2014年8月
朝6時にメールで起こされると聞いていたのに指揮者は5:29に送ってきた。2通も。25時頃に寝て最後に4時半頃トイレに行ったのに1時間で起こされて極めて不愉快。二度寝もできず諦めて起き出したのが6:15頃。シャワー浴びて7時に朝食を摂って7時半に徒歩で団長のホテルに。
そこで高知ファミリーコーラスの見知った方々が車の出庫待ち。10分以上待って朝の練習会場に向かおうとしたらナビのGPSが狂っていて方々へ回り道。会場の雄新中学校に着いたと思ったら練習教室が分からず団長と校舎を上へ下へと走り回って5分遅刻。
ここでの練習は30分で終わり会場の松山市総合コミュニティセンターキャメリアホールへ。和室で着替えて9:40集合。指揮者を含め5人は別団体セレアンの演奏のため不在。リハーサルは副指揮者のS氏が担当したが指揮の流儀が違うので歌いにくい。いくつか音のチェックはしたが。
記念撮影後に着替えて団長とA氏と松山市駅前で昼食。そのまま団長と歩いて「坂の上の雲」ミュージアム。15時過ぎに市電と徒歩で会場に戻り中学の演奏を少し聴いて表彰式。結果「響」は銀賞。10団体のうち金賞は2団体だけ。全国大会出場はならず。詳しくは明日にでも。
14時に団長の家に行く予定で家を出た。到着したのは予定1分前。2分後に団長運転の車の助手席で出発して一路松山へ。途中2度休憩して17時頃ホテル着。団長と同じホテルが予約できずに徒歩3分ほどの別のホテル。一旦チェックインして再び団長と合流して。
早めの夕食をとろうと松山市駅近くに行ったが目的の店を見つけられず時間切れ。明日本番の会場となる松山市総合コミュニティセンター。18:15からの代表者会議に団長と出席。明日本番での集合などの注意などを聞く。終えて別団体で参加のs子さんを練習会場に送り。
練習会場は砥部動物園の近く。三たび団長と車で夕食がとれる店を探し近くにあったうどん店。とって返して練習会場に戻り20:20から前日練習。結局何度か通して歌って1時間ほどで終了して学生4人を乗せて街中まで戻った。ホテルに着いたのは20:20頃だったか。
近所でビール3本と水を買って落ち着いたが明日は指揮者がメールで6時に起こすと言う。6時間も寝られそうにないが仕方ない。起きて時間が経たないと声の出が悪いという趣旨なんだ。歌詞も音も注意していれば間違うことはないが明日はいい演奏ができるだろうか。
大阪のFM Cocoloで先日ビートルズの曲が1時間半にわたって流れていた。その前にもマイナーな曲ばかりを集めた番組を聴いていたが全曲を知っていた。でも持っているアルバムは中学時代に買ったLPの「Abbey Road」と「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」だけ。
CDで持っているのも社会人になって買った「Rubber Soul」だけだ。なぜビートルズの楽曲は全て知っているかと言えばラジオのエアチャックだ。AMの朝日放送で夜9時頃から15分程度の番組で毎晩ビートルズの楽曲を1日1曲掛けていてそれをカセットにタイトルコールとともに録音していた。
プロ野球中継がない10月頃から翌3月まで。あまり有名でない素人ぽい女性の番組だった。小学校6年時にビートルズというグループ名は知っていたし当時は父から英語教材とともにラジカセを買い与えられていた。だからあれは小学校6年のときだったか中学1年だったか。
曲名紹介と楽曲だけを毎日録音したからそのカセットを繰り返し聞いてタイトルとともに覚えた。曲順に法則はなかったはずだ。当時のカセットもまだあるはずだが聴けるかどうか。あの半年で私は当時の年齢としてはビートルズ通になれた。今もっても私の無形の資産だと思っている。
久しぶりに日中にあった「響」の練習。合唱コンクール四国大会の1週間前なのだ。15:30から住吉で練習があり不規則だが今週は木曜にも。本番は日曜午前で当日に松山入りするのは危険だし声が十分に出ないことを考慮して土曜夜に松山でも練習がある。最後の練習は日曜朝8時から。
