2009年6月

旧美郷村 (6月30日・金)


旧美郷村に先日行ったのは10年ぶりだった。10年前はジムカーナをやるために美郷にある徳島カートランドによく行っていた。いつからジムカーナを始めたのかは覚えていないがJ社の同期I君に誘われて行ったのは入社2年目の89年頃だったような気がする。

一方で深夜の峠道を私に教えたのは当時徳島大学工学部の院生だったBPQだ。ラリーのオフィシャルだと思うがBPQの車に同乗して川島から美郷に行った記憶がある。今回行って「美郷温泉なんてあったっけ」と思ったがBPQの車で休憩したことを帰宅して地図を見て思い出した。

美郷の県道にある恵美子から山に入るルートを教えてくれたのもBPQだ。そのうち一人で走りに行き新しい道をいくつも見つけ毎週金土は美郷村内を走っていた時期がある。車から降りてタバコを吸っていたとき揺れるススキにギョッとしたのも美郷の茶畑の中の道だった。

走っているうちに徳島カートランドに出た。当時は美郷村内を全て網羅した気になっていたが倉羅(くらら)峠を越えたほか川より西に行ったこともなかったことに今回気づいた。実は走り回っていたつもりで何も知らないことを知ったのが今回の美郷ツアーでの発見だった。

ハイブリッドカー (6月29日・月)


トヨタのハイブリッドカー「プリウス」の新型が1ヶ月で18万台を受注したと先日ニュースになっていた。燃費38km/Lというカタログスペックは確かに魅力。実燃費でも30km/Lぐらいいくのかも知れない。私も購入を考えなくはなかったが実のところ早々に候補から外していた。

ハイブリッドカーの真価は低速時のモーター走行にあるわけであって走行距離のほとんどが50〜60km/hで巡航するような私には真価を発揮させられない。それでも徳島市内の渋滞で燃費が全く悪化しないなら価値はあるが。

でも問題は車両価格。安くなったと報道されるが絶対価格として200万円を超える。ちなみに減税も補助金も同じ制度が適用されるフィットと同じ装備で比較したら70万円も高かった。それで仮に20km/Lの燃費が30km/Lと1.5倍になったとして計算すると・・・。

ガソリンは1月で80L使ったから2/3を掛け約54Lで済む。仮に高めの150円/Lだとして差額は4,050円。1年で5万円。15年でやっと73万円。燃費だけで判断すると10年間のトータルでも高くなることもあると思う。それに部品が多く機構が複雑だから修理代が高くなりそうな。

燃費 (6月28日・日)


フィットには速度計の下に燃費計が付いている。トリップメーターなどと切り替え式だが普段は燃費計を表示させている。それと瞬間の燃費計もあって0〜40km/Lのバーで表示される。これを意識すると燃費も良くなるかも知れない。

最初2回の給油は中途半端だったのでメモを残さなかったが3度目の給油時の燃費は計器表示が19.6km/Lだった。満タン法で18.35km/L。このときは祖谷に行ったときで高速道路は17km/L台で燃費が悪くなった。祖谷の山道を走っているときは19km/L台に上がることもあった。

高速を使わなかった4度目の給油では計器表示が22.6km/L。満タン法で20.94km/L。ちなみに勝浦町のGSで給油し国道55号まで約10kmでの燃費計表示は29.8km/Lだった。逆に給油から上勝まで約15kmは22km/L。やっぱり上勝の急な上り坂でガクンと落ちる。

燃費を下げる元凶は徳島市内の渋滞と信号待ち。それでも普通に使って20km/Lはクリアした。ただエアコンを常用すれば悪くなるだろう。それでも徳島市でエアコンが必要でも勝浦あたりからは外気で十分涼しかったりもするから夏でも20km/Lはいくかも知れないと期待少々。

室温と除湿器 (6月27日・土)


東京の人は徳島というだけで南国だと思いがちだが上勝は山にある。一方で徳島市部の人は上勝を雪深いと極端に思うきらいがある。どちらも不正解で私が住んでいる周辺に限れば今冬に雪が降ったのは1度だけだったし今はまだ極端に暑くなく南国とは言えない。

上勝の季候で徳島市と明らかに違うのは全体的に気温が低いことと昼夜の寒暖差が大きいこととだと思う。気温が低いから我が家は6月になってから夏布団に変えたほどだし室内の温度計によると最高気温が25度を超えたのは6月中旬を過ぎてからだった。

