2008年1月

1アマ国家試験 (1月31日・木)


高校1年か2年のときアマチュア無線従事者免許第1級の国家試験を受けた。2級でなく1級にしたのはわざわざ大阪まで行くから一気に頂点を目指したといったところか。前夜は河内長野の叔母宅に泊めてもらい多分日曜朝に大阪のオフィス街に行った。季節は初春だったような。

受験勉強はもの凄くやった。自らの興味で受験したので内容は難しかったが学校の勉強よりも熱心に取り組んだ。500ページぐらいある分厚い教科書を使って毎日数時間かけて勉強した。基本的に過去の出題が繰り返されるから過去問題はほぼ全て解ける状態で臨んだ。

無線工学と電波法規の2科目とも100点換算で各60〜70点が合格ラインだったと思うが私は双方90点以上は取ったはず。満点に近かったと思う。そのぐらい完璧な受験だった。でも当時は必須だった和文モールスがどうしてもできずに実技試験を棄権した。

覚えはしたが欧文を優先して練習したから和文50字/分という聞き取り速度に付いていけなかった。欧文モールスも60字/分に付いて行くのがやっと。無理せず2級にしておけば合格したのに。結局ペーパーテストが完璧だったという自己満足で終わったのだった。

従事者免許 (1月30日・水)


アマチュア無線で5年更新の無線局免許状を得るためにはそもそも資格としての従事者免許証が必要である。局免許とは異なり従事者免許は一生有効。私は中学1年のときに得た免許があるが興味が復活し調べてみると従事者免許も制度が変わっていることを知った。

私の資格は4ランクのうち最も低い電話級。現在は第4級と呼ぶ。そして過去の電信級はモールス信号試験の合格が条件だったが第3級と呼ばれる現在モールスは条件でなくなっている。第2級のモールス試験は25字/分と緩和され何と第1級から和文モールスが外されている。

イメージとしては試験の難しさが1級ずつ易しい方にずれたような印象。それなのに第3級は出力50Wまで認められ第2級は200W。もし新しく本格的に運用を再開するとなると第3級ぐらい取っておいていいような気もする。真面目に勉強すれば第2級までなら取得できるかも知れない。

第4級取得者は6時間の講習を受け修了試験に合格すれば第3級資格が得られるらしい。多分合格は簡単なんだろう。国家試験を受ける方法もある。まずは講習を受けて第3級にステップアップして国家試験で第2級に挑戦してみようかな。なんて考え始めている最近。

免許検索 (1月29日・火)


アマチュア無線免許の復活について調べていて総務省の中にある無線局免許情報検索ページを見つけた。ここで電波管区(今は総合通信局と言うらしい)を選び次のページでコールサインを入れると免許状況の閲覧ができる。

もちろん私の免許はないが覚えているコールサインを入力して調べてみた。例えばこの日記を読んでくれている中高時代の親友BPQはやっぱりない。BPNもない。でも中高時代によく話をした人などを手当たり次第調べたら意外に免許を維持している人を見つけた。

例えばGON(って後輩のO氏だよね?)。板野のWZMや阿南のCAPに大御所HTPも見つけた。残念ながら私の中学も高校も大学も免許はもうなかった。そして昨秋亡くなったJA5MAJを検索したら免許は2件。HFは最近1kW免許を取得していたようだ。

1kWとはFM徳島の出力と同じ。FM東京やJ-WAVEが10kW。地域のコミュニティFM局の出力は20Wで私が持つ4級アマチュア無線技師免許の上限出力と同じ。放送局レベルの出力で直接コミュニケーションできるアマチュア無線はもっと利用した方がいいような気がするのである。

被災対策としての無線 (1月28日・月)


私がアマチュア無線を復活させようとしたのは故JA5MAJのこととは別に災害対策から必要だと思い始めたからである。東京での必要性はあまり感じないが仮に神山や鳴門に移住したら災害時には必須だと思ったわけだ。近所に家が少ない環境での情報入手手段として。

想定しているのは徳島が壊滅するような災害が起こったときのこと。電力供給が止まるとテレビは使えない。ワンセグ携帯や乾電池式ラジオがあっても放送局が被災したら情報は来ない。放送はあっても取材地の偏りは免れず状況把握に数日かかるかも知れない。

電話も携帯も通話不能になるのは95年に経験した通り。インターネットも電話局施設が壊れるかルーターの電力が断たれればノートPCでも当然アウト。そういうとき他地域と話ができれば災害規模が分かり復旧日数も予想できる。電池か車載の無線機があれば役立つだろう。

日常生活の中では新聞テレビにインターネットで情報アクセスには慣れている。でも災害時はそれらが使えないことを想定しないと意味がないと思う。一次情報を自分で集め自分で判断する手段を確保しておくべきだと考えたわけだ。とは言っても生きていることが前提なんだけど。

