2016年6月

企業保険とソフトボール (6月29日・水)


言うこととを聞かずに電話を寄越した住友生命保険の担当に「私が言ったことを信用しろ」とメールしたのが5月17日。そのまま縁を切っても良かったがそれも大人げないし妻の出張が落ち着き余裕もできたのでメールしたのが先週水曜。金曜に妻がアポを受けてやってきたのが今週月曜。

いつもの営業男性と一緒に来たのは実家近所の女性ではなく別の人。彼女は6月で辞めるらしい。私が怒ったのが原因かと少し申し訳ない気分になりつつ気を取り直して話をしてあっさり契約した。企業保険の一種である。それで今日は代表である妻の健康診断に行って来た。

大雨の中を出てニトリでベッドフレームの注文をして指定された病院には14分も早く着いたが駐車場がいっぱいだったので妻だけ降ろして私は銀行経由でS歯科。雨はほとんど上がって帰りにアレックススポーツで靴を買った。ウォーキング用だがソフトボールで使おうと思って。

昨年の町内ソフトボール大会では古い運動靴の底のゴムが試合中に剥がれるという失態。キャッチャーをやっているとき変だなと思ったら底のゴムがめくれていたのだ。試合用スパイクを履くほどでもなく普段の靴だと底がツルツルだから滑りそうで。妻が練習用のボールも買った。

やまびこミュージックフェスティバル (6月28日・火)


古民家を改修してカフェやバーに使っているスペースでのライブ「やまびこミュージックフェスティバル」に日曜夕方初めて行ってきた。今年1Q委員長を引き受けた出張がちの妻が徳島にいる間は地域のイベントに顔を出しておきたいと言うのである。山奥の細い道。何とか縦列駐車して。

1人1,000円で1ドリンク付。早速ビール。J社に私と入れ替わりで入ったF君のステージに間に合った。出演者も客も見知った人は1/3ほどか。知り合いを見つけてはライブそっちのけで立ち話。町外から来た人は歌もギターも皆とても上手い。中にはどうしようもなくヘタな人もいるがそれも一興。

驚いたのは音楽専攻でフリーデザイナーのS君がCちゃんと結婚したのは知っていたが2人で上勝に移住していたこと。さらに役場のY氏とテニスのYさんが夫婦だと知ったこと。Y氏は定年退職したと言う。さらにO君に教えられて話をしに行ってみるとY氏家族は全員スバリストでそんな話も。

私はビールを5杯か6杯飲んだと思う。食事はA君が焼くたこ焼きと神山から来た人が調理していたらしいハンバーガー。山奥まで行くのが面倒でつい家に籠もりがちだが行ってみると飲んで人と話して楽しいのである。ビールを飲まなかった妻の運転で20時頃に帰って来たような。

合唱祭で復活した市高合唱部 (6月27日・月)


私が35年前に所属していた徳島市立高校合唱部は昨年部員が1人になっていると聞いていた。毎年3月末に開催されているオーケストラ部と合同の定期演奏会では中には50歳を超えたOBやOGたちが出演するから何とか演奏はできていたようだが廃部目前の状況にあった。

そこに音楽教師として赴任したのが「響」でピアノ伴奏をしてもらったこともある梅本先生だということは前に書いた。昨日あった徳島県合唱祭では市高が女声7名で演奏するとプログラムにあったので午後まで居残って客席で聴いた。驚いたことに右端は男子。アルトパートを歌ったのだろう。

もっと驚いたのは顧問で指揮をした梅本先生が2曲目に最初を振っただけで楽譜を持って壇上に上がったこと。右端まで行ってこちらを向いて一緒に歌い出した。6人の1年生部員と昨年1人で踏ん張った生徒に「合唱って楽しいよね」とメッセージを発しているように感じた。

そう思ったら泣けてきた。市高の演奏が終わってW氏を残し外に出たら先生と生徒が記念写真を撮ろうとしていた。合唱部復活おめでとうと先生が言っている。ソプラノの左から2番目にいた子が唯一の先輩なのかも知れない。それを見てまた感動。いい先生に恵まれたと改めて思うのである。

徳島県合唱祭 (6月26日・日)


昨夜は1Qの会議の流れでN氏S氏が来て24:45まで飲んでいたか。今日は7時半には起きて郷土文化会館。徳島県合唱祭なのだ。男性更衣室にあてがわれた広い和室で小さな声で何度か歌ってみて指揮者が来てから公式練習室でやると指揮者の怒声が飛ぶ最悪な気分の本番前。

