2009年10月
3日の農村舞台に向けて不安が高まっているのは私が担当する効果音のタイミングが心配であることも原因の一つだ。私は役者の動き出しを待つ一方で役者さんたちは私の音出しを待っていたりする。それより音出しに使っているICレコーダーの操作を間違わないかどうかも心配。
これまでの練習ではたびたび操作を誤り次の音を早く出してしまったり失敗を重ねた。そこで音と音の間にわざと無音のファイルを置いて仮に操作を失敗しても間違った音が出ないようにしてみた。短くて途中で切れることがあった音はDigiOnSoundで長くなるように加工した。
ところがAちゃんから彼女のICレコーダーが壊れたという話を聞いてさらに不安が募った。私のICレコーダーが本番直前に壊れる可能性はゼロではない。そんなわけで古いMDプレーヤーを持ち出してみたが操作がさらに不安。そこでさらに古い「MPman」を倉庫の奥から取り出した。
渋谷の「さくらや」で2000年に買ったたった32MBのICプレーヤー。Vista非対応で古いWindows 98SEを起動してファイルを転送。これで当日のバックアップ体制は整った。で今日は最後の練習。うーん。まだ調整項目が何カ所も。でも懸案のラストは皆の意見で様になったか・・・。
最近の私は少し気分が落ち込んでいる。原因は分かっている。11月3日の劇のことだ。その状況にあって劇とは無関係な人間関係で心配事が起こり不安に襲われた。そして劇の日が近づくにつれ本当にこれで良かったのか抜けている準備はないのかと不安が高まっているのである。
この劇の台本は私がまとめた。4月頃に地元のN氏とT氏から話を聞きアイデアをメモしたのが元になっているが台本の形にしたのは私だ。メモを元に台本を書いているときは楽しかった。苦しみなど何もなく私の想像力の中であっさりできた。多分2時間ぐらいで書き上げたと思う。
だから私には責任がある。ただラストシーンのまとめ方が私には分からず最初の台本には「ラストどうしよう」と書いただけだった。今になってそのツケが回ってきた。そして例年の秋祭について教えてもらい本当にこれでいいのか分からず不安だけが膨れあがるのである。
そんな折に座長と先日話をしたとき彼からは今年は20年ぶりに復活させることに意味があるのだと言われた。面白くなくても構わない。途切れた伝統を地域として思い出すことが大事だということだろう。私より9歳若い座長の胆力に救われつつありながら小心者の私である。
J社を創業した浮川和宣さんと初子さん夫婦が取締役を今日辞任した。元社長の和宣さんは私が1988年に入社して丸10年仕えた直属の上司だった。それぞれ2人が6月に会長と副会長に棚上げされた時点で既に2人の時代ではなかったのだろうが会社から離れるとなると・・・。
私は彼ら2人については愛憎半ばする。私は部下として圧倒的な影響を受けたし2人のことは好きだったが彼らが経営者として優秀だったかどうかは別問題だと思い。元来は社員思いで暖かい気持ちを持った2人だったが会社運営における会議のやり方などを見ていると・・・。
それでも企業としての成長が止まって既に11年である。逆によく今まで取締役で居続けたものだという見方もあると思う。事情は同じではないが創業家が離れたアスキーより10年以上も遅れている。時代を見る目が狭かったということなのか業界の動きが速すぎたのか・・・。
私はそれでも浮川さんの物作りに関する感性には敬意を持っている。大きくなった組織ではなく小さなITベンチャーでなら浮川さんの良さが生きるだろうにと思ったこともある。浮川元社長は今年ちょうど60歳。何を思い何をしようとするのか。別の事情があったのか。実はとても興味がある。
月曜に飲んだとき私の過去の振る舞いが話題になった。まず最初の2軒で飲んだ大先輩にして当時皆から怖がられていたB氏によると私は当のB氏に向かって正論を吐いて意見をしていたとか。だから今も付き合っているのだとB氏からは言われたが。
3軒目で合流したN氏からも同じような話を聞いた。当時J社の仕事を一手に引き受けていて今は美大の教授になったデザイナーB氏の挑発に乗って私は彼に食ってかかっていたらしい。デザインについて私が言えるわけないから何か別のことがテーマだったと思う。