新宿でパーティ (1月27日・日)


土曜夜は新宿のカラオケボックスで騒いでタクシーで朝5:30頃に帰宅した。酔いと眠さで頭が回らず昨日付の日記は事前に書いていたものを意地になってアップした。当然それから寝たわけで13時過ぎまで爆睡して起床したのは15時を回っていた。さすがに今日は二日酔い。

土曜は昨年夏に三宅島に行ったときお世話になったダイビングショップのパーティで18時から飲んでいた。参加者はショップの人を除いて20人ぐらいだろうか。半分以上は初対面の方。テーブルが2つに分かれていたので結局話をしなかった人もいる。

夏に一緒に行ったメンバーのうち1人を除いて6人が揃った。うち2人は毎日のように顔を合わせている同僚だが女性2人は夏以来。ドルフィンスイムで一緒だった母娘さんとも再会。夏のときは沖縄に一人ダイビングに行っていたというご主人は初対面。

ショップのSさんからは三宅島のおみやげをもらった。二次会の居酒屋を出るとき客が少なくなっていたからこのとき終電前ぐらいの時間になっていたのかも知れない。妻はタンバリンを叩きすぎて手と足を赤く腫らせるほどに大騒ぎしていたが私の記憶は飛び気味で。

車とバイクでの無線運用 (1月26日・土)


50MHz帯/SSBでオンエアーしていた中高時代のことは何度か書いた。今日は430MHz帯/FMで出ていたJ社時代を思い出そう。この無線機IC-3iは大学時代に購入したが当時は一緒に買ったVUFと内蔵アンテナでラグチュー(話し)をするだけだった。

J社に入り89年頃会社の近所にあったハムセンター徳島に行き車にアンテナを付けた。後部バンパー下から金具を使って台座を取り付け高さ2.5mになるようなアンテナである。無線機と結ぶ同軸ケーブルを運転席に取り回すわけでこの改造一式をハムトクでやってもらった。

バイクを買ってから仲間と鈴鹿などツーリングに行くときも無線機を使った。そのためバイクの荷台後ろに台座を付け脱着式のアンテナを買った。マイクとスピーカーはヘルメットに付ける。送信スイッチは手で操作する。無線機本体はタンクバックに入れておく。

バイクのバッテリから給電するから無線機には電源ケーブルとアンテナケーブルそれに送信スイッチやマイクスピーカーなどが接続されケーブルだらけ。それでもバイクツーリング中に話ができるのだから重宝した。忘れていたがJ社時代も結構無線を楽しんでいたわけだ。

開局申請 (1月25日・金)


早速アマチュア無線の開局申請書を郵送した。提出書類は「無線局免許申請書」と「無線局事項書及び工事設計書」に旧コールサインを証明するための古い「無線局免許状」のコピー。さらに電波利用料を5年間一括納入するための「前納申出書」。

解説によると1993年4月施行の改正電波法によって年間500円の電波利用料が義務化されたとある。そうだった。当時この支払が面倒だし無線を使わなくなっていたから年間500円が無駄に思えたのだった。それで免許更新をしなかったような気がする。

5年間有効の免許で申請書類一式840円と収入印紙代4300円と前納する電波料2500円さらに返信用切手と簡易書留の郵送代520円で締めて8160円。年額1632円で私のアイデンティティの一部が安泰ならばそれで良しと考えることにする。

申請書で驚いたのが電波形式の表記方法。例えばSSBを表すA3JはJ3EになりFMはF3からF3Eになっていた。一般無線局に合わせ画像伝送技術などを表すため2004年に導入されたそうだ。知らないことばかり。MAJが生きていればじっくり解説してもらうのに。

雪と人身事故 (1月24日・木)


東京は水曜に雪が降ったが交通機関に大きな混乱はなかった。それより東京の交通の乱れの原因はほとんどの場合が「人身事故」だ。10月頃から多いと感じていたが12月は毎日あったような気がする。寒くなり始めると弱気になって死にたくなる気持ちは分からなくはないが。

今日もA社からの帰り。地下鉄から直結している私鉄が止まっていたが運転再開とアナウンスがあったから電車に乗ったら運転間隔調整のためと駅で動かず。別路線に乗り換えターミナルからバスに乗ったらこれがまた大混雑で帰宅まで通常の倍の時間がかかった。

自殺者は電車に飛び込めば確実に死ねると考えているのかホームにいて衝動的に飛び込むのか。他人に迷惑がかかると考えないのか敢えて恨みを募らせ迷惑をかけようとしているのか。A社のボスは1年ほど前か飛び込みを目の前で目撃してからふさぎ込んでしまったと言う。

