2015年5月
中学の合唱部とバスケットボール部で2つ後輩だったR嬢が高校2年の次女と遊びに来た。次女の写真はFacebookで見ているので知っていたが中学時代のR嬢によく似ている。それを言うと本人は嫌がるらしいが街で会って本人には気づかなくても次女には気づくと思ったものだ。
R嬢はFM放送局に勤めていて昨年7月に妻が番組に出演したときに会って以来。今日は会社の仲間と上勝でバーベキューをしていたのだとか。昨日だったかメッセージを寄越して妻から漫画を借りたいと言うのだが彼女は出張中で単に寄っただけになった。
話題は次女が小中とやっていた合唱部のことや上勝のことや諸々。30分ほどで帰って行った。その後「響」の練習に出かける前にコーヒー関係の機材の片付け。コーヒー豆のカスが生ゴミ用の小さなバケツの8分ほども溜まっていてこれをコンポストに捨てに行き。
さて「こはくの天使」で買ってきた豆は最初に挽いてもらったコロンビア300g。次に挽いてもらったガテマラ250g。さらに豆のままでのガテマラ200g。昨日は「こはくブレンド」を300g買ってきた。秘密のはずのブレンド比率を昨日知ってしまったので味わいも楽しみだったりする。
J社時代の同僚M嬢が馬頭琴のコンサートを行うので行ってきた。馬頭琴というのはモンゴルの民族楽器で弦が2本だけの弦楽器だ。大きさはビオラを二回り大きくしたようでコントラバスのように縦にして弾く。前にM嬢が小さなミニライブをやったときに聴いたことがある。
今回はM嬢が8年前から習っているというモンゴル人の師匠のコンサートだ。M嬢もアンコールを含めて11曲中1曲をソロで弾き3曲ぐらいを師匠と2人で演奏していた。場所は北島創世ホール。昨年二日酔いの中「響」で演奏した。小規模で一人一人の顔が見える。
13時過ぎに出て時間がないのでコンビニで買ったサンドイッチを食べながら末広経由。北島の交差点は混むから広島ランプまで行って旧道を戻った。近くの学校の運動会に来た車で満車だったが空きが出てきてすんなり駐めた。J社の懐かしい元同僚たち10人以上と会っただろうか。
演奏会は良かった。これほど音が響く楽器とは知らなかった。師匠は演奏のテクニックも素晴らしいし楽曲自体にモンゴルの自然が折り込まれていて面白い。17時に終わり上勝の地ビール飲み会はなくなり「こはくの天使」でマスターの悩みを聞き帰宅してS氏宅で今日も野仕舞いの酔っ払い。
コーヒーの淹れ方を試行錯誤している。レギュラーコーヒーを淹れるのであればコーヒーメーカーに2人分30g弱の豆を挽いてやればいいので難しくはない。と言いつつペーパーフィルターを使わず金属フィルターで試しているところだし湯の抽出口を1人分に合わせ1口に変えてみたりしている。
レギュラーコーヒーであれば直前に豆を挽く効果の前では他のパラメーターは大きな違いはないと思う。一方で直火式エスプレッソメーカーは濃さを決める豆の量と水の量と挽き方さらにミルクとの比率がパラメーターになるので一層難しいように思う。
とりあえずレギュラーコーヒーと同様30gの豆で300mLを抽出して半分をマグカップに注ぎミルクを同量加えてカフェラテ風にしてみたが濃すぎる。ミルクは容器に入れてシェイクして泡立ててから温めてみたり。豆を15gと半分にして2人分にちょうどいいかも。
おそらく豆を15gで水を200mLにしてミルク200mLをシェイクして加えれば2人分にちょうどいいカフェラテになりそうな気はする。それなら私が買った6カップ用(300mL)ではなく4カップ(200mL)で十分だったような気もするがキャンプに行って皆で飲むときのためと考えることにする。
