習帰りなどに寄って夜間ポストに入れてくるのが最近の方法だったのだが10日までに手に入れなければならないものがあったのである。

それは神山に視察に行ったときに支払った講演料の源泉徴収税の納付書。手元にある納付書は会社の名義のものだから印刷されていないブランクのものをもらいに行った。混雑が不安だったが駐車場にも空きがあり中にも人はいなかった。確定申告の相談場所は別なのかも知れない。

さて納付書は渡した見本が間違っていた。正しいものが欲しいと事情を説明したら名義などを印刷するから書類を書けと言う。それに抵抗していたら別の担当者がやってきてさらに面倒になった。「給与支払事務所等の開設届出書」が必要だという。会社を作った8年前にも書いたものだ。

法人格はない任意団体で給料も支払わない旨を説明したが講演料は源泉徴収義務があるから書類が必要だと言われる。仕方がないから記入して一旦持ち帰って代表のHさんの印をもらい税務署に郵送した。これで印刷された納付書が送られてきたら源泉税を納める。面倒なことだ。

従兄弟と秋田町 (3月4日・水)


火曜は従兄弟と飲みに行った。さつまいもの鳴門金時の農家なので来週あたりから作付けなどで忙しくなるらしい。それで従兄弟指定の昨日は一旦実家に荷物を置いて従兄弟の家へ。以前イモをもらったときのコンテナを返したら伯母が出てきて車の中から一言だけ挨拶。

この日は雨で道路は混んでいた。大道に駐め秋田町まで歩いて「とりまる」という居酒屋。学生たちなどで大賑わいだ。19時過ぎに入ったが20時前に24歳だという女の子がやってきてクラブへの同伴出勤なのである。男2人なので従兄弟はそういう店を選んだらしい。

クラブというところには東京時代には何度か六本木で連れて行ってもらったが徳島では15年ぶりぐらいだと思う。外は土砂降りだから客も少なく従兄弟と私に女の子4人。ママが鳴門の人らしく従兄弟も通うようになったとか。と言っても年に数度だけらしいが。

その「LUNA CLUB」という店を出たのが24時前で3軒目は上勝出身のママさんがいるスナック「World Boy」。ここで鳴門の代行さんを呼んで実家に帰ったのは26時過ぎ。1軒目の8,800円と駐車料金2,000円と代行3,000円は私が持ち2軒目17,000円と3軒目7,000円は従兄弟持ち。ごちそうさま。

『わたしの渡世日記』 2 (3月1日・日)


高峰秀子『わたしの渡世日記 』(文春文庫)下巻も読んだ。巻末の解説が沢木耕太郎によるもので驚いた。私が仮面浪人時代に読んではまった『テロルの決算』などノンフィクションライターの第一人者である。その解説を読んで納得するところも結構あった。

上巻が20歳の終戦までで下巻は戦後から結婚するまで。結婚後の生活もエピソードとして触れられてはいるが時系列を追って書かれた章としては結婚で終わっている。これについて沢木耕太郎が高峰秀子の渡世は結婚したときに終わったのだろうと書いている。

上巻からオブラートに包みながらも養母である母親との確執について触れられていたが下巻では母親の信じがたい言動があからさまにされている。助監督だった黒澤明に恋をしたのに母親に潰された話とか後日会ったら黒澤明が逃げたといった内容も。同時代の人が読んだら面白いだろう。

これが書かれたのは高峰秀子が51歳のとき。死を考え始めて夫の骨壺を制作してもらいに高名な芸術家を訪ねるという話もある。私は骨壺はどうでもいいが人生を振り返り死を意識し始めるという点で下巻の後半には結構共感するところもあった。文章のうまさは抜群で一気に読ませる。

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© 2015 Takashi INAGAKI