今日は雨の予報だったのに上勝は晴れ。練習のため14時半過ぎに出たときは曇りだったが徳島市に入ったとたん豪雨になった。でもウェザーニュースの雨雲レーダーをiPhoneで見たら範囲は狭い。空を見ても分かる。そのとき鳴門方面は晴れていた。末広大橋を渡ると雨は止んでいた。
さて四国大会に出場するのは指揮者を含めて17人。トップテナー4人セカンドテナー5人バリトン3人ベース4人。今日はトップとベースが1人ずつ欠席だったが指揮者からの細かな指示は少なかったような気がする。課題曲と自由曲で合計4曲。ただし私個人の課題は結構ある。
課題曲は大丈夫。息継ぎのタイミングも音の強弱も頭に入っている。でも今日は自由曲の1曲目で歌詞を間違った。3曲目は音の長さと出だしのタイミングが難しい。個人的に完成度95%ぐらいか。本番では-10%の出来になる可能性も考えて1週間で覚え込んで5%を埋めないと。
上勝町全体の夏祭りは8月2日の予定だったのに台風12号の雨予報で延期になり今日開催された。主催しているのは上勝町青年団だ。30歳代ぐらいまでの若者が段取りして全ての準備をやっている。私は去年も一昨年も行ったが今年は妻が友人の結婚式で埼玉に行ったので私だけ。
秋に結婚するY氏カップルの写真を撮る約束で夏祭り会場ではビールを飲みたいものだから送迎をY氏に頼んだ。18時過ぎに迎えに来てくれたときは小雨。ウェザーニュースのアプリで雨雲予想を見ると神山あたりが豪雨。上勝まで来なければいいなと思いながら福川グランドに行った。
ミッションはY氏カップルの写真を撮ることなので雨が降る前にと彼女M嬢がいるリサイクル食器回収テントで何枚か。商工会で生ビールを買って飲んでいると地元のカメラマンN氏がリサイクル容器の利用シーンを撮りたいとカメラを向けられ。その直後に豪雨。会場のグランドはドロドロに。
テント内に避難したり折りたたみ傘を差したり。商工会ブースのFちゃんからゆで卵をもらったり。豪雨だったが意外に人がいたと思う。最後は雨が止み山の中で恒例の花火。Y氏カップルを引き回して写真を撮りまくったが使えそうなのは1〜2点か。生ビール6杯ぐらい飲んで酔っ払った。
広島市北部の何か所もで土石流が起こり現段階で死者32人という被害が報道されている。未明から雨が降り始め午前2時台は30mm弱だったが3時台は100mm近く降り4時台は100mmを超えていたらしい。3時間で200mm超。こんなに集中して雨が降れば土砂災害も起こるだろう。
この被害を知ったのはツイッターだかFacebookだったか朝のうちだったが映像を見たのは12時台のNHKニュースだった。夜のニュースも見たが集中豪雨に加え土壌の脆弱性も原因として指摘されている。さらに豪雨が深夜だったことで被害を拡大させたという指摘もある。
広島市が避難勧告を出したのは土石流が発生した1時間も後だったそうだが私には仕方ないようにも思える。降雨量統計を判断基準にすれば後手に回る。例え早く避難指示を出したところで暗闇の豪雨の中で避難できたとも思えない。2階なりに移動することはできたかも知れないが。
繰り返される映像を見ると山裾の斜面にまで家が建っている。10年以上前にも同様の被害があったと言う。土石流のリスクは容易に想像できたはずだ。私が住む場所も土石流危険区域。天候には自らセンサーを働かせ自分と家族の命を守る注意が必要だと改めて教訓としたい。
15日(金)のお昼に川内でラーメンを食べから鳴門の実家に行っていた。行く前に忘れ物はないかとiPadとKindleは見たのにその上に置いていたスマホ用キーボードに思いが及ばず忘れて行った。フリック入力で書くのは面倒なので日記をサボっていた次第。今日午前中に上勝に戻った。