朝は声の出が悪いのだ。今年のコンクール課題曲のうち2曲を無難に演奏し終えて3人で切符のもぎり担当15分。そこから高校合唱部の1つ後輩で医師のW氏と新町の橋本で蕎麦。前に来たときは老夫婦の寂れた店だったのに我が指揮者Sの高校の同級生が継いだそうで大繁盛の趣き。

今日は月に1度のとくしまマルシェなのでW氏と一緒に見て回り。慶應ワグネル出身で「響」の元トップテナーM氏やJ社のプログラマー教育担当にして今や野菜ソムリエK氏にUターンでいちご農家を継いだN嬢に「響」元バリトンM氏さらに上勝にいる洋菓子店PのKさんらと会って立ち話。

会場に戻ってW氏と客席で5団体だけ聴いた。先日すれ違った松山のM氏がいるオニオンズの演奏は面白かった。そして目当ての我が母校である徳島市立高校合唱部の演奏には涙が出た。ここで私は会場を出て買い物をしながら帰宅。夜は山の中のライブへ。詳しくは明日以降に。

サンシェードとUSB卓上扇風機 (6月23日・木)


先日フィット用のサンシェードを買った。車内への日差しを避けるためフロントガラスの内側を覆う銀色のあれである。通販なので送料で2倍になったがコーナンで578円。律儀に毎回使っていたのに雨続きだから昨日セッティングしなかったら今日は晴れ。マーフィの法則ここに。

ディスプレイの上に先日買った台を取り付けカレンダーを置いているが妻も欲しいと言い出して2個目を購入した。同時に卓上扇風機も。サンワサプライ製。PCとUSBケーブルで接続して電源供給を受ける小型の扇風機だ。ヨドバシで1,330円。首振り機能はないが仰角方向に360度動かせる。

電源スイッチもあり風量は2段階。弱で十分。デスク下から当てようかと思ったが今はディスプレイの上の台に置いてる。USBから給電されるのでPCの電源が切れれば止まるがPCの前から離れても電源をいちいちオフにしなければ扇風機は回りっぱなしだ。

でも2台あるディスプレイのうちナナオはセンサー付で私が動かなければ3分で電源がオフになる。それで思い立ってMacBook Pro用HDDのUSBケーブルを流用してディスプレイのUSB端子と扇風機を繋げた。でもPCの前から離れても扇風機はオフにならない。うーむ。切れるのは画面だけか。

ベッドのマットレス購入とホームセンター (6月22日・水)


梅雨に入り室温は25度ぐらいだが部屋では今日から短パンにした。エアコンをドライ運転にして湿度は50%台にしている。今日も雨だが先週11日間の出張から帰った妻は多少仕事に余裕が出たようで今のうちにとベッドを注文するため徳島市に行って来た。

城南高校脇のF商事。前回行ったのは連休前だと思ってたら何と3月だった。今日が営業日であることを電話で確認してから行って「響」の元メンバーである社長の説明を受けて結局妻が買ったのはダブルサイズのマットレス。定価の2/3にしてくれた。ニトリのフレームと組み合わせるのだとか。

ところがベッドの脚はニトリのものでも高さ11cm。ルンバがギリギリ入らない。そこでゴム板などで脚を上げてやればいいのだとばかり小松島のコーナンへ行ったものの脚の形が分からないのでベッドが届いてから考えることにした。でもホームセンターにいると欲しいものが次々現れる。

妻は掃除道具などを買っていたようだが私は書類を入れるファイルと大型のブックエンド。それに車のウィンドウウォッシャー液。本棚の転倒防止金具も買いたかったが形状が分からず次回に持ち越し。ヨドバシカメラもそうだが巨大なホームセンターも男の子にとってのワンダーランドだ。

「新選組!」 (6月21日・火)


今年のNHK大河ドラマは三谷幸喜が脚本を書いた真田幸村が主人公の「真田丸」。三谷幸喜の大河ドラマと言えば12年前の「新選組!」。「そのとき歴史が動いた」で新選組が扱われていて過去の番組も深夜のBSで一気に再放送されていてつい見てしまったこともあって思い出してしまった。

それで「新選組!」DVDを見始めている。妻は10回近く見ていて私も3回か4回見ているはずだがおそらく8年ぶりぐらいだと思う。第6回までで試衛館道場の近藤勇と沖田総司と源さんに加え土方歳三と永倉新八に斉藤一と原田左之助が登場したところ。坂本龍馬も桂小五郎も出てきている。