自殺する人の事情は知らないが何十万人に迷惑をかけるような死に方は本当に止めて欲しい。東京の人は黙って我慢しているように見えるが考えてみると異常なことだ。そう書いたところで死にたい人には通じない。やっぱり諦めて淡々とやり過ごすしかないのか。

アマチュア無線の復活 (1月23日・水)


無線機が見つかったことでアマチュア無線の免許を復活させることにした。JH5ASQというコールサインは中学1年の1月に得て以来30歳過ぎまで使っていた。大学時代のサークル仲間は私のことをコールサインで呼んだし私のアイデンティティの一部だと思うわけなのである。

免許復活の直接の動機は大学時代のサークルJA3YCZのメンバーと再会したからなのだがそれに加え実家の近くに住むJ社の元同僚T氏から復活したと年賀状をいただいたことも影響を受けた。関西出身なのに四国のコールサインを新規に取得し7MHz/CWに出ているとか。

でも免許が切れてから12年。なぜ今年になってその気になったかを考えると昨秋亡くなったJA5MAJのことを思わずにいられない。私の免許が切れた頃それを知った彼から復活方法を教えてもらったことがある。当時は無線に興味をなくしアドバイスを聞かなかったのに。

MAJとはアマチュア無線が縁で知り合ったしそれだけで繋がっていた関係だった。だからお節介な彼が私に再開しろと言っているような気さえする。もし生きていれば私が無線機を買うとき一番に相談しただろう。免許の復活はMAJに導かれているような気がするのである。

IC-3i (1月22日・火)


中学から高校まで使っていた50MHz帯/SSBのハンディ機トリオTR-1300は実家にあるか母に捨てられたかも知れない。でも大学からJ社時代に使っていた430MHz帯/FMハンディ機アイコムIC-3iは車載していたから少なくとも東京には持ってきていた。

車を売ったときに処分したと諦めつつ実は気になり探してみた。そしてテニスボールやダイビング用品を入れていたボックスの奥から見つけた。忘れていたが単3乾電池6本で動くから早速電池を入れてみると受信状態に。ボリュームもVFOもスケルチも働く。PTTも生きている。

今日気づいたが今までこの日記でIC-03Nと表記していたが持っていたのはIC-3iという機種だった。何だか10年以上間違い続けていたような気がする。それはともかく無線機が生きているなら免許申請もできるのではないか。急ぐ用も使う予定もないのだが。

免許申請に必要な技術基準適合証明番号は無線機の背面に明記されていた。過去の製品だが免許は形式審査だと推測。ともかく申請だけはしてみよう。実は今日早速秋葉原に行って開局申請用紙を買ってきた。これで復活すると思うと何だかとてもうれしいのである。

雪の立ち往生 (1月21日・月)


我が響の面々は他団体との合同練習で日曜日何台かの車に分乗して愛媛・松山に行ったらしい。携帯電話からメーリングリストに送られるメッセージを見ていると四国は大雪。高速道路なら2時間で行くところ帰りは大渋滞の一般道で徳島着が朝7時を回った人もいたらしい。

宿泊組も今治を朝6時に出て15時帰還とか。もし神山のような山に住むなら4WD車は必須だと思っていたが街中で雪が降れば他の車が立ち往生するから真価を発揮できない場合もある。そう言えば何年かに一度の大雪で徳島でも車列が動かなくなることは私もかつて経験した。

1990年1月か翌年。当時は鳴門から通っていたが沖浜まで30分の距離を雪のために3時間かかった。川内と北島を結ぶ共栄橋で車が坂を上れなかったと聞いた。私の経験ではないが数年前には友人が阿南から徳島までの帰り道に8時間ぐらいかかったと言っていた。

もし徳島に住むことがあってもリタイア後などであって毎日勤めに行くようなこともないだろうから今から気にすることはない。雪が降れば外に出ない。そういう生活をしているだろう。でもつい我が身に置き換えて考えてしまう雪の立ち往生。

秋葉原と無線機 (1月20日・日)


アマチュア無線の話題を書いているうちに興味を持ってしまい秋葉原のショップに行ってきた。店頭で主に値段をチェックしてカタログをいくつかもらってきただけだが。それでも私がアクティブだった20年前以前と変わっていることがいくつもあった。

前ならHFとVHFは無線機は違っていたが今はHF〜VHF全バンド対応機がある。VHF機でも50MHz/144MHz/430MHz全バンド対応FM機なんてのもある。フロントエンドの操作をPCで行うものもあるようだしデジタル機なんてもののカタログももらってきた。

各地にあるレピータ局を経由して電波の見通し範囲外との通信を実現するシステムもあるらしい。インターネット網を経由してデジタルデータ通信もできるとか。それとVHFの最大出力は20Wになったのだろうか。カタログを見るとハンディ機以外VHFは20Wなんだけど。