鳴門に着いたとき弟は3歳の次男Rと外出して小学1年の長男Kだけが家にいたので早速誘って内海公園でキャッチボール。4月に遊んだときはキャッチ率1割だったのに今回は6割。みるみる上達している。帰りに母に頼まれた電灯を買いKを実家に届けて妻をスーパーに送って。
夜は手巻き寿司を食べたがKが大人しいから触ってみたら熱がある。弟が計ると38度を超えている。公園帰りの車と店で冷えたかも知れない。翌朝Kは弟に連れられて近所の小児科に。残った4人でそうめん。夜は予約していた焼肉店をキャンセルしてハンバーグを妻が作って6人で食べた。
次男Rは4月に会ったときは二言三言だったのに今回は会話になる。意味も分かるし結構しゃべる。部屋でキャッチボールもしたがストライクを投げ込むし身体ごとキャッチもしていた。今日は朝5:16に出て高松空港に3人を送り一旦鳴門に戻って上勝。実家から高松空港まで1時間6分。
水曜は地元の「お盆の集い」。妻が参加している1Q運動会というグループと名という自治組織が共催している。テントの設営や出店など全て手作りだ。移住した翌年の夏から参加しているから私は5回目。今年は妻が司会をすることになっていて準備も忙しそうだった。
妻は準備で朝9時に出て行っていたが私は午後から。事前に買っておいた冷凍食品を業務用スーパーに取りに行くという毎年のお役目。近所の「もんてきぃ」という上勝出身の大将のお店で昼食を取り商品を受け取ったらトンボ返し。14時半頃に上勝に戻った。
戻ってみたらテントの設営は終わっていて提灯を吊す作業に参加。16時頃にはほとんど終わっていたような気がする。会の始まりは例年より1時間早めて17時から。いろんな出し物があるのだが「これ何んだ」という手触りだけで物を当てるゲームの手伝いなど。
あとは妻に言われていたので写真を撮りまくっていた。会が終わると怒濤の撤収。何人も居残ってテントを畳んだり提灯を外して片付けたり。酔っ払った中で皆で笑いながら。公民館に移って打ち上げも。解散したのは23時半頃だったか。今朝は10時集合で片付けの続きを4人で。
11日(月)。まりりんことS嬢が東京から帰省してきた。もともと東京出身で昨年8月まで5年間ほど上勝に住んでいて今は東京で仕事をしているから帰省ではないのだが何となくそう言いたい気分である。昨年6月までは上勝TVのパーソナリティをやってもらっていた。
突然に徳島行きを決めて夜行バスで来たものの台風の影響で大阪止まり。漫画喫茶で一夜を明かし徳島に来たのが昨日。妻は前日に聞いたらしい。お昼に妻が徳島駅まで迎えに行き上勝を連れて回り夜は何人かに集まってもらって宴会となった。
小松島から隊長やC嬢に地元からもまりりんのリクエストで声を掛けて。19時過ぎ頃から人が集まり始めて料理を持ち寄りビールを飲んで。妻は年末に東京で会っていたらしいが私は1年ぶり。でも何の違和感もない。上勝に住んでいて1年間ただ会わなかっただけのような感覚。
飲み会の話題は隊長が下ネタを振る中で恋愛話だったり台風のことも。東京から来たまりりんが話の中心にいたわけではないところが馴染んでいた証拠だと思う。24時頃に何人かが帰り私が寝たのは3時だった。まりりんは事務所で宿泊。20歳代の若い彼女と縁が続いていることがうれしい。
今朝は台風の影響を気にしながら5時頃まで起きていた。6時頃だったか停電になり諦めて寝ることにした。といってもすぐに寝られるわけでもない。iPhoneでツイッターなどやっていたら電気が復旧。テレビなどの電源を切るために事務所に行ったりして本格的に寝たのは7時前だったか。
台風は6時過ぎに高知市の東に上陸して香川の引田あたりに抜けたようだ。最接近したときは寝ていた。9時過ぎに義母の電話で目を覚ましたが周辺が落ち着いているのを確認して10時半頃もう一度寝た。起き出したのは午後になってからだ。
我が家の停電は土曜18:45から37分間と今朝1時間ぐらいだけだったが近所では昨夜4時間10分続いていたらしい。9時過ぎの防災無線によると町内大部分で停電していたそうだ。午後にFacebookなどの情報を見ていると町内各所で倒木や土砂崩れで通行止めになっていることを知る。