私が一番好きなシーンは道場主襲名の紅白戦の後に盗賊だった原田左之助が仲間に加わるところ。試衛館の客人になると勝手に宣言する佐之助が「私のことを知らないでしょう」と勇に詰問されて「あんたのことは知らないが皆を見れば分かる。皆があんたに惚れてる」と言うシーン。

「新選組!」の前半は若者の青春物語である。農民から養子に入って武士となった近藤勇が悩みながら嘲笑されながらも武士よりも武士らしく生きると理念を強く押し通しそこに共鳴した若者が集まってくる。エネルギーの持って行き場が分からず右往左往する若者たちの話として見ている。

『日本の村・海をひらいた人々』 (6月20日・月)


『山に生きる人びと』に続いて前に買っておいた宮本常一『日本の村・海をひらいた人々 』(ちくま文庫)を読んでいる。イラスト付きの分かりやすい文章でどんどん頭に入ってくるが最初の章で目を見開かされた。日本の家はもともと左右に並んだ2つの建物で一戸を構成したと言うのである。

左に大きな主家。右が小さなカマヤ。カマヤにはカマドがあり火を使い日常生活を行う。左の主家には座敷がある。やがて家が2つに分かれていては不便だからか屋根がくっつきさらに屋根も一体化する。入口は左が玄関で右が勝手口だが屋根が一つになると勝手口だけになったりする。

間取りも決まっていた。勝手口を入ると正面に奥まで土間が続き左手前にオモテ。その左に座敷。土間の奥左側に台所。その左が部屋。オモテは上がり口とも言う。座敷には神棚がある。台所は一段低く古くは囲炉裏がありここで食事をした。一番左奥の部屋が寝室だ。

玄関がなくなっても神主や僧侶や嫁入りのときは主家のオモテから入るらしい。つまり主家は神様のための家だったと著者は推測する。部屋数の多い屋敷があっても多くがこの拡張形なんだとか。確かに鳴門にある父の実家も昔の間取りはこの通りだった。続きを読むのが楽しみな本だ。

『山に生きる人びと』 2 (6月19日・日)


宮本常一『山に生きる人びと 』を読み終えた。附録とする章に全体のまとめと推理が書かれている。曰く山岳民と平地の民は別の歴史を持つのではないかと。根拠は水田のあるなしだ。稲作文化以降に誕生した武士が逃げた山には田があるが畑や焼き畑だけで生活してきた地区もあると。

高知や徳島の祖谷地方のフィールドワークから著者が導くのは山の畑作民は里から川を遡って定住したのではなく以前から狩猟民として山に住み続けむしろ川に沿って下りて来たとする。逆に言えば古くから棚田があった地域の人は川を遡って山に住み始めたという推論が成り立つ。

稲作は定住で行われるから平和的な社会を築いたが元は狩猟民である山の民は武力に訴える場合が多かったとも書く。稲作地域でも落人の村は後にも政治に関わりを持ちその結果か祖谷は蜂須賀の世になって2度にわたり討伐を受け36あった名の主は6にまで減ったらしい。

なるほど水田を持たなかった山の民は元来は猟で生きていたのに獣の数が減ったから農耕をせざるを得なくなり定住したのかも知れない。畑作や焼き畑が縄文文化だとすれば弥生人は水田とともに平野にいて縄文人は狩猟と畑作で山に住んだという説は成り立つわけだ。面白い。

カッタイ道とサンカ (6月18日・土)


宮本常一『山に生きる人びと 』の第2章に四国の道の話が出てくる。レプラ(ハンセン病)患者が町で人と会わないように歩いたカッタイ道という山道があったらしい。著者は愛媛の西条の山中で阿波から来たと言う老婆と会ったと記述がある。お遍路も町を通らず全て山道だけで回れたそうだ。

徳島の祖谷で聞いた話として四国の他の地ではさほど気にしなかったのに土佐の殿様が病気を嫌ったためカッタイ道を通ったのだと。これに限らず秋田の猟師が町を経ず山道だけで奈良まで行けたとか昔は里と隔絶された山岳民が各地に5〜6戸単位で住んでい<たという話も興味深い。

サンカという言葉を私はこの本で初めて知った。山家や山窩と書く。大阪市の天王寺駅西や淀川などの河原に大規模なテント集落があり犯罪率の高さで有名だったそうだ。昭和に入り大阪のサンカ部落は警察により解散させられるが四国山脈や吉野川流域にも住んでいたという。