価格も安くなった。430MHz/FM/5Wのハンディトランシーバーなら実売2万円以下。HF/50MHz帯でも15万円程度。東京に住んでいる今無線をしたいとは思わないのだが何だか惹かれる。想定している使い方はあって改めて書くがその使い方で必要な機種を探すのも面白い。

アマチュア無線局免許 (1月19日・土)


アマチュア無線局の免許は5年更新である。JH5ASQなど使い慣れたコールサインは更新しなければ失効する。一時ほどユーザーは多くないが日本に割り当てられているコールサインは地域によって残っておらず失効したコールサインを使い回しているのが現実だ。

私のコールサインは免許状を探し出して確認したところ96年に失効している。でも新たに誰かが使っているわけではない。四国はアマチュア無線人口が少なくコールサインは余っているからだ。近畿などでは既に別の誰かに免許が与えられている可能性がある。

先日会った大学時代のサークル仲間は何人かが局免許を維持していた。一度失効した免許を再申請した人もいた。費用は開局手続きになって申請用紙セット800円と印紙代4300円。私も再免許申請しようかなと思って調べてみた。

でも無線機の技術基準適合番号がないと要件を満たさないような。私の無線機は既に手元になく。無線機がないから開局する必要性もないのだが。ただ免許だけは維持しておきたいというだけ。四国は誰かに使われる心配はないから今はこのままで構わないのだけど。

コンテスト 3 (1月18日・金)


アマチュア無線のコンテストは21時に始まり24時間続く。現在のスタイルを調べると21時から翌15時までのものもある。当時がどうだったか詳しくは覚えていない。でもGW初日のAll JAコンテストはボックスで参加し10月の全市全郡コンテストには山に行っていたと思う。

さらに7月の6m&ダウンか8月のフィールドデーのどちらかも移動していたかも知れない。比叡山には毎年行っていたはずだが能勢にも行ったことがある。能勢ではKが買い物のため自分の車で山を下り飲酒検問に遭って執行部が激怒していた。

琵琶湖畔でコンテストに参加したのは83年8月のフィールドデーだと思う。私は仮面浪人の東京生活から京都に戻りYCZに復活したばかりだった。琵琶湖の浜だから平地だが準備は夜になり雨が降った。車のヘッドライトで照らし雨の中テントやアンテナを設営した。

翌朝トイレのため近くのJR駅に行く仲間と砂浜で集まったとき気を失った。気づいたら浜辺に前向きに倒れていて周りに声をかけられていた。みんなには心配されたが気分が悪いわけでもなくトラックの荷台に乗って駅に行った。気を失った経験が強烈な印象でよく覚えている。

コンテスト 2 (1月17日・木)


我がJA3YCZの無線コンテンスト活動をもう少し思い出そう。山に運び込む備品は結構な量になる。数台の無線機とアンテナ。アンテナと言っても組み立てれば5m×5mになるような巨大なアルミパイプもある。さらにアンテナを支えるマストがいる。つまり鉄パイプが数十本。

それにテントの布と骨組みの鉄パイプ。会議用テーブルと椅子数脚。コタツ。こたつ布団や毛布。さらに発発(発動発電機)。もちろん発発で使うガソリンも。意外に重いのが無線機とアンテナを結ぶ同軸ケーブルと電源ケーブル。アンテナを立てるためのステー(ロープ)も。

計測器や工具もいる。これらを毎回ボックス(部室)から運び出しレンタカーの2tトラック(幌付ロング)に載せる。何人かが自家用車を出すから食料や酒はそこにも載せる。現地に着くと下ろして駐車場から頂上まで人海戦術で運び上げる。発発は2人で運ぶが山道にはこれが重い。

荷物を運び上げると次はアンテナ建設。巨大なアンテナを地上で組み立てマストを通しステーを張り役割分担を決め7〜8人がかりで一気に立てる。失敗すると破損させるし怪我もしかねない。コンテスト本番の前後はまるで体育会だ。新人には特に辛い力仕事が続くのである。

『珍妃の井戸』 (1月16日・水)


浅田次郎『珍妃の井戸』(講談社文庫)を読み終えた。妻が何度も読み直している『蒼穹の昴』の続編という触れ込みだ。さらに続編と言われる『中原の虹』が出て改めて三部作として注目されている。そんなわけで妻が買ってきていた文庫を読んでみた次第。

舞台は清朝末期。列強が蹂躙する北京で改革を急ぎすぎた光緒帝が幽閉された。皇帝の寵愛を一身に受けた側室の一人である珍妃も監禁されていたが西安に逃げる混乱の中で殺された。私は初めて知ったのだがここまでは史実らしい。