コーヒーメーカーでマグカップ2杯分のコーヒーを抽出するのに豆は計量カップで3杯半から4杯使っているのだが何グラムに相当するのか量ってみた。結果は1杯7.5g程度。つまり25gから30gを使っている。この情報も参考にミルを選んでアマゾンで注文したのが昨日。そしたら今朝もう届いた。
ミルは学生時代にも持っていた。でも使わなくなった。「こはくの天使」で豆を買ったときマスターにも言われたのだが面倒なのだ。しかも木製だと静電気で粉がくっつくし使わないと埃を被ってしまいますます敬遠することになった。卒業して間もなく捨てたのだと思う。
その反省をもとにして買ったのはポーレックス製。30gまで挽けるスタンダード版の方。キャンプには5年も行っていないけど屋外で豆を挽くには役立ちそうだし送料込み3,660円なら悪くないと考えた。水洗いができる点も気に入ったところ。面倒になったら電動ミルを買うと割り切っている。
早速一度分解して水洗いをした上で乾かし豆を挽いてみた。やっぱり疲れる。でも挽きたての香りが素晴らしい。コーヒーメーカーで淹れてみたら今までとの違いがはっきり分かる。続いてBIALETTI。ミルクと1対1にしてみた。美味しい。豆の挽き方とミルクの分量を工夫したら面白そうだ。
私は日中ほぼ毎日コーヒーを飲む。2005年12月に買ったものを壊してしまい2007年11月に買い直したコーヒーメーカーを使っている。豆は既に挽かれたものでスーパーで買ってきたもの。ペーパーフィルターをセットして粉の豆を乗せ水を注いでスイッチを入れれば5分ぐらいで出来上がる。
これはこれで楽なのだが先日N氏宅で泊まったときS氏らとコーヒー談義になって少し興味が湧いた。だからと言ってペーパーフィルターにハンドドリップするのは面倒だ。いろいろ調べているとマキネッタというタイプのものがあるらしい。N氏に聞くと近所のO氏が持っているそうだ。
日曜に産直で偶然O氏に会ったので訊くとここで働くNちゃんも持っているらしい。2人から教えてもらいBIALETTI Moka Expressの6カップ用を月曜に注文。エスプレッソ用なので1カップというのは50mLしかない。6カップ用で300mL。これを2人で分けてミルクを入れればちょうどいいと考えた。
ただし事務所はオール電化でコンロがない。そこでキャンプ用の燃料とバーナーを持ち出した。キャンプに長く行っておらず燃料を消費したいと考えたのも理由の一つ。それが今日届いた。実は思い切ってミルも注文したところ。「こはくの天使」で挽いてない豆も買ってきてしまった今日。
実家の南隣の木造アパート3棟が撤去され更地になったことは既に書いた。ここに家が建つ可能性はゼロではないが車の進入路が狭くて軽自動車かコンパクトカーでないと大変だと思う。だから売れないと踏んでいるが買うとすればいくらぐらいするのか調べてみようと思い立った。
まずは土地の面積だ。ネットで検索すると地図上のマウスクリックだけで面積を計算してくれるサイトがいくつかあった。地図上にある建物の形は実物に近いから通路の幅などの分も含めてマウスクリックで四角形を作ってみるとアパートの跡地は約300m2と出た。
感覚的に15m×20mと推測していた通りだった。ちなみに実家の敷地面積は家屋の周囲にどれだけのマージンを取るかで微妙に異なるが160m2〜180m2。一方で周辺の取引実績を調べると坪単価12.5万円から20万円程度。車でのアクセスの悪さから坪10万円から高くて15万円と予想した。
ということは300/3.3×10=900万円から1,300万円。実家の土地代は同じ計算方法で500万円から700万円といったところか。私なら100万円でも買わないが。アパートの跡地も1,000万円となると私は買わない。100万円でもやっぱり買わない。そのまま空き地であり続けてくれればいい。