特に私の事務所は内装が杉の無垢材だからか室内の気温変化が緩慢である。午前は外に比べ室内がひんやりしている。夕方になり遅れて室温が上がり始めそれでも最高27.2度。夜も外気に比べ室温変化は緩やかで最近だと朝の最低室温は24度ぐらいまでしか下がらない。

ここまではいいのだが心配なのが我が住宅の湿度の高さ。特に住宅の廊下側は酷いと先輩住人たちから教えられ。そこで思い切って自宅の衣類がかびないように除湿機を買った。問題は事務所。エアコンは今のところ必要なくまだ様子見している。ただ扇風機だけ買おうかなと。

旧美郷村 (6月26日・金)


木曜日。徳島の吉野川中流にある旧・美郷村に行ってきた。現在は合併して吉野川市の一地域。ところが合併で埋没してしまう地域が多い中で美郷は独自の商品や観光開発を行い徳島の中で輝いて見える。それで上勝として参考になることがあるだろうと話を聞きに出かけたわけだ。

聞けば美郷の特異なところは合併で役場が支所になり職員が数名だけになった危機感から発しているところ。合併1年前に赴任してきた商工会の経営指導員T氏がキーマンである。彼が旧村の幹部から託され住民の期待を背負い奮闘した結果としての現在である。

旧・美郷村の吉野川市における人口比は33分の1だそうだ。1,300人。美郷は切り捨てられそうな地域の要望をいかに市の行政に反映させるかに腐心している。要諦は商工会T氏の戦略性。そして身の丈にあった小さな芽を育てようとする清心で謙虚な姿勢。

地域の弱点を逆手に取ろうと考え続ける姿勢には感じ入った。美郷のT氏は繰り返し「上勝を目標にどうすべきかを考えている」と語った。目標にされる上勝。とすれば美郷のためにも徳島のためにも何より上勝のために上勝はさらに先を考えもっと尖らなくてはいけないのかも知れない。

日経パソコン誌 (6月25日・木)


A社から宅配便が先日届いた。できあがったばかりの「活動報告書」を送ってくれたのだが日経パソコン誌8冊ほどとBCN(ビジネスコンピュータニュース)数冊が同梱されていた。A社で私宛に届く分をまとめて送ってくれたのだ。何週間か遅れだが少しずつ読んでいこうと思う。

と思いながら日経パソコン最新号を開けたら巻頭インタビューが何とアニスの純浦社長。元AX協議会事務局長でありオープンインターフェース創業社長。というより妻が東京時代にPRを担当していた会社。というより何度か上勝に来ていただき諸々やりとりをしている会社。

ポタジエの柿沢シェフご夫妻も来てくれた東京での壮行会には純浦さんも来てくれていたから最近は2ヶ月に1度ぐらい会っているかも。そう言えば日経パソコンF編集長から千葉の農場に行ったことを聞いていたのだった。このコーナーのインタビューだったのか。

東京での引越前に最後に見た日経パソコンの同じコーナーに登場していたのは上勝「いろどり」の横石さんだった。純浦さんも横石さんもITを地域や農業に生かしているのが面白い。私はさらに外周あたりをウロウロしているだけだがITを主役にしていないのは共通点だと思っている。

合唱部の彼女の息子 (6月24日・水)


「響」のトップテナーに若い男子大学生がいる。昨年だか一昨年だか高校時代から歌いに来ていたような気がする。今は大学生だ。実は私は彼の名前を知らなかった。練習中に発する我が指揮者のエロな話にオヤジたちはゲラゲラ笑うが彼は顔を赤くしている。そんな青年だ。

さて合唱祭に行くと旧知の人と出会う。本番前に受付から外に出たときすれ違った女性に声を掛けた。一目見て誰か分かった彼女は高校の合唱部で副部長だった旧姓K嬢。高校卒業以来会った記憶がないから27年ぶりだと思う。養護学校で教師をしていると言っていた。

それより彼女は私が「響」にいることを知っていて「お世話になっています」と言った。何で?聞けば彼女の息子が我が「響」にいるとか。それがトップテナーの青年だ。何と彼は彼女の息子だと。そのとき初めて彼女の現在の姓を知り息子に聞いてお父さんが大学教師と知った。

高校1年のとき彼女は後に合唱部の部長になるK元と同じ9組にいた。そして彼女と私は同じキシャ通学だった。衣替えの6月1日に徳島駅で見た彼女が意外にオトナで驚いた光景とともにK元とそのことで意見が一致したことを覚えている。彼はその彼女の息子。いやビックリ。