サンカは山中を移動していた狩猟民から川魚を捕る人たちが分離して竹の加工品などで生計を立てるようになったと著者は推測している。出自は猟師だから農耕技術を持たず定住もせず里の農民らとは明確な区別がされたいたと。Wikipediaによると諸説あるらしいが知らないことばかりだ。

『山に生きる人びと』 (6月17日・金)


私が住んでいる上勝にも田や畑はあるが山の斜面のため狭く収量が少ない。里とは全く違う。特に昔は生活そのものが違っていただろう。そんな上勝のような不便と思われる山にそもそも昔の人はなぜ住み着いたのか。その疑問に答えてくれそうな本を読んでいる。

宮本常一『山に生きる人びと 』(河出文庫)。古事記の舞台は阿波だったという説を信じるなら弥生人たちが過去に洪水で文明が滅亡した記憶から海を恐れて最初は山に住んだという仮説はあり得る。粗暴なスサソオに海を任せアマテラスは山に住み後に葦原の中つ国に進出していくわけだ。

この本にはそんな仮説は出てこない。民俗学の観点から調べた1000年以内ぐらいの記録とそれを元にした推論があるだけだ。それは神話の時代のものとは違う山に人が住むに至った理由や歴史。具体的な地域の細かな地名と人物の系譜も書かれていて分かりにくい点もあるが総じて面白い。

例えば近江から美濃あたりの山は木地屋の支配だったらしい。木で茶碗などを作る職能集団である。木を伐り尽くすと別の山に移動していたらしい。あるいは猟師。あるいは野生動物から加工品を作るサンカ。杣人。鉄山師。炭焼き。山伏。多くは定住しなかったというのが面白い。

ウィルスメールとカスペルスキーの設定 (6月16日・木)


JTBのPCがウィルスに感染して何千という顧客情報が漏洩したらしい。実在の企業名とありふれた姓のメールアドレスから実際に業務で使う文面のメールと添付ファイルが送られてきて添付のPDFを開いたら実行ファイルだったという経緯らしい。こんなメールを受け取ったら防ぎようがない。

exeファイルを受信したときなどに警告が出たりするものだろうかと私が使っているウィルス対策ソフト「カスペルスキー」の設定を見てみたのが昨日。そんな機能は見つからずよく分からないままあちこち変更したら一部のサイトが表示されなくなってしまった。

そこから設定を元に戻そうとするのだがどこをどういじったか分からない。設定を変えても反映に時間が掛かるのか仕方がないからPCを再起動して確認したり。今日の夜になってようやく一昨日までの使い勝手に戻ってきた。以前のウィルスバスターも同じだが設定項目と結果が分かりにくい。

今日は11日ぶりに出張から戻ってくる妻を迎えに徳島空港に行ったが昨日そう言えば妻のPCもカスペルスキーの設定を一度変えたのだった。同じような不具合が出るかも知れない。いずれにしても設定は元に戻したわけでメールの添付ファイルには極力気を付けておくしかなさそうな。

IT業界のいい加減さ (6月15日・水)


IT業界のいい加減さと言えば昔こんなことがあった。パソコンソフト業界の売上が毎年数十%の率で伸びていた1990年頃。社長たちが集まり業界の利益のために各社の拠出金について話し合った。急成長中とは言え経営基盤は脆弱で100万円単位の拠出にはまだ勇気が必要だった。

その話し合いはJ社東京オフィスから歩いて3分ほどの某社で行われた。ビジネスソフトの主だったメーカーとゲームソフトメーカーの社長も何人かいたと思う。業界団体の事務局長や顧問弁護士を含め10人強がいたはずだ。私は社長と一緒にオフィスを出て会場の某社ビルに歩いて行った。

会場となった某社の担当者は熱心な方だったと思うが社長との意思疎通が十分だったかは分からない。でも事務方の説明を聞いてその会社の当時の社長は「今年度のマーケティング予算が余っているから2,000万円出しますよ」と言ったのである。100万単位の話をしていたのに大金である。

参加者は皆が驚いたが同時に安堵感が広がったと思う。私は東京オフィスに戻る途中歩きながらJ社社長に「あれは本当ですかねぇ」と言ったら社長は「皆の前で言ったんだから出すだろう」と答えた。でも年度末になって彼の会社は一銭も出さなかった。以来あの社長のことは信用していない。