金曜にメンバー4人で行った上勝ゆかりの店ツアーでは上勝とは無関係の店にも行った。そのうちの一つがピノキオ。某TV支局長K氏に連れられて初めて行ったのが20年ほど前。以来K氏や日経の元支局長K氏が来たときに行っていた。そしたら地元のN氏もよく通っていた店だと言う。
そこで今回N氏が行きたいというので4人で。行ってみたらカウンター奥に先客が1人。阿波銀行の監査部にいると言う。やたら阿波銀行を強調するから話に乗って「父も阿波銀行だったんですよ」と言ったら彼が指さしながら私の名前を呼んだ。私はまだ名乗っていないのに。
何と彼は中学バスケット部で1つ上だったS濱氏だ。当時は痩せていたのにデブだから分からなかった。彼は最初から私に気づいていたらしい。父が阿波銀行にいたことも知っていて私がそう言ったことから確信したのだと。聞けば彼の父上も阿波銀行OBで亡父と同じ生まれ年。知らなかった。
大学時代に京都川端通の小料理屋でやった県人会で会っているから31年ぶり。そのとき合唱部の2つ後輩M嬢を連れ出し口説いていたことを指摘したら彼は全く覚えていないと。よくしゃべる彼と大騒ぎ。大学県人会の役員もやっているそうで出席するよう言われた。これも縁だ。よしとしよう。
金曜はS氏と午後草刈り2時間やってから17時にS氏の車で徳島へ。地元の4人で上勝ゆかりの店巡りをしようというのだ。確か明日でGWが終わるという日にS氏宅で飲んでいるとき誰かが言い出し先週N氏宅で飲んだときに日を決めた。S氏とN氏の休みの都合がいいというわけで昨日。
S氏に両国橋南で降ろしてもらいビジネスホテル笹田にチェックイン。S氏だけ東大工町に泊まり3人はここ。水曜に3人分を電話で予約しておいた。既に部屋でシャワーを浴びていたN氏と一緒に大道へ。N氏と2人で飲み始めS氏が18時半。T氏が19時前に来て始まり。
一軒目は「繁すし」。大将はT氏の隣の家の人らしい。2軒目は上勝の30歳N嬢が3月3日に始めたというバー「グラスホッパー」。20年前にバーUEDAがあったところだ。3軒目は両親が上勝出身だという女性のバー「さくら」。4軒目に上勝とは関係なく1年ぶりに行ったスナック「ピノキオ」。
5軒目に上勝出身Uママの「ワールドボーイ」。ほぼ満席でテーブル席のうち2人は上勝の方。6軒目に「アクセス」。最後に「JIRO'SギターBAR」。店を出て神山のB君と立ち話。ホテルに帰ったのが3時過ぎ。一晩に7軒は人生初だ。今日は住吉4丁目でコーヒーを飲みN氏の車で11時半頃帰宅。
日曜は定期演奏会が終わって2週間ぶりの「響」の練習があった。10人ぐらいいただろうか。次の演奏は例年であれば徳島県合唱祭だが指揮者が本業の用があるため欠場するらしい。ということで次は夏のコンクール徳島県大会。早速今年の課題曲の練習が始まった。
課題曲は用意された4曲の中から1曲を選ぶが練習しているのは2曲。うち指揮者が本命だと考えている曲とこれと組み合わせる自由曲は4年前に定演で演奏している。と言っても楽譜を見ても全く思い出さない。音取りを始めてもほとんど思い出せない。
でも過去に歌った曲なら当時の練習をICレコーダーに録音したデータがあるはずでそれを聞き込めば音取りは楽勝だろうと考えていた。そして日曜に帰宅してからPCに保存してあるはずの当時の練習データをICレコーダーに再コピーしようとフォルダを開けてみたのだが。
ないのである。当時の練習データが。この組曲が丸々ない。組曲を演奏したので再びこの曲を演奏することはないと当時の私は考えてPCに保存することなくICレコーダーから消去したと想像するしかない。4年前の大失敗だ。楽譜を見ながら思い出すことに期待するしかない。
NIFTY-Serveからの売上とシスオペ報酬 (5月20日・水)