定説によると犯人は最高権力者の西太后。この小説は定説を疑い生きたままの珍妃を誰が井戸に落として殺害したのかを調べるミステリー仕立てになっている。調べるのは英国海軍提督とドイツ帝国大佐とロシア公爵で露清銀行総裁さらに東京帝国大学教授の松平子爵の4人。

『蒼穹の昴』主人公の宦官・春児も登場する。当時の世界情勢や英独露日の特徴それに清の政治文化が盛り込まれた込み入ったストーリーで難しい漢字名なのに一気に読ませる。分かりやすい工夫が随所にある。テーマは夫婦愛だろうか。小説を読んだという満足感がある良書。

新型インフルエンザ (1月15日・火)


yabushoさんがブログで書かれていたので私も。先週土曜から2夜連続のNHKスペシャルのこと。土曜のドラマは物語としても面白かった。断片情報ではなく総合的な予測ドラマで見て私は初めて状況が理解できた。新型インフルエンザの恐怖についてである。

ウィルスは変異し凄まじい速さで進化する。毎年のように発生する鳥インフルエンザは既に人に感染する進化を遂げた。人に感染したインフルエンザが人から人に感染する進化をすると感染爆発が起こる。強調されていたのは起こるか起こらないかではなくいつ起こるかという点だ。

NHKスペシャルのWebページによると新型インフルエンザによる死者は日本で64万人と厚生労働省が試算しているらしい。ドラマによると新型ウィルスに適合したワクチンを作るには半年かかると。タミフルは効くだろうと推測はあるが耐性ウィルスに進化すれば効果はない。

感染から発病まで数日以上かかるから東京の1人が新型インフルエンザと診断される頃には電車に乗れば確実に感染するほど蔓延していることだろう。病院は野戦病院化するかも知れない。感染はまず免れないだろうから死なないだけの体力作りが今できる対策だろうか。

コンテスト (1月14日・月)


大学のサークルでコンパは年2〜3回だったがコンテストのたびに飲んでいた。コンテストとはアマチュア無線で一定時間内に何局と交信できるかを競うイベントである。連盟主催で年に数回あった。制限時間は一般的に24時間。当然泊まりがけで交替しながら無線機に向かう。

コンテストはたいてい21時に始まるから無線機に向かっていない交代要員の空き時間に当然飲む。サークルのボックス棟に泊まり込むこともあるがだいたい山に行く。山に登れば電波がより遠くまで届き有利になるのだ。でも春や秋の山は寒い。勢い酒で暖まることになる。

春か秋のどちらかは比叡山に行った。駐車場から少し上がった頂上に運動会で使うような大きなテントを張る。ここにテーブルと数人分の椅子を置いたと思う。無線機や電灯には発発から電力を供給。こうした備品を運び設営し撤収するのだから体育会的な重労働活動である。

無線機は周波数帯によって最大4〜5台あって常にそれだけの人数が必要だった。でも夜中は相手もいなくなる。結局テントに置いたコタツで暖まりながら酒を飲む。暖まるのが目的だから重いだけのビールはなく日本酒かウィスキーばかり飲んでいたような気がする。

コンパ (1月13日・日)


大学時代のサークル仲間と酒を飲むのは当時年に2〜3回のコンパだけだったと思う。新歓コンパと追い出しコンパ。忘年会をしていたかも知れないが覚えていない。部員は30人近くいたから祇園などの座敷で2次会はたいてい三条木屋町下ルのグラスホッパーというパブだった。

大学の帰りに居酒屋に行くようなことはなかった。授業が終わるとサークルのボックスに行き先輩や仲間らと雑談をする。19時頃になるとみんな帰り始め私も一人で帰っていたと思う。連れだって行くとしたら近くにあったラーメンの天下一品がせいぜいだった。

当時はお金がなかった。大学の近くに飲める店も多くなかった。少し大きめの中華料理店と焼鳥屋のような小さな店がいくつかあっただけだと思う。結局30人のコンパとなると街に行くしかなかった。郊外にも居酒屋はあったが2次会の場所が確保できなかったはずだ。

1次会は英語の歌詞のカレッジソングと応援歌を歌って締める。アマチュア無線というマニアックなサークルに関わらず各学年女性が1〜3人ほどいたしオタク度は意外に低かったと思う。コンパを欠席する部員も皆無だった。書いていて今とは時代が違うと改めて思う。

YCZ (1月12日・土)


昨日会った学生時代の仲間は個性豊かで本当に面白かった。幹事のQKLは大学対抗ソフトボール大会を立命館のグランドでやっていたとき別れたばかりの立命の元彼女からグランド中に響く声で罵声を浴びせられたことがある。次の彼女は社会人だったか。とにかく彼はもてた。