17時過ぎに「響」の練習のため徳島に向かったが町境の倒木による電線工事は続いており片側交互通行。そこここに折れた枝が路肩に散乱している。勝浦は何か所も浸水した跡が見て取れた。久しぶりに本格的な台風に少々興奮しすぎたが人の被害は聞こえてこないのが幸いだ。
台風11号が時速10kmや15kmという遅い速度で北上し960hPaで高知市あたりに上陸しそうな夜である。つまり進路の右にある徳島にとっては最悪なコース。上陸は日曜午前6時頃か。昨日から雨が降り続き夕方から一時突風が吹くようになり23時頃から風が強くなってきた。
先週も雨が続いていたから心配だったし今回は午後から各地で通行止めという情報が入っていたので実家に電話してみたら前のどぶ川はお昼頃に氾濫して玄関先まで水が迫っていたらしい。夕方時点では水は引いていたそうだが今回のコースと中心気圧は久しぶりのガチな台風だ。
雨は降ったり止んだり小降りになったり。風は24時時点で強く吹いたり収まったり。上勝は山の町なので谷にいると風は強くない。むしろ鳴門あたりの方が風害は大きくなるだろう。懸念は停電で早速18:45に電気が消えた。暗い中で妻がカセットコンロで夕食を作った。
金曜夜からミニライトをポケットに入れていたので慌てず用意していたLEDランタンを点けて。災害用ロウソクも。停電は37分で復旧したが地元では4時間10分掛かったところもあったらしい。久しぶりの本格的な台風の中にあってワクワクしたり不安になったり。午前2時半。台風はまだ足摺岬沖。
大塚製薬と言えば名刺で確認したところ1988年9月1日に会ったのが当時の社長である大塚明彦氏だ。当時急成長中だったJ社に興味を持たれたようで社長と会食したいというオファーがあった。J社からは創業者である浮川社長と夫人の初子専務。私は運転手兼秘書として同行した。
1988年と言えば大学を卒業してJ社に入社した年だ。つまり私は入社1年生。その分際で大塚製薬社長との会食に同席させてもらった。場所は淡路島のホテルアナガ。三洋電機の迎賓館だったか淡路随一の高級ホテルである。テラスのあるレストランでフレンチを食べたと思う。
大塚製薬がJ社にアプローチしたのはITストレスの対策を次のビジネスとして研究しようとしていたのかもしれない。その担当者も同席していた。U氏だ。その後何度も会ったし出張のとき徳島空港でも会った。成果が上がらないとすぐクビなのだとジェスチャーで示したU氏の姿は今も覚えている。
結局プロジェクトは何の進展もなかったからU氏はどうしているのだろうと思うことがあった。それが何年か前のニュースで見て驚いた。U氏すなわち梅野雅之氏の今の肩書きは大塚製薬の代表取締役副社長なのだ。役員の写真を見て梅野氏は分かるが明彦会長の今に少々驚いているが。
高校2年か3年の物理教室で初めて粉末のポカリスウェットを飲んで不味いと思った私は大学時代に飲むことはなかったように思う。2輪の鈴鹿8時間耐久レースに行って10分おきに水分を摂るようにとアナウンスがあってもお茶かジュースを飲んでいたような気がする。
その後テレビでは糸井重里と石原真理子が吉野川の水で作ったと宣伝していたから徐々に印象は改善していたとは思う。でもポカリスウェットに対する見方が根本から変わったのは1988年秋だ。J社社長を訪ねてきた大塚製薬の能力開発研究所長との会談に同席したのだ。
話の他の内容は全く覚えていないが研究所長が大塚製薬の企業文化を説明する中でポカリスウェットは点滴にも使えると言ったのである。元々点滴薬を製造していた製薬会社だ。その技術を応用して作ったから不必要な成分を含まず純粋に身体のためになる製品だと説明した。
当時は競合製品も出ていたから対抗意識があったのだろう。でもポカリスウェットの成分には医師も信頼を寄せているという研究所長の説明には説得力があった。それから再びポカリスウェットを飲むようになったような気がする。意外にもスイカ味は改善されていて美味しいと思った。