NIFTY-Serveなどパソコン通信はインターネットと異なり閉鎖的なシステムだった。つまりNIFTY-Serveが用意した電話番号にパソコン内蔵のモデムから電話を架けてコンテンツを利用する。PC VANなど別のパソコン通信サービスを利用したければ別途契約しなければならない。
いずれにしてもNIFTYのアクセスポイントに電話をするから電話代がかかる。NIFTYのサービス料も時間に比例する従量制だ。だから少しでも早く電話を切るため専用ソフトを使って一気にデータをダウンロードして後から読んで返信を書いて再び接続するといったことを繰り返していた。
それでもユーザー数が多ければNIFTYは儲かる。そしてフォーラム運営者にはアクセス量に応じて報酬が支払われた。J社が運営したFJUST / SJUSTはアクセス量が多かったので月に数十万円から100万円前後あったように思う。私はそれを4人のシスオペに分配した。
シスオペのがんばりでアクセス数が増えるので売上は全て4人に分けた。シスオペ個々の発言数を合計して技術系会議室の比率を重くするなど計算式を作り毎月計算した。神田さんにはピーク時には月40万円ぐらい払っていたのではないか。皆が協力してお金も回るいい時代だった。
NIFTY-ServeのFJUSTとSJUST (5月19日・火)
神田弁護士の件で思い出したのでNIFTY-Serveのことを書いておこう。元はライターのS氏からNIFTYでフォーラムを運営しないかと提案を受けていたことに始まる。フォーラムとはネット上の掲示板機能だ。同期の親友Kに相談して2人で大田区大森にあったニフティ社に行ったことを覚えている。
ニフティ社の担当はノリのいい人で「こんな美味しい話があっていいのか」と言っていた。当時ソフト業界最大手だったJ社から言ってきたことがよほどうれしかったのだろう。検索すると2009年のmixiの書き込みに開設から15年という記述を見つけた。あれは1994年のことだと思われる。
会社の承認を得て私とKが担当することになったが日中も夜中も休日まで掲示板のチェックはできない。そこで日々の運営を任せるシスオペを3人にお願いした。フォーラム開設を提案してくれたライターのS氏を代表に銀行員だったS氏と既にライターとして活動していたK嬢だ。
そこにユーザーとして卓越した知識を持った神田氏を誰かが推薦してシスオペグループに加わってもらった。企業が運営するフォーラムは後にステーションと呼ばれるようになりFJUSTだったりSJUSTという略称でNIFTYでは認知され多くのユーザーを抱えるようになった。(続く)
A社のボスと原稿について電話で打ち合わせているとき彼の名前が出た。ネット上で名誉毀損されたページが検索できないようGoogleに求め訴訟を起こし初めて勝訴した弁護士だと言う。神田知宏さん。いや私は彼のことをよく知っている。彼との関係を一通りボスに話した。
インターネットが一般に使われるようになるまでネットを使うということはパソコン通信を利用することを意味していた。このうちNIFTY-Serve上でJ社は掲示板機能を持つフォーラムを運用していて私が担当していた。ここで日々の運営を行うシスオペ が4人いたが神田氏はその一人だったのだ。
彼はJ社が発行するユーザー情報誌「月刊JUST MOAI」で連載を持つようにもなったから私はネット上でも頻繁に会話をしていたし実際に何度も会っていた。インプレス社が出版して超ベストセラーとなった「できる一太郎」の著者でもあった。印税は1億円を超えたはずだと私は見ている。
私と知り合った頃はファミレスのすかいらーくでアルバイトをしながら司法試験を目指していた。ITライターとして大成功したにも関わらず志を失わず弁護士になったことを10年以上前に聞いて感心していたが今はネット上の人格権訴訟の第一人者となっていたのだ。早速彼の本 を注文した。