確かに覚えているシーンがある。秋田町のお店で元妻やN氏と彼らの同僚ら6〜7人がいたとき。B氏と私が激論というより口論になり他の人は口が挟めず最後は怒った私が店を出た。B氏に議論を挑んだとは当時の私は若かった。それにしても私は何に怒ったのだろう。
そう言えば中学の同級生Tからも同じようなことを言われたことがある。中学から30歳頃まで私は変わっていなかったということか。もしかしたら今も変わっていないかも。地元のN氏とは既にやり合っているし。歳を取り逆にスイッチが入る沸点は低くなった気もするが。さて。
月曜日は徳島空港に行き東京からのお客様をお迎えした。沖浜の「黒田屋」でチャンポンを食べてから上勝。ここから妻も合流して役場近くの会合に帯同した。終えて簡単な打ち合わせを少々。事務所に戻って雑談の後3人で徳島へ。
紺屋町地下に車を置き「カルネ屋」。ほどなく元同僚にして友人のM嬢が合流して焼肉を食べつつ4人で古事記のことやヨットのことや。次はカルネ屋の大将が新たに出した籠屋町にあるジャズのお店で「鳴門鯛」を飲みつつ酒造りの菌の話など。解散したのは22時過ぎだったか。
さて2軒目に行く途中で元同僚のコピーライターN氏とすれ違っていた。上勝からせっかく街に出ているので私はN氏に電話して前にも一緒に飲んだ仲之町のバーに押しかけた。タウン誌「050」の表紙などを手がけるデザイナーのF氏もご一緒。昔話含め酔っぱらって大いに話した。
店を出たのは2時過ぎ。知っている代行さんに事前に料金を聞いていたが彼は営業終了後。そんなわけで妻と2人で6月以来の「Long Bar」。後から来た新聞社勤務というお客さんとマスターと話をしてお店で紹介を受けた代行で帰宅。6,000円。駐車場は8時間を超え1,000円。
先日NHKの取材を受けるどうか仲間の中で議論になった。それでも私は受けるべきだと思っていたので皆の懸念に対しては私が最大限の努力をすると言った。ところが放送の内容はともかく取材の過程で私は自分が過去の自分ではないことを覚った。
私はJ社で広報を実質8年担当した。急成長する会社にあって部署そのものを新たに作り会社の広報体制をゼロから作り上げた自負がある。メディア対応ではあらゆる経験をしたと思っている。権威ある企業広報大賞をJ社が受賞したのも私の仕事の成果だったと思う。
でもそれらは既に過去のことだった。考えてみなくても11年が経っている。その後D社やA社で広報を担当したが最近3〜4年は表に立ってメディア対応をすることもなくなっていた。やれやれ過去の栄光だけでモノを言うほど落ちぶれた私なのである。
それでも広報のあり方に私は多少の持論を持っている。ところが現代広報はその持論と乖離する一方だと感じる。言ってみれば私は古い人間になった。そのため改めて広報を主な仕事をすることはもう考えていない。だとすれば。これから私はどうすればいいのだろう。
金曜は買い物ついでに妻と徳島に行き久しぶりに歓楽街に出た。上勝に引っ越してから外食しなくなっていたから久しぶりに外で焼肉を食べようとなったわけ。紺屋町地下駐車場に車を止め秋田町や栄町を歩いて結局富田町の焼肉屋に入った。
街に出たのは6月4日以来だ。7月7日には両国に行ったし毎週2回は「響」の練習の帰りに車で秋田町と紺屋町の交差点を通っているが夜の街を歩いたのは4ヶ月ぶり。金曜だったこともあり人出はあった。数年前に見た寒々とした風景では少なくともなかった。
11年前までは平均すれば週に1度ぐらい街で飲んでいた。たいてい接待。接待という名目で私が楽しんでいただけだが十分それが許される時代だった。プライベートでも月に2回ぐらいは飲みに行っていたような気がする。2次会で行くバーは4軒ぐらいをローテーションしていた。
当時も街で飲むと帰りは運転代行を使っていたが上勝は遠い。運転代行で上勝までいくら掛かるだろう。日本で一番安いはずの金比羅タクシーは5,000円超。でも帰りをタクシーにすると行きの手段に困る。金曜は飲まなかった妻の運転で帰ってきたが。