※古い記録から、この会合が1992年3月3日15:15〜17:50と判明。しかも2,000万ではなく5,000万円〜1億円と言っていた(2021年2月26日追記)。

言動一致 (6月14日・火)


Windowsが勝手に10にアップグレードされる「事件」が相次いでいる。7月29日まで無償でできるためマイクロソフトが急がせているのかも知れないが問答無用で10になり動かないソフトが出るなど困惑と不満が高まっている。そう言えばマイクロソフトは昔から勝手な判断をする企業だった。

2009年5月14日付で書いたものの公開していなかった日記があった。上勝町とマイクロソフトは提携関係にあったがその前日だったか当時の樋口社長も来て提携関係の終了を前にした交流会が開かれていたのだった。マイクロソフトの体質を言い表していると思うので一部を以下公開する。

交流会でマイクロソフト日本法人の官僚出身の常務は上勝との提携終了の理由に公平性を挙げた。一つの町とだけでは公平ではないのだと。では県との提携が佐賀・高知・鳥取・徳島の4県だけである理由を訊きたい。私企業が公平性を口にする不自然さ。

パソコンソフト業界あるいはIT業界にはその場だけの発言が多すぎるのではないか。その場は納得しても後の行動を見れば信用をなくすことが多いように思う。言ったが勝ち。あるいは言い放し。言動一致かどうかは個人においても企業においても信用される基本だと思うのだが。

食中毒か (6月13日・月)


いつもは18時からの「響」の練習が昨日日曜は17時から。今週金曜予定の練習が中止になった代わりで21時までの4時間。私のパートが歌わないときは筋トレよろしく片足立ちしたりつま先立ちを繰り返したりスクワットしたり。それもあって20時を回ると疲れてしまった。終わったのは20:50。

いつものように大阪王将に行き駐車場から雨の中を走り席に着いたが冷房が効きすぎて寒い。酢豚を食べたが途中から体調に違和感。強めの雨の中を帰宅したが具合が悪い。お誘いいただいていたS氏宅にビールを持って行ったものの寒気もするので30分ほどいて帰って来た。

少しうたた寝して白湯を何杯か飲んで寝ようとしたが下痢なのである。何度もトイレに行って水便ばかり。4時半頃に寝入ったとは思うが7時過ぎにまたトイレ。そこで少し楽になった気がしたが寝不足のため何度も目覚めながら13時まで寝ていた。

具合は今ひとつながら何か食べようといっきゅう茶屋でうどん。飲み過ぎだろうと言われたから事情を話したところ梅エキスも食べさせてもらった。下痢も治まり午後はコーヒーも飲んでほぼ復調。軽い食中毒だったと思う。あの大阪王将の酢豚が原因だと疑っている。

新潟で鑑定 (6月12日・日)


マイクロソフトと言えば面白い経験をしたことがある。時はJ社に入って2年目になったばかりの1989年4月27日。場所は新潟のN警察署。著作権侵害の事件が彼の地であり私は著作権者の社員として鑑定に出向いたのだ。押収した証拠品がJ社の製品をコピーしたものか判断する仕事だった。

その仕事自体は極めて簡単だ。用意されたパソコンNEC PC-9801VMだかVXに押収品のフロッピーディスク(FD)を入れて起動するだけ。FDのラベルは手書きの自家製だから一太郎Ver.3が起動すればコピー品だと分かる。正式な鑑定は後日行うが現場ではそれだけの作業だった。

ただ当時パソコンの知識を持った刑事さんは皆無。刑事さんが指揮官に「これも証拠品ですか?」と3.5"FDを手に訊くと指揮官は5"FDを手に「これが違法コピーだ」と言い切るので私が横から「大きさが違うだけで同じコピー品です」と言ったら以後私ばかりが訊かれるようになってしまい。

事件翌日は地元新聞が大きく取り上げていて鑑定のため正規品のマイクロソフト製品を借りようと刑事さんが地元の電器店に電話したら店主に「それはやったらダメです」と拒否されて捜査本部にいたマイクロソフト重田社長室長が「著作権者です」と電話で説得したり。ドタバタが思い出深い。

ディスプレイの上の台と排水管の臭い (6月11日・土)


J社の後輩でソフトバンク・コマースで働いているK氏が日経トレンディの記事をツイートしていて興味を持ち即アマゾンで注文した商品が届いた。ディスプレイの上に設置する小さな台。上部に引っかけて後部を斜めに支えるだけの単純な構造ながらこれは便利。早速カレンダーを載せた。