土曜は山の上の方にある友人宅に飲みに行って来た。夕食のあと電話をもらい20時過ぎに出たと思う。何度か行ったことはあったが夜は初めて。一旦行き過ぎて車をUターンさせ頭から家の前に進入して。そのN氏宅ではT氏が既にいて奥様Tちゃんが料理を作ってくれていた。
持参した500mL発泡酒から始まりその後は自宅と同様にN氏宅の焼酎をいただいて氷を入れてソーダ割。勤務先からS氏が来たのが22時半頃だったか。話題はあちこちに飛んだがコーヒーの入れ方や豆の種類に喫茶店ごとの違いなどの。いやそれは朝の話だったか。
2時半頃に散会したが真っ暗な狭い道を飲酒運転して帰るのも不安。結局N氏の奨めに従って寝させてもらうことにした。S氏と布団を並べて着替えも持っていないのでジーンズのまま寝させてもらった。時計の音はしたが寝てしまえば気にもならず。
朝6時にN氏の携帯電話のアラームが鳴ったので止めたところ次は6時半にもなってS氏が止めて起き出した。Tちゃんが作ってくれた朝ご飯をいただいた。味噌汁が胃に浸みる。Tちゃん出勤で車を出した8時過ぎに辞去。家に帰って昼まで二度寝。ご馳走になりました。楽しかった。
T氏にツイッターで教えられてもっと驚いたこと。リンク先には実名が載っているのでそのまま書くが元同僚だった生駒さんが旺文社の代表取締役社長になっていたことだ。旺文社と言えば教育系出版社の老舗であり私も中学高校時代は何冊も参考書を持っていたと思う。
生駒さんはT氏と同じ時期に入社したような気がする。本人のFacebookによると1996年から1999年にJ社でいたらしい。徳島本社にいたこともあったと思うが主に東京支社にいた。私が辞めた後に旺文社に転職していたから何となく教育事業に携わっていたような気がするが記憶が薄い。
私がA社の仕事を始めてから会員になるよう勧誘のためA社で教育関係の業務をやっていたM氏と一緒に旺文社に生駒さんを訪ねたことがある。あれは出版部出身のHさんを訪ねたら生駒さんもいて驚いたのだったか。2004年頃だ。その後はFacebookでも繋がり近況は理解していた。
和歌山新宮市の出身だから私が那智勝浦に行ったときはメッセージをもらったりもしたがFacebookでは趣味の自転車のことばかりだから全く知らなかった。Facebookに書いたところ就任は2011年12月とか。それにしても旺文社である。そこいらのIT屋とは訳が違う。凄いことだと思う。
J社で広報責任者だった私が1998年に辞めて後任に就いたのがT氏である。その後IT業界で何度か転職している。ちなみに奥様は当時の部下だったK嬢。彼女はJ社を辞めてユニクロの広報を経て今は新日鐵住金で働いている。これらは余談。そのT氏のツイッター情報で驚いたのだ。
それは「ビリギャル」の編集者が工藤さんだと気づいたと書いていたことだ。「ビリギャル」とは正式な書名を『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』という。「あまちゃん」でブレイクした有村架純主演の映画にもなったベストセラー本だ。
映画のプロモーションもあってか有村架純やビリギャル本人をテレビでよく見る。それで多少の興味は持っていたがT氏が書いた工藤さんというのは私が現役時代J社時代に頻繁にやり取りをしていた月刊アスキーの編集者なのだ。アスキーは角川に買収され当時の知人の多くは辞めている。
工藤さんは私がJ社を辞めた前後に一度アスキーを退職している。小説家になると言っていたが辞めたはずのアスキーでアルバイトをしていた。それが角川に買収されて単行本の編集者になっていたのだ。大いに驚いた。でも実はT氏からもっと驚きの情報をいただいた。それは明日に。