水曜の夜。4月頃移住してきて別の地区に住むK氏宅に初めて行った。サッシやユニットバスなど部分的に改修されているが戦前からあるような古民家だ。かまどや囲炉裏がある。噂に聞いていたので前々から行きたいと思っていた。その日はN氏の案内で山道を車で上った。
道中まだ着かないのかと何度口にしたことか。とにかく遠い。これだけの距離を走れば美杉峠を越えて相生まで行けそうなぐらい走った。K氏が軒先に吊している何個かの電球が真っ暗な闇の中に見えたときは町に出たような気分になった。Mんも着いたばかりだった様子。
K氏は元テレビマン。数々のヒット番組を手がけたディレクターらしい。奥の間には何百枚のCDとDVD。アナログレコードで「クリムゾン・キングの宮殿」を掛けてくれて私は部屋を暗くして一人で聴かせてもらった。大音響で鳴らしても外に出れば沢の音で数十m離れるとかき消される。
見上げれば星が近い。階段を上がった小部屋でろうそくの明かりの中N氏の子供たちと夢の話をした。気持ちが落ち着くのは囲炉裏をはじめ装置としての古民家に加え住んでいた人たちの気があるからのような気がした。帰り道は意外に近く感じたが鹿5頭と狸と兎を1匹ずつ見た。
人はいつ死ぬか分からないのだから死後の処理について希望をまとめておこうと思っている。思いつくまままずは葬儀。妻は儀式は不要だと言っているが私は一般的な葬儀があってもいいと思う。ただし最大限簡素にして欲しい。読経は阿波市の明王院副住職にお願いしたい。
読経の前や後などは音楽を流しておいて欲しい。希望はピンクフロイド「狂気」。時間的に余裕があればピンクフロイド「原子心母」全曲と「あなたがここにいてほしい」も。先日書いた「響」演奏の曲はどこかであってもいいのだが私にはやはりピンクフロイドが相応しい。
この日記は1年ぐらい放置しておいて構わない。ただしネット関係で契約の変更など面倒な処理が多い。妻1人では難しいと思う。できれば私と同期で川内に住むKに手伝ってほしい。そのとき必要なパスワードはPCの中にファイルとして保存してある。
ただしパスワードは普通に見ても分からないように暗号にしている。その解読は横浜に住む中高の同級生BPQにお願いする。BPQなら分かるように書いてある。現在の希望はそれだけ。死後は魂だけになると私は信じているから皆の近くでいられることを楽しみに思っている。
先日のNHKの取材で舞台の練習が終わってから1人1人が個別にインタビューを受けた。片付けをしたり雑談をしながらだったから全員のインタビューを聞いたわけではないが2人の話に心が揺れた。1人は私と住宅に住む同じ歳のS氏。もう1人は私より10歳若いMちゃん。
S氏は5年ぐらい前に徳島から移住してきたらしい。当時いろんな地元の人から声を掛けられ宴会に呼ばれたりして地元にとけ込めたことに感謝するようなことを話していた。それは今まさに私自身が感じていることだ。S氏の言葉を聞いて改めて地元の人のありがたさを思った。
一方で地元に生まれ育ったMちゃんとはこの劇で初めて知り合った。その彼女がインタビューで「劇に参加して多くの人と仲良くなれて楽しい」といった意味のことを言っていた。私も同感だがまだ若い彼女にそう言ってもらえたことが参加者の一人としてうれしかった。
地域活性化というと特に都会の人は経済だけで見がちだと思う。でも地域には共通の課題がいくつもある。それを解決するためには信頼をベースにした対話が欠かせない。まずはお互いを知り仲良くすること。今回の劇について上演結果より過程における貢献を考える。
上勝では60歳を越えた人がお互いを「ちゃん」付で呼び合っている。おそらく子供の頃から一緒にいるから当時の呼び方のままなのだと思う。だから皆が呼んでいるからといって余所から来た私が「ちゃん」付で呼ぶのは違うと思う。Y氏の母上Kちゃんのことは呼んでしまっているが。
それでも地元の人に倣ってIターン者同士も「ちゃん」付で呼んでいたりする。普通は親しくなるのが先だと思うが最初から「ちゃん」付で呼び合うとそれだけで親しくなれる気もする。今さら私が「ちゃん」付で呼ばれるとは思わなかったが呼んでくれる人とは親しくなって実はうれしい。