今週は卓球をした水曜に飲んだだけで月火木と禁酒。金曜は週末だからとビールを飲み始めたところT氏からお誘い。S氏宅に行って3人であれやこれや。近所のH氏にお願いしていたのだが名会に出ていた2人によると私の集落再生員という役は免ぜられた様子。正式には知らされていないが。

さて1年ほど前からだったか自宅の玄関から1mほどの廊下が臭いときがある。靴箱が臭うのかとか考えたが風呂またはシャワーを使った後に臭うことに数ヶ月前に気づいた。シャワーの1時間後ぐらいから6時間ほど臭う。シャワーのとき水量を極端に減らしてみたら臭わない。

昨夜そんな話をしたら排水管のS字部分が詰まっている可能性があると言う。そこで今日夕食ついでにコメリで薬剤を買ってきた。19時半投入で20:20に水を流しそのままシャワー。そこから3〜5時間経ったが臭いはない。効果はあった様子。何でも相談してみるものだな。T氏S氏ありがとう。

MSKK古川社長 (6月10日・金)


マイクロソフト日本法人の初代社長だった古川享さんに初めて会ったときのことは今もよく覚えている。それは私がJ社に入社した1988年の夏。業界団体「パソ協」の会議にJ社の浮川社長に同行したときだ。会議後2人の社長は平河町の麹町会館1Fの喫茶店に行き私も同席した。

J社の浮川社長はタバコが大嫌いで彼の前で社員が吸うことはまずなかったが当時の私はYシャツの胸ポケットにセブンスターとライターを入れていた。そんな社長と私の前で古川社長がタバコを取り出し指に挟み持った。ところが火を付けない。機関銃のごとく話し続けるばかりなのである。

新入社員の私は話の内容そっちのけで考えた。古川社長のタバコに火を付けるのは私の役目ではないのかと。古川社長が話に夢中で火を付けようとしないのは私に暗に求めているのではないのかと。それでライターに火を付け古川社長に差し出した。そしたら2人に叱られた叱られた。

「そんなことをやる古い体質の業界にしたくないのだ」と。上司に怒られるならまだしも業界のヒーローだった古川社長にも叱られて恐縮した。でも当時の社長たちは新しい時代を作ろうと燃えていたのだ。その思いに私は少なからず影響を受けた。いい時代だったと今しみじみ思うのである。

卓球とT-UP (6月9日・木)


近くにいる中学の同級生F氏から卓球のお誘いがあったのは火曜だったか。同じ歳で城南出身のS氏は昨日が休みというので急きょ3人で隣の体育館に19時集合。私が前に卓球をしたのは昨年8月。そのときはネットがなかったがF氏が買って来ていた。

何十個というボールもF氏が持って来ていてラケットもF氏のものを借りた。最初は組み合わせを替えながら2対1でやっていてF氏が一旦外に行ってからは1対1。前回は目が追いつかなかったが今回は何とかゲームになる。後半は結構ボールを返せた。人生で一番うまくできた感じ。

終えて事務所でビール。話は車のこと。F氏の義理の父上が前に乗っていて今はS氏が使っているスバルの軽バンで生産終了になったサンバーの話やらアルトワークスの話など。そんな中でトヨタ系の中古車販売店T-UPの買い取り額が高いとF氏が教えてくれた。

それで今日早速「響」の練習に行く前に寄ってきた。昭和町8丁目の旧55号沿い。事務所にはおじさんが一人だけ。感じの良い対応で30分待って結果が出た。待っている間に書いたアンケートも見ずに伝えられた金額はガリバーのものと同じ。少し期待していたのでがっかり。

小島文隆さん 2 (6月8日・水)


アスキーは何度か大きな分裂を起こしている。マイクロソフト日本法人設立のため古川さんや2代目社長になる成毛さんらがアスキーを離れた5年後の1991年に創業者の郡司明郎さん塚本慶一郎さんが辞め塚本さんはニュースサイト「ウォッチ」や「できる」シリーズで有名なインプレスを設立。

そして次の大分裂でアスキーの取締役だった小島文隆さんは辞めてアクセラを設立する。塚本さんのときも小島さんの独立も西さんの経営に対する反発があったと思う。多角化というよりもジェット機を買ったとか当時のアスキーには放漫経営のイメージがあり正常化を図ろうとしたのだと思う。