百田尚樹『海賊とよばれた男 』(講談社)を読み終えた。本来の単行本は上下巻で2冊あるのだが私が読んだのは2年ほど前に妻が弟から受け取っていた見本で分厚い1冊。表4には簡単なストーリーと著者紹介と編集や販売への問い合わせ先が載っている。目次も奥付さえもない368ページ。
物語は石油の将来性を信じた国岡鐵造が軍やGHQさらに業界団体と通産省による統制に喧嘩を売り続けて創業した国岡商店は社員8,000人の大企業になるといった内容だ。英国海軍に拿捕されるリスクを冒し経済封鎖の中をイランからタンカーで石油を輸入するエピソードが山場だ。
序章のとびらに「この物語に登場する男たちは実在した」と記述がある。モデルは出光興産と創業者の出光佐三。私の元部下だったM嬢が結婚した人が出光興産の社員で出光が大家族主義の会社と聞いていて90年代の後半は必ず出光で給油していたこともありこの本には興味があった。
読んでみると同じ表現が頻出するなど興ざめする面もある。放送作家出身である著者は小説家としては二流と言わざるを得ない。ただストーリーは痛快。権威に対して消費者の利益を最優先に行動する。出光興産がこんな歴史を持った会社だとは知らなかった。面白いし一読の価値はある。
定期演奏会から1週間が経った。当日の疲労度は昨年に比べて少なかった。2009年の第4回のときは終わってから燃え尽き症候群のような状態だったが今回は特に後遺症もない。1月時点ではどうなることかと不安だったが終わってみれば今までに比べて余裕があったということか。
そして今日は久しぶりに練習がない日曜日。天気も良かったので昼食で小松島の「こはくの天使」まで行った。ここで元祖徳島バーガー。マスターによるとGW中は猛烈な忙しさだったらしい。産直市でのコーヒー豆も販売が3倍増とかで景気が上がっているのではないという話をした。
続いて阿南のキタムラカメラ。上勝のS氏が勤めているが特に用はなく。ソニーとキヤノンのカメラを触っただけ。このタイミングで指揮者が上勝のポールスターにいるとのメッセージを読んだがそのままバイパスに出て南に。バイパスが195号線の起点まで延びていたことを知った。
何となく日和佐の道の駅まで行きアイスクリームを食べて同じ道を帰りたくないので相生へ。傍示の峠坂という標識を前に発見していたので写真を撮って相生からはコルツファームの前を通って美杉峠経由で上勝へ。相生の峠道入口の目印にしていた製材所はなくなっていた。
定演の打ち上げでは8年ぶりに復帰した2ndのK氏や岡山出身の大学生M君らがビールを注ぎに来てS先生と一緒に長話。一緒に歌ったセレアンのソプラノで某病院理事長医師F先生とも。解散後は団長とベースT氏と飲みに行こうとしたら女性陣も合流して8人で徳島駅前のバーへ。
それぞれがお互いをよく知らないから自己紹介をしながら話をしたのだがソプラノの2人は私の元同僚旧姓N嬢と徳島少年少女合唱団時代の仲間だと知った。話ながら改めて分かったのだが「響」の音楽は指揮者が作っているが団長の思想とS先生を外しては考えられないことを思った。
私の原点は1997年12月に相生森林美術館で演奏したとき年配の女性が深く聴き入ってくれていることを見たとき。たった一人でも感動を届けられれば価値があると思った。S先生が教えていた穴吹小学校で演奏したら5〜6年生の半分以上が合唱部に入部したと聞いたことも大きかった。
そんなことや指揮者に対して団員が反発してきた歴史の話もした。それらを人生訓として大学生に向けて説教するのはおじさんの悪いところだ。この日2次会で話をしたソプラノ2人とはFacebookで繋がり鳴門のT氏と川内の女性1人を乗せてタクシーで実家に帰ったのは23時より前だったと思う。