年上の人を「ちゃん」付で呼ぶことに抵抗感がある私だが年下の人に対してなら大丈夫。特に女性に対しては既婚者であれ独身であれ平気で名前に「ちゃん」を付けて呼んでいる。R香ちゃんとかY子ちゃんとかM樹ちゃんとか。
ふと考えると東京の企業でこれをやるとセクハラと言われかねない。年下の女性は姓に「さん」付でないと。でもそうやって形式ばかり気にすることが企業社会の問題の根底にあるような。不信を前提にするか信頼を前提にした社会か。おっと意外に大きなテーマに繋がりそうな。
涙もろくなった。というレベルではない。正直に書くが最近の私はすぐに泣く。例えば地元のために奔走しているT氏のことを知ってN氏が上勝に移り住んだといった地元の仲間の熱い気持ちのことをNHK記者に話していたら涙声になりかけて慌ててしまった。妻は横で気づいたらしい。
このことを指してN氏が「感情失禁」と言った。私は子供の頃から大人しく感情を出さなかったのに。自己分析するに2年前に『神との対話』を読んで魂の存在を頭で理解し意識していたら本当に理性より魂が優先しはじめたのかも知れない。その結果としての感情失禁か。
でもまるでおじいちゃんのようだ。もしかしたら私は近く死ぬのではないかとさえ思う。そう言えば「響」で歌っていても声が震えて歌えなくなってしまう。たいてい生への感謝と死について歌うところだ。例えば瀬戸内寂聴による「あなたを愛したからこの星に生きてよかった」というフレーズ。
あるいはハンス・アンデルセン作詞「私は神が命じた道を進んだ/額をまっすぐにあげて」「私を高く運んでいけ、お前、強い死よ/魂の大きな国へ」。演奏会はこの曲の「さようなら、お前、愛しいもの/さようなら、ありがとう」で終わる。もし私が死んだらこの2曲を流して欲しい。
毎週やっている劇団「傍示たぬき座」の土曜練習だが昨日は初めて本番で使用する農村舞台で行った。20年近く舞台として使用していなかったのだが昨年の秋祭りで人形浄瑠璃の公演を行い幕などを整えたらしい。そして今年は地元の人間だけで演じる劇を行うわけだ。
音響関係を把握しているNさんにも来ていただいた。主役のAちゃんが欠席だったので本調子ではなかったが私が担当している効果音と演技のタイミング合わせなども行った。演技や台詞は様になってきたが逆に私の効果音の音出し操作が問題だ。やれやれ。
一旦終わって我が事務所で何人かが集まりビデオを見ながら反省会。そして日曜は朝から舞台の幕などの設置作業。私たちは遅れていって妻は体調が悪く途中で帰り私も「響」練習のため15時過ぎに撤退。私も「響」の練習は体調が悪く途中退席。
さて農村舞台は古い建物だが幕を付けると立派に見える。座長T氏と同級生F氏とS氏の4人で作業して昼食はF氏宅でYちゃんが作ってくれていた炊き込みご飯を食べた。来週土曜日の練習は本装備でできる。効果音の操作で失敗しないため私も少し工夫をしておこうと思う。
地元の消防団に入団した。消防団とは常勤の消防署職員とは異なり非常勤で消防活動を行う組織のこと。Wikipediaによると大阪市など少数を除いて自治体単位で設置されているらしい。東京でも近所で団員と思しき数十人が集まり放水訓練をしているのをときどき見た。
もし火事が起こっても消防車が来るのに時間がかかる山間地では地元消防団の役割は大きいと思う。それに鳴門のサツマイモ農家で消防団員の従兄弟から消防団については聞いていて上勝のような山間地に住めば入団するのは当然のことだろうと以前から考えていた。
そのことを何かの折に話をしていた。そしたら役員会の席で私の名前が出たからとY氏から「挨拶に来い」と電話で詰め所に呼び出されたのが9月初旬か。消防団の年度は10月始まりだそうで多分私は10月1日付。ヘルメットと半被は届けてもらっている。
さて歳をとった新入団員である。月2回の点検日である木曜18時に初めて半被を着て行ってみたら新入団員はもう1人。聞けば22歳とか。支給される長靴のサイズを合わせ分団長と一緒に赤い動力ポンプ積載車に乗って行って2カ所の動力ポンプ点検。車載ポンプも下ろし放水も。