徳島県合唱連盟 (6月23日・火)


合唱祭の司会は高校の音楽教師にして徳島県合唱連盟の理事長N氏が行った。ちなみにN氏は私の高校の先輩だが合唱連盟主催のイベントは15年前ぐらいからN氏が司会をしていると思う。当時のN氏は事務局長。昨年だか一昨年だかに理事長に就任したらしい。

さて前日は合同練習会が開かれ合同演奏も行われていた。その指導で来ていた北海道の先生が合唱祭の最後の挨拶で面白いことを言っていた。合唱祭の司会を理事長がやっている県の連盟を初めて見たと。徳島の理事長は偉ぶらず素晴らしいという主旨である。

でもそれは実態に即したことなのか。当日のプログラムにあった県合唱連盟の役員名を見ると理事長より上に前理事長の名前が顧問の肩書きで書かれている。顧問なら理事長・副理事長・理事の下か監事の下の方が落ち着くと思うが徳島県合唱連盟の組織は顧問が最上位。

つまりこれが現実の序列なのだろう。顧問とは言え前理事長を我々より下に置くわけにはいかないという理事たちの心理が透けて見える。前理事長は全国合唱連盟の副理事長だったから40歳代の高校教師より多分偉いのだ。役員一覧の序列が多分実態なのだと推測。

有名パティシエの来徳 (6月22日・月)


小学生の女の子が憧れる職業と言えばパティシエ。ケーキなどスイーツ(お菓子)を作る職人である。その中でも柿沢安耶さんと言えば東京・中目黒の野菜スイーツ専門店「ポタジエ」のオーナーにしてTBS系「情報大陸」やテレビ東京「ソロモン流」で特集された超人気パティシエである。

「ポタジエ」がプロデュースした野菜を使ったスナック菓子「ポトフ」のPRを妻が昨年担当したことで縁ができ私たちが上勝に引っ越すにあたり昨年12月に東京で開いてくれた壮行会には柿沢シェフもご主人の社長と2人で来てくれた。そのシェフが徳島に来ると聞き運転手を買って出た私。

シェフとアシスタントのMさんを徳島空港でお迎えし鳴門うどん「あそこ食堂」で昼食をとり阿波市市場小学校へ。火曜日に市場小学校で食育の授業があり今日は準備で来訪されたのだ。市場町は徳島市から1時間近くかかる吉野川北岸の田園地。でも何故に市場小学校?

訊けば食育の専門書も出している熱心な先生がいるからだとか。学校に着いて先生ともご挨拶したらそのF先生は上勝小学校でも教えていたと言う。棚田での田植えからお餅作りとか。そして農業指導を受けたのが私の超ご近所のAさんだと。一しきりF先生と盛り上がったのである。

合唱祭 (6月21日・日)


日記の更新をまた2日休んだ。2日とも飲んで酔っぱらったために書くのを諦めたのだ。さて今日は合唱祭。昨夜の酒が若干残る中を10時半頃出発。午前の部を少し見て12:30から受付を手伝い団長との昼食後14時過ぎに集合して最後の練習と本番。つつがなく終えた。

徳島県合唱祭で歌ったのは10年ぶりなので余裕のある限り客席で他団体の演奏を聴いてみた。まず午前の男声合唱団「あわコラリアーズ」。徳島大学の公開講座受講者が母体で平均年齢も高そうだが意外に上手かった。ミスも聞こえたし雑な面もあるが核になる人がいるようだ。

出演29団体中で私が聴いたのは13団体だけだがその中で最も良かったのは応神中学校と名西高校。どちらもソプラノが美しい。名西高校は女声31人と人数もいて表情が良い。音程通り美しく歌おうとする団が多い中で歌の楽しさを感じることができた。

美しいだけの歌はつまらない。歌に込めた魂を感じたい。さて応神中学校も名西高校もソプラノの伸びは若さ故か。女声の美しさは若さで決まるように思えた。ただ年齢の高い人もいた半田女声コーラスは素晴らしかった。声の美しさより魂が籠もっていたからだと私は解釈したのだが。

J社の社長交代 (6月18日・木)


J社の社長交代が発表された。1979年にJ社を創業した浮川社長と夫人の初子専務がそれぞれ代表取締役会長と取締役副会長に退くらしい。会長による院政体制と考えられなくはないが今回は多分違うと思う。社長も専務も経営から退かされたと解釈する方が素直だと思う。