Wikipediaによると小島さん退任は1996年5月29日とある。私がオラクルのネットワークコンピュータの発表会第1回JavaOne出展のため2週間シリコンバレーにいたときだ。ちなみに過去の名刺で確認すると青山で酔った小島さんに絡まれたのは1993年11月24日らしい。

1996年のJavaOneのときサンフランシスコで週刊アスキー福岡編集チョと会ったのだと思う。日本からの情報として小島さん退任を教えてくれた。福岡編集チョにすればアスキー入社以来の上司だったはずで慕っていたのだと思う。興奮して語っていたことで事の大きさを感じたことを思い出す。

『僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史』 (6月7日・火)


古川享『僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史 』(インプレス)を読み終えた。副題に「Episode 1 アスキー時代」とあるように古川さんがアスキーの社員としてパソコンオタクだった頃から米国マイクロソフトの代理店アスキーマイクロソフト時代の話が中心だ。

J社との出会いも書かれている。J社が開発していた酪農システムに添付するランタイムルーチンのライセンスに関する問い合わせ電話を偶然古川さんが受け「いつか一緒に仕事をしましょう」と言ったら翌週本当に会いに来たという内容だ。J社の浮川元社長から聞いていた話と概ね合致する。

NEC内部の部門対立で潰されたPC-100に搭載されたJS-WORDの話も出てくる。でも1970年代から1980年代の話なので私がリアルに仕事をしていたより前の時代のことばかり。それでもアスキーではマンションの風呂場やベランダで原稿を書いたといった時代の空気は何となく分かる。

古いことを思い出しながら書いたのだろう。事実関係は調べ直したようだしエピソードは面白いが内容はどれも浅い。巻末に用語と人物解説があるが本文中は専門用語ばかりと言ってよくパソコン業界以外の人には分かりにくいかも知れない。懐かしい名前が頻出するから業界人にはお奨め。

禁酒と腕立て伏せとホホバオイル (6月6日・月)


4月に書いた休肝日は週に何度かのペースで続いている。島根に行ったときやGWは毎日飲んだし先週から1週間続けて飲んだと思うが平均すれば週に2回か3回だと思う。乾癬は指は治ってきている感じ。右くるぶしはまだまだ。妻が東京出張に行ったから今日からまた禁酒しようと思っている。

腕立て伏せは3月に腰を悪くして休んでいたが5月25日から2ヶ月ぶりに再開。以前やっていた頃より1回の回数が2/3に減った。今のところは中2日。さてそれより最近夜中に脚が痒くて寝られない。多分5月下旬からだと思う。4時から5時頃に目覚め1時間から1.5時間ほど寝られない。

昨夜もそうだった。たいてい太ももだけど日によってふくらはぎあたりのこともある。そのうち腹や尻に及ぶこともある。1時間身体を掻くと落ち着いて寝てしまうから朝になると忘れていたが何度も続くので調べてみた。どうも皮脂欠乏が原因らしい。要は歳を取って皮膚の油が減ったというのだ。

風呂上がりにオイルを塗ればいいという。まず手元にあったニベアを塗ったら2晩は痒くなかった。ただし随分飲んだから目が覚めなかっただけかも知れない。人の皮脂に似ているというホホバオイルなるものがいいというので買って届いたのが今日。早速塗ってみたのだがどうなることか。

日経K氏と柚で飲み会 (6月5日・日)


土曜は日本経済新聞で20年前に元徳島支局長だったK氏が徳島に来たのでお誘いいただき妻と2人で会ってきた。当時のアシスタントT嬢とS嬢も一緒。歯医者に行くので近くの「柚」を私が予約。筆耕の認定証を17時に受け取り歯医者は17:45に終わり時間があったのでそごうをブラブラして18時半。

昨年10月にも会ったから8ヶ月ぶり。阿波おどりの体験記事の取材らしいが旅費が出ず自腹とか。K氏の前1993年から2年間支局長だった小塩恭市さんが1月に57歳で亡くなったと教えられる。アシスタントの2人は帰り東新町を歩いて紺屋町へ。ここでテレビのK氏が合流してBAR UEDA。

ここでテレビK氏から私も昨年行ったスナックのママさんとの驚愕のやり取りを聞く。それはK氏の一種のスキルだと皆で言ったが実際はどうなんだろう。日経K氏は宿泊のホテルが12時門限とのことで23:50頃解散。タクシーに乗るK氏らと秋田町の角で別れ私たちは車を置いたS歯科へ。