皆さんはユコウをご存じだろうか。ユコウは私が住む上勝町と周辺地域で自生または栽培されている柑橘である。私は徳島で生まれ育ったが上勝に来るまで知らなかった。上勝ゆこう消費拡大推進協議会によると江戸時代以前に香橙と柚が自然交雑したものという説があるらしい。
実は総じてスダチより大きい。もしかしたら早い時期に収穫してしまった実がとても小さなミカンのようなものかも知れない。スダチのように酸っぱいが甘みがある。酢飯はユコウに限ると地元の人は言う。でも私は全く馴染みがないのでよく知らない。
スダチは夏に獲るがユコウは今が収穫期らしい。先日Y氏が収穫したユコウを軽トラに満載した状態でNHKの取材で足止めさせてしまった埋め合わせに私と妻でNHKの取材が終わった木曜夕方に収穫を手伝いに行った。金曜も14時過ぎからお手伝い。
収穫地まで数百m歩きユズを入れるコンテナは地元の人が「キャタ」と呼ぶキャタピラ運搬車で運ぶ。これまた初めて知ったがスダチもユズも棘があるがユコウにはない。金曜はヘタを取っていない小さいユコウをコンテナ一杯25kgほどもらってきた。これも搾って酢にするつもり。
怒濤の3日間だった。連休明けの火曜にNHK徳島から取材依頼があったからだ。テーマは11月3日公演の舞台「傍示たぬき座」について。取材日は連絡があった翌日から2日間という無茶苦茶なスケジュールだが紆余曲折の末に取材を受け今日まで撮影に振り回されていた。
元は5月の徳島新聞にコメントが載ったY氏に話があったのだが彼は小松島で食事中ということで・・・。私と妻は広報屋として反射的に動きY氏から座長に連絡してもらったがNHKから次に電話があったときは上勝に向かっているというものだった。座長に電話しN氏にも来てもらい。
その日の夜は美郷商工会議所の方の講演があり聴きに行き帰宅してから受けるべきか改めてN氏と相談。私は受けたいと思っていたが座長も合流してくれ侃々諤々。その前に自主練習している3人に改めて説明に行ったり。水曜は朝9:30にNHKさんが予告なくやって来て。
私たちは広報屋だが今回は単に時間が自由になる立場だっただけで調整に奔走。水曜朝2時間半も話をしHNKは夕方また来て19時から練習の撮影。木曜はAちゃんとN氏の取材。私らは午後からふすま絵作成風景の撮影を受け15時過ぎに終了。放送予定など詳細は妻のブログで。
地元の劇の背景画を描いていて発見をした。素人が描いているのだが人によって絵や色が全く異なってしまうのだ。描く人それぞれの個性によって著作権法が言うところの「思想又は感情を創作的に表現したもの」になるのだということを初めて実感した。
劇の背景画は居酒屋の店内と山里風景の2つ。私は中学の同級生F氏と一緒にもっぱら山里の方を担当。絵のキャンバスはふすまに張った紙。これが山里の絵だけで4枚ある。そこで最初は1枚ずつ分担して描いていたら同じ森なのに並べてみたら色調が違うことが起こった。
私は絵が苦手。それで私が描いた山はF氏の描き方を真似して描いた。木も同じ。F氏のやり方を真似た。それなのに結果は全く印象が違ってしまう。全然違うのでF氏が描いた木はスダチにして私が描いたのはお茶の木ということにした。
同じように描いているつもりなのに描いてみたら全然違う印象になる。ここに個性があるのかと。素人が描いた絵なら誰が描いても同じだと思っていたら違っていてこの発見は面白かった。ある年齢に達して美的感覚がそれぞれ違ってきたことが大きいのかも知れないと思ったり。
先週金曜の「響」の演奏から帰ると地元のN氏夫妻と子どもたちが遊びに来てくれていた。酔うほどに本の話をしたように思う。注文を間違ったかアマゾンから2冊届いてしまった宮本常一『忘れられた日本人』をN氏にプレゼント。妻はTちゃんとマンガの話で盛り上がっていた様子。
土曜夜は劇の練習が終わった22時頃また何人かが我が事務所へ。N氏夫妻と子どもたちも再び一緒。この日はF氏とMちゃんと本の話。F氏には『神との対話』。Mちゃんに『サイゴンの一番長い日』を貸し出した。地元に本の話ができる人が何人もいて楽しい。