キーエンスが4月に出資した時点で誰もが予想していたことなので社長と専務が引退したとしても私は驚かない。ただ新しい社長に私は少なからず驚いた。主力製品であるワープロソフトを最初に開発して長く常務取締役だった福良さんが就任するというもので。

福良さんは私が住む上勝町の隣にある勝浦町の出身。勝浦から初めて入学したという徳島大学歯学部の学生だったのにJ社のアルバイトでプログラムの才能を発揮して中退してしまった人。NHKスペシャルの取材で私が勝浦町のご実家にお邪魔したのは14年ぐらい前だったか。

私が入社したときも退職するときも声を掛けてもらった。私は福良さんのことが好きだが今回の社長就任は喜べない。報道は経営の若返りと型どおりだが本当にそうか。これは創業者夫妻から功労者への最後の感謝の表現か。これから始まる大粛正への布石ではないのか。

原稿執筆と飴 (6月17日・水)


来週締切の原稿を2本書いた。まだ途中。一応メドを付けただけ。1,800字と1,000字だから量は大したことがない。内容が決まっていれば書く作業自体は楽。問題は構成なのだ。どういう順番で何を伝えるために書くのか。いつもこれに呻吟する。

さて前にも書いたが私が原稿を執筆するとき外務省起訴休職中の佐藤優氏が週刊文春に書いた方法を実践している。飴を舐めるのである。血液中の血糖値を上げ頭の血の巡りをよくするのだと思う。原稿に頭を使っていると汗をかくほど体温が上がるから理に適っている気はする。

でも私の場合は舐めるのではなく噛む。以前は母から注意されたし今は妻から文句を言われる。学生時代の彼女からも注意され続けた私の癖だ。誰に何を言われても直らない。そしてボリボリと噛む。原稿執筆の効率が上がるなら安いものだと開き直っている。

今日は原稿執筆に備え減っていた飴を補充すべくわざわざ買いに出た。とにかく噛むから消費が早い。原稿が立て込むと飴が何袋も要る。体に良くないことも太る可能性も分かっている。それでも昔の新聞記者のようにタバコを吸い続けるよりマシだろう。とやっぱり開き直っている私。

妻の出張と鳴門往復 (6月16日・火)


妻が東京出張に出かけた。上勝を朝出て徳島空港。出発前に徳島ラーメンを食べようという話もしていたが時間が中途半端で諦めた。私は一旦そのまま鳴門の実家まで行き接続したままにしていたADSLと無線LANの電源を外し取って返して徳島市。

まずは三菱東京UFJ銀行で振込2件。会社名義と個人名義の口座からそれぞれ現金を引き出しその場で住民税の支払い。会社員の多くは給与から源泉徴収されているはずだが私は自分でやっている会社の経理事務が面倒なので個人で支払うことにしている。

駅前から車の点検で昭和町。営業さんが洗車してくれていたのだが雷が鳴り出し水の拭き取りを途中辞退して早々に退散。帰り道は雷雨。周りに何もない勝浦川の土手を走っているときはちょっと怖かった。対岸の500m先の地上まで稲妻が走ったのが見えたし。

事務所に戻って原稿仕事。今週は17日・18日・19日・20日と4日連続で締切の原稿があり来週は25日の締切原稿も。4日連続の分は既に書いて確認中で25日の分に取りかかろうと思っていたら何と22日締切という原稿が突如出現。早く言ってよと仲間と一しきり文句を言ってみた。

合唱祭と定期演奏会 (6月15日・月)


6月21日(日)に徳島県合唱祭というイベントが徳島市文化センターで行われる。我が徳島男声合唱団「響」もこれに出演。3月頃から合唱祭での演奏曲の練習を続けているが本番まで練習はあと1回。最後になって動きが加わり覚えられない私は右往左往しているところ。

さて「響」は定期演奏会を3年に1回開催している。前回が2007年4月だったから次は来春が順当なのだが来春は別の演奏会が予定されていて定期演奏会が前倒しになった。今年11月29日(日)に徳島県郷土文化会館で開かれる。

今回は4人の指揮者がそれぞれステージを受け持つという理由からか本格的な合唱組曲が3つもある。妻は「響」らしい楽しさに欠けると不満を言うし私も練習が大変そうで不満。うち1曲はラテン語によるキリスト教の宗教曲だ。正直言って気が重い。

とは言いつつ組曲の1つは細切れに音取りをしていて楽譜を見れば3割ぐらい歌える状況になっている。定演で初めて歌うピアノ伴奏曲だ。この練習の過程で意外に楽譜が読めているような錯覚があって少し楽しい。こんな調子で歌えるようになれば苦はないのだが。