EIKは大学3回頃から下宿を始めたが食費は週200円だと言っていた。話はいつも大げさだ。辛うじて推薦で日産に決まったが留年。ところが日産はそのまま入社を認め販売研修は京都。そこから大学にも顔を出し翌年やっと卒業した。日産が太っ腹なのか実は彼が優秀だったのか。

VUFは和歌山の実家に帰り父上から1万円をもらい「リンゴでも買え」と言われたからと1万円に達するまで毎日リンゴを買い続けた。我々はこれを「リンゴ事件」と呼ぶ。エンジンや車の機構のことばかり話していたメカマニア。IC-03Nは彼と一緒に買いに行ったのだった。

AZHはいつも適当。主体的には何もしない。高校時代の金持ちの友人の話でいつも笑わされた。例えば5,000ccのアメ車を親に買ってもらった友人は燃費2km/lだから外出はタクシーを使うといった類の。何度も同じ話で笑えた。何かを共有していた仲間たちなのである。

JA3YCZ同窓会 (1月11日・金)


大学時代に同じサークルだった友人と会ってきた。私を含め1982年と1983年入学の5人で新宿。幹事は1983年入学で機械工学科卒オムロンに勤めるQKL。学生時代から日産レパードに乗っていた京都のイケメン。前に会ったのは15年ぐらい前のモーターショウだったか。

私と同じ電子工学科卒のEIKは私の2度の結婚式に来てもらったし2年前にも会った。日産GT-R開発チームの一員。最後に年収を暴露し合ったが今は最も高給取り。一方の私は10年前をピークに下がる一方。面積は同じだろうと言われたがもうすっかり抜かていると思う。

皆見た目は変わらないのだが和歌山出身で機械工学科卒PanasonicのVUFは21年ぶりだが何と精悍になっていた。松下中央合唱団で10年近く歌っていたらしい。中学受験の子供を東大に入学させると言っている。話を聞くと子供がお父さんそっくりで何だか笑ってしまった。

私の1コ後輩1コ年上のAZHとも21年ぶり。電気工学科から北海道大院に行き今はNTTの研究所。最も研究職に縁遠いはずの彼の現在に大いに驚く。でも行動パターンは当時のまま。人は変わらない。見た目も話しぶりも何もかも21〜25年前と何も変わらないのに驚くばかり。

神山町 (1月10日・木)


神山町のテレビとネット事情を調べてみた。NTTやテレビトクシマのサービス地域かどうか役場の電話番号や郵便番号を元に検索。何とADSLも光もCATVもサービス地域外で愕然。でも調べるうちに別の方法があるのを見つけた。

要は都市部との通信格差解消を目的に総務省が推進する補助事業を神山町と佐那河内村が共同で事業化していたのである。公共施設を光ファイバーで結びさらに地域内の電柱まで光ファイバー網を敷設するというものだ。国のe-Japan戦略の具体例がここにあった。素晴らしい。

電柱から家に光ファイバーを引き込むのは都市部と同じ。CATVとインターネット接続はテレビトクシマと契約すればいいようだ。今住んでいるマンションの光回線は16MbpsのUSENしかなく私は実速度数MbpsのADSLを利用しているから神山の方がよほど進んでいることになる。

それにしても神山町のWebページは情報が少ない。人口7,000人で2,600世帯だから仕方ないのか。ちなみに今住んでいる町の4丁目と5丁目だけの方が人口は多い。人口密度を比べてみると神山町は我が町5丁目の1/450だった。こうやって比較すると面白い。

パトカーと中古住宅 (1月9日・水)


我が家の前の通りは大通りではないが車が通る。特に救急車とパトカーは頻繁だ。通り過ぎれば気にはしないが近所で止まったら何だろうと思う。日曜日のお昼頃。パトカーが近づきサイレンの音が消える。窓からのぞくとすぐ目の前の通りに何台もパトカーが集結している。

お昼時だったので食事をして近所の神社に行こうと思い家を出たついでにパトカー集結の場を見てみた。もうパトカーはいない。でも人がいたので前まで行ったら中古住宅の売り出しをしていた。その不動産業者さんにパトカーの件を尋ねてみた。

そこは築2年で海外転勤になった人が売り出した中古住宅。パトカーはこの家にやってきたのだと言う。見学に来た人の子供が興味本位でボタンを押したらセコムの通報システムだったらしい。それでセコムとパトカーが集結したのだとか。

ついでに私たちも見学した。半地下に軽なら4台は入る駐車場。1Fテラスは6畳ほどあり通りの面には目隠し。リビング25畳に続の和室を含めれば30畳。ダイニングテーブルは70万円だと言っていた。もちろん私たちは冷やかしである。1億6,000万円は100年かかっても払えない。

地球環境と死 (1月8日・火)


温暖化など地球環境が変化すると個体としての私は困る。最高気温が35度の日が何日も続くのは嫌だし大雪で身動きが取れない日が訪れるのも辛い。だから環境変化が緩やかで温暖化や海水面の上昇の影響がないところに住みたいと思う。