スポーツ飲料の今や代表になったポカリスウェットが発売されたのはWikipediaによると1980年らしい。私は高校2年のときだが当時のことは覚えている。ポカリスウェットという語感に当時は激しい違和感を覚えた。ポカリとはポカを連想させ何とも間抜けな印象を持った。
そのポカリスウェットを初めて飲んだのは高校2年の夏だと思う。もしかしたら高校3年だったかも知れない。7月だか8月の徳島市立高校の物理室。物理部だった私たちはアマチュア無線のコンテストに参加していた。コンテストとは一定時間内での交信局の数を競うイベントだ。
通常コンテストは21時から翌21時までの24時間で私たちは物理教室の黒い大きな実験台の上だったか椅子を並べて横になったか寝泊まりした。2日目だったと思うが多分後輩の若マンが差し入れとしてポカリスウェットを持って来たのだと思う。ただし当時はペットボトルはなく粉末だ。
既にテレビCMで知っていたから「おぉこれがポカリスウェットなのか」と興奮してコップに粉末と水を入れ混ぜて飲んだのだと思う。感想はスイカ味を水で薄めたような味で不味かった。それに懲りて以来5年間は口にしなかったと思う。未だにスイカ味という34年前の印象が拭えない。
夏はペットボトル飲料を買う機会が増える。ジムに行けば500mLのペットボトルを2本買うし先日の草刈りではポカリスウェット500mLを2本と1Lを1本。さらに海に行ったりテニスをすればその都度ポカリスウェットや水を買うことになる。上勝はラベルを剥がして分別するから面倒なのだ。
空になったペットボトルには水を入れて持ち歩いたりもするが新規に買う量が多くて貯まっていく一方。そこでゴミを減らそうとポカリスウェットのスクイーズボトルというものを買った。口を付けて吸うように飲む水筒の簡易版みたいなものか。アマゾンで376円。
先日の草刈りのときにはポカリスウェットのペットボトルが品薄で勝浦のスーパーで残り5本ぐらいだった。熱中症対策で皆が買うのだろう。そこで今回は粉末も買った。ボトルに水と入れて振って混ぜて飲む。ジムで飲んでいるアミノバリューも500mLで190円もするので安いパウダーを買った。
これらは今日届いたのだが妻も欲しいと言い出して夜になって注文していたようだ。買ったボトルは1Lで車に乗ったときなどには不便だから必要なら500mLを買い足すか。当面は手元にある空きペットボトルを使うつもりだが。ともあれこれでペットボトルの増殖は抑えられる。
大雨なのだ。上勝町福原旭の雨量計は降り始めからの合計雨量が460mmだとニュースで言っている。雨が降り始めたのは金曜夕方。1日だから消防団のポンプ点検に行った日だ。分団長と副分団長が来られず前分団長T氏と自動車修理の機械部長T氏に住宅S氏と私の4人だけ。
まずは修理に出していたポンプを鹿子山の小屋に持って行き消防車で中央に。詰め所に戻って飲み始め前分団長は子どもの迎えだと20時半過ぎに抜けてから3人でテニスラケットの話。解散したのは23時頃だったか。S氏がいたから食事が美味しかった。帰る頃は大雨だ。
土曜は夜テニスをしようという話だったが雨で中止。とにかくずっと降っている。と言っても豪雨というほどではない。強い雨だが昼は勝浦の美渓に行き夜は呑口に。車まで傘を差して行くが傘が役に立たないほどでもない。上勝でも福原旭がある奥の方とは違う感じがする。
日曜も雨。午後には県道が崖崩れで通行止めとFBで見た。勝浦が浸水しているという情報も。大阪から帰ってくる妻にメールで伝えたのに結局わざわざ通行止めに突っ込んだ末に徳島市のY嬢宅で泊まっている。水害は雨が降っている上流より下流に及ぶということを実感している。
<Diary Index Page>
<Top Page>
© 2014 Takashi INAGAKI