レーザー複合機の不調 (6月14日・日)


我が事務所にはカラーレーザー複合機がある。これの調子が悪い。印刷すると中央に白いラインが入る。文字なら気にならないが写真を印刷すると目立つ。これでは仕事に使えない。実は引越後にもきれいに印刷できなくなった。あのときは文字が滲んだようになったのだった。

年末に修理に来てもらったとき言われたのが結露を避けるようにという注意だった。確かに冬は事務所の窓に結露が多かった。そのときは習慣として使っていた加湿器を止めた。でも複合機は年が明けてまた同じ症状になった。再び修理に来てもらうとケーブルが原因だと。

前回も原因はケーブルだった可能性があるとか。そりゃそうだろう。結露なら東京のマンションも凄かった。上勝では窓際に置いているから結露の影響がより大きい可能性は否定できないが。そして年末年始の不調は結露ではなくケーブルの接触だという結論になり。

そのときは2度に渡る修理で直ったが今回はまた別の症状。感光体を変えれば直ると思ったが交換しても症状は同じ。レーザー複合機は面倒である。結局のところ高額なメインテナンス契約をせざるをえないのかと思いつつあるところ。何だか釈然としないのだが。

ソフトバレー (6月13日・土)


金曜日。ソフトバレーの練習に誘われて参加させてもらってきた。ソフトバレーとはバレーボールを誰もが楽しめるようにして考案された新しい競技らしい。バレーボールとルールは同じ。違いは4人制でボールが大きく軽く柔らかい。コートも小さいかも知れない。

ボールが柔らかいから手が痛くならない。サーブも少し練習しただけで入るようになった。私はトスが苦手だがこのボールなら何とかなる。ただし正しい方向にトスを上げられるかは別問題。それとボールが軽いからサーブボールがフラフラ飛んできてレシーブが意外に難しい。

ボールの軽さはアタックにも影響するらしい。アタックをしてもボールが浮き上がってアウトになる可能性が高い。それでも老若男女が楽しめる。昨日行った練習では上は60歳代後半の男性。下は20歳代前半の女性と年齢層が広かった。

試合形式で何セットか参加させてもらったが技術の差が顕著には出ない。私でも何とかなる。ただ瞬時の反応が私は鈍い。それに判断も。アウトになるボールに手を出して失敗すること何度か。それも含めて面白いのだと思う。強烈な筋肉痛になる予感あり。今日はまだ予感だけ。

ACCSの仕事 (6月12日・金)


ACCSの仕事をしていると一通りの情報が入ってくる。ヤフーオークションでパソコンソフトを違法コピーした海賊版を出品して逮捕された人のことなどを知ると何でこんな事をしたのだろうと思うことがある。真っ当な公務員や会社員で逮捕された人は何人もいる。

逮捕された人の中には海賊版販売の収入が極めて少額だった人もいる。昨今はインターネットが舞台になったために逮捕するまで実行者が誰だか分からないのだ。売上金額の多寡あるいは有無さえ問題ではない。違法行為をすれば誰でも捕まる可能性がある。

海賊版ソフトの販売で摘発された人の裁判を傍聴したことがある。そのときにも書いたが腰縄に手錠の姿にショックを受けた。ソフトやCDのコピーは簡単にできる。だから法律を知らないと刑事摘発された容疑者になる可能性は今の時代は誰にでもある。

私はACCSの情報に接しているので疑われることはしない。できない。今も全国の警察がこの手の案件の捜査を何件も行っていることを知っている。この日記の記述は読者への警告である。もし不明点があれば私に聞いて欲しい。無知で逮捕されても責任は自身にある。

ACCSと違法コピー (6月11日・木)


先日からトップページに「私は海賊版ソフトを使いません」と書かれたバナーを貼っている。リンク先は社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)。新入生など違法コピーを強要されがちな5月に行われた「不正コピーは、しま宣言!」キャンペーンに合わせたバナーである。

私はこのACCSに今に至るまで20年来関わっている。前身の「ソフトウェア法的保護監視機構」時代からJ社の担当として参画し社団法人設立にも関わった。略称として「ACCS」が最初に提案されたときのこともよく覚えている。当時の事務局長がAxe(斧)に引っかけたのだった。

リンク先を見てもらうと分かるがACCSは著作権侵害に対して会員企業が刑事告訴することを支援している。オークションで海賊版を販売したりWinnyなどファイル共有ソフトで違法アップロードをしているユーザーが逮捕されている。刑事摘発は年間20〜30件ある。