日曜は朝から劇の背景画の作成。妻とN氏とF氏とYちゃんと先週の続き。土曜夜にF氏と探しておいた画像を参考に棚田と教会の絵を描いた。作業を終えて地元の「みつ」さんでビール。F氏夫妻と子どもたちも一緒。後からS氏。団長T氏も。また事務所に戻って宴会の続き。
N氏とは3晩連続。月曜は「響」の5時間練習でクタクタになってさすがにビールを飲むのをやめて23時過ぎに寝た。さらに諸事情があって今日火曜にも思いをぶつけ合って話をした。私にとっても濃密な3連休プラス1日だったのである。
金曜の「響」の演奏があまりに下手だったと指揮者から団員宛にメールが届いた。下手の原因は練習不足にある。それは団の運営に第一の責があるもので団員だけを非難するのは筋が違うと反論した。指揮者と団員の意識の乖離の証明でもあるが指揮者の焦りの反映かも知れない。
さて今日は午後から5時間の集中練習。4つのステージ単位で練習すると時間は十分ではなく各ステージを担当する指揮者の練習はどれも濃密だった。私は体育会的な厳しい練習が好きなので今日の濃い練習は実は楽しかった。ただし私が上手く歌えるかは別問題。
どの曲も楽譜を見れば歌える状態にはなった。つまり音はだいたい覚えたと思う。次は歌詞を覚え込まないといけない。そこで久しぶりにICレコーダーで録音していたのだが隣で歌う人がときどき間違った音で歌う。仕方がないので自分の声を中心に録音したり。
ところが帰宅途中の車で聴いたら下手さに唖然。練習は楽しかったが自分の声を聴いてやる気をなくした。さらに練習中にICレコーダーが満杯になったので古いファイルを消していたら操作を誤り全消去。今日の4時間半の練習を含め全データがなくなり大ショック。
徳島県音楽協会のコンサートがあって我が徳島男声合唱団「響」も出演した。いろんな団体が出演してオーケストラの演奏もあったと思う。「響」は4曲。前回の定期演奏会でやった曲で鳴門を舞台にした「たいしめ」。さらに「赤とんぼ」「箱根八里」「見上げてごらん夜の星を」。
最大のハプニングは前日になり突然ソロを任せられた18歳のN君が2番の出だしで歌詞が出なかったこと。N君は私の高校合唱部で副部長だったK嬢の息子。これで怖いものはなくなっただろうと終わってから肩を叩いて慰めた。のだが同時にみんなで笑い転げた。
さて定期演奏会まで1月半になった。徳島に戻ってきて練習に通い始めて約9ヶ月。音程を維持したまま歌うことが私には難しく毎回指揮者に叱られる。10年のブランクがあり歳も取ったからかこれ以上うまくなる実感はなく昔のように合唱の練習が面白いとは思わなくなった。
団ができて15年以上が経ち当初のメンバーも少なくなった。N君はソロパートで歌詞を忘れたがそれでも音程の安定感をはじめ私とは格が全く違う。そろそろ団との関わり方を見直そうかなと思っているところ。指揮者と団員の乖離は10年前より大きくなったようでもあり。
直撃を心配していた台風は東に逸れて愛知まで行って上陸した。朝メールを見たら私の仕事仲間である東京のA社の人たちの間で電車が動かず遅刻するという連絡が飛び交っていた。JRも小田急線も運転していなかったらしい。徳島より東京の方が台風の影響は大きかったようだ。
今回の台風は徳島から逸れたが過去に直撃されたことがある。台風の目に入ったことは記憶の中で2度。一度はそれまでの激しい風雨がピタッと収まり台風の目の中で星を見た。もう一度は私は寝ていて見なかったが母が不思議なことを言って翌日近所で騒ぎになった。
台風の目に入ったとき母が2F北側の窓を開けて外を見たらしい。北側にはNさんの2F建ての家。そうしたらNさんの2Fの屋根の上に人が座っていたと言うのだ。母はNさんのご主人だと思い込み「台風の目を見ているんですか」と声を掛けたが返事がなかったらしい。
翌朝Nさんに母が話をしたらそんなことはしていないと言う。では誰だということになって警察を呼んで大騒ぎ。そこの長女は窓の外を上る人影があったと言うが気のせいかも知れないし。母が見たのは実在の人なのか幻だったのか。みんなが気味悪がったが結局何も分からず終い。