両国橋で愛媛から毎週徳島に来て合唱指揮をしているM君とすれ違い挨拶。さて鳴門の代行さんに電話するも電源が切られていて小松島の代行は25分後と言ったのに来たのは40分後。話をすれば運ちゃんは5年前に離婚した奥さんの実家が上勝の傍示とか。いろいろ驚いた飲み会だった。

鰻の山口屋とホタル (6月3日・金)


昨日木曜は日中ルンバの働く様子を観察した後夕方から妻と外出。まずはこはくの天使でコーヒー豆を買い事故の後日談を聞く。代車がデミオのディーゼルでパドルシフトに感動したといった雑談。そこから駅前まで行き銀行で記帳してから鰻を食べに行こうと二軒屋の山口屋に行った。

以前書いたが山口屋の跡取りと徳島バス自動車学校で一緒だった。鳴門球場のプロ野球オープン戦で弁当を売りに来ていた彼と再会したとき「鰻の山口屋って知らんで?徳島では有名なんやけどなぁ」と言っていた。高校を卒業して2年経ったばかりの当時の私は山口屋を知らなかった。

それ以来気になっていたのだ。帰り際にお店の人に聞いてみた。お兄さんに当たるそうだが今年51歳と。つまり高校3年の夏休みに免許を取った様子。本人を呼んできてくれて私の記憶を説明したが私のことは覚えていないらしい。私も今の彼を見ても当時の姿を思い出せない。

帰りは勝浦でホタル。県道沿いに駐車して川を見たが3〜4匹だけ。上勝の福川にも行ってみたが10匹程度。ここ数日が涼しく乾燥していたからか今までのホタル見物の中で最もいなかった日となった。今日は名と1Qの会議後の宴会に呼ばれ2次会は事務所で24:50まで。飲んだ飲んだ。

ルンバ (6月2日・木)


妻がルンバを買った。iRobotの自走式掃除機だ。基本機能だけの下位モデルである600シリーズ。ヨドバシでは既に販売終了の型落ち品ルンバ620という機種である。36,500円。今朝届いて午後に動かしてみた。操作は簡単。音はうるさいが一般的な掃除機ほどではない。

自走式だから放っておけば部屋の中を自分で動きながらゴミを吸い取る。見ていると電源コードやLANケーブルなどは平気で乗り越える。壁や物にぶつかると方向を変え150度ぐらい斜めに動き出す。あるいは回転しながら一旦離れ20cm横の再トライを繰り返す。

初めて見たので1時間近くルンバの動きに付き合った。狭い場所にはなかなか入っていかないから足でブロックしながら強制してみたり。絨毯や玄関マットは乗り越えるしソファの下は潜り込める。でもオーディオラックやベッドの下は高さ1cmの差で入っていけない。惜しい。

センサーで認識しているらしく壁にぶつかる前にスピードを落とすなどよくできている。玄関の土間に落ちることなく方向転換をしたがサッシの溝で動けなくなる点だけ注意。最後は自分で充電ドックに戻るのも良い。文句を言ったり褒めてみたりさっそく擬人化してしまうロボットなのである。

小島文隆さん (6月1日・水)


古川享『僕が伝えたかったこと、古川享のパソコン秘史 』(インプレス)を読んでいる。古川さんと言えば今は慶應大学大学院教授だがマイクロソフト日本法人の初代社長だ。長く日本法人の会長にして米国マイクロソフト本社の副社長でもあった。 私は何度か話をしたこともある。

この本については改めて書くがアスキーで「ログイン」の編集長から「週刊アスキー」の前身「アイコン」を創刊した小島文隆さんについて「2015年に他界」と書いてある。驚いた。「広告主のメーカーの人と飲みに行き、酔うと決まって相手を罵倒し始める人だった」とあるがその通りだった。

1993年頃にJ社は月刊アスキーへの広告を止めたことがある。社長さえ戸惑ったその提案は私の一つ後輩で販売推進部にいたN君の発案だったはずだが何故か広報担当の私が小島さんから飲みに誘われた。「アイコン」編集部に行ったとき私が来たことが小島さんの耳に入ったのだろう。

まだアスキーが青山にあった頃だ。部下だったN嬢とアイコンの福岡編集チョと4人で行ったのは近くの確かロシア料理店。ウォッカだか強い酒を飲んで最初に酔った小島さんから「一太郎の広告なんぞ欲しくはないぞ」と何度も言われた。絡まれたと言っていい。そうか小島さんはもういないのか。


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© 2016 Takashi INAGAKI