と同時にこれほどの環境変化を見てみたいという興味もある。そういう時代に生まれたことを喜ぶべきかも知れない。ゆるやかな変化だろうが世界中で大騒ぎする様を野次馬として。私が生きているかも知れない最大50年が安泰であれば私はそれで構わないわけで。

でも老後の不安を考えないわけでもなく。そうすると20年後ぐらいに天変地異で死ねればベストだとも思う。いや。5年後の2012年12月だと尚いいかも知れない。環境の激変を当事者として体験するかそれで死ぬか。どちらでもいいというのが今の気持ち。

これは私に子供がいないから思うことかも知れない。私の場合は妻と一緒であればそれが明日でも構わない。できれば死後の面倒をかけたくないので天変地異でその他大勢として死にたいだけ。そんなこんなで地球環境を結構身近な死の問題として捉え始めている私。

仕事始め (1月7日・月)


今年の正月休みはどの会社も長かったと見える。仕事始めで我がレンタルサーバー業者のメールサーバーにはアクセスが集中したようでメール受信が不安定になった。Webページで確認すると午後には回復したとある。迷惑メールを含め受信件数が厖大だったのも原因だろう。

A社に行くと今度はWindowsXPのログインパスワードが受け付けられない。長い休みで忘れてしまった。思い当たる組み合わせで何度も入力してみたが重複を含め40個ぐらい試して諦めた。仕方がないのでシステム管理者に新しいパスワードを設定してもらった。

しかもA社ではエアコンが故障していて修理は明日以降になるらしい。さすがに外から入るとPCの放熱などで多少温かい。でも暖房がないのでPCに向かって座っていると寒くなる。これまた仕方なく皆コートを着たまま仕事をしていた。

気にはなりつつ今年の手帳をまだ買っていない。スケジュールはOutlookとPDAで管理しているがちょっとしたメモを取るのに手帳はあった方が便利。それで書店に寄ったのだが私が毎年使っている手帳はなかった。帰宅して調べたら廃版らしい。新しいのを探さないと。

地球環境 2 (1月6日・日)


地球環境重視の時代である。温暖化によって世界には住む家をなくす人が出始めている。日本でも今までの農業漁業が成り立たなくなる例がある。昨日も書いたが数十年も経てば東京でも徳島でも海抜0メートル以下の地域ができるだろう。それ自体は確かに悲しいことである。

でも温暖化対策を地球環境のためと言ってしまうことには違和感がある。温暖化して生態系が変わっても生物の種は住む場所を変えて生き延びるものがある。環境が変わると人間を含め個体は困る。だが人類を含め種は生き延びる。それでいいではないかと私は思う。

地球環境のためというのは今ある人間社会のためでしかないのではないか。本当の地球のためには環境がこのまま激変して世界人口が1/10になり文明が後退した方がいいと思う。人間社会が弥生時代のような原始生活に戻ることが本当の地球環境のためだと思うのだが。

人為的な今の温暖化を是正する努力はするべきだと思う。でもその努力を地球環境のためというのは違うと思う。現代社会の枠組みを維持するためと言えばいい。地球のためと言うならむしろ人類が現代文明を失う方が正しいように思う。

地球環境 (1月5日・土)


帰京してからハードディスクレコーダーに撮りためた年末年始のテレビ番組を見ている。1.3倍モードで飛ばし見ているのだが面白いものもあった。テレビに言われるまでもないのだが時代の価値観は地球環境である。その観点の番組が特に目に付いた。

金曜夜にやっていた番組では海面上昇などの状況がよく分かった。今世紀末には東京東部の河川沿いは堤防が決壊すれば浸水域だそうだし同じようになれば徳島市の沿岸部も沈むだろう。温暖化で亜熱帯生物が浸食しているというがこれは今に始まったことではない。

先日見た番組によるとマヤ文明のカレンダーでは5000年強の周期で世界は滅んでいて次は5年後の2012年12月21日に滅亡するそうだ。前回は洪水で次回は地震が原因だとか。地震であれば津波も起こって結局のところ東京も徳島も被害を受ける可能性はある。

海水上昇による浸水も津波の心配もなく外来の害虫被害がないのは今の日本では山しかないかも知れない。私が消費する食品のフードマイレージを考えると東京は最悪だ。そんなわけで神山は寒いと書いたがあれこれと理由をつけては移住について考えてしまう最近。

神山と鳴門 (1月4日・金)


妻は昨年霊能者さんから「将来は林の中で大きな柱がある家に住む」と言われそのことを意識している。それは徳島だと私は言われた。そんなわけで住むならどこだろうという視点で今回の帰省では時間があると徳島の道路地図ばかり見ていた。