これとは別にACCSの会員は企業や団体の不正コピーに対して損害賠償も請求している。表に出ないが年間数百件あり1件あたり賠償額は1,000万円を超える。先日は石川県庁で違法コピーが発覚して大問題になった。違法コピーは全く容赦されない時代なのである。

福岡市の問題とRKBのスクープ (6月10日・水)


コラムニスト勝谷誠彦氏の配信メールで知ったのだが福岡市での新型インフルエンザでRKB毎日放送がスクープを飛ばしている。福岡市は私が99年から1年住んだ町で今も友人がいるし当時の勤務先はRKBのビルの中にあって毎日通ったから興味を惹かれた。

福岡の新型インフルエンザ患者は今月6日に見つかったことになっているが実は1週間前から簡易検査の陽性患者が何人もいたというのだ。患者が受診した病院は博多保健所に精密検査を要請したが保健所が断り続けたらしい。5人以上いれば検査すると言ったという話もある。

報道の内容はRKBのサイトで読める。ニュース映像も配信されている。6日に発覚した患者は病院の医師が博多保健所ではなく別の保健所に検体を送ったことで精密検査がされたと言う。福岡市の初動ミスと報道されているがそんな単純な問題なのだろうか。

弱毒性だからと子供たちの健康より経済損失を恐れた福岡市が情報を隠蔽しようとしたか。そうでなければ博多保健所の怠慢か。今のところ地元の西日本新聞さえ後追い報道がない。RKBの続報で市は責任を県になすりつけようとしている。しばらくウォッチしようと思う。

ツバメの巣とスズメ (6月9日・火)


既に妻が書いているが私も記録しておこう。事務所の玄関ドアを開けたすぐ上にツバメの古い巣があった。5月12日に巣の下に枯れ草が散らばっていて調べるとツバメの巣はスズメに乗っ取られていた。巣の位置はお客さんが呼び鈴を鳴らして立つ真上にある。ふん害が心配だ。

13日には大量の枯れ草が落ちていてかわいそうだと思いつつもスズメ退治を決意。廊下に落ちた草をほうきで掃き巣に乗せられた草も落とした。スズメも懲りずに草を運んでくるので13日中に3度ほど作業。14日朝にも大量の枯れ草が巣と廊下にあり再度掃除した。

ネットで調べるとスズメは警戒心が強く人の出入りが多いところは敬遠するのだとか。季節は初夏。廊下側の窓を開けたのでスズメの鳴き声はよく聞こえる。それで用がないのにスズメの鳴き声のたびに表に出た。2〜3羽がけたたましく鳴いていた。その後は特に動きはなかった。

一方で夜ツバメが廊下の換気口で寝ていたのも見たし新しい巣を作らないか期待していた。が結局作らなかった。ネットで調べると古い巣を修復する場合もあるらしいがスズメに乗っ取られた巣である。修復はないだろうとと思い古い巣は5月中に壊した。残念。

「おふくろ先生の診療日記2」 (6月8日・月)


毎日放送が制作した2時間ドラマを21時から見た。私が住む上勝の葉っぱビジネスをモチーフにした「おふくろ先生の診療日記2」。出演者の野際陽子が番宣で出演した朝の「はなまるマーケット」までHDRに録画して観てしまった。

泉ピン子主演。野際陽子や小林稔侍が出演した。「はなまるマーケット」で紹介された上勝の風景を見たときもそうだったしドラマ本編のオープニングから涙目状態の私。何故なのかよく分からないが上勝の風景の美しさに純粋に感動したのだろうか。

撮影技術やロケ地選択はプロの仕事だと思ったが同時に私はただ自分が住む町の映像が単純に嬉しかったように思う。風景や映像の美しさだけで普通は泣かない。さてテレビを観ながら見知った場所やエクストラ出演者のH氏やK氏にY氏らを見つけてその度に夫婦で大騒ぎ。

本放送を見てさらに録画した映像を観て楽しんだところ。でも映像の場所がどこなのか分からないところも多かった。詳しい解説を地元の人から聞いて再度楽しみたい気分。ストーリーは事実とは異なるので改めてこの本を紹介する。ドラマより事実の方が感動は大きいと思う。

上勝でホタル (6月7日・日)