子どもの頃に体験した台風のことは何度も書いた。大人になって体験したことも。いずれも徳島だが鳴門市や徳島市でのこと。今回の18号は四国沖を北北東に進み24時に潮岬沖70kmのところで何と950hPa。私は初めて上勝で台風を経験するわけで勝手が分からず警戒していた。
まず停電に備えて懐中電灯を机の上に出しておいた。キャンプ用の電池式LEDランタンも。防災無線の受信機の乾電池も確認。ISDN用TAにも電池を入れ電源不要の電話機も準備した。断水に備えて焼酎の5Lボトル数本にも水を溜めた。
万一県道が崩れて孤立しても困らないよう数日分の食材も買った。ちなみに直近に徳島で経験した台風は一昨年。当時は室戸西960hPaが急速に衰えたと書いている。あれは7月。海水温は10月の方が高いはずで台風へのエネルギー供給は上陸まで続くのではないかと素人予測。
ただし徳島は今回も進路の左側。さらに予想進路は少し東にずれて上勝から遠ざかった。速度も上がり今回は無難にやり過ごせそうだ。そうは言いつつ24時前後に雨は横殴りでNHK BSでBilly Joelのライブを見ていたら広いベランダの先から窓に吹き付けていた。風は弱まった25時。
我が徳島男声合唱団「響」の第4回定期演奏会が11月29日に開催される。いつの間にか我が団には指揮者が4人もいるらしく彼らがそれぞれ指揮をするから4つもステージがある。うち3ステージで本格的な合唱曲をやるから歌う方は大変だ。
4月頃から音取りを初めて楽譜を見ながらなら何とかやっと歌えるようになったところ。正指揮者は焦り始めているようだが私も心配。こんな調子で暗譜できるのだろうか。歌詞と音を覚えただけでは合唱にはならない。表情を付け指揮者の意図通り歌えないことには・・・。
第1ステージはラテン語によるミサ曲。西洋の宗教曲であって美しいハーモニーが折り重なっていくはずだが眠くなるかも知れない。第2ステージは瀬戸内寂聴作詞の「ある真夜中に」。歌詞が素晴らしいと思う。歌いながら感動して声が震えてしまう。私だけだろうが。
第3ステージはアンジェラ・アキ「手紙」や尾崎豊「15の夜」など。第4ステージは正指揮者による「新しい歌」。私のお奨めは2ステ。ラテン語で面白くない1ステで少し寝てもらって2ステを真剣に聴いてくれればありがたい。歌詞の世界観は2ステが最も共感できると思う。
自分で農業をするつもりはなかったがアニス農法については関わりを持っていたから土のことを勉強しなければならないとは思っていた。それで引越前の昨年12月に東京新宿の紀伊国屋で何冊か本を買っておいた。これもその1冊。岩田進午『 土のはたらき』(家の光協会)。
米や野菜など作物を栽培するとき土の働きは極めて大きい。この本は現代農業の土に関する問題点や耕地における適正な土のあり方を専門的な内容を交えて解説している。有機肥料と化学肥料の割合など統計データなども用い農業を取り巻く社会変化についても詳しい。
特に窒素やリンやカリなど肥料元素がどう植物に吸収されているかまたは土中に蓄積されるか化学式による解説が詳しい。それは土中水溶液の酸性度(pH)で変化する電気特性によってイオン化した原子の化学変化であり簡単な無機化学と物理学で説明される内容ではある。
良い耕地の条件である水持ちと水はけの矛盾はどう両立するのかも分かりやすく解説されている。微生物や菌類の働きについても分かりやすい。ただし土と肥料についてpHと電気特性と化学変化と物理変化の関係を私が理解したとは言い難い。再読して理解を深めようと思う。
私が住んでいる上勝町は住所表記が大字単位で5つに分かれている。私はそのうちの一つ「傍示(ほうじ)」という地区にいる。役場の広報誌によると傍示の人口は9月1日現在で146戸358人。この傍示地区はさらに11の部落に分かれるらしい。
金曜はそのうちの一つの部落で行われた宴会にお誘いいただき妻が作ったポテトサラダとビールを持って2人で出かけてきた。初めて上がる集会場。15人ぐらいの集まりで見知った人は半分ぐらい。勧められるままにビールを飲んだら2時間ですっかり酔っぱらい。
さて傍示地区の秋祭で10年以上途絶えていた農村舞台での劇をすることになった。私たちが頼り切っている地区のリーダーから4月頃に話をもらって面白がった私たち。とりあえず台本の原案を書いてみた。私は効果音も担当し妻は少しだけの出演と衣装を担当している。