定演での演奏は順調だったと思う。最も不安だった第1ステージ「クレーの絵本」はミスなく乗り切った。2曲目の「ケトルドラム奏者」は1曲通したことがなかったほどの難曲だが無事に終わった。第2ステージの「アナと雪の女王」「旅立ちの時」で歌詞が出にくいところもあったが特に問題なし。
第4ステージのミサ曲をJazzで歌う組曲は歌詞がラテン語だが気分良く歌えた。客席は満席。歌いながら見たところオープニング曲のときは舞台から見て右側入口に20人以上が立っていて95%の席が埋まっていたと思う。第1ステージの直前に徳島県知事ら3人が席に着くのも見えた。
左側前方に上勝のN氏家族の3人。甥2人を探したのだが分からなかった。終えてホールで「いざ起て戦人よ」を2回歌って甥らとハイタッチ。元団員の歯科医B氏や元同僚M嬢夫妻らとは目礼。表に出たところでN氏家族T氏Y氏夫婦に小児科医W君や同級生M嬢らがいてご挨拶。
着替えて17時から駅前の平井で打ち上げ。小学校教師S氏と並んで座り向かいに若手の3人。高校合唱部の同級生K嬢の息子で今年東京電力に就職したばかりのN君と彼の従兄弟のN君と松山出身の大学院生K君。N君の仕事の話を聞いたりK君の研究内容を教えてもらったり。
徳島男声合唱団「響」の定期演奏会があった3日のことを記録しておく。この日は6時起きで7時過ぎに家を出て8時過ぎに鳴門の実家に着き甥たちと少し話して母の車であわぎんホール。9時の集合時間の10分ほど前に着いた。そこからロビーでまずは発声練習。
続いて舞台でオープニングの「阿波祈祷文」からリハーサル。前夜の練習で「朝は声が出にくいから事前に各自で声出ししておくように」と指揮者が言っていたからか前回までと異なり意外に歌が進んでいく。「(音程が)低いっ」という指揮者の怒鳴り声は少なかった。
いつもなら時間が押すのに今回は進行が早め。私も手を抜いて歌ったりして前回に比べて疲労度が少なくて助かった。楽屋で昼食の弁当を食べS先生差し入れのリポビタンDを飲みダイエットは中断してチョコレートやのど飴も口に入れ。団長らがお迎えをしていたロビーにも行ってみた。
見れば開場直前に長蛇の列。何人か友人と挨拶したり母と甥2人と会って少し話したり。トップE氏の奥様でマネージャS子さんの母上は母がNHK徳島放送合唱団で歌っていた60年ぐらい前の先生だったとか。列に並んでいたときに母が気づいて話しかけたと言っていた。世間の狭さがここでも。
6:40に起き出して7時過ぎに実家発。7:40発の飛行機に乗る弟と甥を見送りに。実家に戻り二度寝。昼ご飯に昨夜の残りの巻き寿司を食べ夕方になって帰宅した。今回の帰省で弟たちは4月30日最終便で来ていたのに私は2日に「響」の練習と3日に本番だったため合流が3日夜になった。
丸5日いた甥たちと遊べたのは2日だけ。疲れるのだがもう少し一緒にいても良かった。上の子は小学校2年生だから徳島に来るのもあと3年ぐらいかも知れない。既に書いたようにキャッチボールは私よりも上手いし投げる距離は同じぐらい。数ヶ月に1度しか会わないから成長を感じる。
下の4歳は前回会ったときに普通に会話が成り立つことに驚いたが今回は自分の気持ちを表現できるようになっていた。「伯父さんの家でお泊まりするよ」とかも言い出した。「今日?」と訊いたら「違う。次に来たとき」と。表情は赤ちゃんからガキに変わりつつある。
今回の実家ではソファに座って窓の外を見ると青空があって驚いた。隣のアパートがなくなったからだが45年ぶりの風景に戸惑う。Nさん宅が丸見えになった。キャッチボールで遊ぶのにこの空き地は最適なのだが7歳の興味はバッティング。来年にはバッティングでも抜かれるかも知れない。
前夜1時頃に寝て7時に目が覚め7歳の甥と8時に起き出したのに今日も二度寝。朝は隣の空き地で野球ごっこ。ゴムボールだから飛ばないが小学生用金属バッドで本気で打つと隣家に飛び込むしどぶ川にも落ちる。そこでバントのみ。主に7歳と攻守を変えながら1時間半。