土曜日の夕方。徳島市から上勝までママチャリでやってくる大学生Sちゃんが我が家に。彼が行くと言うので藤川谷川というところのホタル祭に一緒に出かけてきた。18時からビールを飲み上勝の歌姫あやちゃんの歌を生で聴き川に舞うホタルを見て20時半頃帰宅。Sちゃんも。

ホタルは90年代の前半頃に美郷村(現・吉野川市)の川沿いで見物したことがある。結構な人出だった記憶があるが今回の上勝は車がびっしり路上駐車していた割に帰りに渋滞することもなかった。初めてお会いした教育委員会のKさんや見知った人と話をしながら祭自体を楽しんだ。

夜は帰宅してそのまま宴会。日曜日は遅く起きて昼前に鳴門の母と東京に住む弟がやってきた。弟は広島出張のついでに帰省したとかで東京からあらかじめ実家に送っていた犬のケースケも一緒。泊まっていたSちゃんと別れ月ヶ谷温泉で昼食。

その後は樫原の棚田に案内して自分たちが植えた苗の様子を見て14時頃解散。夕方から徳島に行き買い物。さらに東京からのお客様をマリンピアでお迎えし帰宅。自宅前でホタル見物も。勝浦にいたはずのMちゃんが21時半に徳島から合流。みんなお泊まり。

中学の卒業旅行 (6月6日・土)


先日2次会から一緒に飲んだ訪問診療医のY田は中学を卒業した春休みに旅行に行った仲間だった。全部で6人。全員3年1組だった友人でY田と私のほかはタイヤ屋のKと現「響」団長F。最近家業の精密機械工場の社長になったらしいNとバスケ部だったSの佐古組2人。

山陰の津和野と萩を周り民宿2泊と下関から岡山まで寝台車泊だった。初日の夕方にFがエロ漫画誌を買ってくるし2日目の夜だったか女子大生数人が泊まっていることに興奮して大騒ぎした。Sが自慰をしたことがないと言うので皆で方法を教えて別室でやってこさせたり。

そう言えば私の初キスはこのときだった。相手はN。サッカー部だった彼は後に大学生になって新宿の映画館で痴漢に遭ったと聞くぐらいでかわいかったのだ。そんなバカ騒ぎの旅行だったが最後の夜に下関で寝台列車の出発まで時間が余ったときのことが記憶に強い。

Fが成人映画館に行こうと言い出した。みんな興味を持ちつつ坊主頭である。逡巡する中それまで最もスケベと思われていた元生徒会長Kが猛然と反対。路上でFとKが言い争った末に妥協して「グローイングアップ」を観たのだった。最終日は岡山博。これも意外に面白かった。

中学時代の同級生 2 (6月5日・金)


先日一緒に飲んだ開業医のM馬は中学時代ときに嫌なことを言うヤツだった。陸上競技会の壮行会で私だけ成績について紹介されなかったと指摘してきたのはM馬だ。中学1年のときは成績表を見せ合い競争しようと言ってきた。それを断ってから何かと因縁を付けてきたような。

そんな話を本人にした。彼によると他人に嫌なことを何度かした記憶があるそうだが社会にもまれて角が取れたと言う。でも彼は元々穏やかな性格の男で当時は青春のイライラ野郎だったのだろうと推測する。一緒に飲んだときにはニコニコしていて素直でいいヤツに戻っていた。

I川は高校時代に理数科で勉強ばかりだったはずだが親にウソをついて夏休みの合唱部の練習に参加していた。それを聞いた「響」の指揮者が入団を奨めているが今日日の産婦人科医は余暇を持てないらしい。その日も急な手術があったとかで合流が1時間以上遅れていた。

訪問診療医のY田は中学3年のときに同じクラスだったが2歳下の妹の記憶も強い。先日棚田オーナーの交流会で会った女性からも妹の名前を聞いた。彼女のリクルート勤務時代の社内報で見た記憶もある。今は東京・渋谷で起業しているとか。兄妹そろって凄いなと思う。

中学の同級生 (6月4日・木)


水曜日。徳島男声合唱団「響」の指揮者にして歯科医の友人Sに誘われて徳島まで飲みに行った。車は妻が乗って帰り私の帰宅はタクシーで。1月に続き2度目の金比羅タクシー。今回は5,240円だった。30km以上あるはずだから本当に安い。

さて飲み会の面子はSのほかは2人。遅れて1人。全員が中学の同級生だが最初の2人は高校も同じ。ただし彼らは入学試験が違う理数科で隣のクラスだったから高校以来会った記憶がない。遅れてきた1人は別の高校だったから会ったのは中学卒業以来。30年ぶりだと思う。