昨年夏に訪れた12番札所・焼山寺を妻は気に入り神山がいいと言っている。邪馬台国阿波説は知らないが何といっても神の山だ。天王神社や神領という地名もある。なかなか神秘的ではないか。でも寒そう。奥まで行くと冬は道が閉鎖されるときもある。

大晦日に行ったT氏邸でも話をしたが考えてみると鳴門はとてもいい街だ。我が実家からは空港へも神戸・大阪行き高速バス乗り場へも10分弱。つまり東京駅にも大阪駅にも2時間少しで行くことができる。巨大なショッピングセンターへ5分。それでいて海山川に車で10分。

何といっても友人がいる。妻はそれが一番だと言っている。でも神山に住んだとしても鳴門からは車で1時間程度だから気にすることはないかも知れない。帰京して妻とはそんな話をしているところ。これは新春の夢ということで。

川の街 (1月3日・木)


私の実家住所は東発と呼ばれる。「ひがしばり」と読む。西発もあるし斎田発もある。それを見て妻が「船で出発する港があったのね」と言う。そういう見方を私はしたことがなかった。改めて地図を見ると川というか水路が縦横に走っていて船の発着場だったと想像はできる。

確かに徳島の平野部は川と水路ばかり。ベネチアではないが徳島は何十何百の小さな島を橋で結んでいるだけ。車がない時代は橋を作るより人も物も移動には船を使っていたはず。だから徳島は明治まで全国10番目ぐらいに大きな都市であり得たのだろうと納得する。

そういう目で地図を見ると沖浜山城新浜沖洲川内である。「沖の浜」に「新しい浜」だったり「沖の洲」や「川の内」。どこも元は浜辺や文字通りの島であったり湿地だったのだろう。一方の旧市街や古い街道それにJR沿線は山の麓などで明らかに土地が違う。

毎年秋に氾濫して川の流れを変えてきた吉野川の流れを今は固定化している。でも自然相手にそんなことが何百年も通じるのだろうか。我が実家付近を含め戦後開発された住宅地はいつか浸水することがあるだろう。地図を見ていると今の市街が砂上の楼閣のようにも見えてくる。

友人知人 (1月2日・水)


徳島では何人かの友人と会ったが見かけただけの知人もいた。例えば12月27日に歩き遍路を終え徳島駅から乗ったバスに公園前から乗り込んだのは高校のクラスメートT川ではなかったか。メガネをかけた横顔が似ていた。彼の実家近くの停留所で降りるまで声をかけなかったが。

30日に妻と母と一緒に「ごまや」に行ったとき隣に座ったのはJ社に私がいた頃はサポートセンターにいた人だったような気がする。お店の人が会話の中で彼女の名前を言って気がつき横顔を見てそんな気がした。そうだとしても8年ぶり。今ひとつ自信はない。

そう言えば東京でのことだが昨年12月21日(金)14時頃にA社近くの銀行ATMに行こうとしていて追いかけてきた男に顔をのぞかれた。知り合いだと分かり目礼しつつ相手を思い出すのに0コンマ数秒かかった。何のことはない。目の前の出版社に勤めている我が弟だった。

弟も同じATMに用があったようで並んで機械を操作しながら話しただけ。彼は終わったらさっさと出て行った。彼が私に気づいたとき私は携帯電話を見ていて弟がそこにいることが分からなかった。そうやって徳島でも気づかずにすれ違った知人は多いかも知れないと思う次第で。

帰京と新年 (1月1日・火)


今日も遅い起床。仏壇を拝みおとそをいただき母が作った雑煮とお節。新年の始まりは静かに。今日帰京するのだが飛行機は15時発なので時間があり妻と2人で父の墓参り。続いて近所の神社。2002年に父と一緒に来て以来。父の名前も確認する。

徳島新聞にゆっくり目を通し早めの荷物整理。14時過ぎに出て空港に向かった。飛行は順調だったが東京の一部だけ黒い雲があり白い霧も見える。そこだけ雨が降っているのだろう。周りは青空で雲の下も日が当たっていたりする。30日に徳島市西部で見たような変な天気。

飛行機は羽田空港着陸まで高度数十メートルになって急上昇。風向きが変わっていて上空で待機するのだとか。でも燃料がなくなったとかで成田に着陸。座席で待つこと1時間以上。結局は燃料を補充して再び羽田に向かい飛行機を降りたのは19時前。3時間弱の遅れだった。

東京都心の車の流れは順調だがガラガラというわけではない。それでもリムジンバスで25分。そこからタクシーで10分。20時過ぎに自宅に戻った。ここからは平常生活に戻り新しい年の始まり。ともかく今年もよろしくお願いします。
<Diary Index Page>
<Top Page>

© 2008 Takashi INAGAKI