昼は13時近くになって弟と甥2人の合計4人で大井食堂で鳴門うどん。駐車場の場所を訊く観光客または帰省客が多かったようだ。そのまま鳴門ウチノ海公園。いつも行く広大な芝生。ここでも野球ごっこ。投手を私か弟か7歳がやってバッターは甥2人。
7歳の甥は1年前のキャッチボールでは2球に1回しかキャッチできなかったのに今は私より上手い。1年前はやっていなかったバッティングも様になっている。4歳は自己流で振り回しているだけだがたまにボールを飛ばしてホームランだと喜んでいる。
最後にトイレに行こうと言うのに逆方向に行くと言い張った7歳を弟が叱ったり迷子になりかけたり律儀に私に謝ってきたり。こどもの日ということで母が買ってきていた柏餅を帰宅後に食べ私は仮眠しばし。夜は母が作ったコロッケと鶏唐揚げ。甥たちは20時半過ぎに寝に行って大騒ぎの1日の終わり。日焼けして目が痛い。
定期演奏会は終わった。この日のことは改めて書こうと思う。とりあえず今は実家にいてiPhoneで書いている。定期演奏会の朝6時に起きて一旦鳴門の実家に荷物と車を置いて会場のあわぎんホールまで母に送ってもらっていたのだ。マチアソビなどで混雑しそうだったことと打ち上げで飲みたかったから。
なので打ち上げが終わり2次会の後ベースのT氏と女性合唱団の方と一緒にタクシーに乗って鳴門の実家に帰った。0時より前には寝たと思うが今日は7時に一旦起きたものの枕がなくて十分寝られなかったので甥たちが起きた後に二度寝。空き地になった隣でキャッチボールをやってから車2台で上勝へ。
北島でお好み焼きを食べ7歳は私の車に乗り4歳と母が弟が運転する実家の車。川内で私はしらさぎ大橋に向かったが弟は国道11号。こちらが早いはずと7歳と話をしながら走ったら勝浦川橋で2台後ろに弟の車が来た。私は一旦事務所に寄ってから温泉。ここで甥らは川遊び。
私は一人で家に戻りシャワーを浴びてグランドで合流して野球。甥2人が打ったボールを追って走り回った。17時半前に撤収。実家に車を置き1台で「漁協食堂うずしお」に魚を食べに行って12組待ちだったがほどなく席について刺身定食。甥たちが結構食べる。21時頃実家着。
「地獄の黙示録」と「グッドナイト・サイゴン」 (5月2日・土)
ベトナム戦争が終結した1975年と言えば私は小学6年生だった。ニュースでよく聞いた記憶だけはあるが内容を理解していたわけではない。ベトナム戦争と言えば私にとってはフランシス・コッポラ監督「地獄の黙示録」だ。あるいはビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」。
調べてみると「地獄の黙示録」が公開されたのは1979年。ベトナム戦争終結から4年しか経っていなかったのだ。「グッドナイト・サイゴン」はアルバム「ナイロン・カーテン」の中の曲だが発表は1982年。ベトナム戦争終結から7年後。なるほど。そういうことか。
「地獄の黙示録」は高校1年の公開時には見ていない。映画館の株主優待券を持っていたK元君に誘われてI村君と一緒に行ったのは松田優作主演の「蘇る金狼」だった。「地獄の黙示録」はずいぶん後になってテレビで観たのだが狂気の世界が今ひとつ理解できなかった記憶がある。
一方「グッドナイト・サイゴン」は2度目の受験に失敗した挫折の時期に聴いたからか私の心情にすんなり入った。ちなみにアルバム名「ナイロン・カーテン」は鉄(アイアン)のカーテンをもじったもの。私にとってベトナム戦争は「グッドナイト・サイゴン」が描いた世界観だったりする。
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© 2015 Takashi INAGAKI