最初の1人は3年前に徳島市大原町で開業したという内科医のM馬。もう1人は今年になって徳島市の総合病院に異動した産婦人科医のI川。2次会から参加したY田は10年前から徳島では珍しい訪問診療医として開業しているそうだ。

Sは歯科医だし他の3人は診療科は異なるが医者ばかり。診療現場や病院経営の実態さらにマスコミ報道の間違いなどディープな医療情報を散々に聞いた。とは言っても話題の中心は中学時代の同級生の消息と思い出話。2次会はロングバーでゲラゲラ笑い転げた飲み会だった。

子供の冒険心 (6月3日・水)


先日末に上勝に来たJ家の双子T君とCちゃんとは一昨年から年に何度も会っている。徳島に引っ越してからは1ヶ月ごとぐらいで会っているので名前もすっかり覚えてくれ仲良くしている。でも性格の違いはますますはっきり分かり特に男の子のT君は悪さ盛りに突入しつつある。

目立った悪さをするわけではないが大人の言うことを聞かなくなっている。例えば日曜に正木ダム上流の勝浦川に行ったとき渇水で水が引いた河原を一人でどんどん駆けていく。呼び止めても聞こうとしない。岩がゴツゴツしたところを走っていて私は気が気でない。

などと思うのは私が十分なオヤジになったからだ。記憶に残る私の小学校の頃は母の言うことなど聞かず河原に行けば駆け回っていた。あるいは川の中の石を伝って向こう岸に渡ろうとしたり大きな岩があれば頂上に登ろうとして母をヒヤヒヤさせていた。

それを思い出してT君は男の子だなと思う。冒険心を持って少々危ないことをやって学習していけばいいのかも知れない。それに比べて40年が経ち河原での冒険を怖がるようになってしまった私。あの頃があったから今があるとは思いつつ何だか少し寂しい気もする。

東京と上勝の間で (6月2日・火)


2週間前の土曜日。お客様のH社長をお迎えに妻と徳島空港に行ったとき見知った人から声を掛けられた。早い時期から事業を興した徳島のプロバイダのT社長である。今は全国を飛び回っているが1996年頃に知り合って以来私が東京にいたときも2年に1度は会っている。

その翌日に東京から来られたH社長を案内して樫原の棚田に行ったとき何とまたT社長と会った。T社長のご家族と私たち以外誰もいない田舎道。さて東京のH社長を案内して町内を回ったが上勝は人口が減って今は使われていない建物がいくつかある。

そんな話をいっきゅう茶屋でしていたときH社長から思わぬ用途のアイデアを聞かされた。なるほど東京のコンテンツ配信会社はそういうことに困っているのか。想像もしなかったが聞いてみればあり得るかも知れない。ただ問題は私自身がその方面に知識がないこと。

ところが2日で偶然2度会ったT社長は詳しいかも知れないと気づいた。分かりやすい示唆が与えられたような気がする。そう言えばB氏の事業にしても私や妻に知識はないが上勝と東京の間を取り持っている。持つべきものは人脈だが間を取り持つことが私の役所かも知れない。

田植えと田んぼ (6月1日・月)


土曜に棚田で田植えをした。苗を左手に持ち数本ずつ右手でちぎって田に挿すわけだがやってみて分かったのは自分の足跡で土が凹み苗が植えられないことがあること。そのときは手で土をならす。でも挿しが甘くて苗が浮いてくるのではないかと少々不安。

日曜に参加した我が仲間は植える本数が多すぎると言われていた。慣れれば手の感覚でできるのだろうが土曜の私の作業もやっぱり不安。一方で田んぼの中で後ろ向きに中腰になる姿勢は意外に苦にならなかった。腰も大丈夫。やる気になればあと5倍ぐらいの作業ができそう。

さて上勝の棚田の中にはイモリがいた。黒くて腹が赤い。これが1枚に何匹も。これは新鮮な驚きだった。私が育った鳴門の実家近くに当時あった田んぼでイモリは見たことがなかった。いたのはカブトエビとオタマジャクシばかり。それに黄色いヒル。

実家の近所では当時既に機械で植えていたと思う。父の実家は農家で米を作っていたときもあったはずだが私が田植えを手伝ったことはなくやっぱり機械だったのだろう。ともかく田植えをこの歳になって初めて体験して日本人としての基本を学んだと言っては大げさだろうか。


<Diary Index Page>
<Top Page>

© 2009 Takashi INAGAKI