その劇の練習が土曜夜にあった。8月までは月1回集まり9月は2回。先週からは毎週。日中は台本の改訂作業と効果音の作成。そして日曜は朝から舞台の背景画の制作に行った。絵の具を使ったのは中学以来。遠くから見たら意外にきれい。地元の活動で最近は週末の方が忙しい。
我がアマチュア無線同好会JA3YCZの個性的なメンバーのことは昨年書いた。QKLやVUFやAZHらと同級生だった福岡出身の「しまうま」ことFYY早川氏も彼らに勝るとも劣らない強烈に面白い友人だった。何と言ってもビニ本のコレクションは凄かった。
卒業間際の彼から263冊のビニ本をもらった私は数十冊単位に紐で縛り原付の荷台に括り付け前カゴにも載せた。彼の下宿は京都大学近くの百万遍交差点からすぐの路地にあった。百万遍は4車線道路が交差する京都でも大きな交差点の一つである。
24時半頃だった深夜。263冊のビニ本を載せた原付に乗った私が百万遍を北から来て西に向かうため右折したときだ。交差点を右折し切ったあたりであろうことか荷崩れが起きた。荷は大量のビニ本。しかもタイミング悪くパトカーが今出川通を前方から近づいてくるではないか。
幸い深夜で車が少なく路肩で荷を積み直したがあまりに焦って寒さの中で汗が噴き出した。これまた幸い職務質問も受けることもなくその後は慎重に運転して千本今出川の下宿に帰った。この顛末について当時の彼女はもちろん各方面から大いにバカにされたのは言うまでもない。
同じ住宅のS氏の部屋でバカ話をしていて思い出した学生時代の恥ずかしいエピソードを告白し記録しておこう。我がサークルJA3YCZのメンバーの中に前にも書いたが私の後輩で1つ年上の早川氏がいた。この話は彼が卒業する直前だった1986年12月から1987年2月頃のことだ。
彼は困ったことがあると必ず「困ってシマウマ夏のコタツ」とギャグを言うから私たちは彼のことを「しまうま」と呼んでいた。ひょうきんだが堀川丸太町あたりのスーパー西友で4年間アルバイトをしていた真面目な法学部生ではあった。ビニ本のコレクターという一面を除いては。
ビニ本は死語かも知れない。要は透明ビニールに入れられて自販機などで売られているエロ本だ。彼の手元にあったのは裏本と呼ばれる性器が隠されていないものが多数だったと思う。ところが卒業を控え彼はその処分に困った。そこでまだ卒業できない私が引き取ることにした。
そして彼の4畳半の下宿に行った夜。彼は手放す本と残す本を1冊1冊選り分けた。私が譲り受けたのが数えてみたら何と263冊。この数字を今もって覚えているから当時はインパクトがあった。そして深夜その263冊を原付に載せて帰ろうとしたときに事は起こった。(続く)
おそらく8月の私の体重は過去最高だったと思う。何せ徳島では歩かない。東京時代なら最寄り駅まで10分歩き電車やバスの中でも座らず乗り換えのエスカレーターも歩くようにしていたが徳島では移動は全て車。パソコンの前に座っているだけでは太るのも道理である。
ところが最近になって大量に汗をかく草刈りやスダチ取りなどをやったからだろう体重が若干減ったような気がする。この機を逃してはならじとヨドバシのポイントで足首に巻く重りを買った。1kgを2個。これを着ければ日常生活での運動効率が上がるのではないかと。
もう5年も前のことだが業界紙「BCN(ビジネス・コンピュータ・ニュース)」が主催した表彰式のパーティで何年かぶりに話をしたBCNの創業社長は大病をしてから足に重りを付け歩くようにしているという話を聞いた。それ以来私もやってみようかなと思っていたのだった。
と言っても今のところは部屋の中だけ。ほとんど座っているから効果なし。ちなみに重りを付けたまま作業用の長靴を履いたらちょっときつくて断念。どれほど効果があるかは不明ながらしばらく続けてみよう。ちなみにヨドバシでは一番安いアナログ式体重計も買った。
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© 2009 Takashi INAGAKI